雨上がりの午後

Chapter 281 2人の居場所を守るために

written by Moonstone

 帰宅して夕飯。俺の好物である鳥の空揚げを中心とする料理には量も質も大満足。俺が後片付けをしてその間晶子が紅茶を入れて、2人で寛ぐ。BGMに
「Angel's Love」が薄く流れる中、ミントの香りを鼻に通して口で少しずつ味わう。紅茶を喉に通すたびに安堵の溜息が洩れる。
 今はこれまでの蓄積を取り込み、演習問題として用意されたサンプルを改変してVHDLの学習をしているだけだから、本来なら正直な話緊張感は少ない。
だが、フラグシップの指名を受けて単位の取得状況にかなりの余裕がある状況で、他の人と進捗に違いがないのはどうもみっともない気がする。一方で、
6月の中間発表までにどれだけ進めるのか不安が付きまとう。余裕がある現状を反映した進捗にしたいというのは大川さんとの打ち合わせで触発されたのも
あるが、先々代のフラグシップでもある大川さんの指導でも何処まで進めるのか不透明なのは変わらない。
 学生実験の時より理解は間違いなく早いし深まっている。だが、どういう回路を作れるかと問われると答えられる自信はない。まだまだサンプルを読み解いて
一部を改変しているに過ぎない段階。サンプルに相当するものを1から作れと言われれば難しい。そんな状態から6月の中間発表までに、実際のシステムにも
使える信号処理回路を作れるのか疑問だ。大川さんが設計してくれると言うが、自分でソースリストを読めないと発表がまともに進まなくて質問や指摘の嵐に
なるのは学生実験から予想出来る。
 その途中、気分転換を兼ねて院試レベルの専門教科の勉強を進めている。これも実際の筆記試験でどのくらい通用するのか不透明だ。院試の過去問に
関しては勉強を進めている分野−電気回路論TとU、電子回路論T相当はおおむね解けるようになったが、電磁気学相当が量が多くてまだまだ十分
解けない。先のことを考えるとこっちも呑気に構えて居られない。
 単位の取得数では余裕があるが、卒研や院試レベルの知識の整備はとても余裕があるとは言えない。そんな状況から解放されるこの空間でこうして茶を
飲んで寛ぐと、安堵の溜息が腹の底から押し出されてきてしまう。出しても出しても尽きる気配がない。

「祐司さん。」
「ん?」
「そっちに行って…良いですか?」
「…おいで。」
「はい。」

 こんなやり取り、旅行中にもあったな。向かい側に座っていた晶子は、カップを持って席を立ち、俺の横…ではなく俺の前に座る。俺に背中を預ける形で。
拒む理由もない俺は、晶子のウエストに左腕を軽く回す。

「こうするのが一番安心出来ます…。」  晶子は俺に凭れて来る。対する俺も晶子を抱くことで前方向に軽く凭れかかっているから、後ろめりに倒れないようにと腹筋に力を込める必要はない。

「家だと堂々と祐司さんに甘えられるんですよね。」
「大学でも出来るならそうしたいんじゃないか?俺は研究室だと色んな意味で居づらくてたまらないだろうが。」
「私は、今そうすると確実に以後ゼミに行けなくなりますね…。」
「…居辛いのか、やっぱり。」

 晶子の言葉から察した予感に基づく問いかけに、晶子は無言で頷く。
晶子への風当たりは日増しに強まっているようだ。確実ではないが存在することは確かなセーフティネットを有している晶子は、どれだけ就職活動をしても
理不尽な門前払いを食らっても、やっかみの対象になることを強いられている。就職活動で行動を共にしているかどうかは聞いていないが、この近辺だと
小宮栄で複数の合同説明会が開催される可能性は低いから、顔を合わせるか姿を見るかはしていても不思議じゃない。だが、晶子の行動と全く改善の
兆しが見えない状況も、他の面々から見れば余裕があり、完全に駄目でもセーフティネットがあるから問題ないと映るんだろう。此処まで来ると解釈や認識の
違いだし、俺が言ったところで改めるどころか余計に事態を悪化させるだけだろう。

「…直接の嫌がらせとかはないんですけど、旦那が居るから就職活動全滅でも安心ね、とか、旦那にくっついて居れば良いんだから就職活動自体しなくて
良いんじゃないの、とか言われるんです。少なくとも働けるうちは私も働いて将来に備えてお金を溜めておきたい、って言ってはいるんですけど…。」
「…ゼミの面々の状況は知ってるか?」
「4年全体で10人の少人数ですから、情報は簡単に入ってきます。今のところ…全員全滅です。それが余計にゼミの子達の神経を尖らせてるんだと…。」

 文学部の就職状況がかなり悪いとは昨日の花見でも聞いたが、10人居て全滅とはな…。まだ時期が早いから全滅と結論付けるのは早いが、晶子と同様
状況が改善される見込みもないと、このまま全滅で終わると悲観的に結論付けやすい。
 だが、それで晶子に嫌みを言って良いわけじゃないのは当然だ。晶子も同じように、否、それ以上に懸命に就職活動に取り組んでいる。何れ産む子どもの
ために、俺におんぶに抱っこにならないように、自分の夢や将来に向かって。だが、それが理解される状況にはないし、こちらも改善の見通しはない。晶子は
四面楚歌の状態でゼミに居るんだろう。田畑助教授とトラブった時と似てるな…。

「何となく思うんだが…、晶子がやっかみの対象になってるのは、文学部よりは就職が有利な工学部の俺を夫にしているってことが最大の要因なんだよな?」
「はい。」
「だったら、ゼミの面々も晶子と同じように将来が確実な男を確保すれば良いんじゃないか?」

 晶子が驚いた様子で俺を見る。まったく考えもしなかったようだが、晶子の話を聞いたりその話から状況を考えたりしているうちに、どうして晶子の状況を
羨み妬むばかりで晶子と同じようにならないのかと疑問に思えてきただけだ。

「工学部は学科によって多少違うが全体的には圧倒的に男の方が多いんだし、確認はしてないが彼女持ちは少数みたいだ。そんな中に突っ込んでいけば
それこそ選り取り見取りみたいなもんだと思うがな。なのにそれをしないのはどうしてだ?」
「分からないです。」
「俺も分からないから推測だが、選り取り見取りになれることが分かっていても、自分の理想と違うからそうしないんだろう。理由は色々あるだろうけど。」

 この辺の推測は割と容易だ。俺と晶子が実質夫婦で、主宰の教授が学内の委員会で知り合いという研究室とゼミの間でもかなり距離が近いことを利用
すれば、研究室の面々だけでなくそこからの繋がりで別の研究室から見繕うことも可能だ。就職活動でそれどころじゃないというのは半分は本当で半分は嘘。
自分の理想と違うから。この一言に集約されるから晶子と同じようになろうとしない。
 イケメンじゃない。金持ちじゃない。趣味が所謂オタクに染まっていて流行やセンスに疎い。そして極めつけは、ドラマのように「自分に言い寄る幾多の男の
中から最高の男に選ばれる」結末が見えない。これらが行動を起こさない理由の詳細だ。このくらいは言われなくても十分想像出来る。工学部に居て女性の
欲求や理想を満たすような男は、さっさと自分から学部学科以外に彼女を探しに行くか、早く行動を起こした女に確保されている。現に付き合っているという
話も偶に聞く。俺はその手の欲求や理想を満たせないしそのつもりもないが、約2年半も前に晶子からの行動を皮切りに次第に外堀を埋められ、2年ほど前に
ペアリングが今の結婚指輪になったことでほぼ確保された。
 晶子クラスの女なら男に困ることはない。実際、晶子は左手薬指に今の指輪を填めるまでひっきりなしに言い寄られたそうだ。だが、晶子は「言い寄る男の
中から吟味して〜」と呑気に受け身に徹するのではなく、自らアプローチを続けて周囲を固めて俺を確保して、早々に他の選択肢を断った。
 つい最近まで、晶子のゼミなどでの俺の評価はかなり低かった。晶子もそれが不満でならなかったようだった。だが、状況が変わるにつれて晶子の立場は
羨望に変わり、今ではやっかみへと変わっている。晶子も田中さんの件があったのもあって、俺の評価を上げようとするのを止めた。そういった防衛行動も
かなり的確と言える。

「晶子のゼミの面々はセーフティネットを持ってる晶子を羨んだりやっかんだりしてるが、実は腹の中でこう思ってるんじゃないか?自分ならもっと良い男を
捕まえられる、って。俺と晶子の繋がりを利用して手近な工学部に切り込んでも行かないのは、自分の欲求や理想を満たしてくれそうにないし、それよりもっと
良い男が自分を選んでくれると思ってるからなんじゃないか?」
「それは私も感じます。」
「結局受け身体質が骨身に染み込んでるんだ。羨んだりやっかんだりはするが、自分はそうなろうとしない。あくまで男の側からドラマが始まるのを待っていて、
その男も理想と違えば拒否する気満々。晶子ですら自分から行動を起こして俺を確保したのに、受け身に徹して待つばかり。それで晶子のようにセーフティ
ネットが用意されると思う方が、俺からすれば甘い。」
「女同士だとまず出ない、女の心理傾向の核心を突いた指摘ですね…。かなり耳が痛いです…。」

 晶子は少し苦笑いする。女性の行動傾向で顕著なのは同調圧力とお姫様願望だ。グループに属さない、グループに属していてもリーダー格が気に
入らないと排撃する。何時か白馬に乗った王子が、と受け身の姿勢で自分に誰もが羨む幸福−ほぼ金銭的・物質的な幸福で占められる−を齎す男性を
待つ。それらが女性しか居ない晶子のゼミで顕著に出ていると思う。
 同調圧力とお姫様願望は相反する面もあるが、奇妙な同期を呈する。それぞれ他人のお姫様願望を冷めた目で見るか小馬鹿にするが表には出さない。
お姫様願望を抱くのは共通項として、同調圧力の要因にしているからだ。晶子はお姫様願望が少ない。ないとは言えないが、旅行中から釘を刺したり本人も
自戒しているから極限まで抑えられている。そうでなかったら、金銭的にも物質的にも満たされているとは言えない俺との生活を深めるようなことは出来ない。
同調圧力からは本人が好まないことから避け続けている。だが、やはり他人のお姫様願望を批判するのは憚られるだろう。思うだけならそれこそ内心の
自由の範疇だし。
 問題は、お姫様願望が満たされないとその鬱憤を男性に向けることだ。曰く「最近の男はだらしない」「(魅力的な)自分に臆して男が声をかけてこない」など。
だが、自分の気に入らない男性からの誘いは最初から度外視し、場合によってはセクハラだ何だと喚いて男性を排撃するどころか抹殺するようなことをして
おいて、そのリスクを避けるために男性が最初から声をかけなくなっている現実を認識しているんだろうか。
 絵に描いたような、若しくはドラマのような理想的な男性でないと自分に近寄るのは許せないし、他人が自分の理想と違う男性と一緒になっているのを
見聞きすると嘲笑さえする。一方で、自分の態度や発言を戒められると、女心などを持ち出してヒステリックにわめき散らすこともある。女だから批判や攻撃を
受けることはないと見くびっているからだろう。だから、そのような事態になると簡単にパニックを起こす。

「気にするなとは言えない。ゼミの構成からして言える状況じゃないことくらいは想像出来るからな。だから、聞き流すことに徹するのが良い。どうしても我慢
出来ないなら言ってやるのも良い。」
「はい…。」
「少し無責任に聞こえるかもしれないが…、それで居辛くなっても1年程度の我慢だ。此処には晶子の居場所がある。ゼミの面々に合わせた就職活動を打ち
切って自分の考えとペースに基づくものに切り替えるのも良い。独りだと思わないようにな。」
「はい…。」

 晶子は俺の肩口に頬ずりをする。その顔に安心しきった笑みが浮かんでいる。基本的に敵らしい敵が居ない俺と違って、晶子の立場は日増しに難しく
なっている。芯は強い方の晶子でも、孤立無援で閉鎖空間の中で過ごすのはかなりきつい筈だ。此処を安らぎの場にするのは、俺の役割だろう。
 公務員試験もそれほど期日に余裕があるわけじゃない。俺は専門教科に限っては院試レベルの問題に対応出来るように準備を整えているが、かなりの
頻度で終日就職活動に出向いている晶子は、十分な準備が出来るとは限らない。いくら晶子でも、準備もなしに倍率の高いであろう試験に臨むのはやはり
厳しいだろう。悪循環の1つとも言えるが、それくらい晶子の状況は逼迫している。晶子が「就職出来なかったら永久就職すれば良い」と安穏と考えていない分
−その考え方はむしろゼミの面々の方が強そうだ−、心理的な圧迫感は強いだろう。荒波と大渦に翻弄されて疲れて帰宅すればほっと一息つける環境が
あるのは、どれだけありがたいことか。
 今まで晶子は俺にそんな環境を提供し続けてくれている。実験で夜遅くなっても、レポートや定期試験の準備で息が詰まっても、晶子が作る料理を食べて
紅茶を飲みつつ菓子を齧れば安らぎに浸って気力が戻る。そのおかげで俺は良好な成績を取れて、院試も視野に入れた筆記試験の準備が出来ている。
今度は…俺の番だ。俺に出来ることと言えば此処を晶子の帰る場所であり続けることと座椅子代わりになることくらいだが、晶子が満足するならそうする
までだ…。
 水曜日の昼休み。生協の食堂から戻って−食べたのは今日も晶子手製の弁当だが−PCのロックを解除したら、新着メールの告知が出ていた。例の高須
科学からだ。
新京大学工学部電子工学科 安藤祐司様

平素はお世話になっております。高須科学機器開発部機器開発2課の和佐田です。
弊社訪問日程のお返事、ありがとうございました。

候補に挙げていただいた日程の中から、以下の日付を選ばせていただきましたので
お知らせいたします。
また、当日のスケジュールについてですが、以下を予定しております。
13:00 弊社概要紹介
13:15 見学     機器開発部機器開発2課オフィスルーム→CADルーム→機器試作ルーム→
    分析計測ルームの順を予定しております。
14:30 質疑応答
15:00 解散

当日お持ちいただくものは特にございません。
ご質問などありましたら、遠慮なくお知らせください。
都合が悪くなりましたら、出来る限り早めにご連絡をお願いします。

以上、よろしくお願いいたします。
 日付は…来週の火曜日か。大きな企業だから半月以上先になるかもと思っていたが−企業訪問は俺以外にも他に居るだろうし−、かなり早く日程を詰めて
きたな。インフォーマルなものだから早めに片付けておきたいのもあるかもしれない。火曜日なら研究室のゼミもないし、元々日程候補として挙げておいた
ものの1つだからOKだ。早速返事をしておこう。ついでに幾つか確認しておくか。
高須科学機器開発部機器開発2課 和佐田様
お世話になっております。新京大学工学部電子工学科 久野尾研究室の安藤祐司です。
貴社ご訪問の日程をお知らせいただき、ありがとうございました。
ご指示いただいた日時にお邪魔いたしますので、よろしくお願いいたします。

併せて、幾つかお尋ねしたいことがあります。
1.私が窺う場所は、貴社小宮栄事業所で間違いないでしょうか?
  また、入構手続きなどありましたらご教授願います。
2.もしよろしければ、当方の卒業研究についてのプレゼンテーションを
  行わせていただきたいと思います。ご検討をお願いいたします。

以上、よろしくお願いいたします。
 送信。1つ目は必要なことだからまだしも−場所を間違えたら目も当てられない−、2つ目は出しゃばりかな…。だが、研究室は情報通信系だし、高須
科学のような分析・計測機器メーカーとは分野のずれがある。ただ単に見学して終わりにするわけじゃないから、練習がてらプレゼンが出来ればして
おきたい。本格的な企業訪問だと1人1人こんなことの相手をする余裕はないだろうし。
 今日は学生居室の人口密度が高い方だ。昨日は電気回路論Uがあったから一時学生居室は俺1人になった。どうやら俺以外全員落としていたようだ。あの
講義も必須の難関の1つだから分からなくもないが、これだけ多く落としていると大丈夫かと少し思ってしまう。

「祐司ー。電磁気学Tの単位取ってるよな?」
「…何だ?」

 パーティションの上から智一の声がすると、その先がだいたい読めるのは全く嬉しくない。

「これ、1つの電荷が発生する磁場の計算なんだが、どうにも分からなくてさ…。」
「これはだな…。」

 智一が一応申し訳なさそうに持ってきたテキストを使って説明しながら、智一が差し出したレポート用紙に式をしたためていく。電磁気学は積分が必須。
更に「無限」の概念が必要だ。電磁気学の演習問題を見ていると、「無限長の…」とか「無限小の…」といった表現が頻繁に出て来る。

「−というわけだ。」
「おー、なるほどなるほど。」
「電荷が作る磁場と電流が作る磁場はよく問題に出るから、電荷や電流が1つのやつで解き方を理解しておくと良い。複数あってもその応用だからな。」
「電磁気の講義は理解し難いんだよなー。」

 電磁気学はTとUがあってTが前期、Uが後期にある。担当教官はTが増井先生でUが増井研の准教授の塩谷先生だが、Tは合格率が低くてUは
かなり高い。講義の癖は確かにTの方が強い。テキストはあるがひたすら理論が並ぶばかりで理解し難い。俺自身定期試験は過去問を解くために今も使って
いる演習問題で練習したから合格出来たようなもんだ。

「電磁気学Tもアウトか?」
「そうなんだよ…。必須だけで3つあるのは痛いぜ。」
「演習問題をやってみると良い。解き方も丁寧に書いてあるし、過去問は此処から出てるものもかなり多い。」
「そうか…。でも、それって結構高くないか?」
「レポートをこなしたり試験を確実に突破するためには、4000円くらい安いもんだと思うが。」
「うー…。そうすっかな…。」

 背に腹は代えられないと思ったか、智一は俺が差し出した演習問題集のタイトルと編著者と出版社、そしてISBNコードをメモする。生協で注文するにはこの
4つのうちタイトルと編著者と出版社が必要だ。ISBNコードがあると在庫確認や発注手続きが早まる。数字やアルファベットで管理出来れば、データベースから
検索や抽出するのが楽だからな。

「おっし、これで電磁気学Tは完璧だな。」
「それをこなせば、俺のところに来る必要もなくなるだろうな。」
「演習問題を解くのと、教えてもらうのは別ってもんで。」

 都合のいい話を…。俺は思わず溜息を吐く。昼休みだけじゃなくて、学生居室に居る間にちょくちょく来られる側の身にもなって欲しい。自分の理解度の
チェックにはなるが、休憩や卒研進捗の邪魔になるのは間違いない。
 そういえば、今回の非公式企業訪問は増井先生から来たんだったな。久野尾研は物性の測定や分析がないから高須科学の製品はないが、増井研には
複数あるだろう。増井先生も高須科学についてもっと詳しく知っていそうな気がする。現場の人には聞き辛いか聞いても答え難い情報もあるかもしれない。
直接聞いてみるか。

「智一。電磁気学Tの講義って何時だ?」
「明日の2コマ目。3年の時と同じだ。」
 となれば、今日行っても大丈夫だな。卒研の方は大川さんが信号処理回路を設計中だから当面自主学習で良いし、早めに済ませておいた方が良いな。
そうとなれば、昼休みが終わってから早速行ってみるか。

 学生居室を出て3階の増井研に向かう。この階に来るとエンジンのアイドリングのような機械音が微かに聞こえて来ることが多い。物性関係の測定と密接な
関係がある真空を構成するために複数のポンプを動かしているからだろう。
 増井先生の居室は、増井研のエリアの中央付近にある。南隣に准教授の塩谷先生、更に南隣りに助教2人と博士研究員の居室がある。増井研は学科
有数の大規模研究室だから、助教が2人居るし博士研究員も複数居る。何せ手がかかる上に時間もかかる実験が多いから、人手がないと出来ない。
 人通りのない廊下を進んで、増井先生の居室の前に到着。行先表示は「在室」になっているのとすりガラスの向こう側から明かりが見えるのを確認して、
ドアをノックする。応答が返って来てからドアを開ける。

「失礼します。」
「おや、安藤君か。とりあえず座りなさい。」

 予想しない相手の訪問なせいか最初こそ少々驚いた様子だったが、流石に何時までも動揺することはない。俺は案内された中央のソファに座る。

「突然ですみません。増井先生に伺いたいことがあって。」
「何かね?」
「先生から先週、久野尾先生を介して紹介していただいた高須科学についてです。正直、今まで名前も知らなかった企業ですし、研究室でも接点がない
ですし、増井先生は研究で高須科学の装置をよく使われているそうですから、色々詳しいかと思って。」
「ああ、そのことか。私も十分な企業の説明なしに久野尾先生に話を回してしまったからね。その点は申し訳なかった。」

 向かいに座った増井先生は一呼吸置いて話を続ける。

「研究関連で装置を多く使っていたり、関連で委託研究(註:企業などから大学に対して研究費を拠出する代わりに特定のテーマについて行う研究)をしている
ことを差し引いても、かなりの優良企業なんだよ。工学では私や澤田先生のように物性の研究をする研究でないとなかなか縁はないが、理学では有名企業の
1つだよ。」
「この学科から過去に高須科学へ就職した人は居ますか?」
「以前−と言っても10年ほど前になると思うが、私の研究室から出ている。それ以来まったくないんだ。誘いは来てたんだが学生は学科関連の有名企業を
志向するから、志望者がなくてね…。」
「そうですか。」

 知る人ぞ知る企業で間違いないようだ。確かに工学は実践的、応用分野が主だ。物性研究は一大分野ではあるが、それが主目的というより新しい特性を
持つ物質をどうやって産業や製品の材料に転用するかが主だ。そういった分野でないと縁がなくなるのは無理もない。

「久野尾先生から聞いているかもしれないが、今回は社内で使用する電子機器開発部門の増強に伴うものなんだ。高須科学は色々な測定器や電源
(註:直流電源でもディジタル回路で多く使用される1.8V、3.3V、5Vやアナログ電子回路で使用される12V、15V、モーターや大型制御機器に使用される24V
など様々ある)を作っているが、その特性評価をしたりする機器−たとえばデータロガー(註:長時間の測定に使用するデータ取得装置)や発振器、各種電源を
製作したり、機器内部に直接組み込む回路を作ったりする部門で、かなり幅広い開発部門なんだ。社内の下請けでは決してない。」
「…。」
「そういった事情で優秀な電気電子工学の学生が欲しいんだが、学生は有名な電機メーカーを志望する傾向が年々強まっているのもあってなかなか人が
採れない。かと言って妥協はしたくない。そこで向こうから今年の就職担当の私に話が来て、就職希望で優秀な学生ということで久野尾先生を介して
安藤君に話を回したんだ。」
「先生としては、懸念するような性質の企業ではないということですね。」
「それは勿論だよ。妙な企業に学生を出すわけにはいかないし、そんな企業の委託研究は受けない。学科の沽券にかかわるからね。むしろ研究開発には
手厚いし福利厚生も指折りの充実具合だから、うちの学生にも勧めたい優良企業だよ。いかんせん工学部での知名度の低さと研究室や研究テーマとの
関連性の薄さで敬遠されやすいんだがね…。」
「測定器などの電子機器開発となると、私の今の研究テーマと関連性が薄いようですが、その点は高須科学側はどう受け止めているんでしょうか?」
「それはまったく問わない。むしろどれだけ学生時代にしっかり勉強していて、仕事に真摯に取り組める学生かどうかが重要と言っている。これは高須科学に
限ったことじゃない。どんな研究をしたか、どれだけ研究を進めたかは学部や修士のレベルではそれほど重要じゃない。そういったことを進められる素養を
きちんと身につけているかどうかの目安くらいのものだよ。」
「なるほど…。」

 話の出所である増井先生も太鼓判を押すような企業なら、間違いはないだろう。むしろかなりの掘り出し物と言える案件のようだ。知名度と研究テーマとの
関連度合いで敬遠されるのがもったいないが、その枠が回ってきたのは素直に幸運と受け止めるべきだろう。

「久野尾先生から安藤君が今回の話を受けたと聞いて、とても安心しているんだ。」

 増井先生は一呼吸置いた後に言う。

「知っているかもしれないが、安藤君の成績は今年の学部4年で3位だからね。それだけの成績の学生なら迷うことなく話を振れる。無論、この話で決定する
義務はないから、安心して向こうと話を詰めてくれれば良い。」
「はい。ありがとうございます。」
「それにしても、優秀な学生は良い口の就職話が来たりして、さっさと就職を決めて卒業してしまうもんだよ。そういう学生ほど大学側としては院に進学して
欲しいんだが、なかなかうまくいかないね。」

 増井先生は苦笑いする。院進学への興味はなくなってはいないが、基本就職で進めるのは変わりない。だが、優秀と言われて悪い気はしない。特に3年で
苦労しただけに、じっくりゆっくり卒研や院試レベルの勉強に専念出来るし、馬鹿正直に取り組むのも悪いことばかりじゃないな…。
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