雨上がりの午後

Chapter 199 2人での買い物と料理談義

written by Moonstone


「かなり、混んでるようですね。」
「そうみたいだな。」

 駐車場の全容が見えるところまで来て、俺と晶子は苦笑い。予想どおり駐車場には車がびっしり並んでいる。通りから駐車場に入る車の数と出て行く
車の数とでは、前者の方が明らかに多い。駐車場は外だけじゃなくて地下にもあるが、見たところ外の駐車場はほぼ満車。敷地内に入った車もそれを知ってか、
地下の駐車場の入り口へ向かっている。
 こういう時、自転車や徒歩だと車の置き場所を考えなくて良い。運べる量は当然車よりは少なくなるが、俺と晶子の分を数日分買い込む程度の量なら、
2人で分け合えば十分運べる。此処から暫く通りを進んだところにも大型ショッピングセンターがあるが、そこも休日ともなると車でいっぱいになる。
そこは食料品だけじゃなくて本屋とかカジュアルショップとか色々入っているからそれ目当ての客の分多くなるんだろうが、車で来なきゃならないような
距離や買い物の量なのかは疑問だ。
 駐車場の混雑を尻目に、俺と晶子は駐車場に面したところとは違う別の出入り口から入る。そこは食料品売り場に直結していて−駐車場からだと
ファーストフードやデジカメプリントなど色々な店がある−、余計なものに目移りする必要がない。俺と晶子は籠を1つずつ持って、野菜売り場から回っていく。

「えっと、トマトスープを作りますから、白菜と大根と人参と玉ねぎを買っておかないと。」
「トマトスープか。あれ、美味いんだよな。」

 晶子が作るトマトスープ。ホールトマトという、細かく刻んだ完熟トマトの缶詰に水を加えて、そこに季節の野菜、今時期だと白菜や大根、
人参や玉ねぎといったものを細かく刻んで入れて、にがり入りの−これが晶子のこだわり−塩を入れて煮込むことで完成する。何かと栄養分に乏しい朝飯には
もってこいのメニューだ。これも教えてもらおうと思う。包丁の使い方も覚えられるだろうし。

「後は、野菜サラダ用のトマトとキャベツ、レタス。野菜関係はこんなところですね。」

 晶子はあらかじめ想定した食材をピンポイントで買っていく。だから殆ど迷うことはない。この決断力の良さは、俺も大いに見習うべきところだ。
 続いて魚コーナー。晶子は此処でよく魚を丸ごと買う。今日は鳥のから揚げだけど、今日だけじゃないから買うんだろうか?氷が敷き詰められて
冷凍が効いている棚には、ブリやら鯖やら鯵やら色々並んでいる。鯵は小さいというイメージがあるが、此処に並んでいる鯵はかなり大きい。
シマアジという種類らしくて、寿司屋で使われるのはこれらしい。

「あ、奥さん。こんにちは。」
「どうもこんにちは。」

 売り文句を威勢良く張り上げていた店員が晶子に声をかける。晶子は棚の方へ向かう。何か買うんだろうか?鳥のから揚げに刺身はちょっとミスマッチの
ような気がするが、作るのは晶子だから文句は言わない。

「今日のお勧めは?」
「今日はこの鯖!この大きさで1匹780円。これはお値打ちですよ。あとは鱈。これも身が分厚くて、鍋物や塩焼きに最適ですよ。こちらは1匹500円。
これも大きさの身の分厚さからすると、お得ですよ。」
「鯖と鱈ですか。保存が利きますね。」
「ええ。どうです?奥さん。」
「じゃあ、鯖を1匹、鱈を2匹ください。」
「はい!毎度どうも!」

 即決とも言える速さで、晶子は買うものを決める。恐らく晶子の頭の中には、今後数日間のメニューが構想されてるんだろう。食材を見てメニューを
臨機応変に決める。この域に俺が達するのは何時になることやら。晶子はビニール袋に詰められた鯖と鱈を受け取る。

「今日も勉強させてもらいましたんで。」
「何時もありがとうございます。」
「こちらこそお世話になってますんで。あ、今日は旦那さんもご一緒で。」
「はい。今日旅行から戻ってきて、食材の買出しに一緒に来てくれたんです。」

 晶子の紹介を受けて、俺は前に進み出る。店員は常連客の夫ということで上客扱いのようだ。

「どうも。奥さんには何時もお世話になっております。」
「いえ。ここで妻が買う魚は新鮮で美味いですし、妻の包丁捌きに任せてますから。」
「1匹丸ごと買って綺麗に包丁で捌くんでしょ?大したもんですねぇ。」
「ええ。私自身驚くことが多いですよ。」
「良い奥さんですね。」
「まったくそう思います。」

 晶子への称賛に誤魔化しとかは不要だ。晶子は切り身を使うより自分で捌いて、余すところなく使い切ることを信条としている。身は刺身や煮つけ、
天ぷらや焼き物など色々あるし、三枚におろした背骨の部分は、にがり入りの塩で味付けして加熱すると、酒のつまみや茶漬けの具になる。頭は兜煮。
時間はかかるがその分味は格別だ。残るのは少々の皮と食べきれない頭部の一部、そして背骨くらいのもんだ。魚にしてみれば無駄なく使われて本望だろう。

「また、お願いしますね。」
「はい!どうもありがとうございました!」

 店員の見送りを受けて、晶子と俺は魚コーナーを後にする。若い女性が魚を1匹丸ごと買うというのは異質な光景だが、晶子の包丁捌きを知っていれば
1匹丸ごと買うのがむしろ当然。その料理を堪能出来る俺は幸せ者だ。

「鯖は適当な大きさに切って焼いて、大根おろしとポン酢で食べましょう。鱈は捌いておいて、鍋物の具に使いますね。」
「あ、鍋物の具か。鱈とか白身の魚は良い出汁が出るんだよな。」
「なかなか祐司さんも通になってきましたね。順々に出していきますから、楽しみにしていてくださいね。」

 冬は何と言っても鍋物が美味い。晶子が作る鍋には白菜や豆腐といった定番から、シメジやエノキ、シイタケといったキノコ類、そして今日買ったばかりの
鱈など、素人でも栄養があることで定着している具が用意される。それをポン酢で食べて、最後はシメジや鱈で出た出汁を使ってうどんを作って食べる。
身体の芯から温まる逸品だ。
 鯖はこの時期特によく出回っている。鯖は冬が旬らしい。切り身でも勿論売っているが、晶子は此処でも1匹丸ごと買って捌く。出来た切り身は
焼くことが主流だ。そこに大根おろしと醤油を使って食べる。これがなかなかの美味だったりする。他にはゆかりっていうふりかけの一種のようなものと
片栗粉をまぶして軽く揚げ、それをポン酢でいただく、というメニューもある。1つの魚の切り身から幾つものメニューが生み出されるところが、本当に凄いと思う。
 続いて立ち寄ったのは肉類や豆製品のコーナー。晶子は此処で豆腐を2丁籠に入れ、肉は事前の公約どおり鶏肉のささみの他豚肉を幾つか入れる。
豚肉は鍋物料理の一種であるしゃぶしゃぶにも使われる。「しゃぶしゃぶ=牛肉」という固定概念があった俺だが、豚肉のしゃぶしゃぶは癖がなくて
これはこれで美味い。豚肉は鍋物の材料にするとその味のとおり癖のない出汁が出来るから、締めのうどんも美味くなる。
 その次は乳製品や卵、パン類のコーナーへ。此処ではチーズや牛乳、卵、食パンが籠に入っていく。チーズはサンドイッチの材料になることが多い。
牛乳は飲むのは勿論、俺の好物の1つのグラタンに使われる。食パンは言うに及ばず。晶子は目的の食材を買い揃えたのを確認して、迷うことなくレジへ向かう。
 レジでは俺が先に出て、レジで清算された商品が入れられる別の籠を持って出ることにしている。金額が出たところで、俺は財布を取り出して
ほぼ半額の3000円を晶子に差し出す。晶子はそれを受け取って自分も3000円出し、レシートとつり銭を受け取る。その間に俺は、商品が詰まった籠を
テーブルというのか作業台というのか、そういう場所へ運ぶ。
 晶子の指示と協力を受けて、食材をレジ袋に収納する。肉や魚と野菜やその他は別にする。荷重に弱いものは上に、多少潰れても良いようなものは下に、
というのが収納の基本。何度か晶子の買い物に付き合ってるから、おおよその感覚は掴めている。程なく買った食材を全て詰め込み、俺と晶子は出口へ向かう。

「今日は鳥のから揚げですから、心配しないでくださいね。」
「あ、ああ。色々買ったから別メニューに変更するのかも、って少し思ってて。」

 晶子の改めての方針提示で、心の中を見透かされたように思う。晶子が前言撤回をするとは思えないが、鯖と鱈を買ったからそれをどうするのか
疑問に思って、急遽鳥のから揚げが鯖の切り身を焼いたものか鱈を使った鍋になるのかも、と少し不安に思っていた。
 鯖はかなり傷みやすいと聞いたことがある。鯖にあたった、という話も聞いたことがあるし、晶子が買ったのは1匹丸ごと。季節としては少なくとも
梅雨時期や夏場よりは保存に向くだろうが、それなりに暖房が効いている室内では話が違ってくる。冷蔵庫でも保存には限度がある。良い鯖が手に入ったことで、
先に鯖を、となるのかと思ったんだが・・・。

「今日買った鯖と鱈はどうするんだ?」
「帰ってから早速捌いて、小分けしてから冷凍庫に保管しておきます。」
「ああ、明日以降は使う分だけ出して使うってことか。」
「そうです。」

 買って冷蔵庫に保存するのには限度があるし、鯖は特に傷みやすいらしいからどうするんだろうと思ったんだが、冷静に考えれば俺が心配するまでもないよな。
晶子の腕なら鯖や鱈を捌くことくらいどうってことない。何せ、俎板が真っ赤に染まるほどの鮮血を伴う−その方が新鮮な証拠らしいが−マグロやカツオも
躊躇なく捌くし、他の主婦層が「良いけど自分では」と手を出しあぐんでいた鯛も1匹丸ごと買って、その日の夕食のメニューに変貌させるくらいだ。
ご飯を炊くのがやっとな俺が心配するのは余計なお節介ってもんだな。

「本当に晶子は凄いよな。魚を何の迷いもなく捌けるんだから。」
「包丁の使い方は小さい頃から教わってきましたから、その一環ですよ。」
「頭を切り落とすのは怖いとか、思ったことはないか?」
「魚を捌けるようになったのは小学校の高学年の頃くらいですけど、特にそう思ったことはないですね。それまでに別の用事で包丁を使いながら、
魚が捌かれる様子を見ていたせいもあるんだと思いますけど。」

 小さい頃からとは言っても、魚の頭が切り落とされるのを見るのはトラウマになったりしないんだろうか?料理の一環として、野菜を切ることや
スーパーに並んでいる肉を細かく切ったりするのと同じ感覚になったのかもしれない。今の晶子を見ている限り、魚の頭を落とすことや内臓を取り出したり
することは、何ら恐怖感や嫌悪感を呼び起こすものじゃないことは確かだ。

「同じゼミの人達に珍しがられたりしないか?」
「前に料理の話が出て、そこから魚料理の話になって、魚をどうするか話し合ったんです。切り身しか買ったことがないという娘(こ)が殆どで、1匹丸ごとなんて
買う人居るのか、って疑問が出た時に、私が買ってるって言ったんです。そこから1匹丸ごと買ってどうするのかとか聞かれて、自分で刺身包丁を使って
捌くことや、捌いたものは刺身にすることもあるし、魚の種類によってはムニエルや煮物にしたりすること、頭はカブト煮にして、背骨の部分は塩を振って焼くか、
小さめの魚なら骨せんべいにすることとか、聞かれたことには全部答えましたよ。」
「驚いてただろ。」
「ええ。刺身包丁で捌くって言った時には特に。そんな怖いこと出来るのか、って。怖いと思うのが普通なんでしょうか?」
「普段切り身しか買ったことがなくて、魚が1匹鎮座してるのを見るのも怖い、とかいうのになると、自分の手で頭を切り落とすとかいうのは怖いと思うだろうな。」
「そうなんでしょうか・・・。」

 晶子は少し首を傾げる。自分では当たり前と思ってきたことが圧倒的多数の周囲から疑問視されれば、それまでの自分に疑問を感じることもあるだろう。
俺は最初見た時こそそれなりに驚いたが、美味い刺身やその他の多彩なメニューを食べられることに感じる喜びの方が大きい。

「旦那には食べさせたことがあるのか、とも聞かれましたよ。」

 晶子の表情が明るくなる。自分のことはまだしも、話が俺絡みになると嬉しいようだ。

「それも答えたんだろ?」
「ええ。全部食べてもらってて凄く喜んでもらってるって。」
「実際そのとおりだもんな。」

 最初は煮物を甘く感じたが、晶子が俺に合わせてくれたことで不満を言えそうな材料はなくなって久しい。初めて目にするような料理も、食べてみれば
実に美味かったりする。晶子の料理を食べるようになってかなり経つが、毎日自分で作っているだけのことはあってか、ますます磨きがかかっているように思う。
 料理器具は、年末に晶子が俺の家に来た際に必要なものを持ってきている。早速お手並み拝見となるわけだ。勿論見ているだけじゃなくて、俺もご飯を炊く
準備をしたりする。料理は何でも晶子にお任せ、という状態から少しでも脱却して、いざとなった時に晶子が食事の心配をする必要がないようにしないとな・・・。

 帰宅後、うがいと手洗いをして−この時期忘れちゃいけない−晶子が冷蔵庫に食材を収納した後、早速料理に取り掛かる。早速ご飯を炊く準備をと
身構えていた俺だが、昼飯はスパゲッティでご飯を炊くのは夕食前、と晶子が決めた。料理の指揮権は晶子にあるから、素直に従う。
 大きめの鍋にたっぷりの水を張って、それに少量の塩を加えてコンロにかける。その横で、晶子が魚を捌く。最初は傷みやすいこともあってか鯖。
晶子愛用の刺身包丁はいとも簡単に鯖の頭を落とし、続いて素早く三枚におろす。捌いた2つの半身を手頃な大きさに切り分けて、包丁を一旦洗って
水気を丁寧に拭い取り、頭と背骨部分を生ゴミ入れに入れて、切り分けた半身を1つ1つラップに包んで冷凍庫へ。これで鯖は完了と相成る。
 続いては鱈。こちらは2匹あるが、晶子の腕にかかればどうってことはない。何の躊躇もなく頭を落とした後三枚におろし、半身を幾つかに切り分ける。
フライや天ぷらにしたりする分と鍋物に使う分とで、大きさが異なる。この辺もしっかり計算されていることがよく分かる。
 晶子が包丁と俎板を洗って、包丁の水気を丁寧に拭って仕舞った後、俎板の前に立つ位置を交代。俺は野菜を刻む。茹でたスパゲッティを細切りにした
玉ねぎとピーマン、細かく切った人参と共に塩コショウで炒める、というメニューだ。そのために必要な野菜の準備が丁度包丁の使い方の練習になる、と
いうことで、晶子に見守られながら包丁を握る。

「祐司さん、ちょっとストップ。」
「あ、な、どうした?」
「肩に力が入ってますよ。」

 晶子に言われてようやくその事実に気づく。目の前にある人参1本。まずその根元というのか、土に植えられている時には葉っぱが出る部分の一部を
切り落とすところから始めることになったんだが、包丁を握って照準を合わせたところで固まってしまった。
 切り落とす。ただそれだけのことだが、これで大丈夫か不安でたまらない。間違って変な方向に力が入って、添えている左手を切ってしまうんじゃないか、と
不安で包丁を動かせない。ギターを使う俺にとって、左手は貴重な財産だ。今までも特に左手を怪我しないように注意してきた。料理を覚えるのは勿論大切だし、
俺からすると言い出したことだが、それが不安でならない。

「そのままだと、人参どころか俎板まで切っちゃいそうですよ。」
「はは、まさか。」
「そんな感じですよ。相手は人参ですし、包丁はよく切れますから、力は要りませんよ。」

 晶子の言うことは十分分かる。言われなくてもそれくらい分かるというレベルの話だ。空手か何かじゃないから俎板を切るつもりなんてないし、
幾ら晶子が手入れしてよく切れる包丁と言えども、俎板を切れるほどじゃないことくらいは分かる。
 だけど、自分で包丁を駆使して−そういうレベルには程遠いだろうが−食材を切るということ。そして、万一にも左手に怪我するんじゃないかという不安。
それらが錯綜して切れるものも切れない。晶子から見ればじれったくて仕方ないだろうが、このままじゃ埒が明かない。

「まず、ゆっくり深呼吸してください。」

 とりあえず落ち着け、ということだろう。晶子の言うとおり、ゆっくり息を吸い込んでゆっくり吐き出す。特に肩に篭っていた力が抜けて、さっきまでの
緊張がなくなった。

「そのままで居てくださいね。」
「ああ。」

 俺が応答すると直ぐ、晶子は隣から俺の両手に手を伸ばして覆う。手の甲に感じるほんのり温かくて柔らかい感触に、別の角度から緊張する。
手の感触を感じるのは今日が初めてじゃないのに、どうしてだろう?

「今みたいに、左手は今回人参が泳がないように、包丁で落とす部分の近くを包み込むように持ちます。」
「あ、ああ。」
「包丁も今みたいに、切りたい場所に軽く刃を当てておきます。」
「ああ。」
「今、包丁は、祐司さんから見て人参に垂直になっていますか?」
「ああ、なってる。」
「それじゃ、そのまま右手に下方向に力を入れてください。」

 晶子に言われたとおりに右手に下方向の力を加えると、包丁が人参の根元部分をスムーズに切り落として、包丁と俎板がぶつかることで生じる「トン」という
音がする。・・・呆気ない。呆気ないが、ついさっきまで不安で固まっていたことが信じられない。

「ね?簡単ですし、そんなに力も要らないでしょ?」
「・・・ああ、確かに。」
「鉄や木材を切るわけじゃないんですから、祐司さんなら少し力を入れれば簡単に切れますよ。最初からてきぱき切ろうとかそんなこと考えないで、
1回1回切り方を確かめながら、怪我をしないように切っていって良いんですよ。」

 晶子の言うことは、頭では理解出来るつもりだがどこか受け入れられないものを感じる。料理を覚えるのは早いに越したことはない。少なくとも休日の昼間の
食事くらい自分で作れるようにしておきたい。今日作るメニューはスパゲティを茹でる時間を除けば、お手軽に出来て栄養的にも申し分ないものだ。
 1つでも料理を多く、早く覚えれば、その分晶子の不測の事態への対処も早く可能になる。出来るうちに出来るだけのことを覚えておきたい。
そういう気持ちが、晶子のアドバイスをすんなり受け入れる余地を与えない。

「何でも初めから上手く出来るわけじゃありませんよ。」

 再び晶子が俺の心中を見通したかのようなことを言う。

「私も、祐司さんに歌を教えてもらった最初の頃、楽譜も満足に読めなかったこと、憶えてます?」
「・・・ああ。」
「それでも祐司さんは私を見捨てたりしないで根気強く教えてくれて、今では祐司さんが音合わせの参考に渡してくれる楽譜も読めるようになりました。」
「・・・。」
「祐司さんも、高校時代にお友達から誘われてバンドに入って、ずっとギターを任されたり、修学旅行で通りがかったストリートミュージシャンの
アクシデントに飛び入りで助っ人に入って、たくさんの人を集めるほどの腕前だったと聞きましたけど、最初からどんなジャンルでもフレーズでも何でも来い、って
わけじゃなかったでしょ?」
「そりゃあ・・・そうだ、な。最初はフレットに思い通りに指を当てることも難しかった。」
「お店でも実力派として評判で、プロの人も注目するギターの腕を持つ祐司さんでも、最初は何も出来なかったんです。それは私でもそうですし、
今回祐司さんが覚えようとしている料理だってそうです。どんなことにも、どんな人にも、始めの一歩っていうものがあるんです。」
「!」
「どんなものかさえ分からない道への第一歩を、完璧な形で踏み出せって言う方が無茶な話ですよ。だから、祐司さんが切った人参や玉ねぎの形が不恰好でも、
何も不思議じゃありません。ましてや、今日食べるのは祐司さんと私です。私は焦げていようが芯が残っていようが、祐司さんと一緒に作る今日の料理は
きちんと食べますよ。」
「晶子・・・。」
「だから、きちんと切らなきゃ駄目だとか、早く完璧に出来るようにならなきゃ駄目だとか、自分を追い詰めないで、自分で料理を作ることを楽しむことを。
第一に考えてくださいね。」

 晶子の言葉が、胸に心地良い共鳴を生みながら染み渡る。・・・そうだ。俺も最初からギターを弾きこなせたわけじゃない。試行錯誤もした。
思うように音が鳴らせなくて、苛立ったり止めようかと思ったこともあった。だけど、何度も失敗や工夫、練習を続けるうちに弾けるようになって、
人前でも弾きこなせるようになった。
 始めの一歩。俺がギターでそうだったように、晶子が歌でそうだったように、俺が今取り組んでいる料理でも、始めの一歩がある。それがないことには
何も始まらないし、いきなり完璧に出来るようなら何の苦労もない。失敗があって、そこから次はこうしよう、こうすれば上手くいくんじゃないか、と考えて
実行して、を繰り返していくうちに出来るようになっていくんだ。
 いきなり成功を求める。それが当然とさえする。そういう風潮がまかり通っている。何も教えなくても直ぐ出来るものなら、研修や教育なんて不要だ。
なのに即戦力という美名の下に直ぐ出来ることを当然とする。それを嫌っていた筈の俺も、そう思っていた。自分にいきなり完璧に出来ることを要求していた。
当然視していた。
 晶子みたいに綺麗に切りそろえようと思うのは良いだろう。だけど、出来なかったら出来なかったで仕方ない。今までろくに包丁を握ったことのない俺が、
いきなり料理人もびっくりの包丁捌きを見せられるようなら、晶子に教わる必要もないし、晶子も教える気にならないだろう。
 自分自身で気持ちの整理が出来て、改めて、純粋な気持ちで始めの一歩を踏み出す気構えが出来た。晶子もそれを感じたのか、俺の手から自分の手を
退けている。肩の力を抜いて、左手の位置を確かめて、人参をまず縦半分に切る。その半分をさらに半分にするように切って、切ったものを分割せずに
そのまま横に細めに刻んでいく。
 ・・・出来た。厚かったり薄かったりとバランスは悪いが、人参2本を切り終えた。俺は安堵の溜息を吐く。無論、包丁で指を切ったりはしていない。

「上手く切れましたね。」
「結構バランスは悪いけどな。」
「これだけ切れていれば十分ですよ。次は、玉ねぎを切りましょうね。」
「ああ。」

 切った人参を俎板脇のざるに移して、次は玉ねぎを切る。晶子からあらかじめ教わったとおり、先に皮を剥いて、芽が出る部分と根が出る部分を切る。
次に半分に切って、その半身を細切りにする。勿論軽快にスムーズに、とはいかないが、怪我をしたり厚みに目に余る格差が出来ないことに重点を置いて、
少しずつ切っていく。

「これで良いかな。」
「ええ。十分ですよ。」

 時間がかかったが、玉ねぎも切り終えた。玉ねぎもざるに移しておく。ただし、人参とは別。火に入れる順番が違うためらしい。俺の今回の役目はここまで。
後は晶子の隣で見て覚えることになっている。ピーマンを切るのは俺の腕だと左手に怪我をする危険がある、というのがその理由だ。
 俺と晶子は立ち位置を交代する。晶子は包丁を握ると、まずピーマンを半分に切り、中の種がついている白い部分を包丁の先で抉り出す。・・・なるほど。
これじゃ確かに俺がしたら左手に包丁を突き刺してしまいかねない。晶子は自分の指でそうするかのように、残りのピーマンも同じように半分にして素早く、
しかも綺麗に中身を抉り出す。
 全部取り出した後、残った緑色の部分を2枚重ねて細切りにする。これも俺とは違って軽快な調子で、しかも横幅が均一になるように切っていく。見た目にも綺麗だ。

「次は、スパゲティを茹でましょう。」

 俺は深くて大きな鍋に水をたっぷり入れて、底に塩をひと摘みほど入れてコンロに乗せる。火をかけて暫く待つのを兼ねて、晶子と再び入れ替わる。
沸騰した湯に、晶子はスパゲティを取り出して鍋に入れる。入れるのも単にそうするんじゃなくて、鍋の淵に順に沿わすように見た目にも見事に入れる。
 間髪入れずに菜箸でスパゲティの湯に入れられた部分を軽く押していく。すると、スパゲティはそれに従順に動いて曲がり、全体を湯の中に沈める。
計算したかのように進んでいく様子を見ていると、店で潤子さんと一緒にキッチンを切り盛りしていられるだけの腕があることが改めてよく分かる。
 スパゲティ全体が沸騰する湯の中に沈んで、全体を少しかき回したところで、晶子は菜箸を止める。どうしたのかと思いきや、晶子はコップに水を
半分ほど汲んで・・・鍋の中に入れた?!沸騰していた湯が落ち着くが、折角沸かしたのに、しかも火にかけてる最中に冷ましてどうするんだ?!

「お、おい晶子。何してるんだよ。」
「何って・・・。水を入れただけですけど。」
「そんなことしたら、水を沸騰させた意味がないじゃないか。」
「これは、スパゲティの茹で具合を均一にするためのものですよ。」

 どうして咎められるのか分からなかったようだが−晶子にとってはそうでなくてもが俺には十分驚くものだ−、俺が尚も尋ねるとと、晶子は再び
湧き出した湯を菜箸でかき混ぜながら説明する。一旦水を入れて冷ますことで表面付近に偏っていた茹で具合を均一にして、全体的に茹で上げるコツだと言う。

「−というわけなんです。」
「なるほど・・・。店でもそうしてるのか?」
「ええ。潤子さんもこうしてますよ。」
「3年以上バイトしてるのに、全然気づかなかった・・・。」
「キッチンの様子は見えないですから、仕方ないですよ。」

 俺は接客と料理運び、食器片付けを主に担当するウェイターとして採用されている。それは今でも変わらない。バイトを始める前に潤子さんからカウンター越しに
料理を受け取るし、バイト中も晶子か潤子さんからかやっぱりカウンター越しに料理を受け取るが、料理をしている手元を見るのは難しい。
 去年の夏のサマーコンサート以来店が更に混み合うようになって、「担当外」のキッチンを観察している余裕がないというのもあるが、カウンターが丁度
壁のようになってキッチンの全容を隠している配置になっているのが主要因だ。晶子と潤子さんは殆ど身長差がないが、俺がカウンターから見て上半身しか見えない。
 晶子は元々キッチン担当がもう1人欲しいという潤子さんの要望を受けたマスターの意向もあって、店が連日大入りになっている現在は接客も担当するが、
基本はキッチン担当だ。日曜のリクエストタイム以外キッチンに篭っている潤子さんとは、勿論仕事はしながら料理に関する話をしている。そこで料理のコツや
新メニューなんかを情報交換してるんだろう。

「あ、そろそろ良いですね。ちょっと退いていてくださいね。危ないですから。」
「ああ。分かった。」

 俺が晶子の隣でもある流しの前から退くと、晶子は先に用意してあった大きめのざるに、鍋の中身を投入する。投げ捨てるというものじゃないが、
激しく溢れる湯気が物々しさを感じさせる。湯気が消えた後には、茹で上がったスパゲティが盛られたざるがある。晶子は鍋にしがみついているスパゲティの
残りをかき出し、鍋に少し水を入れて全体を揺らしてから流しに置く。

「こうして、終わった後に水を入れて軽く全体を撫でさせるんです。スパゲティくらいならしなくても良いですけど、油物や煮物とかをし終えた鍋は、
使い終わったら最低でも直ぐに水を張らないと、後で洗うのが大変なんです。」
「なるほど・・・。洗うことも考えて行動しなきゃならないんだな。」
「祐司さんは、実験をする時には事前に概要を纏めたレポートを作って提出しますよね?」
「ああ。」
「それと同じです。その場その時だけ考えて行動していると、なかなか上手くいかないこともあります。それは料理でも同じなんですよ。」

 晶子の解説は、実験を例にされたこともあってかすんなり頭に入る。確かに、作って終わり、じゃないよな。料理って。客としていく店なら出てきた料理を
食べたり飲んだりすれば、後は金を払うだけで良い。だけど、自分で料理をする時は作るときもそうだし、後片付けもする必要がある。それをしやすいように
しておくのも大切ってわけか。
 晶子は、ざるに盛られたスパゲティに、サラダ油を少しかけて手でささっとかき混ぜる。熱くないんだろうか?それに、サラダ油をかけた理由が知りたい。

「どうしてサラダ油をかけるんだ?」
「これから野菜を炒めるのに少し時間がかかりますから、その間にスパゲティが固まらないようにするためなんです。文字通りの潤滑油ですよ。」
「へえ・・・。それで、熱くなかったのか?さっきの。茹でた長後なのに。」
「慣れましたから。」

 慣れたから、ってさらっと言うけど、そんなものなのか?冬でも汗をかくような忙しさと熱さの中で火を扱うことを続けてるから、こんな程度で「熱い」なんて
言ってたら始まらない、とか。人は見かけで判断するもんじゃないって言うけど、それは事実だな、と改めて思う。
 怒ったことなどないように見えて、付き合い始めてまだ日が浅い頃、朝飯を食べに向かった喫茶店で、俺と晶子を見て陰口を叩いていたおばさん連中に
コップの水をぶっ掛けて怒鳴りつけたこともある。これは潤子さんもそうだが、華奢に見えるその二の腕で、店にある重いフライパンを軽々と扱う。
 潤子さんは実家を勘当されてもマスターと結婚して、俺と晶子がバイトをするようになるまで2人で店を切り盛りしてきた。決して客商売には良い立地条件とは
言えない場所でかなり繁盛していたのは、俺自身潤子さんの料理を口にしてその理由が分かった。マスターが接客とコーヒー作りをする一方、潤子さんは
キッチンを取り仕切ってきた。黙して語る、という言葉があるが、それはマスターや潤子さんを表現するためにあるようにも思う。

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