雨上がりの午後

Chapter 303 「家族の巣」を探して(前編)

written by Moonstone

 時は流れて早10月。俺の大学生活は最後の半年に入った。そして卒業後の進路という大学生活の大イベントに大きな区切りをつけた。進路は高須科学に決めた。晶子とホテルの一夜を過ごした後、各官庁での二次試験、院試と立て続けに受けたが、どれも合格。どちらもプレゼンと面接で、院試の方はこれまでの勉強の総決算として本来なら免除の筆記試験も受けさせてもらった。
 進路の選択肢が潤沢になったことあたりで、改めて高須科学の和佐田さんからコンタクトがあった。仲介者である増井先生から院試にも合格した−どうやら筆記試験は満点だったらしい−と聞いて入ても立ってもいられずコンタクトして来たそうだ。
 学会発表の準備がある中、俺は和佐田さんと連絡を取って改めて高須科学を訪問した。入社後の大まかなスケジュールや教育研修、そして福利厚生について突っ込んだことを聞くためだ。和佐田さん、ひいては高須科学側は俺の訪問に合わせて必要な資料やテキスト、プレゼンを用意していた。
 やはり和佐田さんのこれまでのメールや送ってもらった資料に嘘偽りはなく、試用期間は研修期間という名称で基礎的な技術や知識の習得、一般的なマナーについての講習を受ける期間で、その期間も社員と同様の待遇が保障されていること、福利厚生は充実の一言で、案内してもらった中央研究所がある敷地には食堂以外にもコンビニ程度の広さの売店が複数あって、ある程度の医療措置も可能な診療所もある。
 残業代のみならず通勤手当や住居手当も上限はあるがきちんと出るし、それは研修期間中でも変わらない。それらは就業規則に全て明記されている。誰もが名前を知るという意味でも有名大企業に勝るとも劣らない福利厚生の充実ぶりは間違いなく事実だった。
 近い将来に備えて自社開発力を増強する、そのために特に機器開発に必要不可欠な電気電子系の学生を採用したい、という明確なで強い意志も間違いなかった。企業だから利益がないと福利厚生は充実出来ない。俺の訪問に合わせてあれだけの設備や資料を捏造するだけの手間があったら、それこそ仕事をしたいところだろう。これらの事実を確認したところで、俺の腹は決まった。  院は久野尾先生に、各官庁は採用担当者に辞退を申し出て、親には電話で通知した。頻りに公務員にするか別の大手企業を受けるかしたらどうか、と文句や不満を並べたが、一度実家に帰って説明した時にも言った「自分の見栄で俺の進路を決めて満足か」という言葉で強引に退けた。
 学会発表もどうにか終えて迎えた10月1日その日に、高須科学の内定式に赴いた。内定式に出席した学生総数は二次募集も含めて50人ほど。部門や部署が異なる人が一堂に会していたから、実際に機器開発に当たるのは半分にも満たない。俺はその内定式で代表として最初に内定書を受領した。
 ドタバタしてあっという間に時間が過ぎて、決めるべきことが決まったことで漸くひと段落。俺は卒研の傍ら、ある準備を進めている。

『今の自宅周辺だと4万くらいからか…。でも、防音が気になるな…。』

 PCには賃貸業者の物件検索結果が表示されている。昼休みは専らPCに向かい、こうして物件を探している。本格的に晶子と2人で暮らすとなると、やっぱり今の俺の自宅が手狭だ。週1で服の交換と郵便物の確認に行く晶子の本来の家が物置になっているからこそ、晶子は俺の家で暮らしていられる。
 寝るところは1つで良いとしても、晶子の服や本を収納するタンスはやはり必要だ。だが今の家に持ち込むと明らかに手狭になる。そこで、4月までにもう少し広い場所に引っ越す計画を立てている。
 家賃はまさにピンキリ。例え最初の条件である2DK以上の間取りでも、新京市だと4万くらいからある。だが、かなり古かったり駅から遠かったりする。今の自宅がある胡桃町界隈でそこそこ新しい−あまり古いと設備面で不安がある−物件となると、6万くらいは見込まないと厳しいようだ。

「難しいもんだな…。」

 俺は思わず溜息を吐く。思いつく全ての条件を満たす物件はやっぱりない。そんな都合の良い物件があったとしても、直ぐ成約するだろう。だが、そんな夢物語を期待したくなってしまうのは、人間の性ってやつだろうか。
 高須科学の2度目の訪問では、福利厚生のことで家賃補助や通勤手当についても聞けた。小宮栄に俺が配属予定の中央研究所や本社の事務関係が立地していることもあってか、小宮栄や近隣の市町から通勤している人が多い。家賃補助もその一環で、家賃の7割、最大5万円まで補助される。
 俺1人なら小宮栄の適当なアパートにでも引っ越す手も使えるが、晶子が4月以降も今の店で働く。夜が遅い−この辺は店の営業時間も含めて調整するそうだ−晶子が通勤時間が長いのは俺も不自由だし、何しろ危険が増える。晶子の利便性を優先して、新京市の胡桃町あたりで広めの物件を押さえたい。
 通勤手当についても最大月2万円まで補助される。電車通勤だと6カ月定期を購入して、それを月で均等割りした分の補助になる。通勤定期は学生定期より割高だし、6か月となると結構な額になる。それが月2万円まで補助されると負担は大幅に減る。これを利用しない手はないのもある。
 ところが、この胡桃町というのは全般的に物件が高い。やっぱり「学歴ロンダリング」とも言える小中学校段階での学区移動が常態化していて、上位の進学校が存在すること、それらの学校や市立図書館など文教地域とされる地域なのもあって、人気が高い。その分物件も貸し手優位になるんだろう。
 俺も今度はラッシュが凄い小宮栄方面に向かうことになるから、必要以上に通勤に時間をかけたくない。それを考慮して急行停車駅である胡桃町駅に近くて、晶子が今の店に楽に通える距離、その上2DK程度の物件となると、どうも6万くらいは見込まないと厳しい。

「祐司ー。」
「な、何だ?!」

 パーティションの向こうから智一が顔を出す、否、突っ込んでくる。どうも習慣か癖になってるらしいが、上からいきなり声がかかるとかなり心臓に悪い。智一はわざわざ回り込まなくて済むからこの方が良いんだろうが。

「上から顔を出すなって言ってるだろ。」
「この方が楽なんでな。で、早速頼みごと。」
「…一度こっちに来い。」

 パーティション越しに頼みごとを受けることはしない。頼みごとなんて分かり切ってるし、俺の席に来る程度の手間を惜しむようなら受けないだけだ。智一はそそくさと廻り込んで俺の席に来て、テキストを広げる。予想どおりディジタル回路Uのテキストだ。テキストの種類が違うだけで頼み事の種類は変わらない。

「−だから、ステートマシン(註:ある信号や条件によって出力データや信号を順序立てて切り替えていく回路の総称。PCが起動する一連の動作もステートマシンと見なせる。マイコンやCPUで行うことが多いが、高速動作を要求される場合はハードウェア記述言語を用いることもある)を作る前に状態遷移図(註:ステートマシンの動作手順(状態遷移)を図面にしたもの。これを描かないとステートマシンの構築は往々にして行き詰る)を描かないと駄目なんだって。入出力の関係が全然整理出来てない。」
「うーん…。それが面倒でさ…。」
「面倒がるな。実際に書き込むまでいかなくても、シミュレーションにかけるなら入出力が分かってないとテストベンチ(註:ハードウェア記述言語で構築したディジタル回路をPC上でシミュレーションする際に使う入力信号の設定ファイル。こちらもハードウェア記述言語、すなわちテキストファイル)が作れないぞ。」
「はい…。」

 演習問題で与えられた条件に基づいてVHDLでステートマシンを記述する問題があって、状態遷移図なしで作ろうとしていた。そんな楽な手段があるなら誰でもそうしてる。一見簡単そうでも入出力が多かったり条件が複雑だったりすると、頭で考えてるだけじゃ簡単に混乱する。

「手で描くのが面倒なら、IDEを使うのもありだな。3年までだとIDEに考えが行きつかなかったけど、今ならIDE入りのPCが1人1台あるんだから。」

 俺はPCでIDEを最大化して、自分のプロジェクトを一旦閉じて新規プロジェクトから状態遷移図を作る手順を見せる。俺は手頃な紙に描いてコア部分からコードを描いていく方だからあまり使わないが、手順そのものは楽だ。新規プロジェクトのウィザード(註:開発用ソフトウェアにある、作成手順に沿ってファイルやソースコードの雛型を作成するツール)で「Making source code from drawing state machine」を選ぶと、状態遷移図用の画面になる。
 画面左側にあるツールボックスから円を選んで画面に置く。その円をダブルクリックするとプロパティのウィンドウが出るから、まずステートの名称と入出力信号を描く。最初のステートは名称を「INIT」とするのが、このIDEの決まりだ。入出力信号は後で追加修正自由だから、分かっているものだけとりあえず書けば良い。
 「OK」を押したら再びツールボックスから円を持ってくる。次に、「INIT」ステートを右クリックして、「Change state」を選ぶ。すると「INIT」ステートから矢印が伸びるから、それを新しく置いた円に向かってドラッグして円の適当なところでクリックすると、「INIT」ステートから遷移した図が出来る。
 テキストの演習問題と比較しながら説明する。入出力信号は全て記述されているから、それに従って「INIT」ステートのプロパティで入出力信号を全て記述する。続いて、さっき伸ばした→をダブルクリックするとプロパティが出るから、遷移条件を記述する。此処ではコードを描かなくても、リストボックスから順次選んで行けば良いようになっている。
 ひとまずこの段階でソースファイルを出させる。メニューで「Project」→「Generating source code」の順に選ぶ。IDEがまともなソースが出来ないと識別すると警告メッセージを出す場合もあるが、デモならとりあえず無視して良い。ソースの種類で「VHDL」か「verilog」を選んで「OK」を押せば、少し待つと新規ウィンドウにVHDLソースコードが出て来る。これだけだ。

「おーっ!こんな技が使えるのか!」
「使えるも何も…、卒研のテーマでこのIDEくらい使ってるだろ?」
「こんな詳細まで覚えてないし、ソースの改変と書き込みくらいしか使ってない。」
「…あー、そうですか。兎も角、こういう技も使えるってことで。」

 投げやりな言い方になってしまう。今月には中間発表もある。そこでは前回よりは進捗らしいものを示さないと「卒研をしているのか」と叱責されても仕方ないだろう。なのに、こんな呑気で人任せなことをしていて良いんだろうか?

「学部4年で学会発表まで行った祐司のレベルで考えるなって。」
「俺が初めてじゃないし。」
「久野尾研じゃ5年ぶりだし、それはD3(註:博士課程3年の略称。博士=Doctorのため)の飯田さん。その飯田さんも絶賛してたくらいのレベルだぞ?準必須講義を落としてひいひい言ってる俺達一般の学部4年とはレベルが違うって。」

 智一の言うとおり、5年前に学部4年で学会発表したのはD3の飯田さんのことだ。俺は学会発表が決まった少し後で知ったんだが、同じく学会発表した飯田さんは何度目かの予行演習の後で「良く出来てる。大したもんだ」と言った。
 飯田さんはD3修了後に有名大学の1つである海鳴大学の助教着任が決まっている。その飯田さんは「このレベルの学部4年が院に進学しないのは残念極まりない」ともぼやいていた。予行演習に出席した久野尾先生も野志先生も頻りに頷いていた。
 実際、院試の午後にあった面接は卒研について説明した後、ほぼ雑談だった。院試の難易度について問われ、必須講義の演習問題のテキストと過去問題を解けるようにしておいたら十分だったこと、公務員試験の専門科目も同じ感覚だったと答えると、そのとおりであり、それすら及ばない学生が就職の仮面浪人まがいに院に進学しようとしている、だが定員との兼ね合いで受け入れざるを得ないと嘆いていた。
 面接官の1人でもあった増井先生は、「成績上位の学部生は、大体さっさと良い就職口に決まってそっちに行ってしまう。不況と言われる時代ほどそれは顕著だ」「院に進学する学生は、修士で実績を積んでさっさと良い就職口を見つけて出ていく学生と、ぐずぐず過ごして大学のブランド頼りで就職する学生に二極化している」と言っていた。そして「君に高須科学を勧めて極めて円滑に決まったのは優秀な学生のセオリーに沿ったものだが、院生のレベルという観点では紹介したことを後悔している」とも言って会場は爆笑。
 院のレベルを確保するにはどうしたら良いかと問われ、ある程度の成績がなかったら院試を受けさせないようにする、成績にしてもレポートの丸写しで要領良くやり過ごした結果であることが多いから、院試の前に学力試験を実施して学生実験の口頭試験と総合して評価することを考えて挙げたら、かなり関心を集めた。
 飯田さんも院試免除の成績だったが「力試し」として受けさせてもらい、やはり唯一満点を取ったそうだ。その話をした同じく面接官の1人だった久野尾先生はその時を髣髴とさせると言い、「君と飯田君との違いは院に進学したかしないかでしかない。社会人学生として院に来ることも考えて欲しい」と言った。企業や研究機関に就職して実務経験を積んで、専門分野の深い知識や研究実績を必要とするようになって院に入学する、というパターンが多いそうだが、学部から進学するより筆記試験がないなど入学しやすい。当然基礎知識がないと辛いし、休職しない場合は平日は通常どおり勤務して週末や休暇中に研究を進めるという2足の草鞋生活をしないといけない分、学部からの進学より生活は厳しくなる。
 だが、全般的に社会人学生は非常に熱心だという。時間をやりくりして学費を払って通うんだからそうなるんだろうが、就職のための仮面浪人まがいの内部進学者より、そういった真剣に学業や研究に取り組む学生を受け入れて支援する方向に動きつつあるという。俺がどうなるかは分からないが、学位が必要になったらそういう手もあることは憶えておこうと思う。

「ところで、祐司は今も卒業後の生活に向けて調査中か?」
「…ああ。住むところを確保しないとどうしようもないからな。」

 俺はIDEのプロジェクトを破棄して元のプロジェクトに戻してから、Webブラウザを最前面に戻す。

「胡桃町−俺が今住んでるあたりは結構高いんだ。2DKくらいである程度設備がしっかりしてる物件となると、6万以上は見ないとない。駅に近いとか条件が良くなると、当然だが更に高くなる。家賃も青天井は無理だからな…。」
「晶子さん優先だと、胡桃町にしたいんだったか。」
「夜遅くなるだろうから徒歩で十分通える位置が良いし、そうなるとかなり絞られるんだ。しかも家賃が高い方に。」
「どれ…。そのクラスだと分譲物件の賃貸だな。そりゃ高くもなる。」
「分譲マンションを買って、自分で住まずに賃貸に出してるってことか?」
「そうそう。不動産持ちの金持ちの小遣い稼ぎの場合もあるし、買ったは良いが転勤とかで住めなくなって、とは言っても期限付きだから売るには忍びないとか、売るには手間もコストもかかるからだったら賃貸に出してやるか、とか色々事情はあるがな。」

 買ったマンションを賃貸に出すのか。買うにしても余程古い物件でも数100万、普通は1千万の単位の買い物を複数出来るとなると余程の金持ちとしか思えない。それこそ買った人の都合や思惑があるんだろうから、貧乏学生の俺がどうこう言う筋合いはない。
 智一が言う分譲物件の賃貸と見ると、10万前後の家賃も納得がいく。物件にはそれぞれ所有設備の有無がアイコンで表示されるが、分譲物件の賃貸はほぼ全てが「有」を示すアイコンになっている。それに部屋数も3DK以上で専有面積も60u以上と広々している。2人では十分どころか持て余すくらいだ。
 あと、目を引く特徴はオートロックやTVモニター付きインターホンの存在だ。これらは分譲物件の賃貸と思しき物件だとほぼどちらかがあるが、明らかな賃貸専用物件だと相当新しいものでTVモニター付きがあるかどうかだ。もしかするとこれらの有無が家賃をかなり左右しているのかもしれない。

「智一のマンションは。オートロックありだったよな?」
「ああ。あるとないとでは大きな違いだと思うぜ。」
「どういうところだ?やっぱり防犯面か?」
「防犯面も勿論だが、招かざる訪問者を玄関までにシャットアウト出来るのが大きいな。アポなしの訪問者はほぼ間違いなく訪問販売か宗教か新聞の勧誘だ。そいつらを相手にしてもこっちにはメリットの1つもないから、玄関まで出る前に退散させるに限る。オートロックは最低限マンション所有者全員が持つ共通の鍵とか暗証番号がないと入れない。勝手に入ったら不法侵入で警察を呼ぶことも出来る。そいつらにとっては大きな関門だ。」
「なるほどね…。」
「俺はまだしも、従妹の順子も居るからな。女の1人暮らしは何かと危険が多いし、セキュリティに無駄に神経をすり減らすより防犯面がしっかりしてる今のマンションをあてがわれたってわけさ。」

 智一の家はマンション1戸丸ごとだ。新京市の東側、海を見下ろす小高い場所にある。智一の親が経営する会社の子会社が管理してるってことで、智一と従妹の吉弘さんが住んでいることは知ってるが、そこをあてがわれたのは防犯面を考慮してのことか。
 晶子の本来の家があるマンションもオートロックで、管理人が常駐している。完全ではないかもしれないが、不法侵入者はかなりシャットアウト出来るのは間違いないし、訪問販売とかは文字どおり門前払いしやすい。智一の言うとおり、オートロックがあるとないとでは心理的にもセキュリティの向上が期待出来る。

「晶子さん1人だと何かと不安なら、多少駅から離れたりしてもオートロックの物件を選ぶと良いかもな。」
「俺が自転車で駅まで行ける程度の距離なら良いと思ってる。あと、物件選びのコツとか注意点とかあるか?」
「独身と世帯持ちじゃ違う面もあるだろうが…、ある程度必須事項みたいなところは共通してるようだ。」

 智一はマンションを管理してる会社の人から聞いた話として、幾つか物件選びの注意点やコツを挙げる。「共有部分の状態を見る」「駐車場にある車の車種を見る」「周囲の建物の種類を調べる」−これらは賃貸でも分譲でも物件全体のレベル−住みやすいとか無用なトラブルが起こり難いとかのレベルを見極める重要ポイントだと言う。
 部屋以外の廊下や、マンションだとエントランスやエレベーターといった共有部分を我が物顔で使って憚らない輩が居ると、共有部分が乱雑になる。その手の輩は年中自己中心的な思考だから、夜中に大音量を出したり床を踏みぬくような歩き方をしたりといった、「本人は当然と思っていることで発生する近隣トラブル」の種になりやすい。
 そしてその手の輩は往々にして車にある共通項がある。やたら排気音が大きくなるようにマフラーなどを改造している、車高を地面すれすれにしている、前後が見えなくなるほどアクセサリーや置物を詰め込んでいる、といったところだ。そういった車の改造や乗り方をしている輩のところには、似通った車の持ち主が集まりやすい。それが近隣トラブルに発展することもさほど珍しくない。
 居酒屋やコンビニなど深夜までの営業が普通の店舗が近くにあると、酔っ払いや深夜徘徊の連中が居着きやすくなる。酔っ払いは避けで理性のタガが緩みやすいし、深夜徘徊する連中は集団だからこちらも理性のタガが緩んでいる場合が多いし、集団心理でとんでもないことをやらかすこともある。リスクは格段に跳ね上がるから、これらの建物が近い場所は気を付けるかセキュリティの強い物件を選ぶのが無難だ。

「−物件そのものも重要だが、隣近所とのトラブル因子に要注意、ってところか。」
「そうだな。そうホイホイと引っ越せるわけじゃないし、近所トラブルに直面するとそれに時間も神経も割かれるのは、招かざる訪問者と同じ。オートロックがあってもその内側に居るわけだから防ぎようがない。安心して住める場所かどうかもきっちり調べた方が良い。」

 気に入らないとかトラブルから逃げるとかでさっさと引っ越し出来るくらいなら、こうして物件選びに頭を悩ませたりしない。家賃補助があると言っても割合は7割で最大5万と上限があるし、家賃が高い分初期費用−敷金や礼金といったものが高くなる。こういった費用は出来るだけ安く抑えて、金が溜まるまで出来るだけ長く暮らせる物件が望ましい。
 物件選びに近所と言うのかその物件があるアパートやマンションの住人、そして周囲の建物を調べることには目が行かなかった。今の家を決める時は父さんが居たし、不動産屋の紹介で良さそうだったから早々に決めた。智一が挙げた観点からするとあまりにも安直だし、それで今まで何事もなく過ごせているのは幸運と言うべきだろう。
 晶子の4月からの勤務形態はまだ分からない。だが、店が昼からだから、午前中は家に居ることが多くなるだろう。今の生活リズムと多少夜の終わる時間が早くなるかもしれないが、それほど変わらないと見ると、やっぱり店から徒歩圏内で周辺環境が良好なところという条件は前提としておくべきだろう。

「一番重要なのは、実際に何度か見に行ってみることらしい。出来れば朝昼夜、平日と休日と色々な条件で。」
「何でまた?」
「その時間帯や曜日にしか居ない住人が居て、その住人がとんでもないトラブルメーカーってこともあるからさ。」
「生活パターンの違いは1回見ただけじゃ見えない、ってことか…。」

 なかなか難しいな…。だが、今度は俺だけじゃなくて晶子も居るし、単純比較すれば俺より圧倒的に狙われやすい。身の危険を誘発する近隣とのトラブルは避けたいところだ。そのためには地道に物件を廻るしかないな。

「晶子さんを優先するなら、晶子さんと一緒に廻ると良いな。祐司目線で気付かないことが、晶子さん目線だと分かることもあるだろうし。その逆もあるだろうけど、その辺は話し合いでどうにでも出来るだろ?」
「高級なところじゃないと嫌とか言うなら話は別だが、そんなこと言うタイプじゃないし。今度の週末にでも行ってみるかな。」

 俺だけで探していると、どうしても俺の考えや目線になってしまう。晶子ならではの視点もある筈だし、何より晶子が安全に通勤出来ることを優先するんだから晶子の考えや視点を持ち込んだ方が良い。現状を教えて物件を廻って見るのが良さそうだ。

 その日の店のバイトの終わり。「Fantastic Story〜時間旅行〜」をBGMにコーヒーを啜る時間で、マスターと潤子さんに物件探しのことを話し、コツや注意点を聞く。智一は話を聞く限り完璧に近い物件をあてがわれたから、自分で探したことによる経験は少ないだろう。無論智一の話は参考にはなったが、この地で店を構えるマスターと潤子さんは、自分達で物件を探してそこを店舗兼住居にするまでの経験や苦労を持っている。そういう話を聞いておきたい。

「優先順位を付けることだね。これは物件探しに限ったことじゃないが、全ての要求を完全に満たすものなんてそうそうない。それを待っていたら家の場合は生活すら出来なくなる。これは絶対譲れないというポイントを2、3個に絞って、他は此処までならOKという程度にしておくと良いだろうね。」
「最重要ポイントを絞り込む、ですか…。今回だとこの店に十分通えて、駅に近くて、住みやすいところ、ですね。」
「通勤は自転車も使えるなら徒歩よりは範囲が広く出来る。住みやすさは重要だね。これは物件の家賃にある程度比例する。極端な例え方だが、スラム街と高級住宅街とはどちらが犯罪の発生率が高いかと同じようなもんだからね。」
「かと言って家賃は青天井は無理ですから、バランスの問題ですね…。」
「公共交通が便利で家賃が高いことの両立は無理だとしても、どちらかを妥協すればそれなりに物件は出て来るもんだ。これだけは譲れないっていうポイントと比較しながら絞り込んでいくことだね。」

 バランスを見て最適なところを探すってわけか。確かに、全ての要求を満たすものなんてまずない。要求にしても水準を下げられる許容範囲があって、それは要求ごとに異なる。その許容範囲に引っ掛かれば要求を満たすと判断して、要求を多く満たせるものを探せば良いわけか。

「晶子ちゃんの通勤や安全を優先するなら、治安を優先するのが良いと思うわ。住みやすさと大体重なることだし。」
「治安は重要ですよね。」
「新京市自体治安は全体的に良い方だけど、地域によって差はあるみたいだし。」
「この辺は良い方みたいですね。」
「そうね。この辺を含む胡桃町駅の東側一帯、新京市のオフィス街を中心とする南北地帯あたりが一番良いようね。」
「潤子さん、よく知ってますね。」
「このお店をしていると中高生以外に、その保護者と学校や塾の先生もお客さんとして来るからね。そういう話が色々入ってくるのよ。」

 晶子の問いに潤子さんが答える。そう言えば、晶子が夏休みの期間中働いている昼間の時間帯は、主婦や塾の先生が来るという話を聞いたことがある。それは今でも変わらないようだ。学校の先生も来るのは意外な気もするが、普通に食事も出来るメニューが揃ってるから、給食がない期間−新京市は中学校でも給食があると知ってちょっとしたカルチャーショック−には重宝するだろう。
 学校の先生は学校のレベルについては当事者だからよく知ってるだろう。そういう現場で1日の多くを過ごして、思うことや愚痴や悩みが出て来るだろうし、それをまさか生徒や保護者の前で言うわけにはいかないから、この店で漏らすんだろう。人や場合によっては自慢もあるかもしれないが。
 それは兎も角、やはりこの辺は治安が良いようだ。今の自宅に住んでから、俺も晶子も危険な目に遭ったこともないし、妙な嫌がらせやトラブルに巻き込まれたこともない。物件の価格も全体的に高めだし、マスターと潤子さんが言うように治安と物件の家賃はある程度相関関係があると見て良いようだ。
 たった3年半程度ではあるが、住んでいるとそれなりに愛着がわく。可能なら今の自宅からそれほど離れていないところにしたい。そうすれば晶子は通いやすいし、俺も駅が近いから通いやすい。治安の良さと俺と晶子の通勤のしやすさを両立しているが、やはり家賃が全般的に高いことがネックになるんだよな…。

「今度の週末に祐司さんと不動産屋さんを廻ってみることになってるんですけど、不動産屋さんに違いってありますか?」
「全国に支店や営業所があるような大手と、この辺だと新京市あたりに限定している地元密着型があるけど、扱う物件にそれほど極端な差はないと思うわ。不動産業界で物件情報はある程度共有してるし−そうじゃないと売れた筈なのに物件がまだ紹介されたりといった矛盾が起こるし、賃貸でも持ち家でも不動産業者はそれを仲介することで収入を得るものだから。」
「成約を急かす業者は止めておいた方が良いだろうね。潤子の話から繋がることだが、仲介で収入を得るのが不動産屋の基本だが、それを至上に据えると碌な説明もなしに契約させて、後の管理やトラブル対策とかはどうでも良いっていう考え方になりやすい。物件に関する質問にきちんと答える業者にした方が良い。」
「可能なら実際に物件の中を見せてもらうことは重要よ。外は立派でいかにも良い物件でも、中は荒れ果ててたり使いものにならない欠陥があったりするから。」
「他には…防音の度合いと水周りを確認することかな。排水が悪いのは論外だし、カビが生えやすいと掃除が大変だ。近所トラブルで一番多いパターンは騒音、それも隣近所の生活音だったりする。賃貸だと大抵集合住宅だから、騒音問題は起こらないか十分確認した方が良い。それはある程度住民の質や治安の良さとも関係してるもんだし。」

 騒音に関する話は智一の話と関連するものがある。洗濯や掃除で生じる生活音は必然的だが、時間帯によっては騒音になる。元より騒音になるかどうかを気にせずに大きな音を立てる輩は大抵自己中心的な思考をする。車もそれを反映したものになる傾向がある。騒音の発生や防音の度合いは確かに注意した方が良さそうだ。
 それも何処までなら許容出来るという範囲はある。受ける方ばかりじゃなくて自分が出すと想定して、何処まで防げるかどうかも重要ポイントだ。潤子さんの言うとおり、可能な限り物件を見るようにして、それを無視してでも契約を迫ろうとする業者は早々見切りをつけるべき、というところか。

「この辺は家族向け物件が多いし、家賃補助もあるならそれを最大限利用して、防犯や安心を買うって感覚が良いかもね。」
「そうですね。晶子とよく相談して決めます。」

 俺と晶子では感覚が違う部分もあるし、家での生活で重要な部分を主に担う晶子にとって気になる部分や、こういうところは譲れないとする部分があるだろう。余程無茶な条件でない限りは晶子の要求や感覚を優先した方が良さそうだ。
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