雨上がりの午後

Chapter 204 予期せぬ台頭(後編)

written by Moonstone


 翌週の月曜日。後期試験は確実に迫ってきているのに実験は健在だ。今日も今日とて梃子摺っている。
VHDL(註:ディジタルLSIの動作を設計するハードウェア記述言語の1つ)によるカスタムICの設計なんだが、智一が多少動ける程度で残る2人はまったく役に立たない。
人の数がめっきり少なくなった計算機関係の学生実験室の一角で、俺は1人黙々とテキストにあるフローチャートから論理設計をしている。
智一は先週この実験を済ませたグループから情報収集をしようとしたが、そのグループが担当教官の居室へチェックを受けに行っていて、手ぶらで戻ってきた。
隣の机でテキストを読んでいるが、首を傾げるばかり。まるで理解出来ないというのが見え見えだ。他の2人は行方不明。もう居ても居なくても一緒だから
放っておいてある。グループの牽引に神経を削るより、実験を進めた方が幾らか建設的だ。
 実験内容そのものは殆ど一定のパターンだ。VHDLで課題どおりのディジタル回路を論理設計して、CPLD(註:Complex Programmable Logic Deviceの略で、
動作設計を繰り返し行えるカスタムICの1つ)に書き込んで、その動作をロジアナ(註:ロジック・アナライザの略。16以上の入力端子を有し、電子回路の複数の
信号を同時に観測する測定機器)で観測してその動作を確認&問題なければプリントアウト。この繰り返しと言える。
 テキストの最後に複数の設問があるが、それはカスタムICやハードウェア記述言語のことを理解していればさほど難しくない。先んじて解答出来る範囲で
解答を作成して、ノートに走り書きしてある。理解していると言ってもVHDLってやつは仕様が厳格だから、少しの記述ミスでコンパイル(註:ハードウェア
記述言語でもICに書き込む時にはコンパイルという、ICが理解出来る形式に変換する必要がある)エラーがどかどか出る。これ専門じゃないから、すらすらと
論理設計が出来るわけじゃない。試行錯誤そのものだ。

「ふう・・・。」

 思わず声も混じる溜息が出る。どうにかコンパイルがエラーなしで終了。これをICに書き込んでロジアナで計測。一連のパターンはあと1回だから、
もう少しの辛抱だな。これが成功したら、の話だが。

「智一。どうだ?最後の問題は。」
「うーん・・・。コードの書き方がよく分からない。3ステート(註:ICのピンが入力・出力・ハイインピーダンス(未接続と等価の状態)の3つの状態を持つこと)が
混じってやがるから・・・。」
「こっちはとりあえずコンパイル完了までこぎつけた。あと1問なんだから、何とか考えろ。」
「もう出来たのかよ。」
「智一が遅過ぎるんだ。」
「あう・・・。」

 少し語気を強めると、智一は小さくなってテキストに向かう。ったく・・・。俺が3問解く間に1問も、しかもコンパイルの成否は兎も角紙の上での設計くらい出来なくて
どうするんだ?久野尾研でも音響関係のDSP(註:Digital Signal Processorの略。特定の目的に使用される専用ICで、音声や映像など複雑で高速な処理を
要求される部分を担う)でカスタムICを設計する研究テーマがあるんだぞ?
 ・・・今はこの実験を終わらせるのが先決だな。ケーブルを回路基板に接続して、ソフトウェアの「Write」ボタンをクリックする。ログの流れを観察する。
ずらずらとメッセージが流れて、最後に「Completed...」と出る。これで書き込みは成功。次はロジアナでの動作観測。ロジアナのプローブ(註:ICのピンや
回路基板上のテストピンなどと接続する端子)を接続して、ロジアナの設定を確認。・・・よし、OK。ロジアナの「RUN」ボタンをクリックして「Runninng...」となったのを
確認してから、回路基板の動作開始スイッチを押す。
 「Running...」が「Complete」に変化して、画面に波形がずらっと並ぶ。テキストと見比べながら、所定の動作になっているかどうか確認。・・・よし、OK。
これをプリントアウトしてこの問題は完了だ。ロジアナのマウスカーソルをメニューに持っていって、メニューから「Print」を選んで「OK」をクリック。
近くのプリンタが稼動する音がする。席を立ってプリントアウトされた紙に波形がきちんと印刷されていることを確認。これで完全にこの問題は完了だ。
席を立ったついでだ。晶子にメールを送っておこう。俺はプリントアウトされた紙を智一が座っているテーブルに置いて、窓際に立って携帯を広げる。
・・・ん?メールが届いてる。実験中は集中を途切れさせられないようにマナーモードにして、バイブレータもオフにしてるからな。届いたメールを開く。

送信元:井上晶子(Masako Inoue)
題名:陣中見舞いに行きますね。
メールありがとうございます。今まで私が送り迎えしてもらうばかりでしたから、工学部の見学を兼ねてそちらにお邪魔します。手が空いたら電話してくださいね。

 こっちに来る?思いがけない来訪の予告に驚きながら、俺は晶子に電話を掛ける。コール音が聞こえ始める。今何処に居るんだ・・・?

「はい、晶子です。」

 3回目のコール音が終わったところで晶子の声に変わる。普段だとBGMで歓声とかがあるんだが、今日はない。午後8時を過ぎてるから、帰ってるだろうな。

「晶子。さっきメール見たんだけど、こっちに来るのか?」
「ええ。実は今日、お弁当を作って持ってきたんです。」
「弁当を?」

 思わず聞き返す。そう言えば今日の晶子、普段使ってる鞄の他に小さめの箱型の鞄を持ってたな。晶子が持ってるPCが入ってるんだろうと思って聞かなかったが。

「ちゃんとゼミの居室にある冷蔵庫に保存しておいてありますから、大丈夫ですよ。」
「それは良いけど、今何処に居るんだ?この暗い中、晶子1人で来るのは物騒だから、迎えに行く。」
「あ、私1人じゃありません。学部4年の人2人と・・・田中さんが同行してくれますから。」

 田中さんの名前を出すところで少し間が出来た。金曜に続いて土日の夜も求められて激闘を展開して安心したかと思ったんだが、同行されると分かって
やはり警戒心が再燃したんだな。

「分かった。場所は、工学部の実験棟2階の202号室。彼方此方に標識があるし、『学生実験室』っていうプレートが出てるから分かると思うけど、
迷ったりしたら電話してくれ。今実験はひと段落してるから、電話に出られるようにしておく。」
「はい。それじゃ、今から行きますね。10分ほど待っていてください。」
「ああ。気をつけてな。」
「はい。」

 電話を切る。晶子を含めて4人で固まってくれば大丈夫か。幾ら物騒とは言え、此処は大学内。繁華街のど真ん中よりはまだずっと安全だ。そうでなかったら、
大学の中を常時警察官が彼方此方に突っ立ってなきゃならない羽目になる。

「晶子ちゃんがこっちに来るって、本当か?」
「ああ。同じゼミの学部4年2名と博士1名同伴で。」

 智一の声が弾んでいる。目も輝いている。目ざとい、否、通話を聞いてだから耳ざとい、か。何にせよ、智一にはもっと重要なことが直ぐ目の前にある筈だ。

「最後の問題、出来たのか?」
「あ、いや、これがなかなか難問で・・・。」
「あのな・・・。」

 途端におろおろし始めた智一に、俺はまともに言葉を続けられない。直ぐに深い溜息に取って代わる。他2名はもうどうでも良いが、せめて智一が
動いてくれればなぁ・・・。

「俺は電話に出られるように此処に居るから、何としてでも解いてくれ。」
「んなこと言ってもさぁ・・・。」
「無駄口叩いてる暇があるなら、手を動かせ。」

 丁度智一の背後に陣取る形で言うと、智一は小さくなってテキストに向かう。俺1人で4問解いたんだ。1問くらい解いてもらわなきゃ割に合わない。
・・・まあ、結局は時間的問題で俺が片付けることになるんだが、それなりに苦労ってもんを味わってもらわないとな。
 広げた携帯をドアがノックされる。計算機関係の実験室はあまり音がしないから良く聞こえる。来たか、と思ってどうぞ、と応答する。ドアが開いて小さな長方形の
鞄を持った晶子と、肩を少し超えるくらいの黒と茶色の髪の、紺と明るいグレーのコートをそれぞれ着た女性、そして黒のコートを着た田中さんが入ってくる。

「こんばんは。お邪魔します。」
「「お邪魔しまーす。」」
「お邪魔します。」

 人の少なくなった実験室がどよめく。無理もないか。女の比率が圧倒的に少ない電子工学科、しかも今は男しか居ないこの実験室に女が4人も、しかも
客観的に見て美人2人−晶子と田中さん−が居るとなれば、当然だよな。俺は携帯を閉じて晶子達に歩み寄る。

「祐司さん。お待たせしました。お弁当持って来ましたよ。」
「ああ、ありがとう。」

 晶子から、鞄の中から出された2段重ねの弁当を受け取る。蓋を開けるのは後のお楽しみ。

「へぇー。工学部の実験室ってこんなのだったのかー。PCがズラリー。」
「見たこともない機械もいっぱいねー。凄ーい。」

 学部4年の2人が興味深そうに辺りを見回す。その様子をこれまた興味津々の様子で見詰めるのが実験グループの面々。見詰める対象が双方でずれているのが
よく分かる。

「晶子は夕飯、どうしたんだ?」
「あ、お先に済まさせてもらいました。祐司さんと同じお弁当を持ってきていたので。」
「7時過ぎまでゼミに残っていたこの面々で、生協の食堂でね。井上さんだけは貴方と同じく手製の弁当だったけど。」

 晶子の回答に田中さんが補足する。なるほど。夜遅い時間までゼミに残っていた面々を引き連れて生協の食堂で夕飯を済ませた、ってことか。その後どういう
話の流れがあったのかは知らないが、晶子が俺に弁当を届けるついでに未踏の地である工学部を見学しよう、ということになったんだろう。

「祐司さん、実験の方はどうですか?」
「さっき晶子に電話で言ったとおり、ひと段落したところ。あと1つ終わらせれば、担当共感の部屋へ行ってチェックを受けられる。それでOKが出れば終了だから・・・、
智一。」
「ちょ、ま・・・。」
「・・・もう暫くかかると思う。」
「大変ですね。」

 智一に釘を刺す意味を込めて言ったら狼狽したところからするに、全く進んでいないんだろう。俺の溜息に続いた晶子の労いが心苦しくさえ感じる。
結局時間的問題で−終電が出た後も居残らせられたら晶子にもいい迷惑でしかない−俺が解くことになるんだが、もう少々絞ってやろう。

「実験が夜遅くなるのは毎度のことだし、それより折角弁当持ってきてもらったんだから、食べようかな。」
「別の部屋に移動しますか?」
「否、此処は飲食可だから此処で食べる。」

 外に出るのは何だし、実験棟で他に飲食可能な場所は限られている。この時間だと待合室の暖房は切られているし、久野尾研の学生居室がある研究棟まで
移動するにもちょっと距離がある。幸か不幸か今は人も少ないし、智一の監視がてら此処でじっくり食べさせてもらうとしよう。

「ねえ。1つ頼んで良いかしら?」
「あ、はい。何ですか?」
「簡単で良いから、この実験室にあるPC以外の特徴的な機器を紹介してくれないかしら。初めて見るものばかりだし、工学部に来る機会はそうそうないことだから。」
「此処は計算機関係の実験室ですから、他の実験室と違ってめぼしいものは少ないんですけど・・・。分かりました。」
「お願いするわね。」

 俺は、晶子から受け取った弁当を持ったまま、晶子と田中さん、そして同行してきてきょろきょろ見回している4年の人2人に、実験室にある測定機器を
簡単に紹介することにする。簡単に、と言っても電子回路関係の知識が一応学科所属の俺よりは少ないだろうから、具体的事例を挙げながら説明する必要がある。
自分では分かっていても人に説明するのは意外に難しいもんだ。実験の後担当教官の設問に口頭で答えるのも、他人に説明出来るほどしっかり理解出来ているか
どうかを確認する意味合いがあるんだと思う。

「これは、ロジック・アナライザという機器で、回路基板にある所定の場所の電気信号を複数同時に測定して表示するものです。」

 手始めに、実験で使っているロジアナから解説を始める。画面にはさっき測定した波形が表示されたままだから、こういう感じで測定結果が表示される、と
説明するには好都合だ。学生実験だから機密も何もないし。
 回路基板にあるCPLDとPCのCRTに表示させてあるVHDLのソース画面を交互に見せて、次に自分の携帯を取り出して見せて、小型化・高速化が急速に進展する
電子機器では、部品を小さくするのは勿論、回路の動作を出来るだけ狭い面積に集約する必要があることを説明し、0か1かの世界と言えるディジタルICでは
CPLDをはじめとするカスタムICをこうしてプログラミングのように動作を設計して、量産体制に入る、といったことを説明する。晶子も田中さんも、4年の2人も
興味深そうに聞き入っている。
 少し緊張する中−人前で説明することに慣れていないからだ−、オシロ(註:オシロスコープの略称。2〜4程度の入力を持ち、回路の信号を観測する機器。
入力可能電圧がロジック・アナライザより広く(200Vなど)、「0か1か」しか分からないロジック・アナライザとは違って連続変化する電圧波形が観測出来る)も説明する。
オシロもこういう場所でもないとまず見られないものだからな。これも興味津々といった様子で聞いてくれる。

「此処では・・・こんなところですね。計算機関係ですから基本的にはPCでどうこうすることが殆どなので、目立った測定機器が少ないんですよ。」
「へぇー。こんな機械使ってるんだー。」
「確かにこんな小さい部品使わないと、携帯とか作れないよね。」

 4年の人達は頻りに感心している。携帯を具体例に出したから、結構身近に感じてもらえたようだ。ただ波形を見せるだけだと「これってどういう意味?」って
聞かれるのがオチだろうし、感覚的にでも分かってもらえる方が良い。

「学生実験とはいえ、随分実践的なことをしているのね。数式の考案とPCでのシミュレーションが中心かと思っていたんだけど。」
「研究室によっては理論重視のところもありますけど、工学は実用分野に直結する事項を扱うことが多いですから、実際に機械を動かしたり測定をしたりといった、
結構泥臭いことをしてるんですよ。」
「でも、そういう泥臭い現場があるから、私達は日進月歩の勢いで性能が向上するPCや携帯など高機能な電子機器を手軽に扱える。重要なことよね。」

 田中さんの分析は、物珍しい機器や高度な技術と一心同体の関係にある、何度も繰り返す測定や目的の機能を実現するまでの試行錯誤といった地道で
泥臭い作業にも及んでいる。物の見方が違うな。

「忙しい時間を割いて説明してくれて、ありがとう。井上さんは私達が責任を持ってゼミの居室まで送り届けるから、安心して実験を進めて頂戴。」
「はい。お願いします。」
「祐司さん。鞄を渡しておきますね。」

 晶子から弁当が入っていた鞄を受け取る。

「食べ終わったら、そのまま蓋だけ閉めてこれに入れて置いてください。」
「分かった。」
「実験、頑張ってくださいね。待ってますから。」
「ああ。気をつけてな。」

 晶子と田中さん、そして4年の人2人はそれぞれ「お邪魔しました」と言って退室していく。晶子達に向いていた視線が、ドアが閉まったのを契機に一気に
俺に向けられる。・・・気にはなるが、気にしていたら食事にならない。智一が居るテーブルに弁当を置き、椅子に腰掛けて弁当を開く。
 2段重ねの弁当は、上がふりかけご飯を敷き詰めたもの、下がおかずと果物だ。おかずは、俺の好物の鳥のから揚げ、アスパラのベーコン巻、肉じゃが、
プチトマトと千切りキャベツ、そして花弁の形に切り込まれた小さな蜜柑とバナナがデザートとして添えられている。彩りも豊かで、見るからに美味そうだ。

「うわっ!美味そうだなぁ〜。」
「問題を解け。」
「・・・はい。」

 向かい側から身を乗り出した智一に釘を刺すと−怒鳴ったりはしない−、智一は小さくなって再びテキストに向かう。俺は早食いじゃないし、今まで昼飯以外
ずっとPCとロジアナとオシロに向かい続けていたせいで、肩や腰にかなり張りを感じる。疲労が蓄積してのものだろうが、普段の月曜より早い、美味い夕飯を
食べる間に少しは和らぐだろう。
そういえば、冷蔵庫に保存しておいたと言う割にはご飯の部分がほんのり温かいな・・・。ゼミの部屋に電子レンジがあるんだろうか?まあ、冷え切ったご飯より
温かい方が良いことには違いない。電子レンジの所在どうこうは後で聞けるし。まずはから揚げから。
 ・・・うん、美味い。揚げたてじゃないけど、たっぷりの肉汁と食感は健在だ。昨夜の激闘でも終わってから俺より前に寝たけど、起きる時は目覚ましが鳴った後に
晶子に起こしてもらった。その時は台所で朝飯を作っている様子だったが、今考えると弁当の準備も兼ねていたのかもしれない。

「良いなぁ〜。晶子ちゃんの手作り弁当・・・。少しだけで良いから恵んでくれ〜。」
「その問題を解いて1人で実験済ませて、設問にも全部答えられるならな。」
「キツイぞ、その条件。」
「そのキツイ条件を今まで殆どクリアしてきた俺の気持ちは分かるか?」
「う・・・。」

 再び弁当に触手を伸ばしてきた智一を沈黙させるには、これが一番手っ取り早い。智一の場合、まだ罪の意識があるからな。残る2人はそれすらないから
どうしようもない。説教食らおうが留年しようが知ったことじゃないからもう良いが。
晶子の弁当を食べた回数はあまり多くない。付き合うようになって春先に出かけるピクニックと、一昨年の夏にドライブに行った時くらいだ。晶子は俺が頼めば
明日からでも弁当を作る気構えでいるが、晶子も現役の学生。しかも今は俺と同じく進級がかかった後期試験を間近に控えてる身。無理はさせられない。
 もしかすると、今日弁当を作ってきたのは「何時弁当を作ってくれ、って言っても準備OK」という暗示なのかもしれない。3夜連続で晶子と激闘を展開した。
俺もしこたま疲れたが、晶子も事情を話した金曜の夜以外は終わった後程なく俺に抱きついて眠ってしまったくらい疲れた。それでも朝は俺より早く起きて
朝飯は勿論、こうして弁当を作ってきてくれた。そこから考えると、この弁当は晶子からの暗示と考えた方が納得がいく。
 「何か」を感じて、食べながらその方を向く。丁度部屋の対角の位置関係にあるグループ−数からして3つくらいだろうか、片づけをしたりしながらチラチラと
見ている。俺と目が合ったことで視線を元に戻して手の動きを再開する人もいる。注目・・・されてるんだろうな、やっぱり。8時過ぎまで待っていた彼女が弁当を
届けにきたんだから。あ、去年の暮れに結婚を公言したから「愛妻弁当食べてる」と思ってるんだろうか。
 うーん・・・。晶子がわざわざ作ってくれたことは勿論嬉しいし、料理も何時もどおり美味いんだが、どうしても照れくささの方が先行するなぁ。3つくらいのグループ、
人数にすれば10人少々の、それも普段殆ど付き合いのない人に見られてこういう気分になっているようだと、4年に進級しても昼に弁当を取り出して食べるには
程遠いな。我ながら贅沢な悩みだとは思う。

「智一。」
「す、すまん!まだ時間がかかりそうだ!ゆっくり味わって食べててくれ!」

 自然を弁当に向けたまま言ってみると、智一が明らかに狼狽した様子で弁解する。今回も朝からずっとPCと測定機器に黙々と向かっていたことで蓄積していた
不満が、結構解消出来たように思う。たまにはこれくらいしても罰は当たるまい。
早食いじゃないから、ご飯もおかずもまだ半分以上残っている。夕飯で弁当を食べるのは随分久しぶりだ。そもそも、弁当と言われれば連想されるものの
1つと言っても過言ではないコンビニと縁遠くなっている。晶子との距離が縮まり、関係が深まるにつれて、月曜の夕飯も土日の朝と昼も自分で作るか晶子に
作ってもらうかになったからだ。
 かと言って、コンビニ弁当に戻りたいとは思わない。プラスチックだが使い捨てのために作られたために生じる安っぽさがない箱に始まり、中身も手作りの、
馴染み深い味のものばかり。この味にすっかり浸っている今、買って済ませる事例に戻りたいとはとても思えない。作りたてとはまた違う喜びと安堵感を、
料理を食べながら味わう。うん、本当に美味いな・・・。

 今日の実験も終わった。時刻は9時をとっくに過ぎて10時にかなり近づいている。俺が弁当を食べている間に智一に任せておいた問題は、どうにか出来たという
ソースを入力してコンパイルしてみたら、エラーが大量発生。検証してみたら論理設計が出鱈目だった。結局俺が試行錯誤して終了させ、何時もどおり担当教官の
口頭での設問に答えて先に解放された。
実験で俺が指名を受けて1対1で問答して、それが終了したら解放、というのは定例化している。智一達への説教に巻き込んで研究室の印象を悪くしたくないという
思いなんだろう。先週久野尾先生の居室で話をしていた時に入室してきた院生の人達が、彼方此方の研究室が水面下で俺の獲得に動いているというし、
この前の実験でも担当教官から研究室の勧誘を込めた紹介を受けたくらいだしな。
 晶子には「実験が終わったから迎えに行く」メールを送ってある。それへの晶子からの返信も届いている。先週の金曜と同じく、ゼミの学生居室で待っていると
あった。一度行ったから場所は覚えている。街灯が転々と灯る通りを歩き、学生証をスロットに通してロックを外し、文学部の研究棟3階にある戸野倉ゼミの
学生居室を目指す。廊下は静まり返っていて、足音がよく響く。
ゼミの部屋の前に到着。ドアには一部ガラスが填まっているが、部屋の明かりがついているかどうかしか分からないタイプだから、中に人が居るかどうかを
確かめるにはまずノックをする。ノックをすると、はい、と応答が返って来る。ドアを静かに開けると、PCに向かっている女性2人がまず目に入る。晶子は・・・何処だ?

「こんばんは。」
「あ、井上さんの旦那さんじゃない。今日は突然お邪魔して御免ねー。」
「いえ。」
「井上さんはゼミの書庫に行ってるから、すぐ戻ってくると思うよー。その辺に適当に座っちゃってて。」
「じゃあ、失礼します。」

 ゼミの書庫に行ってるのか。そういえば、文学部ではゼミ単位で大量の本を所有してるんだったな。書庫というほどだから凄い量なんだろう。部屋に居た女性2人
−実験室に来た学部4年の人達だ−の厚意に甘えて部屋に入り、ドアを閉めて近くの椅子に座って待たせてもらうことにする。
 座って1分経ったかどうかと思う、それくらいの間を挟んで俺が閉めたドアがノックされる。こちら側からは人影しか見えない。学部4年の1人が、はい、と応答すると
ドアが開き、晶子と田中さんが姿を現す。それぞれ本を2冊くらい持っている。

「祐司さん、御免なさい。ゼミの本を返してなかったことを思い出して・・・。」
「そんなことくらい、気にしなくて良いよ。散々待たせたのは俺の方なんだし。」
「私が連れ出したわけじゃないってことを補足させて頂戴ね。」

 ゼミに所属しているから、徐々に卒論の準備をしたり並行して試験の準備をしたりしている筈。そんな忙しさの中で本の返却を忘れてしまっても、
別に驚いたりすることじゃない。俺は席を立つ。

「そうそう。貴方に渡しておきたいものがあるの。」
「俺に、ですか?」
「ええ。今年4年になるのよね?」
「試験で必要な単位を取れたら、ですけど。」
「井上さんから、貴方の真面目さやその反映である成績の優秀さは聞き及んでいるわ。この大学の工学部の研究室で争奪戦が展開されるほどなんだから、
進級は確実なものとして選定してきたものよ。」

 田中さんは、持っていた本の中から1冊を俺に差し出す。表紙には「研究者・技術者向け実用英語−工学編−」とある。

「工学部でも英語が原著の論文や書籍を読んだりする機会は多いでしょう。これを参考にすると良いわ。著者は工学系の現役研究者だから、信用性の面は
保証出来るわよ。」
「でも、これはこのゼミの本ですよね?部外者が持っていくのはまずいんじゃ・・・。」
「貴方はこのゼミ所属の学生の夫なんだから、間接的関係者よ。それにその本の著者は工学系。文学部のこのゼミでは人気がないから、工学部所属の
貴方が使うのが適切かと思って。」
「じゃあ、お言葉に甘えて。」

 俺が受講している講義で使っている標準的な厚さの本を受け取る。改めて本を見ると、訳者として「田中めぐみ」とある。この田中って・・・もしかして
目の前に居る田中さんのことか?

「あの、この本の訳者って・・・。」
「ええ。私。」

 田中さんはさらっと肯定する。晶子から翻訳業をこなしながら博士課程に在籍しているとは聞いているが、畑違いの工学関係の実用書の翻訳まで手がけてたとは・・・。
これならゼミの先生が博士課程進学を直々に依頼したくもなるだろう。必死にあがいてどうにか現状にある俺は到底及ばない。

「そういえば自己紹介がまだだったわね。私は田中めぐみ。戸野倉ゼミ所属の博士課程1年。」
「あ、俺は安藤祐司と言います。工学部電子工学科3年です。」
「今日は、実験の最中に押しかけた私達に説明してくれてありがとう。とても興味深いものを拝見させてもらったわ。ギターはまた今度ね。実験が長引いて
疲れたでしょうから、ゆっくり休んで頂戴。」
「こちらこそ、ありがとうございます。本はお借りします。」

 俺は本を鞄に入れる。こんな形で実用英語の本が入手出来るとは思わなかったな。文学部に彼女、否、妻が居ることで生じた副産物と言える。

「では、お先に失礼します。」
「ええ。お疲れ様。」
「お先に失礼します。」

 俺と晶子は挨拶をして退室する。学部4年の2人が小さく手を振っているのに対し、田中さんは本を抱えて佇んでいる。睨んだりしているわけではない。
何となく・・・見られている?何ともよく分からないし、何とも表現出来ない雰囲気を感じる。

「今日も待たせて悪かったな。」
「いえ。それは良いんです。普通の講義のように定時で終わることが決まってないんですから。」
「それにしても今日、弁当を作ってきてたなんて・・・。この。」

 俺は、晶子から預かった鞄を軽く挙げる。中には全て平らげて空になった弁当箱が入っている。

「鞄を持ってるのは知ってたけど、てっきりノートPCを入れてるものかと。」
「私が持っているノートPCは祐司さんと同じA4サイズですから、この鞄には入りませんよ。お弁当を作ってるところは見ませんでした?」
「否。料理を作ってるところは見たけど、何時もの朝の光景と同じだったのもあって、注意深く観察してなかったからな。」
「祐司さんが起きた頃だと・・・お弁当は大体作り終えていましたね。脇に置いていましたから、祐司さんの位置からだと私の影になって見えなかったかもしれないですね。」
「てことは、結構早くから準備してたんだな。」
「ええ。今日はお弁当を作るって決めてましたから。土曜日に一旦家に帰った時に、今祐司さんが持っている鞄も持ち出したのも、そのためなんですから。」

 晶子は今日弁当を作ろうと意気込んでいたんだな。・・・それも、これまでより1日早い金曜の夜から俺の家に泊まり込むことを決意させた、田中さんの翳が
俺の意識にちらつくのを警戒してのことだろうか。俺に二股かける甲斐性なんてありゃしないのにな。

「その弁当、美味かった。」
「ありがとうございます。そう言ってもらえて嬉しいです。」
「おかずの種類、結構多かったけど、準備に時間かかったんじゃないか?」
「土曜日と日曜日にお昼ご飯を作る時に併せて少しずつ準備していたので、トータルではそれなりにかかってますけど、今朝はそれほど早く起きてないですよ。」

 時間はかかってる筈だよな。土日の朝飯や昼飯のコピー−と言えるものかどうかはさておき−じゃなければ、単純に考えても1食分余分に作るのと同じなんだから。
昨夜終わってから早々と寝たのに、朝はきっちり起きられるのは、自炊のキャリアの長さと健全な生活リズムを持っている晶子ならではだな。

「お弁当、実験室で食べたんですか?」
「ああ。結構注目されてた。どうにも照れくさいんだよな。人に見られながら食べるのって。」
「私の顔や祐司さんとの関係は知られてるでしょうし、その人物が実験の最中に実験室に弁当を持ってきたんですから、注目されますよね。」
「・・・それを狙ってのことか?」
「そうかも。」

 晶子はほんの少し舌先を出して、悪戯っぽく笑う。狙ってのことだと確信するが、怒りとかそういう感情は生じない。「やられた」と「やっぱり」という気持ちが
同時に生じる。未だ不慣れな上に経験を積もうとしないのもあって、俺の場合は照れが先行するが、晶子の場合は羨ましがられる程度に見せたいという積極性が
先行する。まあ、そうでなかったら初めての誕生日プレゼントを左手薬指に填めてくれと譲らなかったりしないだろうが。

「ご飯がほんのり温かかったけど、あれは電子レンジを使ったのか?」
「ええ、そうです。ゼミには給湯室があるんですけど、そこに少し小さめの冷蔵庫とポット、食器類、そしてオーブンと電子レンジが置いてあるんです。
ゼミの共用物品ですから使用後の掃除は必須です。」
「やっぱりあるんだ。」
「今日私に同行してくれた学部4年の人2人は、卒論の公開発表会まであまり進展がなかったので、仕上げるために居残っているんです。田中さんは別の翻訳の
仕事がてら、その学部4年の人達を指導してるんです。」
「院生が学部4年を指導するっていうのは工学部でも同じだけど、人数が全然違うし、先生直々に博士進学を頼まれて翻訳業と両立させてるんだから、学部4年の
指導は簡単だろうな。」
「私はゼミの本の返却を忘れていたことに気付いて、急いで返却しに行ったんです。その帰りに、読書室から出てきた田中さんと出くわして、一緒に・・・。」
「晶子も自分の講義や卒論とかあるんだし、後期試験も近いんだ。無理して弁当作らなくて良いからな。」
「祐司さんに迷惑をかけない程度に頑張りますね。」

 自分より相手を優先させうタイプだから、心配ではある。だが、晶子は俺と違って時間のやりくりが上手い。そうでなかったら、今までバイト先での夕飯以外全部自炊で、
その上更に講義やレポートや試験をクリアしてこれない。心配無用と思うべきか。

「実験は、何時終わるんですか?試験が近いのに・・・。」
「今日を除いてあと2回。残りは全部IC設計関連だから、機械が正常に動いてるのを確認しながらあっちの測定器を見てデータを取って、こっちの測定器を見て
データを取って、なんて手間はない。今日みたいにPCと数台の測定機器に囲まれて黙々と、っていうパターンだから、まだ楽な方だ。」
「大変ですね。試験直前まで時間がかかる実験が続くなんて・・・。」
「工学部と実験とは切っても切れない関係だからな。実験があることは承知の上で今の学科を受験したんだし、実験を嫌がってるようじゃ、卒研なんてやってられない。」

 俺の実験グループでは智一の他2人が実験開始直後に行方不明になって、終了する頃になって返って来る。データとかはそのままくれてやっているが、
何も手を出さないからその場その時で変わる担当教官の設問に答えられる筈がない。院生とかから流れてきた情報でやり過ごせると思ったら大間違いだ、と
駒場先生−堀田研の助手の1人で実験指導担当の先生だ−が、最後の電力関係の実験の後での設問で俺に言っていたし。
それに、卒研で配属される研究室は殆どが何かしらの実験をする。紙と鉛筆さえあればOK、というところはごく少数だ。それも結局は自分でしないといけない。
研究テーマは複数あるが、学部4年が取り組むテーマは最低でも2人は関係する。相手任せだと定期的な報告会とかで何も言えずに大恥をかく。恥をかく程度なら
まだ良い。卒研も単位がある。勿論必須だ。取れなかったら留年と相成る。就職先が内定していようがその辺はお構いなしだという。
 学生実験を続けてきた範囲での推測だが、物性関係と電力関係は実験にかなり時間がかかる。恒温槽(註:一定温度を保持する専用機器。物性関係の
温度特性を測定する時などに用いられる)での設定を間違って測定を続けても無意味どころかやり直し。徒労でしかない。実験をするまでにも色々と下準備が
必要だったりする。それらが予め手順や設問が用意されている、言い換えれば何らかの答えが分かっている学生実験の段階で敬遠しているようじゃ、卒研なんて
手の着けようがなくなる。
 懸命に試行錯誤してようやく得られたデータや結果を、鵜飼の鵜、否、何不自由なく育った坊ちゃん嬢ちゃんみたいに労せず得て、何だかんだと言われながら
結局は解放されてレポートも出してそれでOKとなっている現状が馬鹿馬鹿しく思うこともある。だが、結局自分で何かをすることになったら、人任せにしていた時の
性根じゃ立ち往生する羽目になるだろう。
 それに、少なくとも今は愚直で不器用な自分が評価されている。彼方此方の研究室が勧誘する動きを見せているというし、意中の研究室ではもう事実上
受け入れ態勢が整っていると言って良い。バイト先では、忙しいのは変わらないが演奏では必ず大きな拍手をもらえるし、常連客からは4月からはどうなのかと
期待の裏返しと取れる不安の声を聞く。そして何より・・・、晶子が俺を認めてくれている。愛し続けてくれている。今がずっと続くわけじゃないが、
続けられるものは、続けたいものは続けていきたい。実家に立ち寄った時、その1つを宣言したんだからな・・・。

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