雨上がりの午後

Chapter 295 明日への扉(後編)

written by Moonstone

 連休が終わった最初の月曜日。俺は何時もどおり研究室に居る。俺と同じく連休前まで企業の採用試験に出向いていた大川さんと打ち合わせをしたり、実験をしたり。講義がないから卒研に専念出来る。
 休憩も兼ねて学生居室に戻る。まずはメールチェック。…週明けだからか幾つか来てるな。…あ、和佐田さんからだ。心拍数が急に高まる中、俺はまず和佐田さんのメールを開く。
新京大学工学部電子工学科 安藤祐司様

平素はお世話になっております。高須科学機器開発部機器開発2課の和佐田です。
過日は弊社の採用試験を受験いただき、ありがとうございました。
まず、本件は非公式につき他言無用でよろしくお願いいたします。

安藤様の採用内定が決まりました。
面接の席上でも申し上げましたように、安藤様の場合、採用試験は弊社の研究開発職への
適性と基礎的学力を確認するための機会でした。実際、筆記試験の成績も専門分野が
満点など文句のつけようがなく、採用試験後の選考の席上で安藤様の採用には異議は1つも
挙がりませんでした。
弊社から内定通知が発送されるのは5月中旬となる見込みです。
その際、内定式の日程なども併せてお伝えいたします。
ご卒業と弊社への入社を心よりお待ちしております。
 ほぼ決まったか…。採用試験でも確認の意味合いでしているとは言われていたが、それがどこまで本当かは分からないし、連休中も心の何処かに引っかかっていた。
 オフレコとは言え、文面からして選考に関与していたらしい和佐田さんから内定が決まったと連絡があったんだから、本決まりと見て間違いないだろう。これで俺はひと安心だ。内定を幾つも取って勲章にするつもりもない。どのみち入社出来るのは1社だけだし、入社先以外に断りの連絡をする手間も考えれば1つで十分だ。
 公務員試験については引き続き準備を続ける。内定の数と矛盾するようだが、これは実家対策。連休中に実家から電話があって高須科学が非常に好意的で内定の可能性が高いと話したが、高須科学そのものを知らないのもあって反応は芳しくなかった。
 親の世代には関係ないかもしれないが、就職先の高評価ランキングみたいなものが固定概念として存在する。最高が公務員で僅差の時点が誰もが名前を知っている大企業、それよりずっと下に他の企業が固められているイメージだ。著名な大企業でないという時点で、高須科学の就職先高評価ランキングはかなり低くなってしまう。固定概念で凝り固まった親を説得するのは困難なことくらい分かっているつもりだ。だから、公務員試験を受験して良い方を選択すると伝えて渋々ながらも納得させた。渋々だから公務員を選択しなかったら後でグチグチ文句を言うのは目に見える。…この際だから、ちょっと和佐田さんに頼んでみるか。
 こういう時メールは便利だ。今でも駅で見かける伝言板だが、送信控えが残るから書いた書かなかったの水かけ論にはならないし、時間が経って消されることもない。道具は使い方次第でどうにでもなるな。
高須科学機器開発部機器開発2課 和佐田様
お世話になっております。新京大学工学部電子工学科 久野尾研究室の安藤祐司です。
メール拝読しました。ご指示どおり他言しませんが、御社から内定を頂けて
安堵すると同時に光栄に思っております。

さて、今回メールをお送りしたのは1つお願いがあるからです。
過日の企業訪問の際に頂いた御社の企業案内や、その他御社の業務内容について
一般向けなものをお送りいただけないか、ということです。
個人的な話になりますが、連休中に私の実家に御社からの内定の可能性が高いことを
伝えたところどうも反応が芳しくなく、(失礼なのを承知で)TVなどでCMをしていて誰でも
知っている企業以外に優良な企業があって、そこから熱心に誘いを受けていることを
説明出来る資料が欲しいと思って、和佐田様にお願いしようと思った次第です。
一度ご検討いただければ幸いです。

以上、よろしくお願いいたします。
 送信、っと。ちょっと無理な相談かもしれないが、Webで公開されている内容を見ろ、というのは親の世代では難しい場合が多い。PCも持っていないからWebはある意味空想上の産物でしかない。やはり紙に印刷された資料やパンフレットの普遍性はまだまだ健在だ。
 さて…。俺の方は就職活動が一段落した。後は自分の卒研と晶子の状況か。何せ晶子の状況は連休の合間も全く変わらない。公務員試験にシフトしているとは言え、全滅続きだと行くのも嫌になるだろう。どうも新京市や小宮栄市とその近郊で一般職で採用を狙うのは無理のようだ。
 晶子には公務員試験に専念するのも良いと言ってある。何も全否定されて交通費だけ消えていくのを繰り返す必要はないし、そこまでして心を痛めつけられる必要はない筈だ。そう言い添えたところ、晶子は連休中の説明会出席をかなり減らした。
 連休中には晶子の誕生日もあった。その日も説明会があったが、晶子は行かなかった。丁度連休の構成日でもあるから散歩したり、今まで殆ど行ったことがない家具店や電器店に行って商品を見て回ったりした。家具店や電器店では晶子のテンションが予想外に上昇して驚いた。
 今まで家具店や電器店は興味や関心の度合いが低かった。独り暮らしを始める前にひととおりの家具や電化製品を買い揃えてもらった際に同行したが、どれも同じような製品にしか見えなかったし、使えれば良いという程度にしか思わなかった。だが、晶子との新生活が見え始めた今、冷蔵庫1つ取っても使い勝手や大きさが色々あって、部屋や用途に合わせて選ぶことが重要だと分かり始めた。俺より新生活への意志が強い晶子はその点に関しては俺よりずっと進んでいた。今の生活からすると冷蔵庫はこれくらいの大きさが欲しい、製氷機があると便利と具体的な要求があった。
 冷蔵庫は元々1人用のものを買ったから、2ドアで全体的に小さい。作り置きや分割した食材を保管するにはもっと大きなものがあった方が便利だ。晶子が俺の家に居る時間が長くなるにつれてそう思うようになってはいたが、買い換えるのには二の足を踏んでいた。理由はまだ十分使えるというある種の貧乏臭さもあるが、近付いている本格的な2人での新生活の青写真がまだ明確でないのが大きい。何処に住むのか、どんなキッチンなのか全然定まっていない段階で、今の住居、すなわち俺の家に合わせて買うのは、場合によっては1台無駄にする危険もある。小さいものならまだ良いが、大きいものだとキッチンによっては入らなかったり、肝心のコンロ周りを圧迫する場合がある。
 基本的にキッチンは晶子の独壇場で、俺はこの前のように晶子が寝込んだりして出来なくなった際の補欠だ。新しい生活環境が具体化してから、最低限何処に住むのか決まってから、そこに合う大きさの冷蔵庫を買うのが無駄が少なくて良い。何年後かに広い新居に引っ越すならその時また買い換えれば良い。
 晶子もその辺は十分分かっていて、ただ、俺と家電製品を見に来たことで新生活が現実のものになりつつあると思ってテンションが高まったそうだ。買うに際しては、晶子の希望を全面的に取り入れるつもりで居る。晶子のことだから、変なものは買わないだろう。
 家具店でも晶子のテンションは高く、特に寝具に興味深々だった。やっぱりシングルベッドでは窮屈かなと思うと同時に、夜の営みを想像してしまって落ち着かなかった。こちらも新居が具体化してからで良いと思うし、それは晶子も同じだった。
 あの時の晶子を見ていると、頭を下げてまで晶子が承諾を申し出た別居婚は決して晶子の本意じゃないことがよく分かった。むしろ俺以上に後ろ髪を引かれる思いで、子どもを生む環境を構築するのに俺におんぶに抱っこになりたくないから止むなく選ぶ、という流れと考えるのが適切だ。
 就職活動で全敗続き、しかも採用試験を受けるどころか全否定されるばかりで、交通費だけが消えていくことを繰り返している晶子の現状を思うと、就職活動を止めさせた方が良いかもしれないと思い始めている。この先公務員試験があるから状況は変わるだろうが、晶子にとって不本意な選択をしてまで子どもを生む財政基盤を作るより、パートやアルバイト、それこそ今の店で引き続き働いて、俺と一緒に暮らすことを優先した方が精神衛生上は良いんじゃないだろうか。

「安藤君、居る?」

 大川さんが学生居室に顔を出す。どうしたんだろう。

「はい。居ます。」
「回路基板を設計したから、どう作るか打ち合わせをしたいんだ。良いかな?」
「はい。何処で打ち合わせですか?」
「会議室が空いてるからそこでしよう。」
「分かりました。」

 ひとまず卒研に集中しよう。PCをロックして、と。晶子と話をする時間はたくさんある。その機会を存分に使えば良い。

 昼休み。大川さんや野志先生をはじめとする研究室の面々数名と昼飯を済ませて、学生居室の自分の席に居る。和佐田さんから朝送ったメールの返信が来ていた。メールには、一学生に対するものとは思えない真摯で丁寧な対応が感じられた。メールの文面は以下のとおりだ。
新京大学工学部電子工学科 安藤祐司様

平素はお世話になっております。高須科学機器開発部機器開発2課の和佐田です。
安藤様に内定が出せて、関係者一同安藤様のご卒業とご入社を楽しみにしております。
では、お問い合わせの件について、回答いたします。

>過日の企業訪問の際に頂いた御社の企業案内や、その他御社の業務内容について
>一般向けなものをお送りいただけないか、ということです。
>個人的な話になりますが、連休中に私の実家に御社からの内定の可能性が高いことを
>伝えたところどうも反応が芳しくなく、(失礼なのを承知で)TVなどでCMをしていて誰でも
>知っている企業以外に優良な企業があって、そこから熱心に誘いを受けていることを
>説明出来る資料が欲しいと思って、和佐田様にお願いしようと思った次第です。
 私としても出来る限り親御さんへのご説明を援助したいと考えております。
現在、弊社機器開発部の昨年度の業務報告書を準備し、総務部に問い合わせて弊社の
財務資料を取り寄せています。
 弊社の研究開発業務の水準は、手前味噌ですが非常に高く、一部分析装置では世界シェアの
8割以上を占めるなど業界屈指の水準を誇っております。
非常に良好な財務状況と併せて、弊社の知られざる(安藤様の仰るように誰でも知っていると
いう意味での知名度の低さは事実です)優良さを、きちんとした資料で親御さんに納得いただける
よう、準備を進めております。
 準備が整いましたら安藤様の研究室に発送いたします。今しばらくお待ちください。
 業務報告書も財務状況も今はWebページでも見られるものがあるし、採用側としては「そこを見ろ」の一言で片づけても良さそうだものだ。だが、ネットがない環境やネットを使っていない人のことを考慮してくれたんだろう。企業自前の紙の資料は、ネットを使わない人や世代には大きな説得力を持つだろう。
 高須科学の説明については、和佐田さんからの資料到着を待つことにする。俺がいくら口頭で説明しても、何分頭が固い親が自分の認識を変えるとは思わない。資料を携えて一時帰省することを考えておこう。資料を送りつけるだけでは見ない可能性もある。それくらい親は両方とも融通がきかない。
 卒研の方は順調に進んでいる。回路基板は大川さんが設計を進めていて、打ち合わせでは部品実装と動作試験の段取りを話し合った。DIP(註:Dual Inline Packageの略。ムカデのような形状をした実装しやすい部品の規格)タイプの部品は俺が、SMDは大川さんが実装することになった。DIP部品は殆どコネクタくらいだから、時々回路基板の製作の練習もしているから何とかなりそうだ。動作試験は信号処理回路との接続の前にセオリーどおりファンクションジェネレータの出力波形から確認していくことになった。
 大川さんが言うには、今週中に基板設計が終わり、工学部付属工場に発注する予定で、部品は先んじて発注したそうだ。部品の多くは通販で買えるし、在庫品なら入荷も最短翌日と早いから、内容が固まった段階で確保も兼ねて発注したそうだ。大川さんもまだオフレコながら第一志望の企業から内定をもらうことが決まった。他の院生も同様らしい。晶子が居る文学部の惨状と比べると別世界のように感じる。学部が違えば同じ大学でも大きく変わる。就職が現実のものになるにつれて何度も痛感されられていることだ。
 晶子からは今のところメールや着信はない。今日は説明会はないそうだから、卒研をしてるんだろう。いくら就職活動がうまく行かなくても、卒研を終わらせないと卒業出来ない。逆に、内定や採用が決まっていても卒研を終わらせていないと全て水の泡と化す。晶子は今までに卒研以外の必要単位を取得しているからその辺はまだ楽だろう。
 何だかこんなのんびりした昼休みは久しぶりのような気がする。卒研は動き出したし、高須科学への企業訪問や採用試験の準備が重なったからな…。今日は月曜だからバイトも休みだし、帰ったらゆっくり出来るかな。
 卒研を切り上げて研究室を出る。午後は智一をはじめとする再受講組の対応をして、卒研の現状を纏めたりした。大川さんは中間報告に向けて乗り気だし、ちょくちょく纏めるのは現状を改めて把握して課題を整理するのに良いと言われている。
 何時ものとおり文学部の研究棟に向かう。これより前にやっぱり何時ものとおり晶子に「迎えに行く」メールを送って、「待ってます」メールが届いている。晶子のゼミの学生居室に辿りつくまでの道のりも何時ものとおり。どうも俺は行動パターンが定型化しやすい。

「失礼します。」
「いらっしゃーい。…!ちょ、ちょっと待ってて。」

 やや間延びした出迎えの声が、少しの沈黙を挟んで急に緊迫の色を帯びる。そして俄かに慌ただしくなる学生居室。何事かと思っていると、椅子が運ばれてきた。

「晶子はゼミの書庫に行ってるから、どうぞ座って待ってて。」
「ありがとう。わざわざどうも。」

 椅子に腰を降ろす俺を見やると、いそいそと他の学生も自分の席に戻る。…前に田中さんが椅子を持ってきた時に暗に厳しく批判したが、その後また叱責されたんだろう。田中さんのゼミでの様子は知らないが、相当厳しい対応をしているようだ。
 実際に田中さんが叱責する様子は今まで一度も見たことがない。何故か晶子も見たことがない。俺には怒っているところを見せたくないという意志があってのことだと思うが、晶子に見せない理由がよく分からない。
 考えられることと言えば、恋敵−と言えるのかどうか分からないが、その晶子を介して自分の負の面が場合によっては誇張されて俺に伝わるのを避けるためか、晶子は俺が迎えに来た時は大抵一時的に席を外しているし、戻ってきたらそのまま帰るから無関係だから。そんなところだろうか。
 それとは別に、ゼミの雰囲気はやっぱり重苦しい。女性ばかりのゼミにありがちと思っていた喧騒に近い会話ラッシュはないどころか、雑談の1つもない。卒研や再受講の準備をしたり、趣味関連や少々際どい−主に性的に−話が飛び交ったり、それで笑い声が起こったりする俺の研究室とは雲泥の差だ。聞こうとは思わないが−晶子から聞いているし聞かれたくないだろう−就職活動の最悪に近い状況が影響しているとしか言いようがない。「厳しいとは思っていたがまさかここまで」という愕然とした気持ちや、採用試験にも辿りつけないことへの落胆が重なり、雑談をする意欲もないんだろう。こうして各自パーティションに区切られた自分の席に向かっている間も、縋るような気持ちで次の説明会の日程を把握したり、新卒採用を募集している企業を探したりしているんだろう。
 公務員試験があるとは言え、やはり事務職の倍率は暴騰しそうだ。大半は事務職に向かうから−専門分野は関連学部を出てないとまず無理というのが試験対策をしている1人としての感想−、どうしても倍率が高くなりやすい。今年は企業の就職にあぶれた人が殺到するから、倍率の暴騰は必然と言える。
 正直な話、公務員試験もかなり準備をしないと厳しい。一言で言えば専門分野も含めた全分野が試験対象だ。専門分野に限って言えば院試対策が十分なレベルなら問題なく解けるようだが、それは大学の学部レベルをしっかり押さえることと等価。そしてそのレベルにするにはそれなりの勉強量と時間が必要だ。晶子がそうであるように、いっそ公務員試験にシフトした方が効率が良いように思う。だが、公務員試験に落ちたら「大学は出たけれど…」になってしまう。やっぱり企業から1つでも内定を得ておいて、公務員と秤にかけて進路を決めるのが理想的か。

「お待たせしました。」

 横から声がかかる。晶子が戻って来ていた。考え事をしていたら学生居室に入ってきた経緯に気付かなかった。

「ああ、お帰り。用が済んだのなら帰ろうか。」
「はい。鞄を取ってきますね。」

 晶子はいそいそと自分の席に鞄を取りに行く。準備が済んだら帰る。学生居室の面々に俺の状況を詮索したり、晶子に嫌みを言ったりする気力はなさそうだし、仮にあったとしても極力付き合わない。

「椅子はどうすれば良い?」
「そ、そのままにしておいて。後で片付けるから。」
「分かった。…それじゃ、お先に。」
「お先に失礼します。」
「お疲れー。」

 椅子を片づける云々のやり取りも含めてかなりぎこちなかったが、今までよりかなりまともな見送りを受けて晶子と共に退室。何時もと同じ経路で文学部の研究棟を出る。此処で漸く一息吐ける。重苦しい雰囲気の中に居るとどうしても緊張というか身体が固くなってしまう。

「お疲れですか?」
「否。緊張感って言うのか何て言うか…、失礼なもの言いかもしれないが、あそこに居るとどうも息が詰まるような感じがする。」
「祐司さんは外部の人ですから、余計にそう感じるんでしょうね。」
「…今も状況は変わらないのか。」
「全然です。連休中も説明会は何度かあったんですが、誰も成果は得られなくて…。もう祐司さんや私に嫌みを言う気力もなくなって、学生居室では会話もろくにないんです。」

 俺が来たから田中さんに叱責されないよう神経を尖らせている面もあったかもしれないが、朝から晩まで全然会話がないなんて息苦しいな…。連休中はある意味採用試験やその結果としての内定に向けた大きなチャンスだっただろうが、それで結果が出なかったとなるとこの先相当厳しい。それこそ企業を総当たりするような覚悟を決めないといけないかもしれない。

「ですから、祐司さんも感じる息苦しさというのか、そういう雰囲気がゼミを支配していて…。」
「去年の株価急落の影響で採用を絞るのは仕方ないとして、新京大学レベルでも採用試験すらおぼつかないくらいに絞る理由がいまいち分からないな。」
「事務職では人が足りなければ派遣で済ませる手法が簡単に使えるからだと思います。祐司さんのような研究開発や技術と言った専門でも派遣はあるでしょうけど、企業秘密や企業の根幹に関わるようなところにはおいそれと使わないでしょうから。」

 晶子の言うとおりだろう。派遣は3年継続して雇用すると正社員にする義務が生じるが、3年に満たなければ契約を終えれば良い。そうでなくても3年未満で契約を一旦打ち切って更新という形態にすれば、正社員にしなくても派遣のままで良くなる。その是非はひとまず置いておいて、事務職は数が多い分派遣会社に登録している派遣社員の頭数も多いから、企業としては穴埋めには困らない。
 一方、研究開発や企業のシェア争いなど企業の根幹に関わるような職種では、入れ換わりで秘密漏洩や契約などの妨害や横どりの危険がある派遣を含む外部の流入にはかなり神経質になる。工学部、特に機械や電気電子で就職先がないという話を聞かないのは、そういう職種に食い込める余地があるからだ。

「採用枠を削るなら、簡単に削れるところにする。それは派遣で簡単に代用が利く事務職、ってことか。それでも幹部候補とかになるとある程度は採用しないといけない筈なんだがな。」
「1年や2年採用しなくても良いんでしょうね。それ以外にも幹部候補の社員は沢山いるでしょうし、幹部のポストは限られていますから、競争相手が増えるよりはまし、と思っているのかも。」
「そういう思惑もあるのか…。それにしても極端だし、門前払いを続けるだけなら説明会をする意味もないような…。」
「多分、採用の姿勢を見せるアピールというのか、そういう面もあるんだと思います。実際に採用するかどうかは別ですから。」

 説明会を開いたり採用予定数を挙げたりしても、「適切な学生が居なかった」とか理由を付けて採用しないのは企業側次第だ。それだと説明会がしつこいくらい開催されても一向に内定が取れない不可思議さが解消される。
 学部の違いもあるが、卒研開始間もない時期からの内定獲得競争など、就職活動では兎角企業側の論理が優先されている。俺は内定をほぼ得られたからまだ良いが、晶子のように連戦連敗、しかも詰られるだけ詰られて交通費を消耗するだけの状況が続くのは決して自由競争の論理だけで片付けられる問題とは思えない。

「…祐司さん。帰宅したら私の就職活動のことなどで相談したいことがあるんです。」
「勿論OKだ。バイトは休みだし、ゆっくり話をしよう。」
「はい。」

 就職活動についての相談、か。今後の進め方だろうか。どういう方針を考えているかは現時点では不明だが、余程無茶な話でなければ十分受け入れる余地はある。話し合って考え方を擦り合わせて、双方納得出来る落とし所を探るのは、夫婦に限らず人間関係の基本だ。

「…どうでしょう?」
「良いと思う。」

 切迫したような表情で俺の返事を待っていた晶子は、安堵すると同時に頭を下げる。夕飯を終えて晶子から出された最初の相談ごとは、就職活動を公務員試験一本に絞りたいということ、そして全国転勤の可能性がある国家公務員は捨てて、俺がほぼ内定を得た−一応晶子にもこのことは伏せてある−高須科学がある小宮栄市や新京市、それらがある県庁などこの近辺の地方公務員に絞りたいというものだった。
 今まで何とかして内定を得ようと努力してきたが、現状では望み薄。学部学科の有利不利もさることながら、晶子が左手薬指に指輪を填めていることが企業側の癇に障っているのは間違いない。だが、晶子は内定のために指輪を外すつもりはない。どのみち就職後には分かることだし、試用期間中だとそれを理由として解雇される可能性も十分ある。だったら学歴や出身校は基本不問で、条件はほぼ年齢だけの公務員試験の方が内定を得られる可能性は高い。それに、公務員だと身分保障がしっかりしているから−企業が無茶苦茶と言うべきか−採用されれば個人的な理由で解雇される可能性は低い。極論すれば、犯罪をしでかさない限り首にはならない。それに、この近辺の地方公務員なら転勤があっても市内県内に限定される。俺と別居する必要性は少なくなる。この理由は晶子が特に言い難そうだったことだが、晶子の本心が裏付けられてむしろ安心した。

「晶子にとってもその方が良い。心身を疲弊させて交通費が消えるだけの説明会に行くのは、止めた方が良いとも思ってた。」
「別居婚になることも許してほしい、と私から言っておきながら、私が方針転換を言い出すのは身勝手と思って…。」
「就職活動を続けていくうちに実情が分かって、最初の同意の時点とは状況が大きく変わったんだ。こうして相談して合意出来たんだから身勝手とは思わない。それに…。」

 俺は一呼吸置く。どちらかと言うとこっちの方が俺としては大きい。

「子どもを安心して産み育てられるように、ってことで別居婚も持ちかけたけど、俺と離れたくないのが晶子の本心だって改めて分かった。」
「…分かってたんですか?」
「連休中に電気店や家具店に行っただろ?その時の晶子の様子で俺と離れたくないのが本心か、っておおよそ分かってた。」

 晶子は照れ臭さと申し訳なさを交えた笑みを浮かべる。晶子は隠していたつもりのようだが、あの時の真剣ではしゃいだ様子を見れば、俺との新生活を夢見ていることくらいは分かる。そしてそれは、俺と離れたくないことが本心であることも伝えるものだった。
 俺と離れたくないのは山々だが、俺におんぶに抱っこにはなりたくない。だから別居婚になることも覚悟して俺に許しを請うた。晶子らしい考えだし、就職活動も含めて相当無理を続けていたことが分かる。もっと早くに俺の方から公務員に絞ってはどうかと言うべきだったかもしれない。

「俺としても、晶子と離れたくない。一緒に暮らしたい。それが本心だ。」
「ありがとうございます。」
「それより、もう1つの相談ごとって何だ?」
「…私の両親に会って欲しいということです。私の夫として。」

 本当の夫婦に向けての大きな進展が、ついに晶子の口から出された。晶子は俺と出逢ってから一度も帰省していない。帰省する時は結婚を決めた時でもある、と以前言っていた。俺との結婚が婚姻届の提出のみとなった今、帰省して俺と両親を引き合わせたいと思うのは自然なことだ。

「時期は、祐司さんの進路が確定してからで十分です。両親に結婚の報告をするだけですから。」
「上手くいけば高須科学からの内定は今月中旬頃に出る。俺の実家対策としての公務員試験も含めると…、確定は9月以降かな。」
「それ以降で十分です。…お願い出来ますか?」
「いよいよそういう段階に入ったってことだな…。勿論良い。いずれはすることだから。」
「ありがとうございます。」
「その代わりと言うのもなんだが…、俺の両親にも会って欲しい。」

 交換条件と言うほどのもんじゃないが、晶子を俺の両親に紹介したい。奥濃戸旅行からの帰りのついでの顔見せだった前回とは違い、晶子と同じく結婚相手として。
 就職活動の状況だけじゃなく今までの「実績」からも、俺の両親がそうすんなり結婚に納得するとは思えない。晶子はたいそう気に入られているが、結婚となると話は変わってくるだろう。しかも俺が就職を控えている時期。「生活基盤も出来てないのに」とか難色を示すのは容易に予想できる。だが、生活基盤がどうとか言っていたら何時まで経っても結婚出来ない可能性すらある。経済が右肩上がりだった両新世代の若い頃とは勝手が違う。披露宴がどうとか言うのも目に見えているが、それを今から2人で跳ねのけて2人の生活を築いていく。これも共同生活の第一歩だ。

「どうだ?」
「勿論…、勿論会わせていただきたいです。」
「決まりだな。…相談ごとはこれで終わりか?」
「はい。」
「予想外にすんなり終わったな。」

 こんな場合ばかりじゃないのは重々承知。この先もっと難しい問題が出て来るだろう。だが、今から「言わなくても事後承諾で良いだろう」と相手の厚意に甘えることなく、きちんと現状と意見を突き合わせて方針を決める習慣をつけておくに越したことはない。こうしたことの積み重ねで信頼が深まるか、相手への疑念が生じるかが変わってくるだろう。
 俺は晶子を自分の方に呼び寄せる。俺を座椅子に見立てて凭れかかる晶子を優しく抱きしめる。こうしたスキンシップをはじめとする少し鬱陶しく思うような構われ方を晶子は好む。あれこれ高価なものを買わせないから驚くほど安く上がるが、その分少しでも多く晶子に構う時間を持つようにしていこう。それで晶子は本当に喜ぶんだから…。
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