雨上がりの午後

Chapter 278 春の研究室イベントの表裏

written by Moonstone

 水曜日の研究室の会議室は結構賑やかだ。この曜日は研究室の定員が一時的に倍近くに膨れ上がる。今日から始まる研究室のゼミでは、見慣れない
面々が俺の向かい側を中心に陣取っている。1年前、俺はあちらの側だった。今は研究室の一員としてゼミを主導していく立場にある。しかも、最初の
ナビゲーターは俺だったりする。学部4年の出席番号が若い順だから、姓が「あ」から始まる俺はこの手の順番で先頭やそれに近い役割になりやすい。
 テキストは去年使ったものと同じで、「Theories of signal sampling and Fourie transfer」。「信号サンプリングとフーリエ変換の定理」と訳せば良いだろうこの
テキストとノートには、俺の去年の苦闘が無数に刻み込まれている。テキストの和訳は勿論、公式の導出、用語の意味、予想される質問とその答えが所狭しと
書かれている。
 院生はオブザーバーだから出られる人だけが来る。今のところ大川さんと小山さんしか来ていない。野志先生はほぼ毎回、久野尾先生も2,3回に1回
くらいの間隔で来る。以前、先生達が来るのは監督だけではなく、仮配属中の学生の態度や応答の具合を観察して学年担任−普段は殆ど意識しないが
各学年に1人ずつ割り当てられている−に報告するためでもあると聞いた。まったく油断ならないもんだ。
 学部4年も揃ってきた。次のナビゲーターである智一も来ている。野志先生には先んじて、定刻になったら始めるように言われている。学部3年は研究室に
仮配属されるにあたって、所属研究室の教官から進め方について事前に説明を受けている。だから挨拶や紹介なしで唐突に始めて良いことになっている。
これも去年とまったく同じだ。

「それでは時間になりましたので、久野尾研のゼミを開催します。」

 手元に置いておいた携帯の時計で定刻になったのを確認して、ゼミの開催を宣言する。マイクは使わないから意識的に少し声量を増やし、ゆっくり喋る。
俺の声は、緊張すると早口になって聞き取りにくくなるらしい。この辺は自分では分からないんだよな。

「では、上田さん。1-1をお願いします。」
「は、はい。」

 ややうろたえた様子で3年の1人が応える。指名されることは分かっていた筈なんだが、最初だから緊張してるんだろう。静まり返った会議室に、テキストの
和訳の朗読が流れる。俺は黒と赤が入り乱れる自分のノートの記載内容と照合していく。のんびり聞いているわけにはいかない。

「−ありがとうございました。」

 1-1の和訳の朗読が終了した。少々妙な言い回しの部分はあったが、概ねきちんと出来ていたな。次は俺の訂正や解説の番だ。

「8行目の和訳は、『増大する信号処理に対して、生の信号をそのまま記録することで解決するのは得策ではない。』とすると意味が通るでしょう。そうすると、
次の訳、『信号処理に必要な分だけサンプリングすれば、処理を速めてメモリを少なく出来る。』にスムーズに繋がります。」
「あ、はい。そうですね。In order toの文節の訳仕方がよく分からなくて・・・。」
「構文どおりに和訳を当てはめていくと、日本語にした時に意味が分かりづらくなることがありますから、その点は注意です。・・・では質問します。」

 俺は事前に挙げておいた質問候補の中から、2つを採用して質問する。文中に登場したフーリエ変換とフーリエ級数の違いは何か。離散サンプリングした
信号と信号処理を行う電子回路の仲立ちをする集積回路には何があるか。後者は割と簡単だが、前者は意外と理解が間違っていることがある。

「−以上です。」
「ありがとうございました。順に解説していきます。」

 俺は席を立って、背後のホワイトボードにノートを参照しながら図を描いて、フーリエ変換とフーリエ級数の違いを解説する。フーリエ級数は周期的な信号
波形をsinとcosの級数で近似することで、級数の次数を増やすほど元の波形に近づける。その例を方形波で説明する。次数が少ないとcos波形の出来損ない
みたいだが、次数を高めると急峻な立ち上がりと立下りが特徴的な方形波らしくなってくることが、俺のあまり上手くない図でも描くと分かりやすい。
 フーリエ変換はある信号波形を周波数の分布に変換することで、時間で変化する、つまり時間tの関数である信号波形を周波数で変化する関数−周波数
成分の分布を現すと言った方が分かりやすいか−、つまり周波数fの関数に置き換えることとも言える。これも図を描いて説明する。信号波形の三角関数に
よる近似と周波数分布への変換だから、名前は似ているがすることは根本的に異なることが分かっておく必要がある。
 後者はホワイトボードの残りにブロック図を描いて解説する。離散サンプリングそのものは、アナログからディジタルへの変換を行うADコンバータで行う。
場合によっては前後にフィルタを挿入する。ノイズを除去したり、所定以外の信号を最初からサンプリングしないようにするためだ。信号処理回路自体は
マイコンやCPLDとかFPGAを使う。この回路をどう構築するかは久野尾研で取り組んでいるし、計算機関係の研究室でも取り扱っている。回路を作るかPCで
行うかなどアプローチが違うわけだ。

「−解説は以上です。回答はよく出来ていたと思いますから、その補足ですね。では本文に戻ります。」

 俺は席に戻ってゼミを進行させる。引き続き1-2の和訳を読んでもらい、出てきた公式の導出過程をホワイトボードに書いてもらう。…うん、きちんと
書けてるな。最初だからかしっかり予習してきたようだ。

「はい、正解です。この公式はフーリエ変換でよく使われますから、覚えておいてください。」

 机の携帯の時計を見る。1時間近く経過している。1時間で2節進んだから良い塩梅だ。時間も良いくらいだからこれで終わりにしよう。終了時期を決めるのも
ナビゲーターの権限だ。

「切りが良いので、今日のゼミはここまでとします。次回は1-3からですので予習を忘れないようにしてください。お疲れさまでした。」

 椅子を動かす音や解放感に浸る声で、それまで静まり返っていた会議室が一気に賑やかになる。
主宰する側としてのゼミの第1回は何とか無事に終わったな…。1年前の向こう側でも何時自分の順番以外でも質問が飛んでくるかと冷や冷やしていたけど、
主宰側だと間違いは出来ないから悠長に構えてられない。まだ自分の順番以外ではあまり負担がないからましかもしれない。

「最初からなかなかきつい進行だったな。」

 智一が話しかけて来る。きつかった…か?ゼミを無事に終わらせることだけ考えていたから、自分の口調とか進行の様子とかは普段より分からないん
だよな。

「3年、当番の奴以外も全員顔がこわばってたぞ。何時祐司から質問攻勢が来るんじゃないかってびくびくしてたみたいだ。」
「別に怖がらせるつもりはなかったんだが…、1年前までは俺もそう見えてたんだろうな。」
「いやぁ、実に小気味の良いナビゲーターだったよ。」

 結局院生の2名の出席者だった大川さんと小山さんが話に入って来る。そう言えば、院生の補足は今回なかったな。そこまで気にするほど頭が回る余裕は
なかったが。

「ホワイトボードの解説が良かった。あれは見ていて理解しやすい。方形波での級数の実例が特に分かりやすかった。」
「今年の学部4年のフラグシップの実力ここにあり、ってところだね。良い緊張感だった。」
「ありがとうございます。」
「次は…伊東君か?あれくらいしっかり頼むよ?」
「う、それは厳しい要求っすね…。」

 仮配属の時、つまり今日のゼミの向かい側に居た時は、その日のナビゲーターによって進み具合がかなり違った。ひたすら翻訳内容を読ませてその後質問
攻勢をかける人も居れば、数行読ませるたびに訂正を入れる人も居た。解説でもひたすら口頭で語り続ける人や、今日の俺のようにホワイトボードに書いて
説明する人も居た。
 オブザーバーである院生のスタンスは分からないが、ナビゲーターの解説が足りなかったりつじつまが合わなかった場合に補足するような感じだった。今回
それがなかったということは、翻訳の訂正や質疑応答の解説が及第点だったということだろう。先頭打者としてそれなりの結果は出せたようだ。

「安藤君。ゼミとは別に頼みがあるんだけど。」
「何でしょう?」
「来週の研究室の花見に、文学部の女の子を誘ってきてくれないかな。」

 花見の話は月曜に出て、学部4年は場所取りや買い出しを分担することになっている。俺はバイトがあることを考慮してもらって買い出しをすることになって
いる。花見は日曜にあるから、土曜の買い物の際に併せて買って研究室に運んでおくつもりでいる。
 小山さんから出た話は、全く予想していなかったわけじゃない。何せ俺に同じ大学で女子学生の比率が高い学部に事実上妻の交際相手が居ることは
周知の事実。そのつてを辿って花見を盛り上げたい、上手くいけば合コンを兼ねたものにしたいと考えるのは自然な流れだろう。

「参加費とかはどうしますか?参加条件が分からないと手を上げにくいかもしれないです。」
「参加費は良いよ。直接会場入りしてもらえれば良いってことで。どうかな?」
「今日話をしておきます。参加者が集まるかどうかの確約は出来ませんが…。」
「頼んだよ。」

 大川さんと退室していく小山さんは楽しみな様子だ。さて、請け負ったが良いがこの話がめでたく実現するだろうか。晶子を通じて文学部の事情をある程度
知っている身としては、文学部−厳密には晶子のゼミから参加者が出るとは正直考えにくいんだよな。

「晶子さんのゼミの子達って、何人くらい居るんだ?」
「10人くらいだから、此処の学部4年と同じだな。」
「来て欲しいところだけど、そう簡単に夢は叶わないんだよなぁー。」
「今回の件は、そう思っておいた方が落胆が少なくて良いだろうな。」

 楽観的観測を言うのは簡単だが、現実問題としてそれは無責任であり、大嘘を言うことでもある。でも、最初から不可能と断じるより、可能性が少しでもある
なら賭けてみるのも良いだろう。話をしないことには始まらないのも事実だ。

「お花見のお誘い、ですか…。」

 昼休み。図書館近くの池近くのベンチで昼飯を食べていた晶子は、珍しく困った様子を隠さない。文学部の事情を肌身に感じている当事者の1人だから
当然だろう。俺自身無理な頼みだと思ってはいるが、言わないことには始まらない。それは事前に晶子にも断っている。

「誤解しないで欲しいのは、祐司さんの研究室の皆さんとお花見をすることが嫌だからじゃないんです。」
「就職活動との関係、だろ?」
「はい。」

 就職活動が早くも本格化している文系学部は、大学からの忠告以上の事態に遭遇している。前哨戦となる企業単独あるいは複数での説明会はあっという
間に満員になる。ゼミのPCのみならず携帯を動員しても間に合わないこともしばしばだと言う。
 兎に角倍率が半端なく高い。募集人数が名だたる大企業でも数十人、それ以外だと一桁明示されていれば良い方で「若干名」と曖昧な表現にしている
ところの方が圧倒的に多い。そこに全国から学生が殺到するんだから、倍率は数十倍どころか100倍を超えることも珍しくない。募集人数が全て公募ならまだ
ましな方で、説明会の時点で出身大学によるコネや排除が常態化している企業も多い。有名企業ほどその傾向が顕著なようで、マスコミでは殆ど出身大学、
更に所属ゼミやサークルの学生しか相手にしないという露骨なやり方を取っているところもあると言う。そこに学部による有利不利が若干加わるが、文学部は
不利な部類に入る。「大学で何をしていたんだ」に続いてTOEICで高得点を取っていたり資格を複数有していても「大学が暇だったから取れたんだろう」と
一蹴するという、嫌みとしか思えないやり口もあるそうだ。
 そんな事態の連続だから、当初は多少の楽観視を含めて意気込んでいた面々も一気に意欲を削がれ、意気消沈している人も多い。晶子は俺が居ることも
あって就職が決まらなくても安泰、と他のゼミの学生から嫌みを言われることもあるそうだ。さすがにゼミでは俺が顔を出すのもあってかそんな話は
聞かないが、腹の中ではそう思っていても不思議じゃない。
 その晶子も前の土日にスーツを仕上げて就職活動をしているが、こちらは更に嫌みが露骨だったりする。原因はただ1つ、左手薬指の指輪だ。目聡くそれを
見つけられて−そうでなくても他人からは良く目立つらしい−、「結婚しているんだったら就職しなくても良いだろう」「既婚の女子学生は要らない」と明瞭に
言われるそうだ。晶子も言われっぱなしで黙っているわけじゃない。「結婚していることと就職希望は無関係」「既婚でも新卒見込みなのは同じ」などと反論
する。だが、それが癇に障るのか排除の決定打を見出すのか知らないが、「そんな生意気な女子学生は要らない」と半ば追い出されることもある。
 そんな話を聞いて、俺はひとまず指輪を外してみることを勧めた。だが、晶子は填め続けることを譲らない。「この指輪はプレゼントされてから一度も外した
ことがない」「就職のために自分の立場を偽るようなことはしたくないし、後で判明したら色々理由をつけて切られる(解雇される)」というのが理由だ。前者は
晶子の頑固な面が表れたものだが、後者は可能性として十分考えられるだけに、俺もそれ以上は言えない。
 そんな状態だから、晶子のゼミの人達は花見に繰り出す気分になれないだろう。話を持ちかけた晶子が「呑気なもんだ」と悪い印象を持たれかねない。
研究室やゼミは少人数だけに、人間関係をこじらせると少数派が居づらくなる。1年の我慢と言うのは簡単だが、それが誰でも出来るようなら不登校や自殺が
学校で蔓延することはない。

「参加費は無料で、当日会場−大学近くの蔵(くら)川河川敷に来れば良いってことになってる。話だけはしておいてくれないか?来るかどうかは完全に自由
だから。」
「はい。それとは別に、土曜日に買い出しをするんですよね?」
「ああ。俺の分担は菓子と飲み物。目安の金額は聞いてるし、研究室の人数は全部で20人程度だからそれほど重くならないだろう。」

 花見の開催と買い出しの件は既に晶子に伝えてある。土曜日は主に食材の買い出しに行くのが好例だし、そのついでに花見の必要物資を買うのは
容易だ。買い出しを引き受けたのはそういった背景がある。最近滅多に買わなくなったビールも俺の担当だ。ウーロン茶やジュースといったソフトドリンクは
大抵ペットボトルだが、ビールは缶か瓶しかない。どちらにしても結構な重さになる。これは晶子との買い出しを済ませた後で大学近くの大型量販店で
買って、智一に頼んで運搬してもらうことになっている。こういう時車があると楽でスムーズなんだろうが、そのためだけに車を買うのはあまりにも割に合わない。

「料理はどうするんですか?」
「俺が担当じゃないから確定とは言えないが、菓子とか惣菜とかになるだろうな。」
「何だか寂しいですね…。」
「良いんじゃないか?皆で飲んだり食べたりして騒ぐのが花見なんだし。」

 花見自体、純粋に花を観賞する集まりかと言えばそれが少数派のようなものなのが実態だ。それに、酔いが深まると味覚はかなり曖昧になる。酒を飲む
機会と量が格段に減ったから−晶子が淹れる紅茶を菓子を摘まみながら飲む方が良い−分かることだが、よほど不味いものとか元々食べられないようなもの
でもない限り、酒宴の場で出される食べ物は適当で良い。

「ゼミの子達に話を通すのに併せて、考えておきますね。」
「考えるって…、手間のかかることはしなくて良いぞ。晶子が関係ない研究室の花見なんだから。」
「関係なくはないですよ。祐司さんが所属してるんですから。」

 恐らく晶子は差し入れになるもの、話の流れからして食べ物を用意するつもりなんだろう。だが、朝昼と晶子の世話になっている俺としては、これ以上自分で
負荷を増やすようなことはしないで欲しい。今は大学以外にも就職活動で頻繁に飛び回ってるんだから。とは言うものの、とりあえず指輪を外してみては、
との進言も聞き入れないほど頑固な面もある晶子が、自分の得意分野である料理をすることを俺に言われて止めることは考えにくいし、馴染んでいる晶子の
料理を食べたいとは思う。晶子の様子を見て、身体が辛そうなら止めさせるようにすれば良いか。
 花見当日。何時もとほぼ同じ時間に起きて朝飯を済ませる。花見で使う菓子や飲み物の類は昨日買い込んで研究室に運んでおいてある。ビールも手筈
どおり智一に頼んで運んでもらってある。後は行くだけだ。集合時間は午前11時。半端な時間だが、飲んで食べてするから昼飯を兼ねたものと考えれば丁度
良いかもしれない。

「祐司さん。これを持っていってください。」

 掃除を済ませて行く準備をしていると、晶子が風呂敷に包んだ重箱を持ってくる。

「お酒のつまみになるものを見繕ってみました。皆さんで食べてください。」
「本当に作ったのか…。」
「材料を買うところは、祐司さんも見た筈ですよ?」

 昨日の買い出しで晶子が色々と食材を選んでかごに入れるところは見ている。おかげでかなりの量と重さになったが、帰宅後晶子は早速仕込みを始めた。
月曜からの弁当や朝飯の分の仕込みだろうと思っていたが、俺が起きた頃には台所周辺が大賑わいだったから昨日の仕込みを使って朝早くから作って
いたんだろう。

「悪いな…。味わわせてもらうよ。」
「あと、これも持って行ってください。」

 晶子からもう1つ風呂敷に包まれたものを受け取る。…両手鍋、か?そこそこ重い。大きさの割に詰まっているようだ。

「何だ?これ。」
「カセットコンロの用意はしてもらえるんですよね?」
「ああ。それは昨日確認しておいた。それと関係あるのか?」
「ええ。中身は会場でのお楽しみ、ということで。」

 鍋と晶子に尋ねられて問い合わせたカセットコンロの組み合わせ。一体何だろう?晶子のことだから嫌がらせとかはないだろうが…。

「何だか色々作ってもらったな。」
「料理をするのは得意ですし慣れてますから、量が増えるくらいのことには十分対応出来ますよ。それより、バイトには来られますか?」
「遅くなるようなら店に直接電話するし、晶子にはメールで伝える。」
「分かりました。」

 晶子は合同説明会が入ったから花見には行けない。晶子のゼミの人達も似たり寄ったりのようだから、参加者は期待できない。就職活動が早くも困難を
極めている状況と、晶子以外は面識がないに等しい別学部の研究室の行事に出向くのには抵抗があるだろう。俺とて無理強いするつもりはさらさらない。
 俺は晶子と一緒に家を出る。俺が向かうのは大学近くの河川敷。晶子が向かう合同説明会の会場は小宮栄。方向は正反対だが何時も使っている駅である
胡桃町駅から電車に乗ることには変わりない。俺は少し早いが一緒に行くことに不都合はない。片や私服で風呂敷包みの重箱と鍋をぶら下げ、片やスーツで
キッチリ決めているから見た目はかなりアンバランスだ。

「もし行けるようなら、行きますね。」

 改札を通ったところで晶子が言う。ホームは小宮栄方面の上りと新京市方面の下りとでは異なる。改札を通って少し歩くと上り階段があって、どちらを
上るかで出るホームが違ってくる。

「無理に顔を出さなくて良いぞ。もし来るならメールしてくれ。時間によっては終わってるかもしれないから。」
「はい。楽しんで来てくださいね。」

 晶子は小さく手を振って、小宮栄方面のホームに通じる階段に向かう。今のところどの説明会に出ても1次試験にも繋がっていない。今回は1つでも繋がると
良いんだが…。

 何時もの駅で降りて、途中まで何時もの道を通り、川が見えてきたところで向きを南に変えて川沿いに進む。蔵川の両側に広がる広大な河川敷。川を
見下ろす堤防にピンク色の花弁を湛えた桜が並び、微風に花弁を乗せている。初めてまともに見る−丸3年近くを通っていたのに−桜を両側に並べた
河川敷はかなり広い。しかも考えることは同じで花見客が彼方此方に陣取っている。会場は、と…。駅に近い側とは聞いているが詳しい場所は場所取りの
都合もあって知らない。シートの色で分かると言っていたが、どういうことだろう?

「祐司ー!此処だ、此処!」
 智一の声が昼のノイズに埋もれ気味に聞こえる。あたりを探してみると、智一が手を振っているのが見える。…なるほど、シートの四隅が白く塗られている。
距離があってもこれなら分かりやすい。俺は手を振って気付いたことを知らせてからシートの方へ向かう。

「早いな。」
「俺の場合は家が近いからな。それよりそれは差し入れか?」
「ああ。晶子が作ってくれた。」

 居合わせた智一や他の面々−院生も数名来ている−からどよめきが起こる。俺はまず重箱の方をシート中央に置いて、風呂敷を解いて広げる。唐揚げや
春巻き、厚焼き卵やつくねなど、酒のつまみになる食べ物がぎっしり詰め込まれている。20名近く居ると知っているから、その分多く作っておいてくれたん
だろう。

「おーっ、こりゃ凄い!」
「見るからに旨そうな料理が詰まってるねぇ!」
「これだと、俺が買ってきた惣菜は丸ごと俺の晩御飯に出来そうだな。」
「で、コンロは何に使うんだ?」
「こっちの鍋に使ってくれ、って言われてる。」

 面々の期待をひしひし感じながら、鍋を包んでいた風呂敷を解いて鍋をコンロに乗せる。蓋を開けてみると…おでんだ。こちらもぎっしり詰まっている。

「おでんかぁー!こりゃぁ良い!まだ肌寒いからなぁ!」
「見えるだけでも、ちくわにはんぺん、こんにゃくに大根がひしめいてるぞ!」
「コンロに掛ければあったかおでんがいただけるってわけか。最高だねぇ!」

 2つの意味でなるほどと思う。1つはコンロの手配を頼んだこと。おでんは冷めると旨くない。やはり湯気が立つくらいの温かいものに限る。だが、電車での
移動で熱いものや冷たいものを持ち込むのはかなりのリスクを伴う。万一こぼしたりしたら大迷惑だ。冷えた状態で持ち運びして現地で温めれば、リスクを
少なくして旨いおでんが食べられる。
 もう1つは昨日の買い物の内容。練り物関係のコーナーで色々物色していたし、昆布とかつおを買っていた。昆布とかつおからだしを取ることくらいは
知ってるが、何の料理に使うのかまでは分からなかった。晶子が出鱈目に買い漁るなんてことはありえないが、一見脈絡のない買い物の内容にはきちんと
意味があったと分かる。

「おやおや、何やら今年は料理が豪華ですね。」

 他の院生と野志先生を伴って、久野尾先生が登場。早速中央に広がる豊富で多彩な料理の数々に注目しているようだ。今までの花見の料理がどんなもの
だったかは知らないが、惣菜を並べたものかデリバリーものをかき集めたようなものだったと考えるのが自然だろう。

「これは誰が作ったんですか?」
「安藤君の嫁さんです。」
「おや、そうなんですか。」

 すんなり納得された。「嫁さんが居たのか」と続かないのは存在と関係を知っているからに他ならない。この先、酒が深まるにつれて別の意味で居づらくなり
そうな気がする。
 全員揃ったのを受けて他の惣菜と菓子類が広げられ、それらを中心に全員が円を描くように座る。学年で固まらずに結構ばらける。大学だと高校までの
ような同級生若しくは同期との強い繋がり、悪い言えば馴れ合いは少なくなる。これを良いと取るか悪いと取るかは人によるが、俺は割と気に入っている。
何処からともなく全員に紙コップと紙皿と割り箸が回され、更に俺が智一に運んでもらった缶ビールが配られる。ビールを飲むのは随分久しぶりだ。
プルトップを開けて両隣の人のコップに注ぎ、自分も隣の人−院生の1人−に注いでもらう。乾杯の準備が整った。

「では、乾杯の音頭を久野尾先生、お願いします。」
「はい。」

 進行役を担う大川さんの言葉で、俺の左斜め前久野尾先生に注目が集まる。久野尾先生は軽く全員を見まわして一呼吸置く。

「今年も学部4年を多く迎えて、花見の席を設けることが出来ました。企画や準備に奔走してくれた皆さんに感謝します。」
「「「「「…。」」」」」
「今年は例年になく上等な料理が数多く控えていますし、おでんですか?それも見えます。長々と口上を述べるのは皆さんの心情を害するでしょうから、
早々に乾杯しましょう。それでは、御唱和願います。」

 全員がコップを掲げる。こんなに大勢で乾杯するのは何時以来だろう。それだけでも気分が幾分高揚する。

「研究室と全員の健康と発展を祈念して、乾杯!」
「「「「「乾杯!」」」」」

 唱和してコップのビールを口に運ぶ。久しぶりに味わう酸味と苦みが心地良い。

「それでは、ご歓談ください。」

 大川さんの言葉を合図にして、全員が皿と箸を手に取って中央に広がる料理の山に向かう。かなりの動きがシンクロしているように見えるのは、考えている
ことが似通っていると見て良いだろう。

「おーっ!これは美味いなー!」
「唐揚げ美味ーい!」
「おでんも良いぞー!出汁が効いてて美味い!」

 彼方此方で料理を口にしての感嘆の声が上がる。料理が詰まっていた重箱は大きめだし段数も多いが、20人がかりだと競争率はかなり高くなる。人気
メニューの唐揚げは早速品切れ間近だ。1つ取っておいて良かった。
 晶子の料理が他人に振る舞われる機会は限られている。潤子さんと分担する店の料理を除けば基本的にない。その意味では晶子の力量を図る貴重な
機会だが、俺好みの味付けに特化していることへの心配は杞憂だったようだ。俺が心配するまでもないことか。

「安藤君の嫁さん、料理美味いねぇ。」
「ありがとうございます。」

 晶子の料理への賛辞は俺に向けられる。料理の美味さは俺の手柄じゃないことは十分承知しているが、褒められて悪い気はしない。それに、晶子を褒め
られて嬉しくない筈はない。

「その嫁さんが居る文学部からの参加者がないのは残念だな。盛り上がれたのに。」
「この豪華な差し入れを作ってくれた嫁さんは、どうして欠席?」
「就職活動です。合同説明会に出席しに小宮栄に行ってます。」

 差し入れがあるのに当の本人が居ないのは変に感じるかもしれない。だが、晶子にとっては試験や面接に繋げる重要な機会だ。それを放り出して花見と
称する宴会に参加出来るほど恵まれた状況じゃない。

「合同説明会かぁ。文系の方は結構きついの?」
「かなり。殆ど門前払いだそうです。」
「人数は多いのに採用数は少なくなる一方らしいからねぇ、事務職は。」

 隣の院生−確か大塚さんはしみじみと言う。大川さんや小山さんの1つ下の修士1年で、智一の研究テーマの担当者でもある。去年の仮配属中のゼミでは、
ナビゲーター役の際に淡々と進めていく印象だったんだが、酒が入ったせいか口調が陽気なものへと変わっている。

「それにしても、安藤君の嫁さんはどうするつもりなんだろうね。」
「?どういうことですか?」
「いやさ、就職決めたとしても勤め先が安藤君と同じ地域とは限らないだろ?就職と同時に別居婚するつもりなの?」
「それは先に話をしています。数年はそうなることも想定してます。」

 晶子は就職活動を始めるにあたって心境を俺に話した。俺におんぶに抱っこになるつもりはないこと。子どもが安心して生まれて子どもを安心して育て
られる財政的裏付けを自分もしたいこと。そのためには自分も働くことが当然だということ。
 俺の就職先、厳密に言えば進路がまだ定まってない現状では、いくら晶子の方の状況が厳しいとは言え先に内定を得る可能性がある。当然大塚さんが言う
ように同じ地域の企業や官庁に就職できるとは限らない。範囲を広げればむしろ同じ地域になる可能性は低いと見るべきだ。所謂別居婚として数年
それぞれの仕事で稼いだ後、出産や育児のために俺の住む地域に移り住むために転勤を希望するか辞職するかの選択をする。それが晶子の考えだ。
 晶子はその考えの上で自分の就職活動と、その結果としての別居婚の可能性を認めて欲しいと申し出た。俺は承諾した。手持ちの資金はかなり潤沢な
方だがそれは貧乏学生で収入の多くを貯金に回せる状態だから言えること。それを元に大学卒業後ただちに晶子の出産と育児、更には家族全員の
生計費を補うほどかどうかは疑わしい。乳幼児は病院に通う頻度が高い。ちょっとしたことで熱を出すし、怪我もする。医療費も馬鹿にならない。安心して産み
育てるためには財政面でのより確固たる裏付けがあるに越したことはない。京都旅行でめぐみちゃんの事例に当事者の一部として関わったことで、晶子
だけでなく俺も出産や育児にあたっては財政基盤の確立が重要だと強く認識した。
 晶子の出産と育児に向けた強い意志と、その舞台準備を俺に依存せずに行いたいという自立心に反対する理由は見当たらなかった。俺自身、晶子に
おんぶに抱っこになっている部分がある。仕事をしながら家事をこなすことは、晶子のように家事を完璧にするのは至難の技だろうが、実行出来るようになる
ことは晶子が出産や育児で手が塞がっている時でも十分役立つ。その訓練にもなるだろう。

「ふーん。しっかり考えてるねぇ。」

 晶子とのやり取りも掻い摘んで事情を説明した後、大塚さんは納得した様子を見せる。

「さすがに早々に嫁さんもらうと、その辺のことにも頭が回るんだねぇ。」
「2人のことですから。」
「安藤君の嫁さんは見たことないけど、話を聞く限りまともな女も居るんだねぇ。」

 大塚さんの言うことは理解出来る。昨今の経験だと京都旅行で平然と本人に聞こえるように、或いは本人の目の前で嘲笑や人格攻撃を展開する女の例に
出くわした。晶子が居なくて虫の居所が悪かったら、歯を数本折るくらい殴るか蹴るかしていただろう。頭に血が上ると普段の理性や心理的なブレーキの
殆どは簡単に消し飛ぶ。
 あれが逆の立場だったら、ヒステリックにわめき散らすか大声で泣きわめくかのどちらかだろう。自分に対する批判や指摘には重度の通風並みに過敏で、
自分が他人を攻撃するのは全く無頓着だったりする。大塚さんも多かれ少なかれその手の攻撃を受けた経験があるんだろう。高校までを見ていれば、女が
攻撃を仕掛けないのは所謂「モテる男」くらいのもので、地味だったり異質だったり、兎に角自分が受け入れないと直感で思ったものに攻撃を仕掛けることは
よく分かる。俺も直近でそういう経験をしたから、「そんな女は一部」とは言えない。むしろ晶子の方が少数派、否、希少な部類だと思っている。そんな晶子と
出逢えて妻に出来た俺は幸運でしかない。

「新京大学久野尾研究室の宴会場所はこちらで間違いないでしょうか?」

 背後から声がかかる。皆が一斉に声の方を向き、驚きと歓喜が入り混じった顔をする。この声、聞き憶えがある…!

「安藤さんが居るなら正解と見て良いようね。」
「え…と、どちらさまでございましょうか?」
「失礼しました。新京大学文学部戸野倉ゼミの院生で、田中と申します。」

 小山さんのやや妙な問いかけに対する声の主、田中さんの答えで、場が料理を目にした時と同じかそれ以上に盛り上がる。興奮の坩堝と言う表現が
ぴったりだ。まさか田中さんが来るとはな…。2つの意味で驚きだ。

「おや、貴方が戸野倉ゼミの田中さんですか。私、研究室主宰の久野尾です。」
「私をご存知ですか?」
「ええ。戸野倉先生とは学内のセクハラ対策委員会でご一緒していましてね。コンスタントに出版している非常に優秀な学生が居ると伺っています。」
「お褒めいただき恐縮です。」

 田中さんは一礼する。そう言えば以前、戸野倉先生がセクハラ対策委員会で久野尾先生に会って俺のことを聞いたって言ってたな。その時とは逆の
パターンか。田中さんは手に持っていた風呂敷包みを料理がなくなり始めた場にさし出す。

「手ぶらでは失礼と思って、僭越ながら差し入れを持参しました。皆さんでご賞味ください。」

 一番近くに居た智一が興奮か緊張かややおぼつかない動きで受け取り、場の中央で広げる。大きめのタッパーが複数積み上がっていて、中は唐揚げや
フライドポテトといった料理が詰まっている。再び場が興奮と歓喜で盛り上がる。
 田中さんは場に丁重に招き入れられ、何処に座るかで激しい争奪戦が勃発する。無論暴力はなく、ここは自分が否自分がという応酬の後にトーナメント
方式のじゃんけんという平和なものだ。結果、小山さんの左隣に決まる。羨望を受けて何時になく喜んでるな。
 最終的に小山さんの隣に腰を降ろした田中さんには、コップが差し出されたのに続いてビールの酌が彼方此方から行われる。あまり場所を奪い合った
意味がないように思うが、参加しなかった俺は見ていて楽しい。田中さんの料理も少し摘んでみる。…無難に食べられる。むしろ美味い部類だ。家では自炊
していると言っていたが、その言葉に偽りはなかったようだ。しかし、無料で参加出来るのに料理を作って持ってくるなんて律儀だな。

「どうして田中さんはこちらに?」
「うちのゼミの安藤さんからメールが回って来たので。」
「安藤って、うちの研究室の安藤君の嫁さん?」
「そうです。日時とおおよその場所が記載されていて、夫の研究室主宰の花見ですのでよろしければご参加ください、と。」

 晶子はきちんとゼミ内に花見の情報を回していたようだ。就職活動がまったく芳しくないゼミの雰囲気を考えて自粛したかもしれないと思っていたし、
それでも晶子を咎める理由はない。晶子はかなり微妙な立場に居るとも言えるから、ゼミでの立ち回りに気を遣うだろう。ゼミの学生居室には学部4年が全員
居るから、嫌みや陰口を言われながら1年在籍するのはかなり辛い筈だ。

「生憎うちのゼミからの参加は、今のところ私だけのようですが。」
「うちの安藤君のコネで期待してたんですけど、仕方ないですよ。就職活動の関係でしょ?」
「ええ。文学部は総じて非常に厳しい状況だと、戸野倉先生などから聞いています。」

 料理を摘まみながら−既に晶子の分は完売している−田中さんと研究室の面々とのやり取りに耳を傾ける。相当人数が田中さんに集中しているから、
やり取りはその背中越しに行われている。花見と言うより田中さん見という状況だな。もっとも、花見でまともに桜を観賞しているのはデジカメ片手に散策する
人達くらいだが。
 田中さんとのやり取りの内容は、文学部の様子や田中さんにシフトしていく。文学部とは1年から2年にかけての一般教養を過ぎるとまったく無縁になる。
サークルやクラブに入っていれば話は変わって来るだろうが、その比率は決して高いとは言えない。言わば未知の世界からの来訪者だから、興味がそちらに
移るのは自然な流れだろう。
 特に田中さんに聞くこともないし、晶子に後ろめたいことをするような気がするから話の輪に加わらない俺は、シャツの胸ポケットにある携帯に周期的に
意識を向ける。晶子からの連絡を示す小刻みな振動は今のところない。時刻は…昼過ぎ。昼飯を食べているんだろうか。こういう時、「今何してる?」メールを
送るのも1つだが、就職活動への集中を削いでしまう可能性がある。どうにかこぎつけた入社試験への打ち合わせの最中に携帯が鳴るなり振動するなりして
晶子が気を取られたら、企業側はまず良い顔をしない。音を鳴らしたら最悪だろう。携帯は確かに便利だが、携帯に常に気を取られるようになったり、監視
装置になったりするのは本末転倒だ。
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