雨上がりの午後

Chapter 197 それぞれの独白

written by Moonstone


「こうしてみると、同じ環境で育った兄弟でもやっぱり個性が出るものなんですね。」

 少しの沈黙の後、晶子がまったく違う角度の話題を持ち出す。

「祐司さんの部屋は音楽関係以外は必要最小限のものだけあって、修之さんは自分の空間を自分の趣味とかでいっぱいにしていますよね。」
「そうだなぁ。俺は今やってる音楽以外には殆どと言って良いほど金かけないから、修之の部屋と比べるとその違いは一目瞭然だろうな。」

 晶子は何度も俺の家に出入りしているし、料理器具を眠りから覚ましたくらいだから十分過ぎるほど分かっているだろうが、俺の家には飾り気がまったくない。
こう表現すると良く聞こえるが、まったく味も素っ気もないと言える。アコースティックとエレキの2つのギターと、演奏データ作成用のシンセサイザ以外に
目立つものはまったくない。
 対称的に修之の部屋は華やかだ。壁にはアイドルや車のポスターが彼方此方に貼られて、車のカレンダーもある。年齢を考えれば、修之の方がずっと
「若者らしい」と言える。俺はカレンダーさえつけてない。曜日感覚が鈍ってるのもあるが、修之の部屋の壁と比べると、質素を通り越してあまりにも殺風景だ。

「自分はあんまり期待されてないから良いけど祐司さんはずっと期待されっぱなしだから大変だろうな、って修之さんが言ってましたよ。」
「修之が?」

 思わず聞き返す。修之が俺の境遇を想像したり言及したりするなんて、かつてなかったことだ。受験勉強への急転換で、何か思考回路に異変が生じたんだろうか?

「ええ。ずっと成績優秀で通ってきて今は新京大学。これからもっとご両親などからプレッシャーがかかるだろうな、ってポツリと。」
「修之の奴・・・。」
「私にも兄が居ますから、年下の兄弟から見た年上の兄弟の状況の認識とかはある程度共通するものがあるんですよ。・・・やっぱり周囲の期待とかそういうものを
集めやすいんでしょうね。」
「・・・まあな。」

 自慢にならないが、小学校からずっと、俺は学校の成績が良かった。
俺は憶えていないが、父さんや母さんが言うには、幼稚園に入る前から新聞広告の裏の白紙にひらがなを書いて読むということをこなして、簡単な足し算と引き算が
出来たらしい。小学校と中学校では、学校の授業で理解出来なくて困るということはなかった。
 そんなこともあってか、盆や正月の親戚廻りでは俺から見て叔父や叔母が、将来は○○大学、とか言う声が年齢を増す毎に強まっていった。滑り止めで受けた
私立の特別進学コース−そこも有名大学や難関大学への進学率が高いことが売りだった−と卒業した高校への合格を決めた後は、俺の進学先は何処かと
両親と叔父や叔母が当事者の俺を他所に、自分のことのように親権に議論するようになった。
 そして今の大学への合格。合格結果を知らせた電話に出たのは母さんだったが、合格を告げると大喜びした。俺が帰宅した頃から近所から合格祝いが
舞い込むようになり、翌日からは親戚からの合格祝いの品が次から次へと届いて、特に母さんが「大変なことになった」とか言いながら嬉しそうに応対に出ていた。
 俺自身はそういう記憶ことあるものの、期待を特に意識したことはなかった。鈍さもあったのかもしれない。だが、自分の環境で自分が出来ることをこなして、
それが結果的に周囲の期待を集めるようになったのかもしれない。父さんと母さんが俺の高校時代に時に泊り込み合宿もあったバンド活動を容認していたのは、
その端的な証拠かもしれない。

「・・・少し突っ込んだことを聞いて良いですか?」
「ああ、良いよ。」
「祐司さんは、将来ご実家を継ぐことを求められているんですか?」
「職業に関しては求められてない。むしろ、別の職業に就いてほしいっていう意向の方がずっと強い。それは今日の夕飯の席でも出てたとおりだ。職業じゃない純粋に
−これが純粋なのかどうかは分からないけど、『家を継ぐ』ってことにも大してこだわりはないみたいだ。父さんも母さんも長男と長女じゃないし、特に父さんは
長男じゃないから安藤家がどうとか、そういうことは俺の叔父さん、父さんの一番上の兄さんの方に完全に任せてるみたいだし。」
「そうですか。」
「気になったか?」
「少し・・・。今日の夕食の席で、お父様とお母様が祐司さんと私の結婚を完全に承認してくださっているのは、伝統的に家を継ぐ立場にある長男の祐司さんに私という
結婚相手が出来たことを喜んでおられる側面があってのことかと思って。」
「さっき言ったことの繰り返しになるけど、家を継ぐとかそういうのは俺の家では大してこだわりがないから、その辺は無視してもらって良い。・・・晶子は家を継ぐとか、
そういうのは嫌か?」
「あまり・・・好きではありません。男性と女性の合意があれば何の問題もなく成立する筈の結婚が、家系の継続云々で決められるのは・・・抵抗があります。」

 晶子の口調はかなり鈍い。そう言えば晶子は、否、晶子も過去に真剣に結婚を考えていた相手が居たんだったな・・・。俺はその大恋愛が破局して心が歪んで
拒絶する方向へ走ったが、晶子は次こそは絶対と思い直して、大学も入り直して親元から離れた。そういう経緯があるから、俺との結婚に恋愛感情以外の要素が
介入しようとすることで、あの悪夢が再現されるんじゃないか、と無意識のうちに警戒してしまうんだろう。

「晶子は・・・前に言ったよな。離してくれって言っても離さない、って。」
「はい。」
「そのとおりにしてくれれば良い。そうしてくれれば、俺から離れることはないから。」
「・・・はい。」

 晶子の顔に笑顔が戻る。俺を絶望と八つ当たり的な憎悪の渦から抜け出させ、新しい幸せを齎してくれたのは晶子だ。その晶子が俺を離さなければ、俺は晶子から
離れるつもりはない。独占欲が強いとは高校時代から言われてるが、その独占欲が晶子を安心させる材料になるなら、それで良い。
 少しして、階段を上ってくる足音が大きくなってくる。ドアが開いて修之が入ってくる。パジャマの上に厚手のジャケットを羽織っている。この時期間違っても
病気になることは出来ない。その辺は十分心得ているようだ。

「お待たせしました。」
「いえ。それじゃ、英語の続きをしましょうか。」
「はい。」

 修之はやる気満々の様相で机に向かう。晶子がその隣に座って見守る。急な方針転換を余儀なくされて、時流に流されるままに受験勉強、否、受験作業に
取り組んできた修之は、学校で習う教科の意味や面白さが分かって興味が持てたようだ。
 時流に流される。それは傍観者であると同時に自分に対しても責任放棄と言える。その結果が悪かったからお前が悪い、あいつが悪い、と言い出す輩は
始末に終えない。だが、油断していると何時の間にかそうなってしまうこともある。俺もその可能性が十分ある。そう自覚出来るうちはまだ良いのかもしれない。
 自覚だけじゃなく、そこからどうするか。それが傍観者になるか主役になるかの分岐点になると思う。自分の人生は自分のものだと言うのなら、主役を張るだけの
勇気が必要だ。シナリオも何もない舞台を進めるのは、他ならぬ自分自身なんだからな・・・。

 俺と晶子は、修之の部屋を出る。時刻は午前0時を過ぎている。修之はもう暫く勉強を進めるという。俺と晶子も付き合おうとしたが、明日からの店の営業の準備を
済ませて風呂から上がって上ってきた父さんと母さんにもう寝るよう−俺は兎も角晶子に言ったようだった−、半ば打ち切られる形で「撤退」と相成った。
「後は自分でどうにかする」と修之が力強く言ったのが救いだ。
 晶子は2階にあるもう1つの部屋、俺が去年帰省した時に使っていた部屋で寝る。俺は1階のリビングのこたつで寝る。結婚は諸手を挙げて歓迎されたが、
流石に一緒に寝ることまでは勧めないらしい。その配慮はある意味手遅れと言えるが、それは言わない。

「じゃあ、お休み。」
「おやすみなさい。」

 俺は晶子と1日の終わりの挨拶を交わして、階段を下りる。急な傾斜の階段を下りて、不気味なくらい静まり返った廊下を少し歩いて引き戸を開ければ、
そこが俺の寝場所。寝場所と言ってもコタツに潜って寝るだけだ。一応敷布団と枕はあるが、気休めのような気がしてならない。
 とは言え、此処以外に寝る場所はない。電灯を消してコタツに潜る。敷布団に毛布を乗せてあるから、掛け布団に相当するコタツ布団だけでも十分温かい。
普段ベッドで横になるような感覚で良さそうだ。
 酒が入ったせいもあってか、寝られる態勢が整っていると感じたことで急に眠気が増してきた。明日は早々に新京市に帰りたいんだが、この分だと母さんに
叩き起こされそうだな。普段は土日祝日以外は早起きして朝飯もそれなりに食って大学に通ってるけど、晶子が迎えに来るのを準備するか、晶子に起こしてもらうかの
どちらかだからな・・・。晶子に起こして欲しいけど、明日は諦めるしかないか・・・。

トントントン・・・。

 意識が速い速度で闇と一体化していく中、微かな足音が伝わってくる。静かだから足音でもよく聞こえる。母さんかな・・・。何か忘れ物でもしたとか・・・。
 意識の闇との一体化を強制的に停止させて様子を窺う。足音は引き戸の前で消え、カラカラ・・・と控えめな音量の引き戸の音がする。俺が居るリビングも引き戸の
向こうにある廊下も真っ暗だし、まだ目が慣れていないから誰なのか見えなくて分からない。

「祐司さん・・・。もう・・・寝ちゃいました・・・よね。」
「晶子?」

 俺は反射的に身体を起こそうとして、胸の上部をしこたまコタツ机の縁にぶつける。今の掛け布団は純粋な布団じゃなくてコタツ布団だってこと、忘れてた・・・。

「痛たたた・・・。」
「だ、大丈夫ですか?」
「あ、ああ。大したことない。」

 駆け寄ってきた晶子−傍に来たことでようやく誰か判別出来るようになった−に強がって見せる。実際は勢いが良かったからかなり痛いんだが、我慢出来ないほどの
ものじゃない。それにしても、どうしたんだろう?

「それより、どうしたんだ?何か思い出したとか。」
「その部類ですね。・・・今日のことで、祐司さんにお礼を言おうと思って。」
「お礼?」

 聞き返した俺に、晶子は小さく頷く。俺、何か晶子に感謝されるようなことをしたっけ・・・。退路を断つつもりで晶子を急遽実家に連れて来て、予定とは違って
結局一泊することになった行動力のなさは思いつくけど・・・。

「私と結婚する、ってご両親に宣言してくれて、凄く嬉しかったです。」
「そのことか。・・・自分を崖っぷちに追い込んでまでも俺との結婚を望んでる晶子からすれば今日の宣言は遅過ぎただろうから、礼を言われるほどのことじゃないと
思ってたんだけど。」
「既成事実を積み重ねてきた私と、ご両親に宣言した祐司さんとでは、次元が違いますよ。」

 ようやく暗闇に慣れてきた目に、微妙な黒の濃淡で描かれる晶子の顔が映る。その顔には、嬉しさや喜びから生まれる柔らかい笑みが浮かんでいる。俺としては
遅きに失した感のある親への紹介と結婚宣言だが、晶子にとっては十分嬉しいものだったんな。

「だから、お礼を言いたくて・・・。ありがとうございます。」
「礼を言いたいのは俺の方だよ。今こうして、俺に幸せをくれてるんだから。」
「それは私も同じですよ。」

 晶子の笑みが少し儚さを帯びる。・・・そうだ。晶子は幸せを失くしたことで大学を辞めて親とも断絶した。そして大学を入り直したことで行き着いた新京市で俺と出逢い、
俺との付き合いに新しい幸せを見出したんだったな。
 その幸せを確固たるものにするために、今度こそ絶対離さないために、俺が誕生日プレゼントで贈ったペアリングを左手薬指に填めるよう譲らなかった。
そして俺が大学での事実婚を公言したのに続いて、両親に将来の結婚を宣言した。晶子には、今度こそ掴んで離すまいと願っている幸せの1つの大きな結実が現実に
一歩近づいたことが、何より嬉しいだろう。
 晶子は徐に俺の頭に両手を伸ばす。抱え込まれた俺の頭がゆっくり引き寄せられると共に、晶子が目を閉じながら顔を近づけてくる。肘を突いた体勢で上体を
起こしていた俺は、腕を立てて身体を起こし、晶子の求めに応じる。
 目を閉じた俺の唇に、柔らかくて温かい感触が伝わる。緩やかに呼吸しながら、頬の鼻近くに微かな風を感じる。やがて唇から感触が消えていく。それに連動して
目を開ける。晶子も俺の顔から距離を置きながらゆっくりと目を開けていく。

「おやすみなさい、祐司さん。」
「おやすみ。」

 改めて寝る前の挨拶を交わした後、晶子は名残惜しげに立ち上がり、静かに部屋を出て行く。引き戸が極力音を立てないように閉じられ、辛うじて聞こえる程度の
足音は直ぐに遠ざかって聞こえなくなる。幸福の余韻に浸りながら、俺は身体を再びコタツの中に戻して目を閉じる。良い夢が見られると良いな・・・。

「ちょっと、祐司。いい加減に起きなさい。」

 期待どおりにはいかないもんだ。
夢を見た記憶はなく、目を覚ました、否、覚まさせられたのは、上方からの母さんの呼びかけだった。頭全体に澱(よど)んだ空気を感じながら身体を起こす。

「朝ご飯の準備もあるんだから、早く起きなさい。」
「うーん・・・。」
「寝起きの悪さは変わってないわねぇ。去年の正月もそうだったけど、あんた、お酒飲むと更に寝起きが悪くならない?」
「んー。なる。」
「兎に角さっさと起きて、修之の部屋で着替えてらっしゃい。あんたが着ていた服を置いてあるから。朝ご飯にするから早く着替えてきなさいよ?」
「分かった。」

 頭に漂う深い霧が晴れない中、母さんに急かされてどうにかコタツから出て、自分でも分かるほどのそのそした動きで修之の部屋に向かう。全室暖房なんて
ある筈がない廊下や階段の空気は勿論肌に突き刺さるような鋭さだが、眠気覚ましには効果的だ。
 電灯が灯ったまだ暗い階段を上って、2階に到着。冷気のおかげでぼちぼち頭の濃霧が薄らいできている。何度か欠伸をしながら、修之の部屋のドアをノックする。
はい、という応答を受けて、部屋に入る。

「おはよう。着替えさせてもらうぞ。」
「それは母さんから聞いてるけど、兄貴、凄く眠そうだな。」
「実際眠い。俺は酒が入ると寝起きが悪くなるんだ。」
「そういえば、去年兄貴が帰省した時、元旦の親戚周りから帰ってきたら、風呂にも入らずに寝て、昼前まで寝てたっけ。」
「ああ。昨日は奥濃戸から小宮栄経由でこっちに来たから、その移動疲れもあったんだろうけど。」

 修之は俺とは対称的に元気いっぱいだ。既に着替えていて机に向かっていたところからして、受験勉強をしていたんだろう。修之は昨日から俄然やる気になっている。
やる気と興味。これが勉強に限らず色々なことを習得する上で重要な要素となる。

「えっと、俺の服は・・・。」
「兄貴の服なら、俺のベッドの上。」
「あ、サンキュ。」

 部屋の暖房−スチーム発生機能付ストーブだけだが−で解消のテンポが鈍った頭では自分の服の場所を探せない俺に、修之が場所を指差して教える。
ベッドの中央に折り畳まれた服一式がある。俺は着替えにかかる。

「ところで、今って何時だ?」
「6時半過ぎ。」
「どうりでまだ暗いと思った。」

 冬場の朝は、寝ぼけたりしていると「もう夜?!」と慌ててしまうこともあるほど暗い。夜真っ只中と言っても過言じゃない。
新京市に居る時は、晶子が迎えに来る頃には明るくなっているが、起きた時点では夜と区別がつかない。部屋を照らす電灯の明るさは、夜のものだ。

「兄貴のそのセーターって、井上さんの手編み?」
「ああ。クリスマスプレゼントにもらった。マフラーもそうだけど。」
「へー。編み物も出来るんだ。井上さんって。料理も出来て編み物も出来るなんて、凄いなぁ。」
「確かに凄い。俺はどちらもてんで駄目だからな。」

 修之の羨望を少し自慢に思いつつ、そのセーターに袖を通す。毎日、とはまではいかないが1週間に1回は着ているし、マフラーは冬場の外出には手放せない。
どちらも市販品に勝るとも劣らない出来栄えで、ファッションセンスや興味のかけらもない俺には貴重な服飾品という位置づけだ。

「修之は何時起きたんだ?」
「6時。だから兄貴と起きた時間はそんなに変わらない。」
「随分早いな。昨日は結構遅くまで受験勉強してたんじゃないのか?」
「2時頃までかな。何気なしに時計を見たらそんな時間だったから、途中だった問題を解き終えてから寝た。」

 6時半か。普段だと火曜の朝に晶子が朝飯を作るために起きていて、俺もほぼ同時に目を覚ましている。俺の肩口や顔の傍−夏場は肩口で冬は風邪を
ひかないようにと俺の首に抱きつく形で寝る−で晶子の動きで目が覚めるのもあるし、不思議と普段は夜寝るのが遅くなっても目が覚める。
 宿題やテストの嵐が吹き荒れ続けた高校時代から、俺は夜遅くまでそれらの準備をしていたし、大学受験の時は第一志望としていた新京大学の模試での
合格可能性が五分五分だったこともあって、日付が変わる前にベッドに潜った日はなかったと言っても良い。そんなことが重なって、夜行性的生活リズムが定着した。
 大学になるとそれに拍車がかかった。一般教養が主体だった1年と2年前期はまだしも、専門教科の比重が増してきた2年後期になると夜遅くなるのを当然視せざるを
得なくなり、学生実験が始まった3年からは「寝るのは日付が変わってから」というのが当然になった。時にPCを動員して計算をさせる必要があるレポートがやたらと多いし、
実験の前に提出する前回の実験のレポートとその日の予習的位置づけのレポートを書くとなると、とても早く寝られない。

「兄貴が大学受験の勉強してた時、ずっと夜遅かったよな。」
「新京大学は模試の合格判定が五分五分だったから、あれくらい詰めないと合格出来なかったんじゃないかな。」
「兄貴が居る工学部もそうだけど、新京大学の理系学部って凄く厳しいんだろ?4年までに半分が1回は留年する、って兄貴の高校時代からも聞いてるし、
俺も受験勉強の立場になったから、そういう情報はそれなりに入ってくるんだけどさ。」
「実際そのとおりだ。3年進級の段階で俺の同期の1/3くらいがな。留年したのは。かと言って人数は減ってないどころか多くなってる。4年進級の段階でも関門が
あるからな。そこでかなり引っかかっちまうらしい。」
「講義もテストも難しいし、レポートも多いんだろ?」
「ああ。講義は兎も角レポートが多いのがな・・・。レポートがない日なんて、少なくとも2年の後期からは思い出す方が難しいくらいだ。」
「今だから言うけどさ・・・。兄貴の大学受験の様子見てて、あんなに勉強するなら大学なんて行きたくないって思ってたんだ。」

 修之の顔に深刻さが浮かぶ。着替えを終えた俺は、ベッドに腰掛けて修之の話を聞く。
3年になってから就職状況の実態を知って就職から大学進学への切り替えへ急展開せざるを得なくなり、しかも家から通学出来る範囲にある国公立系大学以外は
進学させない、という条件まで加わってる。そのプレッシャーは親には言えないものがあるだろう。

「大学は勉強するところだ、って言っちまえばそれまでだけどさ。名立たる新京大学に合格した兄貴も、合格するために毎日夜遅くまで受験勉強してたし、
今でもレポートも多けりゃ簡単に留年しちまうほど厳しい、なんて勉強漬けの生活は真っ平御免だ、ってさ。」
「・・・。」
「だけど、高卒の就職状況が今の現状だと四大出ておくのが常識みたいなもんだってこともあるし、父さんと母さんは此処から通える範囲にある国公立系大学しか
授業料出さないって言うし、3年になっていきなり受験に切り替えて合格しろ、って言われたのはかなり辛い。元旦の親戚廻りでも父さんと母さんが、俺の大学合格が
当然みたいに言ってたし、叔父さんとかは兄貴に続くとばっかり思ってるし・・・。」
「俺が新京大学に合格したってのが、修之にとっちゃ大きなプレッシャーの1つになってるだろうな。」

 修之の愚痴めいた言葉からは、「今そんな言っててどうする」とか「情けない」とか根性論で片付けられる心境じゃないことがひしひしと伝わってくる。
受験勉強に限ったことじゃないだろうが、周囲から当然視されてることを実現させなきゃならない、しかもそれが自分の今の力で出来るかどうか疑問な状態じゃ、
不安に思わない方がどうかしてる。

「兄貴が新京大学に合格したからって、弟の修之が必ずそれに続いて地元国公立系大学に現役合格する、なんて誰にも断言出来ないことだし、俺自身、
新京大学受験はかなりの賭けだったから、不安に思ったりするのはそれなりに分かるつもりで居る。所詮当事者じゃなくて安全地帯から旗振ってるだけ奴に、
当事者の境遇や不安なんて分かる筈がないんだし。」
「・・・。」
「なまじ俺が新京大学なんていう、難関校として全国的に有名な大学に合格しちまったもんだから、父さんや母さんとかは修之がそれに続いて現役合格するもんだ、と
思い込んでる。兄貴がそうだからって弟がそうだとは限らない。現に俺と修之は、同じ親の元で同じ家で成長してきたのに、趣味から性格まで悉く違う。
それが普通だと俺は思う。」
「・・・。」
「受験を控えてる修之にこんなこと言っちゃいけないかもしれないが、自分は兄貴のコピーじゃない、と思って出来るだけのことをすれば良い。その結果駄目だったら
駄目で、1年かけて再挑戦すれば良い。」

 合格を当然視されている環境下の修之には、駄目で元々なんて言い方するな、と言われても仕方ない「助言」だが、そう思うにはそれなりの理由がある。

「父さんと母さんは予備校には通わせないだろうけど、試験で問題解くのは結局自分なんだから、呼び降雨や塾へ行く行かないに関係なく、自分でその方法や
ノウハウなんかを身に付けるしかない。その手段は予備校や塾通いだけじゃない。現に俺は塾に行かなかったし、俺の高校時代のバンド仲間も全員塾は
行ってなかった。行ってたらバンド練習どころじゃないだろうけど。」
「・・・。」
「修之も知ってるだろうけど、俺自身、新京大学合格の可能性は模試では五分五分だった。それでも受験したのは、バンド仲間全員が第一志望校合格ってことを
公約に掲げたのもあるし、自分の可能性に賭けてみたからだ。出来るだけのことをやったから、落ちてもそりゃ残念には思っただろうけど、あれだけやったんだから
納得は出来たと思う。」
「・・・。」
「幸い修之は、昨日見ていた限りでは致命的な弱点はなかったし、昨日のある時期から問題に取り組む様子が積極的になって、楽しいと思えるようにもなったように
見えた。その調子でやれるだけのことをやれば良い。昨日も言ったように、俺が高校時代に使ってた問題集の問題群Aと『赤本』の過去問題をこなせるように
しておけば、修之が受ける2つの大学は十分合格圏内に入れる。仮に今回駄目だったとしても、やれるだけのことをやったならその結果に納得出来るだろうし、
再挑戦に向けての意気込みも変わってくる筈だ。だから、俺がどうとか周囲がどう思ってるとか考えないで、自分が今やれることを納得出来るだけやれ。
今はそれだけで良い。」
「・・・サンキュ、兄貴。結構気が楽になった。」

 苦悩も感じられた修之の顔に、気力が蘇る。受験経験者のアドバイスとしては失格かもしれないが、今俺より修之の方が強いプレッシャーを感じているだろう。
そのプレッシャーに押し潰されないで、受験勉強に専念出来る心理状態が出来たのならそれで良い。

「昨日、兄貴が来て井上さんと勉強見てくれることになって、今日聞けるところは聞いておこう、って思ってたんだ。大学もあるしバイトもある兄貴と井上さんに、
まさか俺の受験が終わるまで面倒見てくれ、なんて言えないし。だけどさ・・・。それだけで間に合うのか疑問だったんだ。兄貴と井上さんのおかげで勉強への
見方っていうか取り組み方っていうか、そういうもんは確かに変わったけど、それだけで間に合うのかって。」
「センター試験まであと・・・2週間程度か。それまで事実上孤軍奮闘だったんだから、分からないところを多く抱えてりゃ、不安にもなるな。」
「そうそう。そんなシチュエーションで父さんとか母さんとかは、俺が合格するのを前提にしてるから、正直、ノイローゼになりそうだった。」

 修之の気持ちはそれなりに分かる。俺は意識しなかったが、父さんや母さんは、俺が中学高校と成績優秀コースを邁進していくうちに、所謂「難関校」への進学を
当然視するようになったし、親戚廻りの席でも俺の学年が進むにつれてその話が高揚していった。
 俺は最後まで意識しないまま、バンド仲間との公約実現に向けて大きな賭けに挑んで結果勝ったからある意味平和だった。自分のことだけに専念出来たからだ。
でも、3年になっていきなり進学、しかも決して難易度が低いとは言えない大学への進学を当然視される方向に急転換、となれば、プレッシャーに感じない方が不思議だ。

「だけど、兄貴の言ったこと聞いて、結構気が楽になった。兄貴がこうだから俺もこうじゃなきゃいけないなんて決まりはない、って考えると、落ちても良いとまでは
いかなくても、出来るだけやれば良いんだよな。」
「ああ。俺には自分の来年度の授業料を自分で払って、金の負担を減らすことくらいしか出来ないが、俺の足跡を一歩一歩全部踏んでいく必要なんてない。
俺とお前は違う人間なんだから。」
「そうする。」

 修之は心を決められたようだ。受験前に他の心配事や不安があったら受験勉強もおぼつかなくなるだろうし、それで受験に失敗したら悔やんでも悔やみきれないだろう。
俺が出来るのはこのくらいだが、それでも当事者の修之が受験に向けての心構えを整えられたら、それで十分だ。

「祐司ー。修之ー。早く降りてらっしゃーい。」

 母さんの声が上がってくる。これで少し待っても応答がないと、母さんが駆け上ってきてドアを開け放って怒鳴りつける、っていうのがパターンだ。
それが変わっているとは思えない。

「俺は晶子の様子を見に行ってくるから、修之は先に下りていけ。」
「分かった。」

 俺は部屋を出て、廊下をほんの少し歩いて晶子が使っている部屋に向かう。もう・・・起きてるかな?
念のため、ドアをノックする。はい、と応答が返ってくる。起きているようだ。俺みたいに寝坊しやすいタイプじゃないから大丈夫だよな。ドアを少し開けて中を覗き込む。
明かりのついた部屋で、着替えを済ませた晶子は荷物を纏めていた。

「おはよう。」
「おはようございます。」

 何の変哲もない朝の挨拶。だけどそれは、同じ屋根の下で一夜を過ごしたからこそ交わせるもの。昨夜、晶子と交わした寝る前の挨拶。そしてお休みのキス。
その時の心地良くて幸福な記憶が脳裏をよぎる。

「もう起きてたのか。」
「はい。朝ご飯の用意があるからそれまで待っているように、とお母様から言われたので、忘れ物がないかどうか確認するのを兼ねて荷物を纏めていたんです。」
「そうか。俺はちょっと前に母さんに起こされたんだ。下に行こう。」
「はい。」

 俺は、晶子と一緒に1階に下りる。リビングには既に全員集合。父さんが居なかったのは、朝飯前の散歩のため。おちおち医者にかかれない職業だから、ということで
店を開いた直後あたりからずっと続けている。

「おはようございます。」
「ああ、おはようございます。さ、どうぞ座ってください。」
「では、失礼いたします。」

 父さんの案内を受けて、晶子は俺に続いて座る。席の配置は昨日と同じ。だから晶子は俺の隣だ。机には朝食が出揃っている。鮭の切り身を焼いたもの。
漬物。味付け海苔。目玉焼き。母さんがよそっているご飯と味噌汁を加えると、かなり豪華だ。晶子が居るせいだろう。
 全て出揃ったところで「いただきます」。晶子が加わった以外は去年帰省した時と変わらない、食卓の風景。去年の帰省では俺は完全にお客様扱いだったから、
起きる時間がずれても一向に構わなかったし、1階に下りてくれば母さんが直ぐ朝食を出してくれた。もっとも、幾ら俺が朝苦手な方とはいえ、9時ごろには起きていたが。

「食ったら、もう帰るのか?」

 父さんが尋ねる。父さんの問いは文の構成要素が欠落していることが多くて、意味が分からない時がある。今回は流れから分かるが。

「ああ。帰る。家、長い間放ったらかしにしておくと、今のご時世、何かと物騒だし。」
「今度は何時帰ってくるんだ?」

 帰る理由から次の帰省にいきなり話が飛躍する。その理由は俺でも分かる。修之の受験勉強の相手で上手い具合に立ち消えになった、俺の進路の話をする
時間を確保するためだ。

「まだ何とも言えない。大学が始まったら一月ほどで後期試験だし、それで単位落としたら洒落にならないから、まずはそれに専念する。」
「そういえば祐司。あんた、本当に4年の学費は自分で出すの?」
「出す。それだけの分は貯まってるし、それを払ったら生活に困るなんてこともない。」

 時給1500円という飲食店のバイトとしては破格の高待遇と、ギターの弦と月刊のギター雑誌以外でめぼしい買い物をしないことが幸いして、俺の預金総額は
これまでの最高額を更新している。1年分の学費は十分払えるし、それでもまだ十分余裕がある。これは何度も確認したし、母さんにも伝えた。電話では
顔が見えないから、疑問や不安を払拭出来なかったんだろう。

「俺の大学関係は自分でどうにかするから、修之のサポートをしてやって。1年の時からテストと宿題の嵐に加えて模試の雷もあった俺と違って、修之は3年で
急転換して、学校で十分なフォローが出来てないらしいから。」
「まあ、修之は修之で受かってもらわないといけないんだけどね・・・。」

 母さんは難しい表情で溜息を吐く。俺としては、母さんの心境より、俺の後を受けて急に挑むことになった大学受験が間近に迫っている修之の心境の方が気がかりだ。
さっき話をした限りでは、自分なりに心構えが出来たようだったが。

「修之の1年分の学費を出す分バイトはそうそう休めないだろうが、日帰りでも良いから、帰れる状況になったら帰って来い。」
「分かった。」
「井上さん。出来る範囲で構いませんから、祐司のフォローをお願いしますね。何せ祐司は、食べるものとか着るものとか、生活関係にはまったく疎いもんで。」
「それは勿論、させていただきます。」

 口調も丁寧になり、声は半オクターブくらい上げた父さんの依頼に、晶子は即答する。食べるものには殆ど不自由しないんだけどな。
大学には生協の食堂があるし、バイト先では夕食を出してもらえるし、実験で遅くなる月曜の夜は晶子が夕食を作ってくれるし、そのまま朝飯も作ってくれる。
土日の朝昼兼用の食事は普段の朝飯と大差ないが、それで十分だ。メニューに凝るだけの暇があるならレポートや音楽にまわす、というのが俺の考えだ。
 もっとも、晶子の厚意におんぶに抱っこで良いとは思ってない。晶子は至って健康そのものだが、人間やってると何時病気になったり怪我をしたりするか分からない。
熱を出して寝込んでいる晶子に「食事はまだか」と尋ねられるほど、俺は図太い神経じゃないつもりだ。いきなり刺身包丁を自由自在に、とはいかないにしても、
今出されているメニューくらいは作れるようにしておこうかと思う。
 食材を買う場所は、晶子と出逢うまでは専らコンビニだったが、晶子が俺の家に泊まりを含めた出入りをするようになってからは、晶子が買いに行くスーパーで
荷物持ちを兼ねて買っている。買うものは朝飯となる食パンとジャム、それにコーヒーくらいのものだが、その時にでも教えてもらえば良いだろう。

「でも、祐司が良い娘(こ)見つけてきて良かったわ。これで祐司の生活面は安心していられるから。」

 さっきまでの難しい表情は何処へやら、母さんが明るい表情を向ける。俺の生活面での無能ぶりを最もよく知ってるのは母さんだし、宮城の「後釜」がどんな相手かと
やきもきしていたところに俺が晶子を連れてきて、不安が一挙に安心へと変貌したんだろう。

「井上さん。祐司が面倒をおかけすると思いますけど、よろしくお願いしますね。」
「祐司さんには常日頃お世話になっておりますので、こちらこそお願いしたいと思っております。」
「祐司。井上さんにあんまり手間かけさせないようにしなさいよ?」
「分かってる。」

 どっちが実の子どもか分からないが、母さんが全面的に晶子を歓迎しているのが改めて分かる。耕次は「結婚は自分のためにするもんだ。親のために
するもんじゃない」と言っていた。そのとおりだと思う。思うならそれを実践することが大切だ。
 今回の顔見世で、話の流れから生じたものとはいえ、晶子との結婚を宣言した。父さんも母さんも、ついでに修之も全面的に歓迎する姿勢を見せた。
次は何時になるか分からないがそう遠くない将来、晶子と一緒に双方の実家を訪問することになるだろう。俺が晶子の実家を訪問する際は、「この男性なら大丈夫だ」と
思わせるだけの人間になっておこう。その理想に一歩でも二歩でも近づけよう。それが、夢や理想を実現する王道且つ正当な手段なんだから・・・。

このホームページの著作権一切は作者、若しくは本ページの管理人に帰属します。
Copyright (C) Author,or Administrator of this page,all rights reserved.
ご意見、ご感想はこちらまでお寄せください。
Please mail to msstudio@sun-inet.or.jp.
若しくは感想用掲示板STARDANCEへお願いします。
or write in BBS STARDANCE.
Chapter 196へ戻る
-Back to Chapter 196-
Chapter 198へ進む
-Go to Chapter 198-
第3創作グループへ戻る
-Back to Novels Group 3-
PAC Entrance Hallへ戻る
-Back to PAC Entrance Hall-