雨上がりの午後

Chapter 283 未来を決める大舞台(前編)

written by Moonstone

 予定時刻10分前に改めて高須科学の中央研究所前に到着。正門から入って守衛所に向かう。話は通してくれてある筈だが、何分初めてだから不安は完全
には消えない。

「すみません。…本日御社を訪問させていただく予定になっている安藤と申します。」
「安藤さん?ああ、話は聞いてますよ。」

 守衛さんはすんなり対応してくれる。内心胸をなでおろす。守衛さんが出した帳簿に氏名と住所を記帳する。

「出る時までこれを常時見える場所に提示してください。構内は指定場所を除いて全面禁煙です。」
「分かりました。」

 守衛さんから入構証を受け取る。安全ピンかクリップで留められるようになっている。場合が場合だから尚更落とさないように、此処は安全ピンだな。

「真っ直ぐ進めばエントランスです。その正面に総合受付がありますから、そこで改めてお名前を知らせてください。」
「分かりました。ありがとうございます。」

 此処までも何とか順調だ。さて、正面に見える大きなガラスのドアに向かって直進だ。出入り口とは思えないほど立派だな。大学のが貧相過ぎるとも
言えるが。ドアの前に立つと両側に開いて中の世界が広がる。正面には確かに受付がある。

「すみません。本日訪問させていただく予定の安藤と申します。」
「安藤様ですね。お話は伺っております。係りのものを呼びますので少々お待ちください。」

 こちらもきちんと話は通っていた。しっかりしてると言うべきか当然と言うべきか分からないが、勝手も何も知らない場所で右往左往させられたりたらい回しに
されるよりはずっと良い。
 メールのやり取りをしていた和佐田さんが来るまで待つ。持ち場に戻るのか時折人が歩いていく。上は統一された作業着を着ているが、下はGパンだったり
普通のズボンだったりと異なる。作業着の上から見える襟元にはネクタイらしきものは見えない。スーツ着用じゃないんだろうか。作業着の胸ポケットに顔写真
入りのネームプレートを装着しているのは全員に共通している。髪型はごく一般的なもので、茶色に染めている人は少ない。

「安藤君ですか?」

 右側から声がかかる。作業着の上着にGパン姿の面長の男性が居る。ネームプレートを見ると「和佐田」という文字が見える。この人が和佐田さんだな。

「はい。はじめまして。安藤祐司と申します。よろしくお願いします。」
「はじめまして。今日案内する和佐田です。どうぞよろしく。」

 初対面で最重要の挨拶は滞りなく出来た…と思う。

「まず弊社の概要説明をしますので、会議室へ案内します。」
「はい。」

 和佐田さんの後を歩いてエントランスから奥に進む。直ぐ近くにある階段を上って、広くて綺麗な廊下を歩く。点々と並ぶドアは薄いブルーの引き戸
タイプだ。和佐田さんは中央付近のドアの前で止まってそれを開く。

「どうぞお入りください。」
「失礼します。」

 広々とした部屋は大学の中規模の講義室くらいで、明るい木目調のテーブルが正面の大きなホワイトボードに向かい合って横2列で整然と並んでいる。
そこには作業着を着た10人ほどの男性が座っている。年齢層は見たところ結構幅広いようだが、予想よりずっと多い。

「山下さん。安藤君をお連れしました。」
「お疲れさん。」
「はじめまして。安藤祐司と申します。よろしくお願いいたします。」
「本日はようこそ弊社へ。機器開発2課課長の山下です。」

 席を立った男性が名乗る。課長?今日は非公式訪問なのに課長まで出てきたのか?面接や試験の予定は聞いてないんだが、冷やかしとは思えないし…。

「今日の安藤さんの訪問は楽しみにしておりました。存分に弊社の業務内容を見ていってください。」
「ありがとうございます。」
「では、安藤君はそちらに着席ください。私から弊社と本部署−機器開発部機器開発2課の業務を紹介します。」

 俺が案内された席は最前列のホワイトボード正面、何と課長の山下さんのすぐ前だ。何だか面接会場に来たような気がしてならない。
 部屋の照明が少し落とされ、ホワイトボードにプロジェクターの画面が映し出される。和佐田さんがホワイトボード脇の演台前に立って、スライドを使って
プレゼンを始める。「高須科学と機器開発業務のご紹介」というタイトルに始まり、高須科学の沿革、現在手掛けている事業が図や写真を主体に紹介されて
いく。この辺りはWebサイトにもあったことと同じだ。違っていたら「?」だが。
 続いて機器開発部とその傘下の部署−機器開発1課から3課の業務内容紹介に移る。機器開発部は高須科学が製造販売する計測・分析機器など様々な
機器の設計開発を行う部署で、内容によって大まかに3課が分担している。1課が計測・分析機器、2課が社内研究開発用機器や組み込み用機能
モジュール、3課が自然エネルギーやバイオ関係という具合だ。それぞれが随時連携して業務を進めている。
 紹介は機器開発2課に絞られる。1課や3課が設計・開発に使う電子機器や製品に組み込む機能モジュールを設計・開発している。「手前味噌になるが、
高須科学の設計・開発の基礎を担う部署」だと和佐田さんは言う。内容から考えてそれはあながち誇張とは言えないと思う。
業務は依頼者−1課や3課の職員以外に「身内」である2課や分析計測を担当する分析系部署からもあるそうだ−との打ち合わせから始まり、回路の設計、
試作評価、製造委託から最終試験まで手掛ける。勿論案件によっては複数で分担するが、単独で行う場合もある。業務内容の関係で電気電子回路だけで
なく、物理や化学、エネルギーやバイオ関連、果ては航空宇宙など幅広い知識が求められる。密度は相当濃いと感じる。俺が入ったとして1年2年で務まる
とは思えない。

「−以上です。」

 和佐田さんのプレゼンは終わり、部屋の照明が元に戻る。つい最近まで名前すら知らなかった高須科学は、実は大学で学んだ電気電子の知識を総動員
してもようやくスタートラインに立てるかどうかの設計・開発を手掛ける専門企業だと実感する。

「これから見学していただく中で、紹介した業務の流れの一端を見ていただけます。質問は見学中でも随時受け付けますので、じっくりご覧ください。」
「はい。よろしくお願いします。」
「では、こちらは一旦解散として、見学案内を終えて戻る14時半に改めてお集まりください。」

 今日の訪問の流れでは見学の後質疑応答の時間が設けられている。そこで俺のプレゼンも予定されている。そこでも課長の山下さんが出て来るん
だろうか。顔見せだけかもしれないが、どうもそれだけで終わるような気はしない。
…兎も角見学だ。こういう場面でないと企業の開発部門を事細かに見られる機会はないからな。和佐田さんについて移動を再開する。再び出た廊下はやはり
綺麗だ。建物は特別真新しいわけではないが、きちんと掃除されているのが分かる。廊下の要所には案内板がある。俺のような見学者への対応だろうか。

「うちの課長が居てびっくりしましたか?」
「は、はい。今日は和佐田さんが案内される他は、同じ部署の方が見学の際に説明していただけるくらいのものかと思ってまして…。」
「僕が今日の安藤君の訪問の話をしたら、是非ってことで加わってるんです。」

 和佐田さんは前を歩きながら俺の方を時々向いて説明する。

「増井先生の紹介で非常に優秀な学生さんが来るってことで。」
「それほどのものでは…。」
「いやいや。増井先生から電話が入って、非常に優秀で積極性にも富んでいる学生さんだから安心して紹介できる、とお墨付きを頂いてます。」

 今回の訪問は増井先生の紹介によるものだから増井先生の手が回っている可能性は予想していたが、かなり積極的に推してくれたようだ。変な学生だと
それこそ学科の沽券にかかわりかねないし、委託研究をしている関係にも悪影響を及ぼす危険性もある。俺はある意味新京大学工学部電子工学科の看板を
背負っているとも言えるな。
 会議室からさほど離れていない場所のドアから中に入る。綺麗で広大な室内にパーティションで区切られたデスクが向き合って並んでいる。両側の壁と
パーティションの区切りの中央には、書籍やファイルが詰まった書棚がこれまた整然と並んでいる。

「此処が機器開発2課のオフィスルーム。デスクワークは此処でします。あと、打ち合わせも基本は此処で。」
「他でする場合もあるんですか?」
「開発中の回路基板の特性を見てもらったり、それを基に今後の開発方針やスケジュールを詰める場合があります。基板によっては持ち運びに神経を使う
ものもありますし、持ち運びの最中に壊してしまう可能性もないとは言えませんから。」

 開発の最中だと基板がむき出しの場合はままある。むしろケースに封入しながら開発する方が少ないだろう。俺が進めている卒研関連の回路基板も多くは
剥き出しだ。何度も修正を伴う場合、ケースから取り外すだけでも面倒だろう。それに、和佐田さんの言うようなリスクもある。開発を進めていて打ち合わせの
ための移動の事故で壊してしまったら、泣くに泣けない。

「機器開発2課には何人くらい居るんですか?」
「全部で…22人ですね。だいたい1班−係に相当する単位に5、6人で4班構成ですから。」
「こう言うのは変かもしれませんが、意外と少ないですね。」
「班は職階ですし、班ごとに1つの仕事を受け持つ形式じゃないのもありますね。」
「なるほど。」
「ちなみに今回募集をかけているのは4班全てです。開発力の強化なので各班で人を取って養成しようという方針なんです。」

 ということは募集人数は機器開発2課に限っては4名程度か。多くても10人に達するかどうかと言ったところだろう。それでも電気電子系の学部から芳しい
反応がないとなると、この募集枠はかなりの穴場かもしれない。
 部屋を出て移動する。次に入れてもらうのはCADルームとプレートが掲げられていた部屋だ。此処もやはり広い室内に、同じくパーティションで区切られた
広いデスクが向かい合わせに並んでいる。2つのディスプレイの片方に回路基板のレイアウト図、片方にデータシートらしい書面が映っている。

「此処がCADルームで、打ち合わせなどで開発方針が決まった回路基板や、組み込みモジュールなどで使うフレームを設計します。」
「回路用のCAD以外にフレームやケースの設計もするんですか?」
「カスタム電子機器と言えるものですから、市販のケースやフレームでは特に組み込み用モジュールにはそのままでは使えない場合が多いんです。
そういう時、此処で図面を描いて加工会社に加工を委託してます。委託先はうちの周辺に点在しているので、その営業の人を通じて打ち合わせや依頼を
します。」
「私はCADの経験が殆どないんですが、新採用者対象の教育や研修で習得するんですか?」
「そうです。主に新採用者を対象にCAD講習会を開催します。そこでひととおり操作出来るようになってから、設計開発に携わって実務経験を積んでもらうと
いう流れです。CADは大学ではあまり使う機会がないですから、その辺は心配要りません。」
「回路設計にはVHDLやVerilogも含みますか?」
「そうですね。ハードウェア記述言語は開発スタイルが人によって異なるんですが、IDE(註:統合開発環境の略。使用するファイルの階層構造をプロジェクトと
して管理し、テキストエディタやコンパイラなどを同一画面のメニューから使用出来るようにしているソフトウェア)は全て統一していますから、秘匿の関係も
あってこの部屋のワークステーションで開発します。」
「ハードウェア記述言語の指定はありますか?」
「開発責任者の意向や好みがあるせいか、VHDLとVerilogが半々くらいですかね。どちらも使えるようにこちらも新採用者を対象に講習会を開催します。」

 Verilogも使うんだな。優劣というより特徴があるから、ある意味「使うと決めた人の勝ち」という面がある。久野尾研でも俺の卒研テーマではVHDLを使って
いるが、別のテーマではVerilogを使っているそうだ。これらも最初にテーマに携わった時からの伝統と蓄積のためだ。何年か試行錯誤や開発を続けて
いると、関連ファイルだけでも相当な蓄積が出来る。それをすべて破棄して1から製作するのは、卒研レベルではまず無理だ。ハードウェア記述言語も
そうだが、回路基板の設計も手掛けるのか。製造は委託するだろうが−回路基板の製作環境を整備するのはかなりの費用がかかるらしい−、回路図を描けば
基板はレイアウトから委託するんじゃないのか。これも秘匿の関係だろうか。

「設計や製造は別会社や子会社に丸ごと委託するんじゃなくて、社内で製造直前まで手掛けているんですね。」
「そうです。会社の人件費は見た目外注よりかかりますが、色々な特許が絡むものを開発したり社の独自性や技術開発力を高めるには、構想だけして製作は
丸投げではいけない、というのがうちの基本理念です。そのための投資−CAD関係や製作環境と人の採用や育成は惜しみません。」
「設計から製作まで一貫して手掛けることで分かることもあると思います。」
「そうなんです。基板のレイアウトにしても、外部と接続しやすい配置を含めた設計をするには回路全体やモジュール全体を見通すことが必要ですけど、
それは一連の開発過程を経験しないとなかなか出来ないことです。それに、外注に頼ると意思疎通のちょっとしたずれで使い難いものが出来てきたりする
場合もあります。それだと結局余計にコストがかかってしまうものです。トータルで見れば委託で人件費は減るどころか増える場合はままあります。」

 和佐田さんの言うことは理に適っていると思う。コスト削減となると真っ先に人件費を減らすことに話が進む。今まで内部、すなわち自前で製作していた
ものを悉く外部に委託して、その分の人員を削減するのがよく取られる手法の1つだ。しかし、それを進めた企業がその分野でシェアを高められたり本当の
意味での競争力の向上につながっているか甚だ怪しい。
 学生実験の口頭試験終了後の懇談で何度か開発中の回路を見せてもらう機会があった。電力制御でも材料物性でも実験やそのデータ取得で市販のもの
だけでなく独自製作の回路を使う場面が多いのは驚いたが、そこで使われているICの殆どは海外メーカーのものだった。助教の話だと、自分の学生時代は
国内メーカーのICや半導体素子(註ICも半導体素子だがダイオードやサイリスタ(外部制御入力によって電流を通過/遮断する素子。ダイオードより大容量の
電流を流せるため交流電源機器で使用される)など個別部品を半導体素子として、それ以外のアナログ/ディジタル機能を持つICパッケージに封入された
製品をICとする場合もある)は豊富にあったし多く使われていたが、バブル経済崩壊以降どんどん割合を減らして、今では一部のマイコンや半導体素子、
標準ロジックIC(註:ディジタルICの基本機能を実現出来るICの総称。CPLDやFPGAで構成するディジタル回路はこの標準ロジックIC回路の拡大や新機能を
複数実装するか、標準ロジックICでは実行速度が間に合わない高速動作回路と考えて良い)くらいのものになってしまったそうだ。
 国内メーカーが作っていなくても海外メーカーのICを使えば回路は確かに作れる。だが、販売が滞らなくても−ICメーカーの多くはアメリカにあるそうだ−
価格を大きく上げられても必要なら買うしかない。その分コストがかさむし予定したものがあれば何かを削らなければならなくなる。それで品質向上や独自性、
特に最近頓に叫ばれるようになっている「ものづくり」が出来るだろうか。
 他にも和佐田さんが触れたように特許や秘匿の問題がある。外注だとその過程は必ず委託先が知ることになる。守秘契約は勿論あるだろうが、それが順守
される保証はない。委託先が複数のメーカーと取引があって別のメーカーに横流しされたり、別のメーカーが何らかの形で知って盗用する可能性がある。
自社製作でも内部の人間が無断で持ち出したりする可能性はある。だが、その場合の犯人特定は内部に絞れる。委託だらけだとあらゆる可能性を探ら
なければならなくなる。そこに不要なコストがかかったり、製品開発が潰れたりするのは「ものづくり」を標榜するにはあまりにも無様だ。
 CADルームの次は試作ルーム。此処もさほど離れていない。少なくとも階の移動はない。平面の移動で打ち合わせから設計・試作まで行えるのは、毎日
過ごしていると便利だろう。大学でも実験のたびに階を上下したり建物を移動したりするのは何かと面倒そうだ。

「此処が試作ルームです。設計した回路の試作や基本的な動作試験は此処で行います。」

 試作ルームも広大で綺麗な空間に広大で重厚な造りのデスクが向かい合わせで並んでいる。今までと違うのはパーティションで区切られていないことと
書棚が少ないこと、その分測定器などが詰まった棚が壁に沿ってズラリと並んでいることだ。PCでの作業から自分の手を動かす作業へと移る段階だと分かる。

「デスクは機器開発2課以外の職員の方も使うんですか?」
「いえ、CADルームもそうですが、この部屋は機器開発2課専用です。他の課はそれぞれ設計開発ルームを持っていますから。」
「そうですか。此処も随分広いですね。」
「狭いところで作業すると思わぬ事故が起きる危険性がありますからね。製作中の回路が壊れたら目も当てられません。」
「デスクの割り当ては数人で1台というものですか?」
「今のところ1台あたり2、3人ですね。全員が一斉に回路製作に取り組むことはないですし。でも来年度は相当数増やしますから密度は減りますね。」
「回路製作に関しても講習会や研修を実施されるんですか?」
「はい。新採用者対象の研修内容には勿論回路製作も含まれています。設計から製作まで一連の過程をこなせるようにして、そこから各自の得意分野や
作業内容に応じて分担するというのが、うちの開発スタイルですから。」

 やはりこの企業は相当自社での技術者養成に注力している。企業は何かと即戦力を求めがちだ。即戦力と言うが、大学の限られた時間で現在の技術
水準に達するのは無理というもの。その技術水準も今後の方向性によっては知識レベルに留まるものも当然出て来る。それに、企業に応じた技術水準を
求める即戦力が欲しいなら、中学高校辺りから自前で養成した方が良い。かつては企業で技能工を養成する機関を持っていたから即戦力の要望もまだ
分かるが、企業によって求める方向も進む方向も異なるのに即戦力に固執するのは、大学や専門学校を自分の社員候補養成機関と勘違いしているように
思えてならない。だったら大学に研究費や人件費を投じているかと言えば、委託研究が関の山だ。

「回路製作では表面実装部品のはんだ付けをするんですか?」
「最近の部品は表面実装部品が多いですからね。手ではんだ付け出来ないタイプのIC以外は自分達ではんだ付けをします。」
「社内の技能検定などの指標で担当できる範囲が異なってくる形式なんですか?」
「基本はそうですね。試作段階ではある程度試行錯誤に伴うコストを見込んでいますが、限度がありますし、製作の進捗を無駄に遅くするわけにもいかない
ですから、難しいものは上手い人に任せます。そのための指標として製作技能検定が社内で行われています。」
「技能検定は先ほど見せていただいたCAD関係にもあるんですか?」
「はい。基板CADと回路図CADを総合して設計技能検定があります。」

 やっぱり職能に応じて出来る仕事、任される仕事の範囲が変わってくるか。当然と言えば当然だが、ある勤続年数に応じた段階の技能検定を合格して
いないと、この仕事には不適格とされて別の部署に異動させられる可能性がある。修練が必要だな。

「技能検定の実施頻度はどのくらいですか?」
「設計技能検定、製作技能検定はそれぞれ年1回、7月と11月にあります。新採用者対象の研修はそれとは別にありますから、入社時に未経験でも問題は
ありません。」

 年1回の検定だから重要な機会だな。基板を含めた回路の設計はほぼ未経験、回路の製作もようやく手をつけ始めたところ。ほぼゼロからのスタートと
言える。卒研でも出来ることは多いから、積極的に取り組んでおくべきだな。
 試作ルームを出て分析計測ルームに案内される。やはり此処もさほど離れていないし、階の移動はない。平面の移動で打ち合わせや構想、設計から試作、
分析まで一連の作業がこなせるのは便利だ。分析計測ルームは格段に広い。大小の機械や測定機、それにPCが並んでいる。いかにも「此処では重要な
ことをしています」といった、SF映画あたりに出て来そうな雰囲気だ。それでも雑然としたイメージはなく、整然としているのは凄い。

「此処が分析計測ルームです。これまでの流れで開発した機器の特性や性能評価を行います。此処での評価を経て初めて完成、となります。」
「御社は色々な分析計測機器を製造されていますが、それらの性能評価は此処に集中しているんですか?」
「そうですね。此処に入らない大型機器は別のルームで行いますが、大抵の製造機器や組み込みモジュールなどの評価は此処で集中的に行います。」
「分析や計測を行うのは、専門の職員の方なんですか?」
「ものによりますね。組み込みモジュールや基礎回路、比較的小型の機器、つまり2課が担当する回路や機器は担当者若しくは担当グループの職員が
行います。他の課と連携するような大型機器や特殊機器、新規開発の機器などは、発案した職員が実地試験を兼ねて分析計測をしますね。」
「構想から設計、製作、回路の評価まで一貫して担当する場合が多いようですね。」
「多いですよ。先ほどの話と重複しますが、一連の過程を経験することで機器開発、ひいてはプロジェクト全体の見通しが良くなるという考え方ですから、作る
だけ作って評価は丸投げではなく、どういう性能が出ているか、所定の性能は出せるかをきちんと計測してその結果をまとめることも重要なんです。」
「今私が取り組んでいる卒業研究と重なる部分が多いように感じます。」
「卒業研究や修士論文あたりで重要なことは、研究テーマの進捗より仕事の進捗を管理して進め、その結果を集約・分析して報告するという流れを体得する
ことです。その基礎段階である学生実験と併せて、それらをきちんと実行出来る学生さんが理想ですね。」
「なるほど。確かに卒業研究や学生実験をきちんと出来ていないと、このような仕事は出来ないと思います。」
「そうです。その点でも、安藤君は問題ないと思いますよ。増井先生と研究室の久野尾先生から太鼓判を押されています。」

 久野尾先生も絡んでいるのか。増井先生から今回の訪問の話を聞いて俺に流して、俺の回答を増井先生に流したのも久野尾先生だ。関係する企業の訪問
じゃないし非公式だから、あくまで増井先生からの話の中継点になっただけと思っていたんだが、それだけじゃなかったんだな。

「うちが手掛ける機器の分野に構想段階から本格的に関与するなら、やはり理学、特に物理化学の修士や博士のレベルが必要になります。機器開発に
ついては発案した職員が構想する機器をいかに理想に近い形で実現するかが問題ですから、そこで必要になるのはやはり電気電子分野のしっかりした基礎
知識です。回路の設計や製作も、基礎がきちんと出来ていれば経験次第で出来るようになっていきます。」
「卒業研究や学生実験がきちんと出来ることが理想と仰ったのも、関連していますね。」
「そのとおりです。学生実験は講義の内容や知識を実際に実験という形で学んで、テキストにはないイレギュラーな要素も含めて特性を把握したり、目的の
プログラムを組んだりすることが目的です。研究室に属して所定のテーマで取り組む卒業研究や修士課程あたりも、そういったプロセスを踏まえて仕事をする
ことを習得することが重要なんです。」

 何かと苦労が多かった−殆どは人手で解決出来そうなものだったが−学生実験は、テキストにかなり細かく準備や進め方が列挙されていた。口頭試験や
レポートも別途関連講義のテキストや図書館で調べる必要があるものもあったが、多くはテキストの流れを踏まえていれば十分対応出来るものだった。
卒研では学生実験のように段取りをきめ細かく記したテキストはない。疑問が生じたりまとめで必要な知識や技術が出てきたら、自分で調べて自分で答えや
解決方法を探し出す必要がある。仕事となればそれが普通になる。学生実験や卒業研究に取り組む姿勢を見れば、その学生が社会の第一線で活躍
出来るかどうか、ドロップアウトするかどうかか大体分かる、と学生実験担当の教官が言っていたのは、そういう背景があるからだろう。

「増井先生と久野尾先生からは、安藤君は学生実験でも非常に熱心で、担当したどの先生も非の打ちどころがない、試験の成績だけが優秀な学生では
ないと絶賛している、と伺っています。そういう学生さんは貴重なんですよ。」
「手際良く進められなくて、試行錯誤を繰り返したところが多いんです。」
「仕事、特にうちのような設計開発の分野ではそれが普通ですよ。ですからその分、そういった試行錯誤や実験・評価にきちんと取り組む姿勢が出来て
いるか、そういったことにどうしても必要な基礎知識がきちんと備わっているかが重要なんです。」

 和佐田さんの言っていることは無理難題には思えない。せいぜい4年か6年、一般教養の部分を除けば2年か4年で技術の最先端に達するのは無理だ。
ましてや特定の企業の分野に特化したものを備えるのは不可能に等しい。それよりどんな技術や科学分野の知識の基礎になる大学レベルの講義で得られる
知識がきちんと固まっているか、今後もそれを増強する姿勢があるかが重要だ。
今までの定期試験対策で過去問を使うことは勿論あったが、テキストや演習問題の繰り返しで試験対策をしたことの方が多い。それは一般的には馬鹿正直か
要領が悪いと映るものだっただろう。だが、今は別の候補として進めている院試の準備で、初見の問題でもそれほど苦労せずに解けることが出来るのは、馬鹿
正直な繰り返しで覚えた知識や解法は無駄じゃなかったと思う。
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