雨上がりの午後

Chapter 291 纏わりつく暗雲を感じつつ

written by Moonstone

「ほう。どうやら全快は近いようだね。」
「はい。この土日療養に徹すれば大丈夫かと。」

 バイトの時間になって店に出向いた。最初の仕事である腹ごしらえで、カウンター越しに晶子の様子を伝える。マスターと潤子さんも安心した様子だ。何せ
晶子はこの店のキッチンの一翼を担う存在。味の面でも人手の面でも、晶子の復帰が待たれている。

「食事の面では、潤子さんからもらったレシピが役に立ってます。あれがなかったら大変でした。」
「役に立って何よりね。落ち着いたら普通−言い方を替えるとあのレシピ以外の料理も覚えると良いわよ。」
「はい。そのつもりです。冷蔵庫に食材が揃ってても自分で何も出来ないのは悔しいですし…。」

 自分の家ながら、レシピを貰ってから少しの間は色々苦労した。一番苦労したのは、食材と料理器具の場所が把握し切れてなかったことだ。雑炊やお粥に
使う土鍋も、初めて使う時は結構探した。食材も卵は直ぐ分かったが、それ以外のもの、特に小分けした肉や魚の保存場所は探すのに苦労した。
 料理は晶子がするのが常だから、晶子が使いやすいように配置するのは理に適っている。俺も晶子の立場だったらそうするだろう。だが、自分の家なのに
自分の家にあるものの所在があやふやなのはどうも情けない話だ。買い物から帰って収納するのを手伝って把握していたつもりだったが、それだけじゃ
足りないようだ。
 食事を終えて、奥に入って着替えてから店に出る。胸ポケットに入れた携帯を気にしながら、接客をする。何もないのが一番なんだが、自分の目で確認する
まで不安が尽きないのが、こういう時の悩ましいところだ。

「安藤さん。井上さんの具合はどうですか?」

 接客を続けていて、馴染みの女子高生から話しかけられる。彼女は友人が少ないそうで、塾に行く前に1人で来店して食事をしていく。グループに入れない
若しくは入らないと高校までは結構大変な面もあると思うが、彼女はその辺気にしないようだ。何となく晶子と似ているような気もする。

「おかげさまで熱は下がってますから、順調に進めば来週から復帰出来るかと。」
「そうですか。この時期倒れちゃうなんて大変ですね。」

 高校生も大学生の就職活動について伝聞で知っている。学年が進んで大学受験が間近に迫った3年生になると、かなりシビアに進学先を考えている。その
一環に就職先が含まれることもある。どうしても偏差値主体の進路考察になるから大学の難易度が中心だが、就職先を含めて考えている生徒も少なからず
いる。
 俺と晶子の大学と学部は、店の常連クラスの客はだいたい知っている。晶子も以前は客席に出ていたし、それで話をして俺も含めて大学や学部を話した
ことで知ったんだろう。この手の情報は伝達速度が速いのはお約束。だから、俺に問題集の不明な点を尋ねて来る際も理系科目が大半を占める。
 最近では、就職活動の度合いを尋ねられることも増えた。客観的に言っても概ね文系より理系、私立より国公立が強い傾向はあると話している。偏差値
主体の進路考察だと、大学は熟慮しても学部は意外とおざなりになってしまう。その時の景気など運不運もあるが、ある程度回避や緩和が出来るなら、そう
いう選択をしておいた方が良い。

「安藤さんが世話してるんですよね?」
「ええ。」
「安藤さんも就職活動の最中なのに、きちんと世話出来るなんて凄いですね。」
「そうですかね。」
「井上さんが早い段階で安藤さんに狙いを絞ったのは、大正解ですね。単に付き合うだけじゃなくて将来を見通してのことまで考えるなんて、なかなか
出来ないですよ。」
「就職先まで想定して、大学だけでなく学部学科まで含めて進路を考えるのと似てるかもしれませんね。」
「なるほど…。そう言われればそうですね。」

 偏差値主体の進路考察が行われる高校で、就職先まで想定して進学先を選ぶのは簡単じゃない。外部に公言こそされないが、進学校は大学合格者数を
より多くすることを目標にしている。単に合格者数を増やすだけでなく、より多い現役合格者数、より多い有名大学や難関大学への合格者数を求めている。
そのためには進路指導をする側としては生徒が「冒険」するのは極力避けなければならない。
 更に、受験する生徒の側も浪人は避けたい心理がある。別段不思議なことでもなく、予備校に通えばかなりの金額が必要だし、自宅で浪人するにしても
学力が前回より上昇するとは限らない。1年は思いの他長いから、大学に進学した友人や恋人との断絶が起こりやすい。そういったリスクを負ってまで浪人
するより、現役で合格出来る大学を選ぼうとするのは自然なことだ。
 そんな事情もあるから、就職先も見据えて大学どころか学部学科も選ぶのは条件が揃わないと不可能だ。それに、条件があったとしてもその選択をするとは
限らない。やはり合格のしやすさやネームバリュー、ひいては入学後の学生生活の難易度が選択の優先条件になってしまう。
 晶子が俺を伴侶に選んだのは、安心して子どもを産み育てるためだということは、京都旅行で分かった。晶子に男性遍歴があって、その最後に安定した
育児環境のために俺を選んだのなら、俺は晶子を受け入れることはなかった。知った途端にセックスのための存在として、飽きるか好きな女性が出来るか
すれば切り捨てた。恋愛遍歴の上に選ばれたことに名誉は感じない。
 晶子の場合、俺の前に結婚を想像していた相手が居た。何らかの事情で別れて、大学も辞めて新京大学に入り直し、1人新京市に移り住んで俺と
出逢った。晶子の前に宮城と恋愛していて、心変わりと気持ちを試すことを兼ねた道楽で破局し、やさぐれていたところに晶子と出逢った。そういう過去同士
だから晶子の過去に抵抗はない。

カラン、カラン。

 来客を告げるカウベルの音。反射的に出入り口の方を見る…!田中さん?!と、兎も角応対しないと…。

「いらっしゃいませ。」
「1人だけど、良いかしら?」
「少々お待ちください。」

 今日も店内は混雑している。塾は連休も大して関係ないから当然だが…。今日は空きが殆どない。テーブル席のキャパシティと座っている人数が等しい
テーブルが殆どだ。空いているのは…あの女子高生の席くらいか。何となく頼むのは気が引けるが、場合が場合だ。

「すみません。相席よろしいですか?」
「あの女性ですか。…はい、構いません。」

 幸い承諾を得られた。田中さんの来店を察知した男子中高生が騒がしくなるが、それには気を留めずに田中さんのところへ向かう。

「相席でよろしいでしょうか?」
「ええ。」
「ではこちらへ。」

 田中さんを女子高生の席に案内する。田中さんは先客の女子高生に一礼してから着席する。結構律儀だな。何時ものとおり、メニューの最初のページを
広げて差し出し、キッチンへ水とおしぼりを取りに行く。

「…来たのね。」
「ええ。ですけど、客の1人である以上は通常どおりで。」
「それはもっともね。7番テーブルにお願い。」

 やや警戒した様子を見せる潤子さんから、別のテーブルの注文を受け取る。そこに1人分の水とおしぼりを追加して運ぶ。田中さんが注文する可能性がある
から先に7番テーブルに注文を運ぶ。此処は男子高校生の集団。店に一番近く、かなりレベルの高い進学校に通っていて、塾への往復のどちらかで来店
する。往路なら腹ごしらえ、復路なら一服だ。今日は時間からして前者だろう。

「あの女性、来たんだなー!」
「ちょっと行き辛いなー。席替えてくれない?」
「食事中の方も居ますから無理です。」
「ちぇっ。」

 男子高校生の気持ちも分かるが、問題集を広げて窮屈なテーブル席に更に詰めるわけにはいかない。こういう時は軽くきっぱりあしらうに限る。テーブル
席に注文の料理を配置した後、田中さんが居るテーブルに向かう。メニューを広げていた田中さんの前に水とおしぼりを置く。

「グラタンセットを1つ。」
「30分ほどお時間をいただきますが、よろしいでしょうか?」
「ええ。お願いするわ。」
「では、暫くお待ちください。」

 一礼してキッチンに戻り、注文を伝える。そこからキッチンで「作戦会議」とは出来ない。潤子さん1人で切り盛りしているキッチンから、次から次へと注文の
料理が出て来る。それ以外にも空いた皿を下げたり水を汲みに行ったり、追加の注文があればそれを取ったり、質問や雑談に応じたりと仕事に困ることは
ない。
 それらの仕事をこなしながら、時折田中さんの様子を窺う。持ってきた文庫本らしい本を読んでいる。…ん?相席の女子高生と何やら断続的に会話をして
いる。女子高生の表情がやや硬いというか真剣だ。田中さんが来店する真意を問いただしてるんだろうか?

「あの娘(こ)、田中さんと何話してるんだ?」

 俺の疑問は俺特有のものじゃないらしい。田中さんが気になる男子中高生の客には共通事項らしい。女子高生と同じ高校の生徒も結構居るが−店に来る
高校生は主に2校の生徒−、女子高生はあまり他の生徒と交流がないから余計に関心を集めるんだろうか。
 俺がこういう会話や噂に加わると碌なことにならないから、仕事に専念する。田中さんにも注文のグラタンセットを運ぶ。暫くして、塾の時間が来たらしい女子
高生が席を立つ。俺は空いた食器を下げるついでにレジに立つ。

「890円になります。」
「これでお願いします。」

 女子高生は1000円札を差し出す。…ん?メモ用紙?何か伝言だろうか?大事にするわけにはいかないから1000円札と一緒に受け取り、1000円札をレジに
仕舞うのに紛れてメモ用紙を自分のポケットに素早く入れる。それ以降は普通のやり取りを続ける。

「ありがとうございました。」

 さて、客席に戻るか…と思ったら、高校生の客がぞろぞろと列を成して向かってくる。普段だったらこういう場合、塾の時間ギリギリまで居るんだが。女子高生
から色々聞き出すつもりだろうか?普段繋がりがないし、女子高生は人間不信の気があるそうだから−俺は例外らしい−すんなり聞き出せるかどうかは疑問
だが。
 相席の相手が居なくなった−あの席は二人用の席−田中さんの周囲は急に閑散となる。ひしめき合うように陣取っていた高校生が一気に居なくなった
から、ギャップがあるんだろう。田中さんはと言えば、1人になったのも気にする様子もなくグラタンセットを食べている。女性の単独行動自体が珍しい部類
なのに、ここまで臆さず行動出来るのは希少だな。
 次の来客に備えて、一斉に空いたテーブルを片づける。一気に居なくなったから食器を下げるのも一大事だ。田中さんがこれからどう出て来るか、女子
高生が何を俺に伝えようとしているのか、仕事が終わってからもゆっくりする機会はなさそうだな…。

 今日のバイトは終わり。「RACHEL」をBGMにしながらマスターと潤子さんと共に対策会議。とは言っても、田中さんが晶子に嫌がらせをしたわけでもなく、
来店して営業妨害をするわけでもなく、ましてや食い逃げをするわけもなく、対策の立てようがない。
 それより気になるのは、今日田中さんと相席になった女子高生から託されたメモ。いったい何が書いてあるんだろうか?俺に宛てられたものだが、場合が
場合だけにこの場に居る面々に限って共有することにする。

安藤さんへ。
大学生の女性は、安藤さんに会いに来たそうです。
大学には安藤さんが来なくなったから、と。注意した方が良いです。

 俺にとっては、取り立てて目新しい情報じゃない。田中さんが晶子に宣戦布告をしたのは知っているし、その直後に晶子は倒れた。俺が晶子のゼミに
出向いていたのは晶子を迎えに行くためだから、晶子が休んでいるのに行く必要はない。そもそも晶子は俺の家で療養してるんだし。
 マスターと潤子さんはうんと考え込んでいる。晶子が倒れた原因は全く前進が見られない就職活動の心身の疲れだろう、と連れて行った医者の診察をほぼ
そのまま伝えているし、それが本当の原因だと思っている。田中さんの宣戦布告はトリガにはなったが、それ以上の原因じゃない。

「彼女の目的が祐司君だっていうことは、ほぼ確定したと言えるね。今までの状況からして駄目押しと言うべきか。」
「祐司君と晶子ちゃんが実質結婚したことで諦めたと思ったら、そうでもなかったようね。」

 マスターと潤子さんの認識は俺とほぼ同じだ。晶子が対外的に改姓もして俺との結婚の事実をより進めたのは、その前の田中さんの台頭−今言えば第一次
来襲か−でこの店の2回に立て篭もって俺の気持ちを試すようなことをしたことを猛省し、完全に俺のものになって俺の妻の座をより確実にするためだった。
 大学でもわざわざ事務局と掛け合って個人的な改姓は問題ないとの回答を引き出し、ゼミの学生居室で嬉々として使用し始めたくらいだ。それくらい晶子の
俺との結婚にかける情熱は凄まじいものだ。それで田中さんを退けられたと思いきや、今度は堂々と宣戦布告までして第二次来襲を開始した。就職活動で
疲れていたところに重い心労が重なって、晶子はついに倒れてしまった。
 田中さんが晶子に宣戦布告をしてまで俺への接近を本格化させた理由は、俺の研究室の院生や晶子から聞いて知っている。だが、そこまでして俺に
近づこうとする真意が分からない。晶子の場合は安心して子どもを産み育てたいから、その不安要因のリスクが少ない俺を早期に確保するためだったと
分かっている。田中さんの場合は違うだろうが、真意が分からない分、先が読み難い。

「祐司君は、晶子ちゃんから乗り換えるつもりはないのよね?」
「はい。そうするだけの理由がありませんから。」
「お店に迷惑になるわけでもない。むしろ彼女目当ての男子中高生の客が増えてるくらいだし、私とマスターは静観するしかなさそうね…。」

 潤子さんとのやり取りと方針も、俺と同じだ。以前の吉弘さんのように晶子に危害を加えようとしていたわけじゃない。店にとっても客寄せになっている面が
ある。そもそも出鱈目な客じゃなければ来店を拒むことは出来ない。静観が唯一取れる、しかし最善の策だろう。
 これからどうするか。これも現状では1つしかない。田中さんとは今までどおり接する。この店に来た時は客の1人として、大学では晶子のゼミの先輩として。
それ以外考えられない。晶子がもう直ぐ全快しそうなところまで来ているんだから、尚更そちらに専念したい。

「晶子さんにはどう伝えるんだ?」
「…何も話しません。彼女−田中さんが、晶子が倒れる要因の1つなのは間違いないですし、回復までもう少しですから。」
「うーん…。何か嫌な予感がするが、晶子さんのことを考えると何も話さないのがベストかな。こちらも消極的な手段だが。」
「私もそれには賛成。晶子ちゃんがぶり返すのが一番困るし、晶子ちゃんの最大の脅威なのは間違いないようだし、触れるのはタブーにするのが無難ね。」

 タブーとは言いえて妙だ。だが、禁忌事項と言い換えると危険な香りが強くなる。潤子さんの言うとおり、田中さんは間近に存在する最大の脅威だ。話題に
出されて良い気分になることはありえない。その名を口にすることすら憚られるのは、まさにタブー、禁忌事項に他ならない。

「それにしても…、晶子ちゃんももっと自信を持って堂々と出来れば、ね。」
「そうだな。実質結婚でも足りないとなると…、妊娠出産くらいか?」

 潤子さんが晶子を批判するのは初めてかもしれない。前回の晶子の逃避と立て籠もりでも、潤子さんは晶子の側に立って俺に信頼と待機を説いた。それが
解決して京都旅行と実質的な結婚へと進み、晶子は公然と安藤姓を名乗るようになった。にもかかわらず、田中さんに宣戦布告されて寝込むまで至ると
なると、それ以上晶子の不安を解消する策はなかなか見当たらない。
 マスターが言うように、現状で思いつく策は妊娠出産だろう。晶子が子ども好きで子どもを産みたがっていることは、前の旅行の節々で感じたし、本人も明言
した。それ自体はその気になれば直ぐにでも可能だ。しかし、その後の保証は全くない。産んだらあとは自分で食料を見つけて捕って食べることが人間では
出来ない。産んだら誰かが育ててくれるほど、今の社会は便利に出来ていない。
 それくらいは晶子も十分承知している。だから俺は我慢する。だが、それしか晶子を完全に安心させる策がないとなると…ひたすら田中さんのことには
触れない、ましてや店での客とスタッフ、ゼミでの学部4年の1学生の夫と院生という関係から少しも脱却しないことくらいしかない。つまりは静観であり、
タブーとすることだ。

「だが、少なくとも今の時期に晶子さんが妊娠出産することは重大だな。悪いとは言えないが、祐司君の責任が数割増し、否、数倍増しになる。」
「晶子ちゃんの方針にも反するわね。祐司君におんぶに抱っこになりたくないから自分も働いてお金を貯めるってことに。方針転換を祐司君が容認して、更に
支えるまで求めるのは酷よ。順調に進んでいると言っても確定したわけじゃないし、他の可能性も全くないわけじゃない。」
「身体の具合は今日明日くらいで持ち直すだろうが、精神面での安定は暫く先になるかもしれないな。何にせよ、祐司君の負担が当面続くわけか。」
「共倒れだけは避けないといけないから、生活が厳しいと思ったら迷わず言ってね。此処なら2人分の場所はあるし、生活の負担も確実に減らせるから、遠慮
しないで。」
「ありがとうございます。やっていけますよ。危なっかしいかもしれませんけど。」

 此処で安易に白旗を上げて保護を求めるわけにはいかない。この先色々なことが起こり得る。マスターと潤子さんは頼りになるが何時までも頼るわけには
いかない。あくまでもマスターと潤子さんは最終手段と位置づけ、2人で解決する方向で進める。
 解決と言っても複雑な事態に直面しているわけじゃない。妻を持つ者として毅然と対処することに徹する。晶子の回復を手助けして今までの生活に戻る。
これだけだ。簡単なことほど難しいと言うが、今直面している問題は人間として当然のことを実施するだけで良い。それが出来ない輩が甲斐性や器だと騒ぎ
たてるのも事実だが。
 翌日。研究室に出て卒研に着手。大川さんから実験をする段取りを聞かされて、今はその準備中。テスト用の信号パターンをファンクションジェネレータ
(註:サイン波・方形波・三角波など基本的な波形を出力する装置)とオシロスコープを見て調整している。
 波形にAM変調(註:Amplitude Modulation−振幅を変動させる変調方式。AMラジオのAMと同じ)やFM変調(註:Frequency Modulation−周波数を変動
させる変調方式。FMラジオのFMと同じ)をかけて出力し、入出力応答とそれが理論式と合致しているかどうかを見る。大川さんは多分出来るだろうという観測
だし、俺もVHDL部分のみシミュレーションで見てみたが正常な応答が期待出来る。
 今日は先週よりずっと気分が落ち着いている。晶子が完全回復したからだ。俺を起こした時の顔は何時もの顔で、そこに疲れや病の気配は微塵も感じられ
なかった。熱も測ったがすっかり下がっていたし、もう大丈夫だろうと判断した。昨夜帰宅してから熱を測って殆ど下がっていたから、もう一晩寝れば大丈夫
だろうとは思っていたが、弁当を作るのはもう1日控えるよう言った。前日から準備が必要な部分があるし、明日完治している保証はないから、朝早く起きるより
しっかり寝ることを優先するよう説得した。
 晶子は説得を受け入れて−説得しなければ作る気満々だった−弁当は作っていない。だが、朝飯はしっかり作ってくれた。久しぶりに満足な朝飯を食べて
満足している。朝の動向がその日1日全体に影響するもんだな。

「安藤君。準備はどう?」
「はい。波形はきちんと出せてます。AMとFMのスイープ(註:徐々に変化量を増減させること)も確認しました。」

 俺は大川さんにオシロスコープを見せる。大川さんは何度か頷く。

「OKだね。これがきちんと出来てないと実験の意味がない。」
「もう回路を接続して良いですか?」
「うん。電源と入出力を接続して。」
「分かりました。」

 回路基板と電源をケーブルで、ファンクションジェネレータと回路基板、オシロスコープはBNC(註:通信や計測に使用されるコネクタの規格の1つ。着脱が
容易でよく用いられる)ケーブルでそれぞれ接続する。アダプタで分岐させるから混乱しやすい。指で入出力と接続の経路が間違っていないか確認する。

「接続出来ました。」
「それじゃ、実験を始めよう。まずはAM変調からだね。」

 回路は音声処理に使うから、サイン波では入出力が出来るかどうかくらいしか確認出来ない。必要な処理を特定の周波数帯で行うようにしているから、ある
周波数の信号をAM変調させても、加工処理をする周波数まではそのまま出力する。逆にそれすら出来ないとこの回路は他の実験をするまでもなく失敗と
言える。
 シミュレーションで確認したのはVHDLで出来ている部分のみ。その前後はA/DコンバータとD/Aコンバータがある。この回路は今回初めて駆動するもの
じゃないし、A/DやD/Aの入出力はこの前ロジックアナライザで観測している。音声領域だから扱う信号はせいぜい20kHzが最高だが、内部処理はそれより
ずっと早い。はたしてどうか…。
 …出て来ている…か?AM変調がなされているサイン波の黄色の波形(註:ディジタル形式のオシロスコープはカラー表示が殆ど)に対して、青色の同じ
波形が出て来ている。入力に対して信号処理回路が正常に機能していると言える…か?

「良いね。回路は今のところ正常に動作出来てる。」
「今の周波数1kHz入力に対して、信号処理回路はきちんと動作しているってことですよね?」
「そうそう。信号処理は5kHzを境に振幅を強めるのが1つ。このまま周波数をスイープさせていけば、信号処理回路の機能の1つが判断出来る。」

 信号処理は高域と低域で行う。どちらも基本は振幅を強めること。低域は後で実験するが信号処理回路からすれば十分余裕がある。高域での動作が
正常かどうかで低域も概ね判断出来る。入力波形の周波数がゆっくり高域へとシフトしていく。AM変調だから入力波形は振幅の強弱が出ている。これが信号
処理回路を経ると振幅の弱いところが所定の増幅率−これは回路基板上のスイッチで設定出来る−で強くなれば合格だ。

「…良いね。きちんと処理出来てる。」
「出力の時間遅れは…、A/DプラスFPGAのピン間遅延プラスD/Aですから…3μsecくらい…。これもOKですね。」
「そうそう。入出力遅延の問題もクリア出来てるね。低域との比較で違いがないかどうかも確認だね。」

 入出力の遅延も重要だ。どんなICでも入力から出力までに幾許かの時間遅延がある。μsecからnsecのオーダーだが、高い周波数の信号を扱う場合、
入出力遅延が大きいと出力が十分出なかったり、波形が歪んだりする。音声や映像の信号を扱う回路だと、入出力遅延は回路の性能を大きく左右
しかねない。A/DコンバータとD/Aコンバータの入出力遅延は音声信号帯域なら無視出来る範囲。そして、信号処理回路を組み込んでいるFPGAの入出力
遅延は20nsec。これが取り扱うすべての周波数で変わらないことも確認事項の1つだ。回路がきちんと出来ていれば、温度が極端に変化しない限りは
変わらないものだ。もし変わったら回路の動作に重大なミスがある恐れがある。
 AM変調をかけた入力信号は、ゆっくりと高域にシフトを続ける。出力信号は目的どおりに弱い振幅を増幅して、普通のサイン波に近いものが出て来ている。
波形のひずみも見られない。きちんと出来ているようだ。

「AM変調では正常に追従してますね。」
「そうだね。これなら恐らくFM変調も問題ないだろう。500Hz、1kHz、10Hz、20kHzでAM変調最大で波形を記録しておこう。」
「はい。」

 波形の記録は簡単だ。入力を所定の条件にして出力波形を確認してから、オシロスコープの動作モードをNormalかOneShotにして波形を1画面分捉えて
固定し、その状態でオシロスコープのUSBコネクタにUSBメモリを差し込んで、オシロスコープのメニューで画面をセーブすれば良い。
 入力を少し変えて同じことを繰り返すから単調だが、これは直近の目標である6月の中間発表で使う重要なデータでもある。デモンストレーションをする
機会は殆どないし、回路を作る以上目的の波形がきちんと出せるかどうかが重要だ。その証拠を取る機会をみすみす逃す手はない。

「波形と入力信号の条件を纏めて、研究室のサーバにアップしておいて。」
「はい。」
「次はFM変調だね。」

 AM変調の次はFM変調だ。専門課程の講義のテキストで見た憶えのあるFM変調されたサイン波の波形が現れる。それに応じて出力が変わる。サイン波の
周期(註:繰り返しの時間。これの逆数が周波数)が伸び縮みして、高い周波数に変調された部分が所定の増幅率で増幅されているらしい様子が分かる。
 俺は大川さんの指示で観測と波形の取得を繰り返す。サイン波のAM変調とFM変調が終わったら、次は増幅率を変化させて同じことをして、それが
終わったら三角波と方形波で同様のことをする。根気のいる作業だが、頑張らないと…。
 昼飯の時間。とは言っても時間は半分以上後ろにずれ込んでいる。その分生協の食堂は空いているから良い面もある。俺は大川さんと向かい合わせに
座る。弁当がないから定食を乗せたトレイが前にある。食堂で弁当を広げるのが普通になっていたから、先週から弁当がなくなったことで視線が集まるように
なった。研究室の面々には事情−晶子が倒れて療養していること−を説明したが、それ以外は説明する必要はない。嫁さんと喧嘩したとか思われてるん
だろうか。
 今までだと視線が気になったんだが、今日は知らんぷりを決め込める。実験が大成功に終わったからだ。色々な条件での観測と波形取得を繰り返し、
一部を居室のPCで纏めて検証したから昼飯の時間が大きくずれ込んだが、こういう場合は空いている食堂で満足感に浸りながら食べられる。
 学生実験だとこういう場面はなかった。兎に角人手不足で実験が思うように進められず、昼飯は段取りを考えながらだった。空腹を満たして思考が散漫に
ならないようにするのと休憩するのが目的で、気を休める余裕はなかった。メンバーの中で使える使えないの境界線上に居た智一は、別のテーマで四苦八苦
しているようだ。学生実験と違って手順を示したテキストもないし、解答も用意されていないから学生実験のようにはいかない。智一でそんな状態だから、
戦力外だったあと2人は立ちゆかなくなっているだろうか。1人は売春婦扱いされている女だから、同じように研究室で身体と引き換えにテーマを進めている
かもしれない。

「予想以上に順調に進んだね。良かった良かった。」

 大川さんは満足げに言う。あの信号処理回路を作ったのは大川さんだから、満足感はひとしおだろう。

「あれだけ観測結果を取れて、無作為抽出の検証でも問題なかったから、中間発表は僕達の独壇場に出来るよ。」
「上手く行って良かったです。それに、卒研をしているって実感が強いです。」
「卒研に限らず、開発はこういうもんだよ。目的のものが出来ているか、理論や予測どおりの現象が見られるかどうかを正確に実験して、その結果と理論を照合
して次の段階に進める。実験と理論が合わないなら理論が間違っているのか実験が間違っているのかの検証も必要だし、そういったことは自分で経験
しないと分からない。」
「だから、学生実験を自分で進んですることが大事だ、って言われるんですね。」
「そうそう。学生実験の時は面倒さや早く帰りたさが出て、先に済ませたグループのものを丸写しにしたり手を抜いたりしがちだけど、卒研になると自分で手を
動かさないと何も出来ないし何も進まない。それが分かるかどうかで卒研の出来も大きく変わってくるんだ。勿論、その後もね。」

 大川さんの言うことは、学生実験の指導教官の口癖のような言葉と重なる。学生実験を積極的にこなすかどうかで卒研以降の学生の伸びしろが変わる。
学生実験に取り組まないような学生は院に進学して欲しくない。実際卒研に取り組むようになって、それらの言葉が大袈裟どころか学生への警告だったことが
よく分かる。
 大川さんが研究テーマに熱心なのは、自身の修論にも関わることなのもあるが、テーマを進めるなら今だ、という確信めいたものがあるからだろう。今日の
実験にしても1人で進めるのはなかなか大変だ。実験だけなら手順さえ間違えなければ波形の記録以外は自動化することも可能だが、その後結果をまとめて
検証するまでの手間は人手が必要だ。
 俺が研究テーマを大きく前進させているという自負はない。今までやったことと言えばせいぜい演習問題の取り組みと過去の研究成果の蓄積の取り込み、
そして今回の実験回路のシミュレーションくらいだ。だが、シミュレーションで様々な条件を考えてデータを入力し、シミュレーション結果を検証して問題なく
処理出来ることを大川さんに報告したことが、少しは実験の進捗に寄与出来たかもしれない。

「今後は信号処理回路の改良と、アナログ回路の改良を並列で進めようと思う。」
「信号処理回路の改良は何となく分かりますけど、アナログ回路の改良点は何ですか?」
「基板の最適化だよ。信号処理はOKでも出力波形のノイズが気になってね。」
「今の回路からオーディオアンプの回路に接続することを考えると、ノイズが多いのは片手落ちと言えますね。」
「そうそう。実用的な回路を作るのが大きな目標だからね。その観点からも、アナログ回路の充実は避けて通れないんだ。」

 ディジタル全盛なのは電子機器だけでなく回路の志向でも同じだが、人間の五感に触れる段階ではアナログ回路が不可欠だ。今の研究テーマにしても
信号処理回路はFPGAで構築しているが、FPGAで処理する信号も処理した信号も、人間が聞き取れる状態にするにはA/DコンバータとD/Aコンバータが
あるし、D/Aコンバータの後にはアンプ回路がある。A/DとD/Aはアナログとディジタルと繋ぐ中間的なICだが、アナログ周りの基板作りはかなり難しいと聞く。
単にA/DやD/Aをするだけなら今のICの性能もあってそれなりに出来るが、ノイズが少ない回路−正確なA/DやD/Aが出来ることと等価−を作ろうとすると
アナログ回路の習熟が必要とされる。
 今までの講義もそうだったが、卒研でも理論の話、言い換えればテキストを中心とする内容が多い。だが、基板を作るとか実践的な問題だとテキストは極端に
少なくなる。それは理論もさることながら慣れが要求されることが大きいのかもしれない。

「基板は学部の工作工場に依頼するけど、実装は僕達でする。基板はデータを渡せば1週間程度で出来て来るし、部品の手配もその間に済ませれば良い。」
「A/DやD/Aは全部表面実装ですよね?」
「そう。今のICは定番品以外は殆ど表面実装だからね。安藤君には失敗してもさほど影響がない部分を任せるよ。だから、はんだ付けの練習もしておいて。」
「はい。」

 今まではんだ付けの練習も少しずつしてきた。研究室に在庫している部品は試作用途に使うことを想定しているから、リードタイプ(註:細い金属線が出て
いて回路基板を貫通して実装する部品の通称)が殆どだ。基板も直ぐにはんだ付けして試せるユニバーサル基板を使うから、リードタイプの使用が前提の
ユニバーサル基板では表面実装部品を使うことは難しい。
 工学部には学部全体の研究を支援する専門組織がある。その組織−技術部が管理する建屋が工作工場だ。俺自身3年になるまで存在を知らなかったが、
機械工学科と電子工学科・電気工学科の研究棟に挟まれるような位置にある。元々機械工学科の学生実験や工作実習−機械工学科にある専門課程の
1つ−で使われてきたものを学部全体に対象を拡充したのが経緯らしい。
 その工作工場には、回路基板を製作する機械もある。かなり高価なものらしくて、学生は使用不可だ。その代わりか基板の製造データを渡せば1週間ほどで
作ってくれる。実装まで任せるのも可能だがかなり時間がかかる場合があるから、基板だけ作ってもらって実装は研究室ですることが多いそうだ。

「信号処理回路はどうするんですか?」
「音響処理を加えようと思う。リバーブとディレイだね。」
「アナログ回路じゃなくて、FPGAに組み込むんですね?」
「そう。信号処理をFPGAに実装するのが僕達のテーマだからね。」

 リバーブやディレイはアンプの後にエフェクターを接続したり、別途専用回路を組み込む手もある。今回はFPGAで信号処理をする際に立体音響を実現する
のが大きな目標だから、A/DやD/Aとアンプ以外に回路を用意するのは方針を逸脱する。
 まだおぼろげだが、立体音響の実現にはリバーブとディレイが複数必要だと思う。最低左右に1台ずつ、可能なら複数台必要だろう。その分専用回路を
用意すれば大型になるし、「簡易な」というテーマにそぐわない。複数の機器や回路を用意出来るなら、あえて研究開発のテーマにしなくても金があれば
設備を揃えられる。だけどそれじゃ研究の意味がない。一般的なコンポくらいの装置に立体音響構築のシステムを全て組み込み、複数のスピーカーを用意
しなくても左右2つあれば立体的な音響が作れるシステム。その実現に少しでも近づけるのが研究の目的だ。だからこそ、1つのICに可能な限り機能を封入
することを考える。

「基板データは僕が作って工作工場に製造を依頼しておくから、それまでは信号処理回路の改良に専念しよう。音響処理の組み込みも含めて。」
「はい。」
「…で、嫁さんの具合はどう?」

 大川さんの話がいきなり切り替わり、俺は思わず口の中の料理を噴き出しそうになる。

「先週だよね?研究室に嫁さんが倒れたから休むって電話をしてきたのは。かなり長いよね。」
「はい…。何とか回復して今日から大学に復帰してます。まだ病み上がりですから、弁当作りは控えてもらいました。」
「安藤君、先週はずっと深刻な顔してたからね。治って良かったよ。」

 晶子が倒れるなんて初めてのことだから、気にならなかった筈はない。研究室では自分のことに専念していたつもりだが、智一や他の学部4年も「どうにも
話しかけ辛かった」と言っていたし、やっぱり顔や雰囲気に出ていたんだろうか。

「安藤君の採用試験は今週だっけ?」
「はい。金曜日にあります。」
「僕も面接があるし、連休もあるから、どのみち本格化するのは連休明けになるよ。それまでは安藤君の採用試験と嫁さんのことに専念すると良い。」
「ありがとうございます。」

 デスクに置いた携帯を気にしながら卒研を進める必要は、ひとまずなくなった。大川さんの言うとおり、今週は高須科学の採用試験と晶子の体調の安定に
集中した方が良いな。最悪の事態である共倒れにならないためにも。
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