雨上がりの午後

Chapter 284 未来を決める大舞台(後編〜エピローグ)

written by Moonstone

 和佐田さんに連れられて最初の部屋、会議室に戻る。電灯が灯された部屋では、最初に居た人達に加えて結構人が居る。上着が作業着なのは同じだが、
推測の年齢や作業着の襟元から見えるもの−ネクタイかそうでないか−から、どうも役職に就いている人が相当数居るようだ。

「戻りました。」
「お疲れさん。」

 和佐田さんに応えたのは、確か機器開発2課課長の山下さん。その山下さんが居る前1列あたりに役職者らしい人が固まっている。…今日って面接試験じゃ
ない筈なんだが。

「えー、お集まりいただき、ありがとうございます。見学コースが終了しましたので、安藤君によるプレゼンテーションを開催いたします。」

 次は俺の番。卒研の内容や現状をまとめたプレゼンをする。飛び込み的な申し出だが快諾されて今回開催の場を設けられた以上、対外的な発表の場と
思ってしっかりやらないといけない。準備と言っても、持ってきたPCを演台に出されたケーブルに接続して、表示を確認するだけだ。音声や映像は今回
使わないから、表示と切り替えが正常に出来ることが確認できれば準備完了と見て良い。

「先んじて、出席者の自己紹介をしておきましょうか。安藤君には準備をしてもらいながらで良いので。」
「そうですね。」
「では私から。最初にも挨拶した機器開発2課課長の山下です。…では順番にお願いします。」
「私、機器開発1課課長の忠岡です。」
「機器開発3課課長の斎藤です。」
「機器開発部次長の黒柳です。」

 …え?!機器開発部の3課の課長全員と次長まで居るのか?!今日って非公式訪問…だよな?今までのメールの中にも役職者が列席するなんて、
どこにもなかった筈だが…。

「驚かれたかもしれませんね。今回の安藤君の訪問の話、特にプレゼンをしたいと申し出た話をしたら、他の課長も是非プレゼンを聞きたいということで
集まっていただきました。」
「2課の技術開発力に相応しい候補の学生さんが来るということで、2課と連携する1課代表の私、忠岡と3課の代表として斎藤さんが出席した次第です。」
「斎藤です。現在LANを使用したネットワーク対応機器にも取り組んでいる関係で、今回のプレゼンを楽しみにしています。」
「部長も出席する予定でしたが、生憎外せない会議が入ったため、次長の私黒柳が代理で出席しました。楽しみにしています。」
「よろしくお願いします。」

 此処まで来た以上後には引けない。今日まで準備をした分をしっかり発表しよう。今はそれだけ考えるべきだ。

「準備が整ったようですので、これより安藤君のプレゼンテーションを始めたいと思います。」
「…皆様、本日はお集まりいただきましてありがとうございます。今回は私、新京大学工学部電子工学科の安藤祐司が、『高速ディジタル音声処理回路を
用いた簡易な立体音響システムの開発について』という題目でプレゼンテーションを行います。どうぞよろしくお願いいたします。」

 とっかかりとなる出だしはひとまず上手く出来た。此処からが本番だ。スライドを切り替えて目的と概要を話す。聞き取りやすいように、普段より意識して
ゆっくり、はっきりと…。

「−他に質問などございませんか?」

 何度目かの和佐田さんの声が響く。会場から挙手はない…な。興奮から来る発熱と緊張から来る冷や汗がごっちゃになっている。その汗で頭がようやく冷却
されてくる。チラッと腕時計を見る。質疑応答の時間が10分近くあったのか…。どうりでプレゼン後がやたらと長く感じたはずだ。

「質問がないようですので、安藤君によるプレゼンテーションを終了いたします。ご清聴ありがとうございました。」
「ありがとうございました。」

 俺が礼をすると会場から拍手が起こる。どういう意味が込められているのか分からないが、時間を割いて出席してくれた人達にはきちんと感謝すべきだろう。

「それでは、前1列の皆様に一言感想などお願いいたします。」
「前1列というと、課長以上しか居ないよね。」

 会場から笑いがおこる。和佐田さんを除いた前1列に陣取っていたのは、3課の課長全員と機器開発部の次長、すなわちプレゼン前の最初に自己紹介を
した役職者だ。つまりは総括の依頼か。他にも班長や主任、一般職員まで機器開発部傘下の3課から色々人が来ていた。単なる非公式訪問じゃなく、
1学生の審議会といった雰囲気だ。質疑応答では課長や次長以外からのものが多くて、内容もかなり突っ込んだものが多かった。これをこうした方が
良いのではないかという意見を出したのもそういった人達からだったな。

「じゃあ、私から。」

 最初は山下さんからか。

「興味深く拝聴しました。なかなかしっかり準備してこられたようで、音響関係には門外漢の私も構想や進捗は理解出来ました。」
「ありがとうございます。」
「次は忠岡さん、どうぞ。」
「私も音響関係は専門外ですが、FPGAによる高速ディジタル信号処理回路の構築は面白いと思いました。研究テーマについてよく理解出来ているという
印象です。」
「ありがとうございます。」
「次は斎藤さん。どうぞ。」
「音響通信工学のご専門ということで興味を持っていましたが、通信分野にも高速ディジタル信号処理は十分活用出来そうだと思います。忠岡さんと同じく
研究テーマと関連の数学をよく理解していると思いました。」
「ありがとうございます。」
「最後は黒柳さん、お願いします。」
「専門分野の基礎学力がしっかり備わっていると思います。かなり突っ込んだ質問に対しても自分の分かる範囲で明瞭に回答していましたし、プレゼン
そのものも非常に聞きやすく、十分合格点だと思います。」
「ありがとうございます。」

 質疑応答が長引いた割には好評のようだ。あれだけあれこれ言われた後だと、研究テーマの進め方に問題があるのか、それ以前にこの研究テーマではこの
企業の専門分野から逸脱していてそぐわないと思われたのか、と疑心暗鬼に陥りかけていたが、やはり研究テーマやその進捗よりプレゼンを通して見える
研究テーマの理解や基礎知識の度合いを測る意味合いが大きかったんだな。

「続いて、今度は安藤君から弊社について質問などありましたらお願いします。」

 攻守交代というか、俺が質問する立場になる。質疑応答の時間が長引いたがこの機会はしっかり用意されていたか。疑問に思ったこと、特に仕事の
進め方に関することや服装、勤務形態について色々聞いておこう。
 主に3課の課長がメインになって回答する。仕事−ある開発案件の相談窓口は各班の班長が担い、打ち合わせで正式に開発が決まった段階で課長に届け
出て開始となる。担当者の人数や担当内容は班長が課長と相談して、各職員の勤務の度合い−他の案件で手がいっぱいとか−を見て分担を決める。
その際、各班以外から応援を求める場合もあるとのことだ。
 1つの開発期間は様々だから一概には言えないが、たとえば組み込みモジュールでは試作品の特性評価が揃うまで3カ月〜4カ月程度。社内使用の
開発用直流電源で1カ月程度だという。1人が概ね2つ程度の案件に携わるようにしていて、それ以外は各自で勉強したり、社内研究開発費で自分の技術
開発や向上に充てるようになっている。
 社内研究開発費とは、通常の仕事で割り当てられる必要経費とは別に、社内で公募して採択された研究開発の課題について企業から必要経費が配分
されるというものだ。応募は個人もしくはグループで、期間は単年度。配分額が採択数と予算によって決まるので一概には言えないが、概ね10万〜50万
程度。年度の終わりに報告書の提出が必要で、内容によっては正式な開発として採択され、その際はその人が開発責任者に任命されて専念することに
なる。そうして実際に製品になったものも多いそうだ。
 服装は社内、正式には出勤してから退勤するまでは共通の作業着−上着のみだそうだ−を着てネームプレートを着用することが機密保持の観点からも
義務付けられているが、通勤の服装はまったくもって自由とのことだ。髪型もしかり。もっともこの企業では服装や髪形に念を入れるのは少数派で、結構ラフ
だそうだ。課長以上だと内外の会議が多くなるのでスーツに早変わりできるように、最初からスーツで通勤することが増える。スーツが馴染まない人はスーツを
企業に置いておいて必要時に着用する場合もあるそうだ。
 勤務時間は8時半から17時が定時。フレックス制度はないが遅くまで勤務することは少ない。難しい案件や新規開発だとどうしても残業が多くなるが、
残業代はきちんと出る。休日出勤はよほどの事態でないとないし、その場合は後日代休がある。有給の消化が社内でも奨励されていて完全取得者も珍しく
ない。それは働きづめでは効率が落ちるし、福利厚生の一環として重視しているためとのことだ。
 他の部署や支社などへの異動は、基本的に希望しなければない。企業としては珍しい部類だが、設計開発や研究は一定年数経験を蓄積しないと向き
不向きすら分からないのが大きな理由とのこと。勿論、班や課の間や機器開発部と研究所で異動がある場合もあるが、それらも基本は本人の希望による。
今回の採用もそれぞれの課と機器開発部が主導していて、他の企業のように人事部が主導していないそうだ。この点かなり目新しい。
 研修期間は社として行うものが1カ月、各課各班で行うものが半年程度。それ以降は実際に仕事に携わりながら指導を受けて経験を重ねていく、所謂OJT
方式が採られている。各課各班での研修でCADやはんだ付けの技能講習も行われる。どちらも基本は合宿形式ではなく通勤形式。合宿は社全体の研修の
1週間程度で、別の支社や部署採用の同期との顔合わせや人脈創りの意味合いが大きいそうだ。
 話を進めていくにつれて、この企業は凄く優良と言われる部類に属するという実感が強まる。優良というのは対外的な意味合い−名前を言えば誰でも
知っているというもの以外に、残業や休日出勤の連続で身体を壊すか辞めるまで社員をこき使って業績を上げることに邁進するのではなく、福利厚生や
社員の健康に留意することも含まれる。
 増井先生も言っていたが、企業としては業績や技術開発力、そして福利厚生でも非常に優良だが、知名度の低さや研究テーマとの関連性の不明さで敬遠
される企業のようだ。しかし、企業の根幹をなす技術開発力の拡張だから採用の妥協はしたくない。そんな折に増井先生の紹介と久野尾先生の後押しで
成績優秀らしい俺が訪問して、プレゼンの申し出もしたということで、注目が一気に高まったんだろう。この企業に入ることは決して悪いことじゃない。むしろ
晶子との生活を進める上で屈指の優良条件と言えそうな気がする。

「時間が押し迫ってきましたので、他になければこれで終了としたいと思います。」

 結構時間を使って高須科学について色々聞けた。勤務時間や服装、研修内容といったかなり突っ込んだ話も出来た。こういう場だからこそ出来た質疑応答
だったと思う。多数の学生を相手にする説明会ではなかなか難しい。

「最後に安藤君から一言お願いします。」
「…今日はこのような機会を設けていただき、また、貴重な時間を割いて多くの方々に集まっていただき、ありがとうございます。」

 締めくくりの挨拶も意識的にゆっくりはっきり言うことを心がける。一応考えてはおいたが綺麗に出て来るとは思えないし、口上の大半は頭から抜け出して
しまってる。下手に取り繕うより相手に伝わるようにはっきりと、今日が非常に良い機会だったことへの感謝と告げるのが良い。

「つい最近まで御社のことは殆ど知りませんでした。ですが、この機会をいただいてから色々調べたり今日色々なお話を伺ったことで、決して電気電子と無縁
ではなく、実は電気電子の高度な技術を保有する企業だと実感し、自分の視野の狭さを思い知らされました。」
「「「「…。」」」」
「もし皆様と仕事が出来る機会が持てましたら、その際はよろしくお願いいたします。…ご清聴ありがとうございました。」

 強引に締めくくったような気がするが、口上を終えて一礼する。再び拍手が送られる。最後だからかかなり音量が大きい。驚きと発見、そして緊張の連続
だった今日の訪問はどうにか終えることが出来たな…。
 俺は会議室から出てエントランスに向かう。和佐田さんが見送りのために案内してくれている。

「今日は色々とありがとうございました。」
「こちらこそ、ありがとうございました。プレゼンは良く出来てましたし、質疑応答もしっかり答えてましたね。興味深かったですよ。」
「ありがとうございます。他にも色々私の質問に答えていただいて…。」
「うちの仕事やうちそのものについて知りたいという意欲が分かりました。あの場でも出ましたが、勤務状況に関してはうちは組合がしっかりしてますから、勤務
時間や休暇などは優良な部類に入ると思います。私が言うのも何ですが、仕事をするには良い環境ですよ。」

 それは訪問をしているうちに強く感じた。勤務条件は俺が知る限りでは相当優良なものに属するのは間違いない。組合のポスターが時折掲示板に貼って
あるのが見られたが、過激な内容でもなく企業側に迎合するでもなく、昔の掲示物が化石になっているでもなく、しっかり活動しているようだ。

「私個人としては、安藤君には是非うちに来て欲しいですね。」

 エントランスに到着したところで和佐田さんが言う。

「増井先生や久野尾先生が絶賛されていたように、熱心でよく勉強している学生さんでした。プレゼンと質疑応答は特に良かったです。」
「プレゼンの申し出もそうですが、その後の質疑応答でも少々出しゃばり気味だったかもしれません。」
「否、今日3課の課長が集まったのは、安藤君からプレゼンをする申し出があったことを山下に伝えたことが発端ですし、山下は勿論、山下から話を聞いた
1課の忠岡と3課の斎藤、それに山神−部長のことですが、是非参加して聞きたいと言っていました。山神は急な会議で来られなくなって黒柳を代理に
出したんですが、頻りに残念がっていたという話を聞きました。」
「他の皆さんにも、私がプレゼンをする話が回っていたんですか?」
「ええ。話を回したのは私ですし、参加はそれぞれの仕事もありますから任意としておいたんですが、どんな話をするのか楽しみにしている者が多かった
ですよ。」

 道理でたくさん人が来ていた筈だ。人数は30人くらい居たと思う。3課に話が回っていて3課の人数が同じだとすると、1/4くらいは来ていた計算だろうか。
1学生の非公式訪問のプレゼンを聞きに来たのは、単なる暇潰しや冷やかしじゃないだろう。そんな暇があったら自分の仕事を進める筈だ。
 人前でプレゼンをするのは、今回が実質初めてだ。準備はしっかりしたつもりだが、緊張が先行して頭を支配したあの場で滞りなく出来たとは思えない。
だが、中間発表などこれから控えるプレゼンの場に向けて貴重な機会を持てた。質疑応答も含めてプレゼン関係だけでも良い経験になったのは間違い
ない。

「うちから正式な誘いがあったら、来てくれますか?」
「はい、是非お願いしたいと思います。」

 今回の話を聞いたあたりにあった疑問は消えた。今の俺では全てを動員してもスタート地点にすら満足に並べないだろうが、此処で仕事をしたいと思うには
十分な見聞内容だった。

「僕には採用の権限はないけど、安藤君には来てくれるなら是非来て欲しいです。その機会を楽しみにしてます。」
「ありがとうございます。」

 改めて礼を言って、高須科学を後にする。夕暮れの空と冬の名残を感じさせる冷気が出迎える。振り返るとあっという間だった今回の訪問を
終えたんだな…。晶子にメールしておこう。
送信元:安藤祐司(Yuhji Andoh)
題名:企業訪問が終わった
今、高須科学を出たところ。企業訪問は無事終わった。
色々見学出来たし、プレゼンもかなり好評だった。
流石に専門家の集団だから、質疑応答の密度が予想以上に濃かった。
今から帰る。改めて話をしたいし礼を言いたい。
 これで良いかな。さあ、帰ろう。何だか晶子の顔を見たくてしょうがない。メールが嘘じゃないことを証明したいからだろうか。
 自宅のドアの前に到着。はやる気持ちを抑えつつインターホンを鳴らす。外から聞くとそれほど大きく聞こえない呼び鈴が鳴り終わらないうちに、奥から人の
気配が近づいてくる。ドアのノブ付近で複数の金属音がしてドアが開く。ドアチェーンがかかっている。

「はい。」
「ただいま。」
「おかえりなさい。今開けますね。」

 幾分警戒していた晶子は、俺が顔を見せると警戒を完全に解いてドアチェーンを外し、改めてドアを開ける。俺は中に入ってドアを閉めて鍵をかける。

「ただいま。」
「おかえりなさい。お疲れ様。」

 改めて挨拶を交わして、帰って来た実感が強まる。兎も角着替えよう。気分が緩んだせいか、スーツが急に着心地良くなくなってきた。玄関を上がって
生活の中心である部屋に移動する。ついてきた晶子がハンガーを用意する。俺はスーツを脱いでハンガーにかけてタンスにしまう。続いて晶子が着替えを
出してくれる。じわじわ心に広がる甲斐甲斐しさを味わいながら、そのままバイトに行ける服を着る。

「祐司さんの今日までの努力が実りましたね。企業の方も凄く乗り気だったようですし。」
「正式な訪問や説明会じゃなかったとはいえ、単なる学生の見学って態度じゃなかった。本気に近い様子見ってところかな。」
「あちらは本来の仕事がありますし、その時間を割いてまで案内やプレゼンの場に参加したりするのは、実質本採用に向けた審査と位置づけていたんだと
思いますよ。」
「そうだと良いけどな。」

 今思い返しても、高須科学側の参加者や態度は1学生の見学を適当にあしらうというものじゃなかった。役職者もかなり出ていたし、プレゼンやその後の
質疑応答でも気分転換に来たような軽さは感じなかった。それが社会人として当然の態度かもしれないが、少なくとも晶子が参加して来た説明会の担当者の
ように、学生を落とすための尊大さはなかった。

「祐司さん。1つ…聞いても良いですか?」
「何だ?」

 手洗いとうがいをして戻ってきたところで、晶子が尋ねて来る。

「指輪のこと、聞かれましたか?」
「指輪?…そう言えば、聞かれなかったな。」

 会議室での企業紹介に始まって同じく会議室での質疑応答で終わった、今でも鮮明な今日の全日程を振りかえっても、指輪について聞かれた憶えは
ない。聞かれたらそれなりに答えていたし、そのことは記憶に残っている筈。

「見学で彼方此方歩いたし、プレゼン後の質疑応答は予想以上に長くなったけど、1度も話題に上らなかった。出たら憶えてる。」
「全然違うんですね…。」
「落とすことが前提の説明会と、双方様子を見るための企業訪問の違いだろうな。あと、俺の場合は先生達の後押しもあったそうだし。」
「学部の違いもありますね…。」

 工学部、特に機械と俺が居る電気電子は就職に強い学科と言われる。そういう話は今までも何度か聞いたし、この前あった就職オリエンテーションでも
出た。採用予定数は年度によって変動するし、今年度は不況の影響で前年度より少ないが、少ないとは言え求人倍率は優に5倍を超えるそうだ。その分
しっかり勉強しておくこと、特に必須科目は10を取るつもりで勉強するように、院進学予定者は尚更と強調された。
 花見の席でも久野尾先生から十分な求人の数を聞いたし、非公式とはいえ今回の企業訪問も研究室の主宰教授と就職担当の教授の2名が後押しして
くれていた。3年と4年の進級時に関門があってそれなりに勉強していないと進級出来ないようになっているが、それを乗り越えた後はかなり潤沢に選択肢が
用意されているのが工学部の特徴と言える。
 一方、文学部は就職時のフォローが弱い。基本的に自分で企業や説明会を回ったり、公務員試験を受けたりして道を切り開く必要がある。自分で活動する
分にはその方が都合が良い面もあるが、卒研はあるし、単位の取りこぼしがあれば卒業までには取っておかないといけないから、かなり厳しくなると考える
方が良い。
 こういった学部学科の就職との関連性は、高校まででは殆ど語られない。大学進学後のことより、現在の成績や模試で出る偏差値や合否判定から行ける
大学・行ける学部を選択するのが殆どだ。これも大学進学を目標としてその後のことまでは語られない−生徒それぞれのことまで構っていられないからかも
しれない−高校の進路指導の弊害だろうか。

「こういう時…、祐司さんとの差を感じます…。」
「俺が順調なのはあくまで今のところだし、今回もこれで決まったわけじゃない。晶子も今日はずっと勉強してたんだろ?」
「ええ。ご飯とお弁当の仕込みをしてからは、ずっと。」

 食事や休憩の場となる中央のテーブルには、テキストとノートが広がっている。公務員試験を主軸に切り替えた晶子は、テキストを買い込んで勉強に取り
組んでいる。日程がかなり迫っている国家公務員と、新京市と小宮栄市がある県と市のそれぞれの問題集。積み上げればかなり圧巻だ。
 企業訪問が終わってから晶子に送ったメールの返信には、今も勉強中とあった。メールで嘘を吐いたところでどのみちばれるし、勉強しなければ自分が
損だということくらい晶子は分かっている。集中はしていただろう。だが、これまでの経緯を考えると、合格出来るのかと疑問がわき出してきても不思議じゃ
ない。

「まだバイトまで時間はあるな。休憩しよう。」
「はい。」
「俺が準備するから、晶子は座っててくれ。」
「え、でも…。」
「俺はひと仕事終えたし、たまには良いだろ?」
「…お願いします。」

 日曜に作ったクッキーの場所は分かっているし、焼いてあるからオーブンの操作は必要ない。紅茶の淹れ方も概ね分かっている。手際を気にしなければ
俺でも準備は可能だ。カップと皿を出して、ティーポットにフィルターをセットして…。紅茶はアールグレイにするかな。
 少し台所で動くと、休憩の準備は揃った。皿に広げたクッキー。カップに入れた淹れたての紅茶。それらをトレイに乗せてテーブルに運ぶ。溢さないように
注意して…と。テーブルに静かにトレイを置いて、皿とカップを取り出し、皿を中央に、カップを向かい合うように置く。これで完了だ。

「スマートに運ぶのは難しいな。」
「…美味しいです。」

 晶子は紅茶を一口啜って笑みを浮かべる。安堵もあるが、疲労感と言うか徒労感と言うか、そういうものの方が強い。公務員試験を主軸にしたとは言え、
特に国家公務員の日程は差し迫っている。これまでまともな結果が出ていないだけに、公務員試験にかける意気込みとそれにまつわる不安、不安だらけの
中で突き進む疲労感は分かるつもりだ。

「晶子。…こっちにおいで。」
「はい。」

 どうかなと思ったが、晶子お気に入りの体勢を誘ってみる。晶子はカップを持って立ち上がり、俺の前に来て腰を下ろす。俺を座椅子にすると直ぐ、晶子は
身体を預けて来る。俺は左腕で晶子のウエストを軽く抱く。

「足手まといになりたくないと思って勉強してはいるんですけど…、心のもやもやが消えなくて…。」
「足手まといとは思ってない。晶子には晶子しか出来ないことがある。俺にとっては晶子は絶対必要だ。」
「嬉しい…。それを感じられるこういう時間が、私には必要なんです…。」

 晶子はカップをテーブルに置き、俺の首筋に鼻先をこすりつける。

「祐司さんとの子どもを安心して迎えたい、ってことでお金を溜めるために別居になることも許してもらったのに、私は…祐司さんに頼らざるを得ないかも
しれない…。そんな自分が情けなくて…。」
「頼って良い。晶子の意気込みや頑張りは立派だ。だけど、それでも上手くいかないことはある。頑張っても駄目だったら仕方ない。晶子が悪いんじゃ
ないんだから。」
「…はい。」
「駄目だったら、俺を頼って良い。否、頼って欲しい。テンポが遅くなっても協力して家庭を作って運営していけば良い。夫婦ってそういうもんだと俺は思う。」
「はい…。」

 晶子の返事には張りが少ない。目標−俺との子どもを安心して産めるように自分も働いて金を溜めることを有言実行したいのに、まったく前提条件が成立
しないことに相当焦りや疑問が生じているんだろう。「言われていることは分かるけど…」というある種の反抗心も生まれているように思う。
晶子が呟いたように、学部学科の違いが顕著に出ているところが大きいとは言え、自分は手当たり次第に説明会に出向いても門前払いなのに、俺は単独
での企業訪問に大学側のバックアップがあり、企業側も熱心かつ歓迎と落差が大き過ぎる。同じ大学の同じ学年なのにこうも違うのか、という徒労感はある
だろう。
 優越感はない。俺も晶子の夢に賛同してるし、決して無茶なことじゃないと思ってる。そうじゃなかったら夫婦を公言出来ない。俺は自分の就職に向けての
活動が今のところ順調だが、それは俺だけの力じゃない。そして、晶子の先が見えない現状も俺の力じゃどうにも出来ない。困難な状況にあるのは俺もさほど
変わらない…。

「祐司君は極めて順調に進んでるようだね。」

 バイトが終わっての「仕事の後の一杯」。「FORGOTTEN SAGA」が流れる店内は微妙な雰囲気だ。

「本決まりではないけど、企業側が祐司君の採用に向けてかなり前向きなのは間違いないね。そうでなかったら、役職者がわざわざ1学生のプレゼンに
出向いて質疑応答に時間をかけるようなことはしない。非公式訪問なら尚更だ。」
「現状の祐司君と晶子ちゃんの違いは、学部学科の差としか言いようがないわね。その差が大き過ぎるんだけど。」

 マスターと潤子さんの見解は俺と一致している。マスターと潤子さんもそうとしか言いようがないのかもしれない。

「昼に来る常連の塾講師さんからも、不況になると学部学科間、大学間で就職の格差が如実に出るとは聞いていたが、こういう形で目にすることに
なるとはね…。祐司君は仮にこのまま話が進めば、その企業に決めるつもりかな?」
「はい。今日色々話を聞いた限りでは、表現は悪いですが穴場ですし、新京市からの通勤も十分可能ですから。」
「それは、今の家からの通勤も視野に入れてのことかな?」
「はい。今の家は駅にも近いですし、貯金を殖やすにもそれが出来るならその方が良いかと思ってます。」

 引っ越しは何かと金がかかる。引っ越し先の敷金と場合によっては礼金だけでも十万単位の金が必要だ。荷物を持ち出すには引っ越し業者に依頼する
必要があるだろうが、これもそれなりに金がかかる。更に退去する家も空にすれば終わりじゃ済まない。敷金の中から差っぴかれるかそれに少々プラスする
程度で済めば良いが、こういう場合は良い方に考えない方が良い。
 それより、晶子のタンスなども持ち込めるように今の家を整理して暮らしを継続する方が良いかと思っている。手狭ではあるが2人なら暮らせる。そこで可能な
限り貯金して広めのところに引っ越すようにすれば、資金面の余裕が出来る。晶子の現状が現状だけに、持ち出しを少なく出来るならその手段を使う方が
良い。

「通勤時間が1時間くらいなら、その方が良いかもしれないね。2人で暮らすには失礼だがちょっと狭くないか?」
「整理すれば可能だと思います。」
「晶子ちゃんはどう?」
「私は祐司さんと一緒に暮らせるならその方が良いです。荷物の片付けや整理は私もしますし、それほど多くないと思います。」
「ふむ。だとすると祐司君は可能ならこのまま話を進めて、卒業を確実にして新生活の基盤を確保した方が良いね。晶子さんは祐司君に頼れば良い。」
「それだと私は…。」
「何も晶子ちゃんは家でぐうたらしてれば良いとは言ってないわよ。此処で引き続き働けば。」

 晶子は潤子さんの方を見る。此処で働く、か。かなり前にそういう話が出たことがあったような…。

「此処で、ですか…。」
「そう。今の祐司君の家なら十分通えるし、晶子ちゃんが此処で働き続けるのはむしろ大歓迎よ。キッチンが2人居るのは心強いし。何もわざわざ小宮栄とかに
出向いて採用する気のない人事担当者に詰られるだけで帰ることを繰り返さなくても、祐司君の動向にもよるけど此処に決めちゃえば良いのよ。勿論、働いた
分のお給料はきちんと払うから。」
「晶子さんが引き続き此処で働いてくれることは、この店としては大歓迎だ。勿論この場で決める必要はない。保険と思ってもらえれば良い。」

 良い案だと思う。晶子がキッチンに詰めているから店の注文が回転出来ている面はある。第一に料理で売るこの店の品質を担えるだけの力量があるから、
晶子が接客に出なくなっても特に男子中高生の客足が遠のかずに済んでいるところもある。
 俺は生活の安定のためにも正社員として就職する方が良い。この店が不安定とは全く思わないし、安定を言い出したら極端な話、企業も店も倒産のリスクは
確率の高低くらいしか違わない。ただ、正社員として就職することによる福利厚生や保険は店より確立している。どうしても個人経営の店だと保険は国民
保険と民間の生命保険くらいで、失業などのリスクは自己責任という面がある。
俺と晶子の両方が正社員として稼ぐのが難しくなっている現状、救済策としてこの店で働き続けることは良いと思う。新たに人間関係を構築する必要も
ないし、技術や知識を新規に習得する必要も少ない。晶子のこの店での地位はかなり高い。晶子の引退による客足の減退の可能性も大幅に減るだろう。

「晶子ちゃんには祐司君が居て、その祐司君は晶子ちゃんとの新生活に向けてしっかり考えて足場を固めてくれている。晶子ちゃんは心を痛めつけられて
まで正社員に固執しないで、別の道を考えても良いと思うわ。」
「…はい。」
「2人の生活構想もあるし、晶子さんの意志もあるから勿論今すぐ決めなくても良いし、此処で働くことを強制するつもりもない。最終的な保険として此処で働く
道があると思って就職活動を続けると良い。」
「はい。ありがとうございます。」

 現時点でかなり高水準の道が晶子に用意された。実質継続だから試験も面接もない。保険として晶子の精神状態を下支えするには好条件と言うべき
ものだ。晶子の表情に晴れ間が戻ったのは何よりだ。

「祐司君に頼れるのは晶子ちゃんだけの特権なんだから、躊躇わずに行使すれば良いのよ。依存するのは問題だけど、そうなることはないようだし。」
「祐司さんは今が頑張り時ですから、私が頼ると祐司さんの負担が大きくなると思って…。共倒れになるようなことはしたくなくて…。」
「そういう意識があれば依存にはならないし、祐司君も出来る範囲できちんと支えてくれるわよ。」
「自分で行動出来る限り…自分で頑張ります。祐司さんの足手纏いにならないように頑張るって決めましたから…。」

 隣で晶子の受け答えを見ていて、俺もマスターと潤子さんと同意見だ。あくまで自分も将来に向けての財政基盤構築に主体的に参加する、俺に依存する
つもりはない。その強い意志が仇になって自分自身を追いこんでいる面はあるが、後は俺に任せれば良いやと変に開き直って自堕落になったりしない。依存
するとは思えない。
 俺の順調な様子を見ていて晶子の焦りは相当強くなっていると思う。それでも公務員試験を主軸にして懸命に結果を出そうと勉強に取り組んでいる。
晶子に支えられたことで、俺は今日の訪問が無事に終わった。今度は…俺の番だ。
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