雨上がりの午後

Chapter 227 親への夢と子どもの現実

written by Moonstone


 鴨川を一頻り眺めた後、俺と晶子は京都御苑に向かう。昨日は到着後直ぐに行ったこともあって全体を回れなかったから、今日はその続き。主に北半分が見物対象になるが、
途中で目にするものは素通りしないでゆったり見て回る。
建令門前大通りという通りを北進していく。途中に大宮御所と仙洞御所があるが、此処の参詣には事前の許可が必要とあるから、概観を交差点から見るに留める。
1週間ほど京都に滞在するが、今から申請しても間に合うかどうか怪しい。
 それにしても、京都御苑の広さは半端じゃない。地図で見ると名前のない区画でも、新京市にある公園−俺と晶子が例年ピクニックに出かけている場所でもある−より
ずっと広く感じる。立ち続けプラスものを持って移動のバイトで結構体力がついたらしく、中ほどを過ぎたところでもしんどくは感じないが、少々汗ばんできたのが分かる。

「凄く広いですね。門はずっと前から正面に見えているのに。」
「行けども行けども到着する気配がないな。」
「陽炎や逃げ水みたいですね。」
「そうだな。」

 平日の午前だが、結構人は多い。京都自体が全国屈指の観光地だし、家族連れとかが行楽に繰り出しやすい時期に重なったのもあるんだろう。晶子が修学旅行で
来た時は観光シーズン真っ只中で満足に見て回れなかったそうだが、それよりはましだと思う。
 俺と晶子は手を繋いだまま歩いている。昼間に手を繋いで歩くことは殆どない。あるとすれば、バイトでの往復路くらい。俺は手を繋いで歩いている様子に不快感を
覚える人もいるだろうから、あまり外ではアピールしない方が良いと思っている。
だが、時々見るカップルらしい組み合わせは、当たり前のように手を繋いでいる。一緒に居るだけで冷やかしの対象になった高校時代の意識のままじゃ、逆に疎遠に
見られるんだろうか。交際経験が少ない俺にはその辺のところがいまいちよく分からない。

「祐司さん、今日は手を繋いでくれたままですね。」
「人前で手を繋ぐのは意外と良いのかな、って思ってな。」
「良いんですよ。今だけでなくて。」
「晶子は、もっと手を繋いだりしたい・・・か?」
「はい。だから、今は凄く嬉しいんです。」

 即答か。晶子の交際に関する積極性・開放性が改めて分かる。左手薬指に填めてくれと譲らなかった指輪を、大学でもバイトでもさりげない様子で見えるようにして、
尋ねられると嬉しそうに俺からプレゼントされたことを話したり、大学でも早々に俺との結婚を公言したりと、「私は安藤祐司に愛されていて幸せなんです」と常に全身で
表現している。

「もう私は、祐司さんにプロポーズしてもらって婚姻届の提出を待つだけの『安藤晶子』なんですから。」
「『安藤晶子』か・・・。大学とかでもそう呼ばれてみたいか?」
「はい。呼ばれる機会が楽しみです。」

 約22年間共にしてきた「井上」姓に何の未練もないんだな。年末年始の旅行でも、俺との結婚に伴う改姓の問題について結構突っ込んだ議論をしていた時、晶子は
「今直ぐにでも変えられるなら変えたい」と言っていたっけ。自分の姓への愛着より「安藤」という姓に集約される1つの家族に加わることへの願望がずっと強い。
 ひたすら歩いていくと、左右に白壁携えた荘厳な門構えが近づいてくる。森の中に佇む門構えは、そこにあるだけで安易な踏み込みを寄せ付けない厳かな雰囲気を
漂わせている。一部を除いて入場料無料の公園的位置づけだが、かつて皇族が居を構えて今も迎賓の場として使われる場所だ。それなりの歴史や建造物があるのは当然か。

「大きいな。」
「地図だと、此処だけでちょっとした住宅街の一角に相当するくらいの大きさですね。」

 晶子が少し身を乗り出して、俺の広げている地図を覗き込んでくる。身長さがあまりないから、髪の匂いがかなり強く感じ取れる。長年の手入れで染み込んだ甘酸っぱい
芳香が鼻をくすぐる。

「此処も事前の許可がないと中に入れないから、外周をぐるっと見て回ろうか。」
「はい。」

 一瞬晶子の髪の匂いに気を取られたが、ぼうっとせずに済んだ。歩いてきた通りの名を関する建令門に向かって右回りに歩き始める。白壁に囲まれている上に
木々が生い茂っているから、中の様子を窺うことは出来ない。

「あ、祐司さん。桜が咲いてますよ。」

 晶子が指差した方を見ると桜がある。まだ満開には遠いが、大きく膨らんだ薄いピンクのつぼみは桜に間違いない。他が緑だから、桜が際立って見える。
俺と晶子はその桜の近くに行く。桜の付近には割と人が集まっている。桜は何処でも人目を引くようだ。俺と晶子が居る新京市の公園にも桜が植えられているし、大学にも
桜並木がある。桜が咲く頃になると本格的な春の訪れを感じるのは、決して陽気のせいだけではないと思う。

「五分咲き・・・、否、三分咲きってところか。まだ満開の時期には遠いな。」
「桜の時期になると混雑するんでしょうね。」
「観光地の桜だからな。」

 新京市の郊外に古くからの桜の名所があって、桜の時期になるとそこに通じる、俺と晶子が買い物に行くスーパーが面する通りが繋がる東西の大通りが大混雑する。
新京市は市町村合併で出来たから市の歴史は比較的浅いが、○○町などの地名を残した旧町村部にはそれなりの歴史がある。店にも花見に行ったという客が来ることが
あるが、現地の混雑は相当なものらしい。
 晶子が前に京都を訪れた時は紅葉のシーズンで、当然のことながら凄い混雑でまともに見て回れなかったと言っていた。観光の観点からすればオフシーズンの
後期に属する今でもそれなりに人が居る。桜が咲く時期となればどれほどの混雑になるかはある程度想像出来る。

「今思うと・・・桜の下で、というのも良かったかもな。」
「プロポーズですか?」
「ああ。」
「あの時あの場所で、祐司さんにしてもらったことが良いんです。」

 晶子は幸せそうに微笑み、身体を寄せてくる。つぼみが開き始めている桜を前にして、プロポーズは桜の下の方が良かったかと思ったんだが、要らぬ不安だったようだ。
俺には気の利いた言葉や洒落た演出は似合わない。自分で表現するのも何だが、そのシチュエーションで最も良い言葉や表現が即座に思いつかない。プロポーズにしても、
晶子が戻ってきた翌日、まだ不安が残っていると思った晶子を直接柳ヶ浦まで引っ張っていって、飾り気も何もないプロポーズの言葉を発した。
ロマンも何もあったもんじゃないと今更思う。「後悔先に立たず」とは当たり前だがそのとおりだとつくづく思う。だが、晶子は言葉や演出より、俺からプロポーズを
受けたことそのものを泣いて喜んだ。下手に飾ろうとするより、その場その時で自分の心を率直に伝える方が良い場合だってあるんだろう。

「もしさ・・・。プロポーズを晶子からしたとしたら、何て言う?」
「率直にこう言いますね。」

 そう言うと、晶子は俺と手を繋いだまま、むしろ握る手の力を強めて、身体を俺の前に持って行って向き合う。

「『結婚してください』・・・って。」

 言葉どおり率直な台詞を言って改めて微笑む晶子を見て、急に全身が熱く火照ってくる。仮定の話じゃなくて、桜の下で云々って話をしていた今の状況を逆手に取って、
晶子がプロポーズしてきたとしか思えない。

「返事は?」
「・・・あ・・・、も・・・、勿論・・・しよう。」

 上手く言葉に出来ない。言うのがやっとだ。言ったことも日本語になってない。だが、照れ隠しに誤魔化す言葉も出ない。こういうことに関しては、晶子の方が
1枚も2枚も上手だと改めて思う。

「・・・狙ってた・・・か?もしかして・・・。」
「いえ。桜の下でプロポーズした方が良かったかな、って祐司さんが言ったから、私からしてみようと思いついただけです。」
「だよな・・・。」
「ちなみに、からかう意志はまったくありませんからね。愛情表現ですよ。」
「ん・・・。」

 晶子が俺との関係を積極的に見せたい知らせたいタイプだと、これまた改めて分かる。俺と晶子の関係は、一見日本女性の理想像を表現する「大和撫子」の晶子が
俺に尽くす形だが、実際は上手い具合に俺が晶子の掌で転がされている。そうだと思っても悪い気はしないのも、晶子の思惑どおりなんだろう。

「・・・次、行くか。」
「はい。」

 どうにか全身の火照りが収まったところで、場所を移動する。手は繋いだままだ。晶子が俺の仮定の話を逆手に取った不意打ちをした時に手を強く握ったままだから、
離しようがない。離すつもりもないが。
 そのまま通りに沿って北上していく。桜があった場所−地図では「桜松」とある−付近がかなり混雑しているが、そこを抜ければ人は居るけど混雑というほどではないレベルに
落ち着く。やや人の流れに逆らう形で歩いてきた。京都御苑は観光地だが観覧順路はないし、地図でも複数の門があるから、最寄の門から入ってどう回るかは人それぞれだ。
決められた順路に従って見ていくだけだと、どうも視察か何かのようであまり観光の実感がしない。
 「桜松」を過ぎて最初の交差点に差し掛かったところで、子どもが1人できょろきょろ辺りを見回しているところに出くわす。泣き出しそうな顔をしているところや、俺の腰くらいの
身長からして、1人で散策というわけではなさそうだ。

「どうしたの?」

 予想どおり、その子どもに晶子が話しかける。話しかけるときに屈んで相手の視線の高さに合わせるのも忘れない。俺も晶子に合わせて屈む。
晶子の子ども好きは既に知っている。それにこういう場合、男からより女から話しかけた方が相手の緊張を解し易い。相手が女の子−膝丈のスカートを穿いている−なら尚更だ。

「・・・お父さんとお母さん、居なくなった・・・。」
「迷子か。」
「迷子じゃない。居なくなった・・・。」

 自分は迷子じゃないと主張した部分ははっきりしていたが、それ以外の口調は弱々しい。自分のミスで両親とはぐれたんじゃないと言いたいんだろう。…それってまさか…。

「じゃあ、お兄さんとお姉さんと一緒に探そうか?」
「探しても・・・。」

 女の子は言いかけて黙り込み、目に涙を溜めて俯く。このままじゃどうしようもない。だが、この広い京都御苑で探して歩くのはかなり難しい。迷子を預かってくれる場所に
連れて行くのが無難だな。だが、「探しても」というくだりが妙に気になる。この混雑の中で探すのは無理という意味なんだろうが、何だか嫌な予感がする。思い過ごしだろうが・・・。
 俺の予想は脇に置いて、迷子を預かってくれる場所を地図で探す。ちなみに俺と晶子は屈んだままだ。店とかだと「迷子センター」など分かりやすい表記でその場所が
記されている。だが、地図にはそういった箇所はない。

「何処に連れて行けば良いか・・・。」
「迷子センターと明確に書いてある場所はないみたいですね。」
「スーパーとかだと『サービスカウンター』って場合もあるし、観光施設だと『事務所』とかだから・・・。此処かな。」

 俺は広げた地図の左下隅を指差す。そこに「環境省京都御苑管理事務所」という一角がある。休憩所は意味ないし、皇宮警察本部はお門違いだろう。名前からして
此処が一番近いような気がする。駄目だったらそこの職員に聞けば良い。

「そうですね。此処が良いと思います。」
「じゃあ、行こうか。」
「行きましょう。お姉さんと手を繋いで。」

 晶子が俺と手を繋いでいない左手を差し出すと、女の子はおずおずと手を差し出して晶子の手を取る。地図からすると大きく逆戻りだが、別に次の観光場所にこの時間に
行かないと間に合わないとか、そんな切羽詰った行程じゃないからその辺は大丈夫だ。
俺と晶子は膝を伸ばし、晶子が女の子の手を引いて通りに沿って南下していく。途中晶子から不意打ちプロポーズをされた「桜松」とそれを見物する観光客の混雑に再度
出くわすが、京都御苑の壁に沿う形で抜ける。女の子は晶子がしっかり手を繋いでいるから、はぐれることはないだろう。

「疲れた…。おんぶして…。」

 京都御苑の南西隅に到着したところで、女の子がぽつりぽつり言う。おんぶか。これは晶子より俺の方が良いだろう。俺は膝を曲げて屈む。

「じゃあ、兄ちゃんがおんぶする。乗って。」
「お兄ちゃんなら安心よ。」

 躊躇っていた女の子は、晶子の勧めでおずおずと俺の背中に乗る。俺は女の子の両足を抱えて立ち上がる。幼いとはいえそれなりに重いが、この程度で動けなくなるほど
柔じゃないつもりだ。おんぶすると晶子と手を離さざるを得ないが、自分がすると言い出した以上、女の子のおんぶを片手だけでとは出来ない。

「これから何処へ行くの?」
「此処の管理事務所よ。お父さんとお母さんを探してもらうから。」
「探しても・・・無理。お父さんとお母さん、探さない・・・。」

 女の子の呟きが気になる。さっきも「探しても」と言って黙り、泣き出しそうになった。この子もしかして・・・。嫌な予感がだんだんと現実味を帯びてくる。思い過ごしで
あってほしい。来た道を辿る形で南下していく。入った時より人が多くなっているように思う。まだ寒さが残る朝より昼の方が外に出やすいし、観光客が宿で朝飯を済ませて、
さて散策へと繰り出す時間が重なるんだろう。観光客の多くは何らかのツアー客だし、順番に観光地を回るコースだとある時間に人が集中しやすくなる。
見た感じ、中高年が多い。まあ、俺と晶子の年代ならドライブに出かけるとしたら、京都のような車が走り難い場所は避けるだろう。旅行にしても国内より安く行けて
食べ物も豊富な近場の海外に向かうだろう。俺と晶子のは旅館の女性も言っていたが珍しい事例だ。

「ねえ・・・。お兄ちゃんとお姉ちゃんって、結婚してるの?」
「うん。そうよ。」

 俺の背中で発せられた問いに、晶子が即答する。「まだ婚姻届を提出してないけど」とか言い訳めいたことを挟む余地はない。この女の子に婚姻届と言っても、そこから
説明する必要があるだろうし、女の子が理解するより結婚の有無の方が受け止めやすい。

「これが、貴方を背負ってくれているお兄ちゃんからプレゼントしてもらった結婚指輪。」

 晶子が自分の左手を女の子に見せる。言うまでもなく、薬指には俺がプレゼントした指輪が填まっている。俺は女の子を背負っているからどんな表情をしているのか
分からないが、晶子が嬉しそうなのは十二分に確認出来る。

「お兄ちゃんとお姉ちゃんは、どうして結婚したの?」

 自分の背中越しにストレートど真ん中の質問が次から次へと飛び出す。小さい子は意外に好奇心旺盛だったり、質問の際に大人のように「これを尋ねるのは
まずいんじゃないか」などの遠慮を良くも悪くもしない。俺も晶子も年齢では既に大人だし、この子から見れば質問される側だろうが。

「貴方を背負ってくれているお兄ちゃん、私から見れば夫を愛してるから。もっと自分だけのものにしたかったから。」
「ふーん・・・。お兄ちゃんもそうなの?」
「ああ、そうだよ。お姉ちゃんを愛してるから結婚したんだ。」

 下手に誤魔化したりはぐらかしたりしてもこの子は尚も尋ねてくるだろうし−子どもってそういうところがある−、何より隣の晶子を不安にさせちまう。
俺の家に戻っては来たが、俺の気持ちが自分から離れるんじゃないかという不安が解消出来ていないと思って、先走りを承知で柳ヶ浦へ連れて行ってプロポーズしたんだ。
・・・顔を横から覗き込んでまで尋ねないで欲しい。照れくさいんだから。

「お兄ちゃんとお姉ちゃんは、愛し合って結婚したんだね・・・。」

 俺の回答に納得したのか顔を引っ込める女の子の声のトーンが、後半で急速にか細くなる。迷子になったのかと言ったら「居なくなった」と答えたこと、晶子がこの子の
両親を探してもらうために管理事務所に行くと説明したら「探さない」と答えたこと、そして今回の口調・・・。嫌な予感がどんどん現実味を帯びてくる。
 晶子の案内を受けて−おんぶしているから地図を見られない−進んでいく。案内といっても「このまま真っ直ぐ」とか「次の交差点で曲がる」とか簡単なものだが、京都御苑
自体昨日初めて来た場所だし、管理事務所は主に南側を散策した昨日も行ってない−行く用事もなかった−から、十分ありがたい。
意外におんぶって大変だ。小さい子だからおんぶしても大したことないだろうと最初は思ってたんだが、時間が経つにつれて重みが増してきた。多少腰を曲げた状態で
少なくとも10kgはあるものを背負うから、次第に下にずれていく。下に行けば行くほど重みが増してくるから、軽く跳ね上げて上に戻す必要がある。晶子を抱き上げたことは
あるが背負ったことはないからな。
 今日も此処から入った堺町御門が間近に見える交差点で右折。昨日見て回った九条池や厳島神社、拾翠亭を囲む林を左に見ながら進んでいく。地図で見ると
−晶子が見せてくれる−京都御苑の右下端に位置する区域。京都御苑の管理事務所は此処にある。事務所といっても典型的なオフィスビルじゃなくて、切妻屋根の
純和風の建物だ。景観に配慮していることが窺える。
門を入って管理事務所に向かう。荘厳な造りに身構えてしまうが、この子を預けないといけない。事務所に入ったところで女の子を降ろし、事務所の人に迷子らしいこの子を
連れてきたことと、この子を発見した場所を話す。地図を持っているから場所の説明は簡単だ。

「分かりました。」
「じゃあ、よろしくお願いします。」

 事務所の人に一礼して去ろうとしたところで、俺はコートの裾を掴まれる。掴んだのは女の子。じっと俺を見詰める涙ぐんだ目は、一緒に居て欲しいと強烈に訴えかけている。

「祐司さん。この子と一緒に居ませんか?」
「晶子は良いのか?」
「私は良いです。」
「・・・分かった。一緒に待とう。」

 俺のコートの裾を掴んでいた女の子の表情が少し和らぐ。この子の気持ちは分からなくもない。俺と晶子が発見した時も賑わう通りの片隅でぽつんと立っていたし、
ところどころで発した言葉がやけに気になる。俺と晶子は終日完全自由行動だから、時間を気にする必要はない。
事務所の人が御苑内を捜索している。何時までかかるか分からないから、その間は空き時間になる。とは言え、小さい子はえてして退屈に弱い。走り出したり大声を出したり
するもんだ。さて、どうしてこの待ち時間を過ごすか。

「お兄ちゃん。座らせて。」

 少しして、女の子が遠慮気味に頼んでくる。座るって・・・。とっくに俺と晶子は事務所の一角にある長椅子に並んで座ってるんだが。

「今座ってるだろ?」
「お兄ちゃんの膝の上に。」
「俺の?」
「うん。」

 妙な頼みだが、答えられない頼みではない。俺が了承の意味で頷くと、晶子の左隣に座っていた女の子が椅子から降りて俺の元に歩み寄ってくる。女の子は一度
長椅子に腰掛けてから、俺の膝の上に乗る。背丈の都合こうせざるを得ないだろう。座ってから、俺の胸に凭れかかってくる。丁度背凭れになる高さだ。
この子、あれを食べたい飲みたいとか、遊んでとか言わない。どちらかと言うと、甘える行動を取っているように思う。おんぶもそうだし、今こうして俺の膝の上に座っているのも
そうだ。この子が言ったことと絡めると嫌な予感が募る。やっぱりこの子は…。

「お兄ちゃんとお姉ちゃんは、子ども居ないの?」

 落ち着いたと思った矢先に、強烈なストレートを投げ込んでくるなぁ。ませてると言うか、何と言うか。

「まだ居ないよ。」

 どう答えようかと思っていたら、晶子が答える。「まだ」と言うあたりにも、子ども好きと子どもが欲しいという気持ちが窺える。

「子ども、欲しい?」
「うん。凄くね。」
「お兄ちゃんは?」
「欲しいな。」
「そうなんだ・・・。」

 女の子の声がまた沈む。嫌な予感が強まる一方だ。この子は・・・この子の言うとおり、迷子になったんじゃないという予感が。

「祐司さん、どうしたんですか?」
「あ、この子の両親が早く見つかるかどうか、心配でな。此処は広いから。」
「大丈夫ですよ。」

 兎角悪い方向に物事を考えやすい俺に対して、晶子は良い方向に考える傾向が強い。ポジティブ・シンキングというんだろうが、考え方に相違があっても俺と晶子の
関係が続いているのは、考え方が決定的なんじゃなくて、同じ命題に共に考えるかどうかなんだと思う。
 待つ。ひたすら待つ。だが、時々出入りする人の中からこの子の両親は一向に現れない。時間だけが過ぎていく。この子がぐずったり泣いたりしないのが幸いだ。
ぐずったり泣いたりしたらどうやってあやせば良いのか、俺には分からない。

「お腹空いた・・・。」

 女の子が呟く。俺も若干空腹を感じる。こういう時の時間の流れは体感より非常に遅いのが常だが、時計を逐次確認してないから実際はどうなのかは分からない。

「晶子。今何時かちょっと見てくれるか?」
「はい。」

 晶子は携帯を取り出して時刻を見る。時刻は折り畳んだ状態でも小さいディスプレイに表示されるから、わざわざ開く必要はない。

「11時半を過ぎて、45分に近いです。」
「昼飯時か。結構時間が経ってたんだな。じゃあ、昼飯を食いに行くか。」
「そうですね。それで良い?」

 俺の提案に賛同した晶子の問いに、女の子は頷く。腹が減ったと言うんだから食事を提案されれば賛同するのは自然だが、嬉しさをあまり出さないのは遠慮しての
ことだけとは思えない。それはこの子が不可抗力による迷子じゃなくて、迷子にされたせいだと考えれば納得がいくんだが…。

このホームページの著作権一切は作者、若しくは本ページの管理人に帰属します。
Copyright (C) Author,or Administrator of this page,all rights reserved.
ご意見、ご感想はこちらまでお寄せください。
Please mail to msstudio@sun-inet.or.jp.
若しくは感想用掲示板STARDANCEへお願いします。
or write in BBS STARDANCE.
Chapter 226へ戻る
-Back to Chapter 226-
Chapter 227へ進む
-Go to Chapter 227-
第3創作グループへ戻る
-Back to Novels Group 3-
PAC Entrance Hallへ戻る
-Back to PAC Entrance Hall-