雨上がりの午後

Chapter 213 日常から緊迫の事態へ

written by Moonstone


 一旦俺の家に立ち寄って荷物を置いてから、一緒にバイト先へ。平日の何時もの光景になっている。
俺もこれから先も、こうして晶子とバイトの行き帰りを一緒にするつもりで居る。日が長くなってきているのを感じているが、真昼間でも凶器片手に大暴れする輩が
日常に出没するくらいだから、油断ならない。
 日が長くなっていると言っても、バイトに出向く時間になると外は真っ暗だ。小高い丘の上に立つ洋風の白い建物には、何時もどおり客の顔が多く見える。
今日も忙しくなりそうだ。ドアを開ける前に手を離して、俺がドアを開ける。カウベルの軽やかな音が少し響く。食後はこれが来店者を告げる合図になる。

「「こんばんは。」」
「あら、いらっしゃい。」

 カウンター越しに出迎えるのは潤子さん。マスターは・・・店内を回っている。料理を運ぶのと食器を回収するのを兼ねて、客の監視もしている。中高生の喫煙を
発見したら即座に止めるためだ。
店内は大人も来るから一応喫煙可能だが、当然中高生は禁止。発見次第接客担当の俺も止めるし、それでも止めないか「反撃」するなら問答無用で店から摘み出す、と
いうのが店の方針だ。幸いにして今のところ、そういう事例は発生していないでいる。

「試験は今日で終わったのよね。」
「はい。」
「まずはお疲れ様。今日も混んでるから、また頑張ってもらうわね。」

 俺と晶子は、何時もの席に座って潤子さんから夕飯の支給を受ける。今日も店は大盛況。食事が終わったら俺は接客、晶子はキッチンをそれぞれ担当して、閉店まで
殆ど気が抜けない時間が続くことになる。
 店の人気を維持・向上させている要素の1つである潤子さんの料理を腹に詰め込んで、俺は着替えて、晶子は髪を後ろで束ねてエプロンを着けて、それぞれの担当の
仕事に着手する。食休みと言ってる暇はない。早速オーダーを取ってキッチンに報告し、席を立った、これから塾に行くという高校生集団に「ありがとうございました」と
言ってから食器を片付けてキッチンに運び、次の客を迎えるためにテーブルを布巾できっちり拭く。食べ残しがあるテーブルで食事をする気にはなれないもんだ。

カラン、カラン。

 何度目かのカウベルの音が店内に響く。料理の一部を運んでキッチンに向かおうとしたところで、俺は「いらっしゃいませ」と半ば反射的に言ってから、その客を見て
思わず声を上げそうになる。黒のロングコートを着たショートのボブの女性は紛れもない、田中さんその人だ!何で?!どうして此処に?!
 ・・・と、兎も角席に案内しないと・・・。あ、先にコーヒーを作っていたマスターが出て行く。マスターはコーヒー作りがあるから、接客専門の俺も行かないといけないな。
・・・それにしても、いったいどうして?

「おっ、祐司君。丁度良いところに。」

 俺が駆けつけたところでマスターが言う。丁度良いどころかある意味真逆だが、接客業でこちらは客を迎える立場である以上、中高生の喫煙とかマナーに目の余る
客以外は普通に接しないといけない。

「こちらの女性をお席に案内差し上げて。お1人だそうだ。」
「あ、はい。ご案内いたします。」

 マスターは、この女性が田中さんで、田中さんと俺と晶子の現状を知らないようだ。或いは俺が駆けつける前の話で知ったが知らないふりをしているのかもしれない。
この場で現状を暴露したら俺もそうだが、晶子がどういう反応を示すかで店内が大パニックに陥る可能性もあるからな。流石と言うべきだな。
俺も初めての来店として、普通に接する。自分ではそうしているつもりだが、周囲から見てどうなのかまでは分からないし、そんな余裕もない。
 兎も角今は席に案内しないと・・・。店内を見回して空席を探す。空いてるのは中央の大きめのテーブルと、さっき高校生集団が立ち去ったテーブルの2つ。どちらも
4人以上の席−ついさっきまでどちらかが埋まっていた−だが、相席を頼むわけにも行くまい。
・・・あ、煙草を吸うかどうか聞かないと。吸う場合は出来るだけ店内の中心部に集めるようにしている。窓際だと中高生がそれを見て真似をする可能性がある、と
前に近くの中学のPTAだか何だかが注文をつけてきたためだ。土曜の昼間のことだから、マスターと潤子さんから聞いた話を受けてのものだが、そんなのは親の躾の
問題だろう。迷惑な話だが仕方ない。

「あの、お煙草は吸われますか?」
「いいえ。」
「では、こちらへ。」

 俺は空いて間もない、窓際の席に田中さんを案内する。何時の間にか−後ろに居たから見えなかっただけだが−コートを脱いで腕にかけていた田中さんは、
ステージと向き合う形で静かに腰を下ろして、窓側の空席にコートを置く。そして俺の方を見る。

「どうもありがとう。」
「あ、いえ。メニューはそちら、窓の脇にございます。」
「これね。」
「はい。」

 田中さんはメニューを手にとって広げる。俺は持っていたお絞りと水が入ったコップ−無意識且つ反射的に持てるレベルになってる−をテーブルに置く。
直ぐ決めろと言うわけじゃないし、言える筈もないから、一旦失礼することにするか。

「店内を回っておりますので、メニューが決まりましたらお伝えください。」
「ええ。そうさせてもらうわ。」
「では、失礼します。」

 広げたメニューに視線を戻したのを見て、俺は一礼してからキッチンに向かう。キッチン付近は丁度良いのか悪いのか、店の営業関係者が全員集合している。
晶子の表情が明らかに硬い。無理もないよな。俺に接近しようとしている(と晶子が確信している)女性本人が、夜に、しかも1人でバイト先に乗り込んできたんだから。

「あの女性(ひと)が、今祐司君と井上さん関連で話題の女性か。」
「話題って、軽い次元じゃありませんよ。」

 何時もの調子で−マスターは髭を生やした強面(こわもて)だが口調は至って普通だ−言ったマスターに対して、晶子の言葉は表情を反映して硬くて重い。
場所が場所だから食って掛かるのを押さえ込んでいるという感じがする。・・・一昨年の夏だったか。夏に店のメンバー全員で海に行った時、宮城とその友人と出くわした
日の夜を思い出す。
 宮城の友人が提案して、来なくても恨んだりしないという条件をつけた宮城との話し合いの場に行くよう促した潤子さんに、晶子が猛烈な勢いで食って掛かった。
普段柔和な晶子があれだけの激情ぶりを見せたのは、実家からの電話以来2回目だったが、絶対行かせてなるものか、という気迫が伝わってきた。
結局俺は、潤子さんの促しに背中を押される形で指定された場所に出向いたが、部屋に残った晶子は今直ぐにでも後を追って連れ戻さんばかりの勢いだった、と後で
マスターと潤子さんから聞いた。その当時から晶子の独占欲は相当強かったと今は分かる。
 互いの家に出入りして、晶子は俺の家で過ごす時間の方が多い週も生じるようになり、夜に愛を交わす日も増えた。周囲に結婚を公言し、俺は実家に立ち寄った際に
将来の法律上での結婚を宣言した。着実に俺を独占出来る環境が整いつつある中で、それに割って入ろうと機会を窺っていると確信している相手が直接来たんだ。
晶子の独占欲の強さから考えれば、話題なんて軽い次元じゃない。非常事態以外の何物でもない。

「・・・じゃ、俺は店内巡回に戻ります。」

 俺でも気まずいと思える空気に耐えかねて、俺は離脱を決める。感情が爆発しそうな晶子を、狙われているらしい俺がなだめようとするのは多分に無理がある。
ただでさえ不器用な俺が、爆発すると止まらない晶子の感情を巧みに制御出来るとは思えない。

「あ、祐司君。ミートスパゲティーセット2つを10番テーブルにお願い。」
「分かりました。」

 潤子さんからカウンター越しにミートスパゲティーセットを受け取り、それを指定された10番テーブルに運ぶ。そこには女子高生と思しき4人組。先に運んだ
イタリアンセットを2人が食べている。「お待たせしました」と言ってそれぞれの前に置く。それを見て「美味しそうー」と歓声を上げる客に注文漏れがないことを
確認してから、その場を立ち去る。
 店内を見回す。席は・・・満席だな。あ、田中さんが手を挙げている。注文が決まったか質問か−初めての客はセットメニューの有無をよく尋ねる−分からないが、
何かあったことには違いない。直ぐに向かう。

「お待たせしました。どんな御用でしょうか?」
「このグラタンセットって、注文出来る?」

 田中さんは、メニューの中ほどにあるグラタンセットの写真を指差して尋ねてくる。寒い季節に人気のメニューの1つで、主な具として鳥、豚肉、野菜のみから
選べる。鶏肉が苦手という人は意外に多い。俺の好みで判断出来ないという典型的な例だ。

「勿論出来ますが、書いてありますとおり出来上がりまでにお時間をいただきます。」
「時間がかかるのは構わないわ。此処には夕食を摂りに来たんだから。」
「そうですか。」

 今日は平日だし、この時間だったらまだ生協の食堂は空いている筈。ということは、田中さんは今日来店したのは冷やかしじゃなく、夕飯を食べるという実目的を
持ってのことなのか。

「グラタンは主な具をお選びいただけます。いかがいたしましょう?」
「鳥でお願いするわ。飲み物はホットコーヒーで、食後にお願いね。」
「分かりました。グラタンセットをお1つでお飲み物はホットコーヒーを食後に。以上でよろしいでしょうか?」
「ええ。」
「では、暫くお待ちください。」

 一礼してからテーブルを離れる。ごく普通の注文だ。飲み物を尋ねる前に言ったのと、持って来る時間を同じく尋ねる前に言ったことが違う程度だ。別に俺を狙いに
来たとか存在を誇示するために来たとか、そんな様子はないんだけどな・・・。

「8番テーブルにグラタンセットを1つ。具は鳥で。飲み物はホットコーヒーで食後で。」
「はい。」

 俺が差し出したメニューを、潤子さんが受け取ってキッチン脇に貼り付ける。メニューは裏面の上部が何度か取り外し出来るようになっているから、こう出来る。
潤子さんのアイデアだが、多い注文を確実にさばくにはメニューをなくさないことが肝要だし、作っていないメニューをキッチンから一望出来るから、役立っている。
 メニューを伝えたらそれで休み、とはいかない。店内を回って客の動き−追加注文や席を立つ時−がないのを見計らってステージに上がって何か演奏する。
接客専門の俺はリクエストタイムまでのステージ登壇の頻度が一番高い。日曜限定でキッチン担当の潤子さんは勿論、大量のメニューを潤子さんと共にさばく晶子は
最近あまりキッチンを離れられない。マスターは時々出るが、コーヒーを放っておけないから期待するもんじゃない。
 グラタンが出来上がるまで約30分−ソースから作ってオーブンで焼く−。俺は店内を回って時に料理を運び、時に食器を片付けてキッチンに運び、時にステージに
上がってギターを爪弾く。受験シーズンであることを考慮して、しんみりした雰囲気の曲を避けてミドル〜アップテンポの曲を演奏する。今日は金曜だから割と社会人の
客も多いが、受験直前対策の塾通いのために夕食を済ませるという学生の比率がやはり高い。客席から人1人分高い位置にあるステージから見ると、その日その時の
客の顔ぶれがよく分かる。

「あ、祐司君。早速だけどオーダーの料理を運んで。」

 ギターソロバージョンの「明日への扉」を演奏し終えて、拍手の中ステージを駆け抜けてキッチンに到着した俺に、潤子さんが声をかける。今日何度目かの料理運びだ。

「8番テーブルにグラタンセットをお願いね。」
「はい。」

 カウンター越しにトレイに乗った料理を受け取って客席に向き直ったところで、8番テーブルに座っている人物が誰かを思い出す。
8番テーブルは「夕食を摂りに来た」という田中さんが座っている。ステージからは演奏前に客の入りが今日も凄いな、と思っただけで何処に誰が居るかまで
記憶していない。記憶していたとしても、演奏に集中する際に蒸散してしまう。
 キッチンから見ると背を向けた状態で座っている田中さんの前に料理を差し出す。無論「失礼します」を忘れない。接客の1つとして染み付いている。高校時代に店を
手伝わされた時の経験が生きているところの1つだ。バイトとして採用後半月ほどしてマスターと潤子さんから、接客態度を観察していたと言われ、接客担当として
文句ないものだった、との評価をもらった。それで悪かったら辞めてもらうつもりだったらしい。接客態度が悪い店には行きたくないというのは俺でも分かる。

「お待たせしました。こちら、グラタンセットでごさいます。」
「へえ・・・。随分美味しそうね。」

 それまで変化がなかった田中さんの表情が少し緩む。田中さんのこういう顔って初めて見るような気がする。

「食後にホットコーヒーをお持ちいたします。」
「お願いね。」

 田中さんが食する様子を見ることなく、俺は田中さんの席から離れる。客の顔や食するところを観察している余裕はない。閉店時間まで、厳密にはリクエストタイム
終了まで店内巡回とキッチンとの行き来が続く。食事を済ませて出て行く客。それと入れ替わりに来店する客。その応対で頭と身体がいっぱいになる。
 ある程度時間が経ったところでふと田中さんの席を見る。先に出したグラタンセットを食べ終わったようだ。となると次は、食後のコーヒーだな。その前にテーブルを
片付けないと。食後に飲み物を出す際は、食べ終わった食器を片付けてからというのが基本だ。

「こちら、お下げしてよろしいでしょうか?」
「ええ、どうぞ。」

 綺麗に食べられているが、片付ける前に一応断りを入れる。グラタンに限らず、店で出すメニューの量は多めだ。食べ盛りでもある中高生の客が多いことを考慮しての
ものだが、ダイエットが念頭にある女性の場合はキッチン側で量を減らすこともある。
ダイエットで食べる量を控えていると言う一方で、デザートのアイスクリームやパフェはしっかり食べているのが奇妙に思うが、今回田中さんに出された量は店での
平均的なもの。つまり割と多めなんだが、全部残さず食べたのは出した方としては気分が良い。

「8番テーブル、下げました。飲み物をお願いします。」
「はい。マスター、出来てる?」
「おう。」

 俺からトレイを受け取った潤子さんが尋ねる。マスターは何時も潤子さんを名前で呼ぶが、潤子さんは大抵「マスター」と呼ぶ。「あなた」と呼ぶのは完全にプライベートに
なってからだ。かく言う俺と晶子は、バイト中は注文を伝えたり料理を受け取ったりといった事務的なこと以外では相手を呼ばないし、呼び合う時間的余裕がない。
 ・・・晶子は黙々と料理を作っている。普段はキッチンで忙しいながらも時折潤子さんと話をしていたりするんだが、今は顔を上げずにひたすら料理をしている。
・・・晶子にとっては非常事態のままだから当然と言えばそうだが、田中さんは単に夕食を摂りに来ただけなんだし、警戒する必要はないと思うんだが。

「ほい、祐司君。コーヒーだ。」
「あ、はい。」

 それ以上晶子を観察する前に、マスターから呼ばれる。コーヒーが入ったコーヒーカップを皿と一緒に受け取って、注意深くテーブルに運ぶ。椅子の背凭れに身体を
預けて悠然と座っていた田中さんの前に、コーヒーを差し出す。

「お待たせいたしました。」
「どうも。」
「ご注文は、以上でよろしいでしょうか?」
「ええ。」
「では、ごゆっくりどうぞ。」
「ちょっと待って。」

 追加注文がないのを−中高生だとここでよくある−確認して立ち去ろうとしたところで、田中さんに呼び止められる。何だろう?ともあれ、聞かないことには
話にならない。

「何か御用でしょうか?」
「貴方のギターは今度何時聞けるの?」
「ギター、ですか。」

 次のギターの演奏時間を聞かれて、思わず繰り返してしまう。

「普段は店内を巡っていますので、リクエストタイムまでは空いた時間があれば、というところです。ですので、時間は断言出来ません。」
「リクエストタイムでは貴方の演奏を聞けるの?」
「リクエストの権利を得られれば。」
「そう。」

 田中さんは小さく溜息を吐く。少し残念そうに見えるのは気のせいだろうか。

「ありがとう。それが聞きたかっただけ。」
「・・・では、失礼します。」

 ギターの演奏を聴きたかったらしい。ステージには今日2回ほど上がったんだが、田中さんはその時食事中だったかもしれないし−演奏中に客の動向を観察する
余裕はない−、そうだとすれば、演奏だけ聴きたいと思うかもしれない。
店内は相変わらず混み合ってるから、田中さんにだけ構ってはいられない。席を離れて店内の巡回とキッチンとの行き来に戻る。時折田中さんの様子を見る。
周囲の賑わいから見えない壁を作って、1人コーヒーを飲みながら寛いでいるように見える。

「ねえねえ、安藤君。」

 店内の巡回中、料理の皿を下げるために立ち寄ったテーブルで常連のOL集団に呼びかけられる。俺が1年の頃から通っているから俺も顔を憶えている。

「あの女性(ひと)、今まで見たことないけど綺麗よね。」
「どちらの?」
「ほら、窓際のテーブルに1人で座ってる女性。ボブヘアーの。」

 窓際のテーブルに1人で居るボブヘアーの女性と言えば、今日は1人しか居ない。田中さんだ。OL集団は毎日と言える頻度で来店しているから、その日における
その時間帯の客の顔ぶれを概ね把握していても不思議じゃない。

「今日あたし達が来た時には居たけど綺麗で、何かこう・・・、大人っぽいから。ほら、此処って若い子が多いじゃない。中高生あたりの。」
「中高生は多いですね。塾の往復の途中で立ち寄って夕食を済ませるっていうパターンが結構居るそうですから。」
「そんな中だから余計に目立つのよね。さっきまで隣の席に居た高校生の男の子達も、頻りにあの女性のこと話してたし。」
「うんうん。『凄く大人な雰囲気』とかね。あたし達が見ててもそう思うし。」

 このOL集団って確か自分達の年齢を20代後半と前に言ってたが、馬鹿騒ぎせずに悠然と自分のペースで余暇を楽しむ様子は大人の雰囲気と言えるものだ。
同性も注目するだけのものなんだろう。中高生も話題にしていたのも分かる。
 男性はあまりそうした傾向は内容に思うが、女性は集団行動を好む傾向があると聞く。それに同調しないと仲間外れにされ、数では集団対個人、質は陰湿な苛めに
結びつくとも。それに耐えられないから、ファッションやグルメといった作り出される流行に、誰かに依存しようとするから占いに安易に乗りやすいとも。
耕次と宏一−宏一はあのちゃらんぽらんな行動とは裏腹に経済関連の話題を詳細に語れる−の言に基づくものだが、それらは結構的を得ていると思う。
大学では男性だと個人単位で行動している人は多いが、女性は大抵集団で行動する。店でも単独の男性客は居るが、単独の女性客は極めて稀だ。まずないと
言って良い。
 常連のOL集団も、会社の同僚で誘い合って来ているから顔ぶれは固定されている。つまりは集団行動だ。そこから見ると、同年代の女性が1人マイペースで寛ぐ
風貌は関心を呼ぶんだろう。高校生が話題にしていたというのは、田中さんが美人と言われる外見だからこれまた容易に分かる。男性は時に女性以上に見た目に
左右されやすいもんだ。

「安藤君に話しかけてたけど、知り合い?」
「あ、いえ。今日初めて来られたので、店のメニューやシステムを尋ねられたんです。」

 同じ大学の博士課程で、ましてや晶子と同じゼミとは言えない。話をややこしくするだけだ。あくまで客観的な接客の側−妙な表現だが−に徹するに尽きる。

「高校生の男の子達、『次見たら声かけてみようか』とか言ってたけど、そうしたくもなるよね。若い子は綺麗なお姉様に憧れるから。」
「あたし達が居るのにねー。」
「えっと・・・、お話の途中で失礼ですが、店の仕事に戻らせていただきます。」
「あ、御免ね。引き止めちゃって。」
「今日の演奏も良かったよ。」
「ありがとうございます。」
「リクエストタイム、楽しみにしてるから。」
「リクエスト権を得ましたら、どうぞよろしくお願いいたします。」

 このまま談笑に耽るわけにはいかないから、適当なところで切り上げる。食器を片付けて次に飲み物を持ってくることを告げてから、キッチンに急ぐ。
リクエストタイムはまだだが、店の繁忙は俺をそう簡単に休ませてはくれない。
 食器をキッチンに渡して店内の巡回に戻ろうとしたところで、田中さんがすっと立ち上がる。コートを持ったから店を出るんだろう。リクエストタイムまでは
待たないのか待てないのか分からないが、レジの担当はほぼ俺の仕事だから、それを受けないと・・・。俺は先んじてレジのある、カウンターと出入り口の近くにある
場所に立って、コートを着た田中さんの応対をする。

「グラタンセットがお1つですので、800円になります。」
「はい。」

 田中さんは取り出した黒のシンプルな財布から、500円硬貨と100円硬貨で800円丁度を支払う。俺はレジを打つ。店の収支に重大な影響を及ぼすから決して疎かに
出来ない重要な仕事だが、マスターがコーヒー作りと店全体の監視、晶子と潤子さんがキッチン専門だから、事実上俺が一手に引き受けている。一応晶子も接客
担当ではあるんだが、注文量が晶子をキッチンから容易に出させない

「800円丁度、おあずかりします。こちら、レシートになります。」
「ありがとう。話に聞いたとおり、美味しい料理だったわ。」
「ありがとうございます。またお越しください。」
「そうさせてもらうわ。・・・じゃ、仕事頑張ってね。」
「あ、どうもご丁寧に。」

 田中さんは、柔和な笑みを浮かべて軽く一礼してから店を出て行く。「ありがとうございました」の声でその背中を見送る。確かに大人の女性だな。
立ち居振る舞いからして他の女性客とは一線を画している。
さて、店の仕事に戻らないと。ステージがある場所の左右の壁にある時計を見ると、リクエストタイムまであと30分を切っている。忙しいと時間が過ぎるのが早く
感じるが、後30分と言えども店の仕事はひと段落とはならない。マスターと潤子さんから食後に出す飲み物を受け取り、次に料理が出来ることを聞いて、客席に戻る。
その時晶子の顔を見たが、緊張や警戒を解いたようだ。しかし、それほど警戒する必要はないと思うんだがな・・・。晶子の独占欲ややきもちがこれほど表面化
したのは、一昨年の夏に宮城と出くわした時以来だろう。
 あの時は、俺を天秤にかけてふっておいて今更いけしゃあしゃあと復縁を迫ってくるな、という晶子と共通の思いがあった。違ったのは、俺が宮城との関係に
完全に終止符を打つ気が潤子さんの促しもあって生じたことと、晶子が今更何も言う権利はないし与えないと強硬な態度に終始したことくらいだ。それでも晶子は
普段ではまず考えられない勢いで潤子さんに食って掛かったし、清算の場に出向いた俺を今すぐにでも引き止めんとしていたと聞いた。だとすると、今回はそれより
深刻な事態になるかもしれない。
 ・・・ともあれ、その件は後だ。今は仕事に専念しよう。マスターと潤子さんが何かアドバイスしてくれるかもしれない。最終的には自分達で解決しなきゃならないが、
受けられる助けは受けるようにしておこう。

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