雨上がりの午後

Chapter 298 卒業に向けての第二の関門〜その後の感慨〜

written by Moonstone

 中間発表の日がやって来た。正直落ち着かない。プレゼンをするのは採用試験でもあったが、あの時とはまた違う緊張がある。準備は万端だ。俺と大川さんのテーマは試行錯誤はあるものの−それがなければ研究とは言えないというのは野志先生の弁−進捗はある。その分発表のネタには困らない。だが、自分の研究テーマの進捗がどういう評価を受けるのかは分からない。それを明らかにして今後の方針に反映させるのが中間発表なんだが、分からないから不安や緊張が生じる。採用試験の時とは違ってスーツを着なくて良いだけましか。
 学生居室は静まり返っている。席は当然満員だが、時間ギリギリまで準備をしているからだ。中間発表は基本的に学部4年が主に行い、指導役の院生は補足とかをする。最近まで逆の立場と思い込んでいた人が多いらしく、1週間前に発表順を決める−あみだくじだった−際に発表の仕方について知らされた後、かなり大変な目に遭った人も居るようだ。
 発表の準備が済んでいる俺は、時間まで席に座っているだけだ。おもむろに携帯を開いて晶子からのメールを読む。今朝研究室に入って間もなく届いたものだ。
送信元:安藤晶子(Masako Andoh)
題名:中間発表、悔いのないように…
中間発表がどんなものかは、私には想像の域を出ません。
ですが、祐司さんが今日まで頑張って準備して来たのは見て来たつもりです。
今日まで準備して来たものを出しきれば、結果は相応なものになる筈です。
場所は違っても、私は応援しています。
 前々から準備していたのかどうかは分からない。だが、俺がスライドの取捨選択や調整を自宅に持ち帰って進めた時、晶子はスライドの見え方や内容の表示位置に色々意見をくれた。高須科学の採用試験で使ったプレゼンのスライドも、晶子の意見を受けてかなりの修正を加えた。見栄えや色彩とかそういった面では、明らかに晶子の方がセンスが良い。意見を受けて改良してみるとその方がしっくり来る。内容の理解は兎も角−俺とて英文学の変遷を言われても理解出来ないだろう−、視覚に訴える部分が多いスライドを作るには晶子の役割は大きい。
 晶子も公務員試験が迫って来てるから俺のスライドどころじゃないだろう。だが、意見を求めると嫌な顔一つせず答えてくれる。出来栄えが良くなったスライドがある分、より良い発表をするのが俺の使命だ。大袈裟かもしれないが、晶子の時間と手間を貰ったスライドを俺が役立てなきゃ晶子に申し訳ない。
 そろそろ行くかな。俺は研究室のPCをロックして、スライドを収納したノートPCを持って席を立つ。他の面々は本当に時間ギリギリまで粘るつもりらしく、席を立たない。会場になる会議室の準備は昨日学部4年でした。と言っても机を並べ変えてスクリーンを出してプロジェクタで表示確認をしたくらいだから大したもんじゃない。
 会場には、既に久野尾先生と野志先生、そして院生の一部が待機していた。俺は前から2列目の正面少し左に座る。発表順は俺が先頭。名字の関係でこういう時に先頭になることには慣れてるから、これだけで今更動じることはない。

「安藤君だけ?」
「他の学部4年は学生居室で準備してるようです。」
「あと30分でどれだけ出来るやら。期限ギリギリでするのは表示確認くらいのもんだよ。」
「野志先生、耳がとっても痛いです。」

 院生−此処では修士に絞る−の中間発表は9月上旬にある。院生は修論の評価が卒研よりぐっと厳しくなるし、研究開発職だと学会発表が評価に繋がる企業とかもあるらしい。野志先生の言葉は、これから修論や中間発表の準備をしておけと院生に仄めかすものなのは間違いないだろう。
 開始時間が10分を切ったあたりから、パラパラと学部4年が入室してくる。どれも表情は硬い。緊張もあるが、この状況で発表して良いんだろうかという不安の方が大きいかもしれない。他の採用試験がどんな形式だったかは知らないが、プレゼンで卒研の進捗をしたのは意外に少ないのかもしれない。

「では、時間になりましたので始めたいと思います。」

 前に出た大川さんが開始の音頭を取る。一気に会場の緊張感がピークに達する。大川さんはこういう場に立つと雰囲気ががらっと変わる。現在修士2年のフラグシップだし、その立場で役割をこなして来た風格だろう。

「事前の告知どおり、発表は20分。質疑応答は10分です。PCの接続は休憩時間内に済ませて、円滑な進行に努めてください。では、最初の3名は準備をお願いします。」

 俺と智一ともう1人が席を立って演台に向かう。演台には3本の接続ケーブルがあって、切り替え機で表示PCを切り替えられる。先頭の俺は分かりやすいように1番のケーブルに接続して、PCを復帰。表示を外部CRTに切り替えて表示させてみる。…大丈夫だな。演台にはレーザーポインターも置いてある。

「第1クォータの座長を務める神谷です。よろしくお願いします。」

 スクリーン向かって右側の席に座った神谷さんが司会のバトンを握る。大川さんが俺の発表に同席するし、3人単位でクォータという単位に区切って休憩を兼ねた準備期間にすることも、告知の段階で説明を受けている。
 座長は発表での司会進行の他、質疑応答で質問がない場合に幾つか質問するのが慣例らしい。つまり、その発表をきちんと聞いて内容を把握して、課題や問題点を整理する能力が必要だ。学会で座長の打診があると、準備が数倍大変になるとも聞いている。単なる発表会じゃないことが分かる。

「第1クォータの発表に移らせていただきます。最初は安藤・大川グループの『簡易な立体音響システムの開発』です。よろしくお願いします。」

 いよいよ発表の時が来た。此処まで来た以上じたばたしても始まらない。今日まで準備して来たものを出し切る。それだけ考えれば良い。それしか考える必要はない。

「安藤です。今回はこちらの『簡易な立体音響システムの開発』について発表します。」

「−以上です。」
「ありがとうございました。では質疑応答に入ります。」

 まず発表が終わった。神谷さんが座る座長のテーブルにある、制限時間を表示するタイマは残り30秒を切っていたが、時間オーバーを示す赤色じゃなかった。タイマ表示はリセットされて10分から再度カウントダウンが始まる。これが0になるまで質疑応答だ。

「中村君、どうぞ。」

 会場から幾つか手が挙がる。手を挙げたのは殆ど院生なのは仕方ないんだろうか。まず中村さんが指名される。

「質問は2つあります。1つ目ですが、立体音響の処理はFPGAが担っていますが、今後処理を詰めても現在のICで入りますか?」
「現時点でFPGAのセル(註:FPGAやCPLDにおける生成ロジック回路の最小単位。この数が多いほど大規模な回路が生成できるがその分大容量≒高価になる。製造メーカーによって呼称や精製回路の規模は異なる)使用率は32%です。最低限必要な演算回路は実装済みですから、複雑な演算を多用しない限り現状のICで可能だと思います。」
「2つ目ですが、立体音響の生成の基礎としてリバーブとディレイをFPGAに実装したとありますが、複数のリバーブとディレイをFPGAに実装するんでしょうか?」
「上下左右それぞれ4つずつ実装する方針です。それぞれの強弱で音源の立体的な配置を表現するためです。更に細かく、例えば左右の斜め前と斜め後ろにも追加すればより精密な表現は可能ですが、そんなに厳密にリバーブとディレイを配置しても聞き分けられるかどうかは不透明ですし、実装する回路が増えます。立体音響の表現には上下左右の4方向の配置で十分だと考えています。」

 中村さんの質問は予想していたものだ。発表では敢えてあまり言及しなかった。時間が足りないと判断したのもあるが、大川さんから「質疑応答の時間稼ぎにもなるから、あえて仕様の詳細に言及しないのも手だ」と助言されたのもある。座長からしか質問が出ない発表は、聴衆の関心が低かったか理解出来なかったかのいずれかだと言われる。今は研究室内の中間発表だから関心は聴衆が自ら呼び起こすのが当然だとしても、関心を呼ぶような発表をするのも必要だ。その手法の1つとして全てを発表に詰め込まないことがある。
 発表を最初から聞いていれば、「あれ?」と思うことはある。このまま進めて問題ないのか、もっと良い方法があるんじゃないか、と自分の専門分野や得意技術から疑問が生じて来ることもある。それらを質疑応答で出してもらえば活発になるし、座長が質問を捻りだす必要はなくなる。
 採用試験に関係するプレゼンではあまり時間制限を意識する必要がなかったが、それでも流石は技術や開発力を売りにしているだけあって、専門分野でなくてもしっかり聞いた上で質問を投げかけて来た。そういう事例は今後増えて来ると見るべきだ。質疑応答で結構大変な思いをしたから、多少は軽減出来るノウハウを身につけておくべきだろう。

「分かりました。ありがとうございます。」
「他にありませんか?」

 まだ手は幾つか挙がる。そんなに質問することがあるのか?俺がどうこう出来る問題じゃないから、制限時間まで凌ぐしかないな。
 神谷さんの指名で次々質問が飛んでくる。リバーブやディレイは専用ICに担当させた方が良いのではないか、FPGAにリバーブとディレイを組み込んだ理由は何か、リバーブとディレイの他に音響効果を実装する予定はあるのか、といったことが続々と。質問の内容はリバーブとディレイに集中する。立体音響の構築にリバーブとディレイを実装したことそのものが斬新か、或いは奇異に映ったようだ。どうも音量の制御で立体音響を作るものと思っていた人が多いらしい。
 予想以上に質問が多い。一応学部4年が主役だから俺は持っているものを全て捻り出して答える。専用ICだとメーカーの供給停止や入手困難なものだと開発自体が成り立たないが、回路の設計をVHDLで行えば基本的にどのメーカーのFPGAでも対応出来る利点がある、一般的に遠い音はリバーブやディレイが多めでぼやけて聞こえて、近い音は逆に原音が明確に聞こえる、この違いを立体音響の構築に組み込むことにした、音の広がりを作る音響効果はほぼリバーブとディレイで構成可能だから、当面この2種類の実装と改良で進める、と答える。
 俺の回答には適時大川さんがフォローを入れてくれる。簡易なハードウェア構成で立体音響システムを実現するのが研究テーマの目的だから、必要以上にICを追加しないためだし、専用ICはFPGAやAD、DAと比べて汎用性が低いので今回の目的にはあまり適さない、リバーブとディレイの導入は俺の発案によるもので、音の聞こえ方を考えるとリバーブとディレイの組み合わせと制御で立体感を構成するのは理に適っていると考えている、今のところリバーブとディレイで必要十分だと考えている、と補足してくれる。

「時間になりました。安藤君、大川君、ありがとうございました。」

 どうにか制限時間に達した。俺は一礼してからPCを撤去して席に戻る。汗が急に噴き出て来た。出来ることは全てしたつもりだ。内容や水準は別として、活発な質疑応答の観点からは及第点だったと思う。
 智一が代わって前に出る。名字の順だと智一も最初の方になりやすい位置だ。表情が芳しくないのは、進捗が思わしくないからだろう。智一に限ったことじゃないが、学部4年は結構単位を落としている。特に電磁気学Uと電気回路論UとV、電子回路論Uは俺以外全滅状態だ。必須は1つでも落としていると卒業出来ない。しかもどういうわけか単位を取るまでの道のりが険しい。レポートが多いのが最大の障害だ。試験は実のところレポートをこなしてテキストやプリントの演習問題を解けるようにしておけば十分対応出来るが、それがなかなか大変だったりする。
 選択も「選択」と言ってはいるが、卒業に必要な単位の数からみると実質必須に近いものが多い。2年後期と3年でどれだけ選択の単位を稼ぐかで、4年に卒研に専念出来る時間がかなり変わってくる。まだ比較的単位が取りやすい講義が多いのが救いだが、それでも数が重なるとレポートが手に負えなくなる。
 就職活動は呆気ないくらい簡単に終わったようだが、単位を落としている分卒研の進捗は滞りがちだ。実際、実験室で卒研らしいことをしていた学部4年を見たことは数えるほどしかない。今のところ俺は解禁だし、朝から夕方まで大半は居るから見落としはない筈。それで進捗が目立ってある方がむしろおかしい。
 なにはともあれ、俺の発表は終わったから後は聞くに徹することも出来る。だが、こういう機会でないと他のテーマの内容を知ることは少ないし、自分のテーマを今後進める上で何かヒントになるものがあるかもしれない。質問するかどうかは兎も角、良い機会を生かさない手はない。

「−以上で全ての発表が終わりました。」

 第4クォータ座長の大川さんが締めくくる。昼休みを挟んでの中間発表は全ての発表を終えた。個人的には、進捗は全般的に遅いと感じた。方針は語られても進捗には触れられないテーマも多かった。やっぱり落とした単位を取ることを最優先させたことで−卒業や進学のためには必要なんだが−その分卒研が割を食った格好だ。

「では、久野尾先生と野志先生から総括をお願いします。」

 ずっと発表を見ていた久野尾先生と野志先生が総括をして締めくくる。どちらも結構頻繁にメモを取っていたが、総括のためだったんだろうか。

「野志先生からお願いします。」
「はい。進捗、テーマの理解度、現状の問題点と解決の方向性をディスカッション出来る度合い、どれをとっても極端なほどの差があったというのが率直な感想です。」

 学部4年と院生から溜息が洩れる。自分で言うのも何だが差は歴然としていた。中間発表として何らかの進捗を明確に示せたのは、俺を含めて3件のみ。質疑応答の数と内容もその3件とそれ以外で大きな差があった。質疑応答の数で全てを決めるのは無理があるが、進捗がある程度示せないと質問はテーマについてのものにならざるを得ない。あるとすれば、せいぜいそこに方針に対する別の提案が加わるかどうかだ。

「卒研までに他の単位を取っているかどうかが、この差を生んでいると言っても過言ではありません。工学部、特に電気電子では就職活動より卒業の心配をしろと常々言われているのは、こういうところに現れて来るわけです。」
「「「「「…。」」」」」
「単位の取得状況を別としても、テーマの目的や現状の課題を把握すること、そこからどう打開するかを検討するのは自分で率先して行わなければいけません。テキストにきめ細かく手順も課題も示されている学生実験と違って、卒研は自分で進めていく必要があります。院生や私達教官は指導や助言は勿論しますが、手取り足とり全てを教えることはしません。」
「「「「「…。」」」」」
「その点でも、安藤・大川グループ、森崎・中村グループ、坂東・下屋グループは十分聴講出来るレベルでした。この調子で進めてください。他のグループは、卒研は学部4年が主体的に取り組むものであることを再度認識してください。私からは以上です。」
「ありがとうございました。では久野尾先生、お願いします。」
「はい。院生は1年2年前とかの学部時代を思い出したんじゃないでしょうか?あの時の自分を見ているような気がしたんじゃないでしょうか?今年度最初の中間発表も、全体的にそう思わせるレベルでした。」

 院生から今度は苦笑いが漏れる。確かに、学部4年のレベルが極端に変わることは少ないだろう。今は指導する立場になってやきもきする院生も、つい1年2年前、博士でも長くて5年前はこんなレベルだったと想像するに難くない。
 久野尾先生と野志先生は、言い方は悪いが毎年同じようなレベルの中間発表を最初から最後まで見ている。学生の教育が仕事だと言えど、どんな気持ちだろうか。この程度でイライラしているようでは務まらないし、むしろ可愛いもんだなと思っているかもしれない。

「今回の発表で、他の発表と比べて自分のテーマの進捗の度合いが分かったと思います。それも中間発表の目的です。自分のテーマをプレゼンという形で他人に伝え、質問に答えて意見に対しては現状と方針とを照合して見解を出す、そして今後の進捗に反映させる。こういった一連の過程は研究開発職では必須ですし、それ以外の職業でも大なり小なり求められることです。中間発表は卒研のテーマを通してその過程を体得することも目的です。」
「「「「「…。」」」」」
「発表のレベルについては、先ほど野志先生がおっしゃったようにテーマによって明瞭な差が出ていました。やはり単位の取得状況、特に必須講義の単位の取得具合と発表のレベルがほぼ一致していたように思います。この差は、やはり野志先生が仰ったように、卒研は自分が主体的に進めるものと認識出来ない限り、容易には埋められないでしょう。」

 久野尾先生の口調は何時ものとおり穏やかだが、内容は結構辛辣だ。久野尾先生と野志先生が頻りにメモを取っていたのは、学生の単位取得の状況と発表のレベルを比べるためでもあったようだ。発表を全部聞いて質疑応答では1つ以上質問しつつ、情報を集める。それが仕事だとは言え大変だな。

「今回1つ思ったのは、発表の順番を学部4年の名字順で機械的に決めるのは良くないかな、ということです。先頭の安藤君と大川君のグループがいきなり高いレベルを出して来たので、差がより明瞭になってしまったように思います。」

 学生から苦笑いが漏れる。客観的に見て、俺と大川さんの発表は全体からすれば高いレベルだったと思う。最初に高いレベルを出されると以降は高いものでも印象の面で霞みやすくなるし、低いものはより低く見えやすい。
 今回の中間発表は、2人の先生が言うように学生に発表形式にすることで現状を把握させ、質疑応答でやり取りすることと今後の方針に適切に反映させる過程を体得させることが目的だ。進捗度合いを発表順に反映させることは考えていなかった筈だ。反映させると発表順が発表のレベルに直結するから良くないと思うが。

「レベルが高いと思ったのはやはり、安藤君と大川君、森崎君と中村君、坂東君と下谷君のグループでした。このグループに共通することは学部4年が単位を殆ど抑えていることもありますし、やはり学部4年の主体性が強いこと、院生と協力して自主的に進めていることです。スライドを見ていても自分のテーマはこれだけ進んだからその現状を見せたい、という強い意志を感じました。意識の違いは見る側には伝わるものなんです。」

 言葉は悪いが、久野尾先生はのほほんとしているようで、しっかり観察していたようだ。スライドは入念に作ったが、その背景にあった意気込みややる気といったものも本人には分からなくても何らかの形で反映されるんだろうか。よく「この人物からはオーラを感じる」とか「この作品には鬼気迫るものがある」とか言うし。意識の伝わりは自分が発表の当事者でいっぱいいっぱいだったこともあって分からなかったが、スライドの作り込みの違いは確かに感じた。色彩やレイアウトは様々でも−俺も晶子のアドバイスを貰ったが決して立派とは言えない−現状はこうで課題はこうで今後はこうしていきたいという流れは把握出来た。見やすいように考えて作られていたのもある。
 院生になると話は違うだろうが、卒研だと進捗は兎も角、自分の仕事をまとめて他人に伝え、意見交換で客観的な意見を聞いて、必要なものは課題の解決や方針に反映させるという一連のプロセスを体得することに重点が置かれているんだろう。久野尾先生も言ったし。そして学部4年が当事者意識を持つこと。学生実験までは人任せでもどうにかなるが、卒研はそうはいかない。仕事となれば尚更だろう。
 学部4年がどれだけ卒研に取り組んでいるかも把握しているのは驚きだ。野志先生は時々実験室に顔を出して話をするが、久野尾先生はたまに来るくらい。どちらかと言うと会議室や居室で野志先生や院生と話をしているか、講義か会議か出張で居ないかのどちらかだ。話をすることで野志先生や院生から学部4年の状況を聞いていたんだろう。

「単位を取ることと卒研を進めることの両立は大変でしょう。しかし、単位を取っている学生は現にいます。院に進学するにしても就職するにしても、必要な単位を取っていないと不可能であることは勿論、学部で得た教養や基礎知識がないことには、院でも仕事でも行き詰るということを頭に入れておいてください。私からは以上です。」
「ありがとうございました。」

 久野尾先生の最後の言葉はやっぱり辛辣だ。就職だと分野が違えば大学での知識を使うことはないかもしれないが、院はそうはいかない。しかも今度は学部4年を指導する立場になる。指導する側が何もしなかったら学部4年は立ち往生するし、到底手本にはならない。
 学部と院の就職先の違いは求められる専門性だと思っている。院に進学したんだからそれだけ専門分野について詳しいし、基礎理論や基礎知識については十分網羅していると思っても何ら不思議じゃない。それがろくに知識も専門性も体得していなかったとなったら院の意味がないし、卒業−院だと正式には修了だが−させたら大学のレベルや品性が問われる。
 院進学の比率は工学部でも年々上昇している。だからと言って就職浪人の一形態になっては大学も困るし本人にとっても良くない。それに、院では野志先生が言ったように学部4年を指導する側になる。今から意識を高めたり変えたりしておかないと、急には出来るもんじゃない。
 中間発表は、俺に関しては無事に終わったと言って良いだろう。これで終わりじゃないのは勿論のこと。折角上手い具合に単位が取れてるんだし、今のところ就職に関しても問題ないんだから、「よくやった」と言われるレベルで最後の発表を迎えられるようにしていこう。
 帰る準備をした俺は、PCのシャットダウンを確認してから鞄を持って学生居室を出る。研究棟を出てこれまでの道のりをそのまま進んでいき、途中で左折。場所は図書館。理系と文系が建物レベルで集約される変わった形式の建物が、今の晶子との待ち合わせ場所だ。

「お待たせ。」
「お疲れ様です。」

 ラウンジの一角に座っていた晶子が立ち上がる。ラウンジには新聞が多数置かれている。何も出来ずに暇を持て余すということはないだろう。晶子は鞄を持っている。俺と同じくらいの時間にゼミの学生居室を出て此処に来ている。文学部の研究棟からの距離は電子工学科からのものと大して変わらない。
 待ち合わせ場所を此処にしたのは、少し前の晶子からの提案に遡る。ゼミの学生居室があまりにも陰欝として、しかも殺伐としている。そんな中に俺には来て欲しくない。そして自分も必要以上は居たくない。それを理由としてある提案をした。自分が俺を迎えに行きたいというものだ。
 俺はどうもOKは出せなかった。やっぱり工学部、特に男女比が物凄くいびつな電子工学科に、客観的にも目を引く美人の晶子が単独で来るのは心配だった。晶子が色目を使うとは思えないが、ちやほやされる様子を見て優越感に浸る余裕は俺にはない。どうしたものかと思いつつ晶子と話し合った結果、図書館のラウンジで待ち合わせることになった。図書館までは街灯が多い大通りを辿ってこられるし、別の建物が幾つか面しているから人の目という防犯効果も期待出来る。それに、図書館は学生証がないと夜間は入ることも出来ない。晶子が先に来て待ち合わせるには最適の場所だろう。
 晶子もこの案に異論はなかった。晶子はゼミの学生居室に必要以上に居たくなくて、俺を来させなくなかったんだし、その結果待ち合わせ場所を変えようと持ちかけて来たのもあるんだろう。案がまとまったことで翌日から図書館での待ち合わせを始めて今に至る。

「中間発表は成功だった。」

 図書館を出てから俺は話を切り出す。今日まず話したいことはやっぱりこれだ。

「進捗もトップクラスだったし、発表のレベルも高かったって好評だった。指導の院生の人は『これで学会発表は胸を張って行ける』って喜んでた。」
「今日までの準備と努力が実を結びましたね。」

 中間発表が終わってから、全員で久野尾先生の奢りのケーキとコーヒーを囲んでお茶会兼反省会があった。そこでは中間発表の場では出なかった感想や意見、ぼやきがこもごも出された。発表者の学部4年より院生の方が熱心に話していたのは最初不思議だったが、直ぐに疑問は解けた。
 院生は夏休み明けの9月に学会発表を控えている人が多い。院生になると学会発表が評価の1つになるらしく、修論の評価にも影響するそうだ。研究職を目指すなら学会発表は就職活動の際の実質的な必須項目にもなるらしい。大学や公的機関の研究と企業の研究は毛色が違うが、他より先を行く優れた研究が評価されるのは変わりない。
 そんなわけで、指導役の院生は学部4年の中間発表の出来がかなり気になっていたようだ。自分も1年2年前はこんな感じだったと言いつつ、学会発表までにもっと進めないといけない、と口々に言っていた。そんな中、久野尾・野志両先生から好評だった3グループの院生は終始上機嫌だった。
 大川さんは他の院生の羨望を集める中、今年は予想以上に進んでいること、音声出力回路まで作って動作試験が出来たのは特に大きいと感慨深げに語った。学会発表では理論分野でも測定器や回路基板を使った実験が絡むものでも、検証とその結果が重要だ。「こうしたい」「こう出来ると思う」だけじゃ誰でも言える。実験は基本的に条件を変えてデータを取って、グラフにしたり演算したりして解析することの繰り返しだ。だが、その条件を色々変えて検証する必要があるからどうしても時間がかかる。だから、回路設計や製作は出来るだけ早く済ませて実験に持ち込みたいところだが、なかなか思うようには進まない。
 俺と大川さんのグループは、シミュレーションだけでなくて回路製作とそれを含めた実験も今回の発表に盛り込んだ。単位面で不自由しない俺もはんだ付けはまだまだ不慣れだから、ミスを多発させた。それでもFPGAで信号処理した結果を音声として耳で聞いて確認出来る段階まで持ち込んだことは、大きな前進であることには間違いない。
 大川さんは修士で終わって就職することにしている。その分、学生生活の最後の年である今年にかける意気込みは強い。それだけに、今回研究室内部の中間発表とは言え、発表出来るレベルに達したことは、学会発表に向けて有利に働く。実験環境が出来ればひたすら実験と解析を繰り返して改良を加えていける。

「晶子のアドバイスが色々な場面で効いた。スライドが分かりやすいって好評だった。」
「私はぱっと見た感じの印象や色合いくらいしか意見を言ってませんよ。」
「それは俺だと気づかないか、そんなものどうでも良いって思うようなところだ。見栄えも大事なんだって分かった気がする。」

 見栄えに関して俺は無頓着だ。晶子がスライドに関して内容は別として「こういう色遣いの方が見やすい」「こういうレイアウトの方がぱっと見て印象深い」と見栄えに関して意見することに、内容があれば−それなりに自信はあった−そんなに見栄えにこだわる必要があるのかと思った。だが、見栄えにばかりこだわるのは兎も角、相手の印象に残るように見栄えを良くするのは重要なことだと考えを改める必要がありそうだ。
 今回のスライドは高須科学の採用試験で使ったものから発展させたもの。採用試験の時は現状を詰め込むことに必死だったし、就職活動で大苦戦していた−今もだが−晶子の心境を考えて意見は求めなかった。専門分野に関するある程度の共通認識があれば内容だけにこだわって良いが、そうでない場合は内容を伝えることを重視した方が良いようだ。

「中間発表は今度何時あるんですか?」
「確か10月頃。院試も結果が出て、全員の進路が確定する頃だかららしい。」

 今日の中間発表後に改めて示された研究室のスケジュールには、10月に第2回の中間発表、年明け1月に第3回、そして3月の卒研発表会とあった。院生の修論は7月に第1回の中間発表があって、学部4年の第2回と同じ10月に第2回、そして年明け2月に審査の場でもある修論発表会というスケジュールだ。発表会の回数は学部4年が今回を含めて4回だから、院生より1回多い。これも学生指導の一環だろうか。学部4年と院生の最終発表の時期がずれているのは、院生が完成した修論を3月に開催されることが多い学会−大学所属者が多いから長期休暇の8月9月と3月に集中しているそうだ−での発表に持ち込むためらしい。
 10月までの中間発表のスケジュールが学部4年と院生で重なっていて、10月の発表後には研究室旅行もある。これは「その頃には全員の進路が確定しているから」と説明があった。学部4年の就職組は半分ほどだが、それも含めて「確定しているだろう」ではなく「確定している」と断定するのは、それまでの実績があるからだ。実際、現時点で知っている限り就職組は全員内定を得ている。今も就職活動をしているのは選択肢を増やすためだ。内定を得るために駆けずり回り、企業はもう見込みがないから公務員に絞らざるを得ない文学部などとはまるで違う。今日も野志先生が言っていたように「就職先の心配をするより卒業の心配をしろ」と言われる理由だ。

「院試の結果も公務員試験の結果も、その頃には出揃うかららしい。」
「全然違いますね…。」

 晶子は諦めも含んだ笑みを浮かべる。晶子は公務員試験の準備の傍ら、他の大学や学部の就職状況を調べていた。結果を強引に4文字熟語っぽくまとめると、全般的に理高文低、男高女低の傾向は共通。新京大学を含む難関大学・有名大学でも極端な違いはなかったようだ。
 殆ど不自由しない組み合わせは、理系で男子で国立か上位若しくは有名私大。内定を複数得ている学生は何も珍しくない。最悪とも言える組み合わせは、文系で女子。企業は何処も門前払いなのはやはり何も珍しくない。俺と晶子は両極端な組み合わせそのものなわけだ。そういう状況は他の学生も調べていたり情報が回ってきたりしているようで、晶子のゼミの雰囲気は諦観も加わって更に重苦しいものになっているらしい。「どの大学でも文系で女子だとお先真っ暗」な状況が変わらないと分かると、今までの努力は全く無駄だったと思うしかない。

「私は英語と読書が好きで英文学を選んだんですけど、多少無理をしてでも理系学部に進学した方が良かったですね。」
「ある程度は好きじゃないと、入ってから続かないからな…。」

 工学部、特に電気電子と機械の就職の良さはその立場になった今実感しているが、そこまでには結構な苦労や関門がある。3年と4年の進級時に取得単位の条件があって、それぞれの関門で大体1/4が留年する。単位の数は他の学科や大学と比べて多いわけじゃないが、レポートが多くて対処が難しい。志望分野や興味のあることとの関連性が見えて来る専門講義ならまだ良いが、その前提となる基礎講義の数学や物理化学が曲者だ。今は「専門分野に触れるために必要な道具」と理解出来るが、その当時は抽象的だったり意味不明だったり−講義自体が正直下手だった−で理解が困難で、そのくせ必須で試験も難しいものが多かった。
 曲がりなりにも今の大学に進学するためには、二次試験でも数学と物理化学の1つが必要だったから、高校では相応に勉強した。その高校では志望に応じて理系と文系に分かれるが、数学が出来ないとほぼ間違いなく文系に向かう傾向があったし、物理が駄目だとかなりの確率で文系に向かった。数学は物理は密接な関係がある。数学が出来ないと物理は理解不能だ。大学で何らかの形で物理を使う工学や理学、少なくとも電気電子と機械は○○力学とかで物理が必須だが、それらは最低限微積と級数が使えないとどうにもならない。
 どうにか入ったは良いが、数学や物理に馴染めずに退学したらしい人も何人か居る。退学には至らなくても、それらが理解出来ないばかりに留年と相成る学生は多い。高校で修練して最低限アレルギーをなくしておかないと、結局退学や留年で自分の時間や労力を無駄にしてしまう。

「入ってからが大変ですよね。文学部の微温湯体質に馴染んだ私ではどっちにしても無理ですね。」
「文系の就職が良くないのは晶子のせいじゃないし、今は晶子のことに専念すれば良い。」
「そうですね。そうします。」

 晶子が仮定の話をしたくなる気持ちは分かる。晶子自身口には出さないが、相当焦りを感じている筈だ。自分も働いて金を貯めて、安心して子どもを産み育てたいという最大の目標が達成出来なくなる可能性が高まっているんだから。就職出来なくても夫が居るから専業主婦で悠々自適な生活をしたいっていう感覚がない分、焦りは強まる。
 就職に失敗したら実家に帰るという選択肢が実質ない分、晶子は他の学生より崖っぷちに立っている。実家へ帰ってその先親に生活を賄ってもらいつつバイトや派遣で稼いでそれらは全部小遣いにすることが可能だし、実際そういう向きが多い。これで「自立」を言うなんて噴飯ものだし、晶子が俺に依存を考えていると中傷するのは論外だ。
 世の中上手くいかないものだ、と言われるが、晶子の就職状況に関しては全くそのとおりだ。生まれた時期が数年違うだけで説明会に行くだけで内定の話になったり、説明会が人格否定の場になったりするのはおかしな話だ。
 今のところ、俺は順調に進んでいる。公務員試験も受けるが特に不安はない。その分、晶子のセーフティネットとして機能する必要がある。一応今後の最悪の事態も考えている。どれだけ考えたとおりに出来るかは分からないが…、何もしないよりはましだろう。
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