雨上がりの午後

Chapter 196 帰宅後に振り返る高校時代

written by Moonstone


 桔梗邸での夕食はどうにか無事に終わって、帰宅。俺と晶子は再び修之の臨時家庭教師をすることにした。昼間それなりに教えたはしたが、あれだけでは
不十分だと思ったし、修之も頼んできたからだ。今日だけで十分なのか、と問われると十分とは言いきれないが、しないよりはましだと思う。
 修之が受験する2つの大学の入試科目が英語と数学と現代文の3つとかなり絞られているのが、不幸中の幸いと言うべきか。俺が使っていた問題集に加えて、
大学受験の定番と言って良い通称「赤本」を解かせる。修之も流石に「赤本」は受験情報が乏しい高校でも知らされていたようだ。
 受験情報に溢れていた高校時代からまだそれほど年月が経過していない俺と晶子の推測からしても、「赤本」を捲ってみた限りでは、修之が受験する2つの大学は
過去に捻った問題は出ていないことが分かる。俺が使っていた問題集の中で履修内容の例題を集約したような問題を集めた「問題群A」を解けるようにしておけば
十分だと確認出来る。

「修之。先に風呂に入っちゃいなさい。」

 俺が数学Tを見ていたところで、母さんが臨時家庭教師の会場としている修之の部屋に入ってくる。俺の家では午後10時が入浴の時間にほぼ固定されている。
母さんがその後残り湯を洗濯に使ったり、父さんと共に翌日の店の準備をしたりするからだ。

「祐司もついでに入っちゃって。」
「ああ、分かった。」
「あ、井上さんに先に入ってもらわないとね。」
「1日くらい入浴しなくても平気ですので、どうぞお構いなく。」
「そういうわけにはいきませんよ。大切なお客さんなんですから。」

 晶子が入浴を遠慮する姿勢を見せたのに対し、母さんはとんでもないという様子を見せる。夕食を挟んで母さんの晶子の評価は更に高まった。
元からの娘欲しさも重なって晶子に理想の娘像を見たんだろう。こういう娘を嫁にしないと、と俺は夕食中にも何度も釘を刺された。
 とは言え、晶子が入浴して良いんだろうか?
晶子に風呂に入るなと言うつもりは俺とて毛頭ない。だが、晶子が入浴後に着る服がない。俺は家に置いてある−帰省の時のためだ−から良いが、
晶子が着られるような服がない。

「井上さんは、私の服じゃ合わないし。」

 晶子の身長は165cm。170cmの俺と大して変わりないし、女性にしては背が高い方だ。修之がモデルを連想しても無理はない。逆に母さんは150cm後半と
ある意味平均的。10cmの差は服ではかなり顕著に表れる。母さんの服では合わないのは俺でも分かる。

「あ、そうだ。祐司の服があるわ。」

 割とすんなり思いついたと思ったら、その母さんが口にした「名案」は単純といえば単純だ。
でも、旅行中バンド仲間との話で俺の服を着せてやれ、と言われて、宿から出る直前にコートを羽織らせた俺には、かなり衝撃的だ。コートのように
羽織るだけじゃなくて、袖を通すんだから。・・・変な服はないつもりだが。

「確か整理箪笥の中に・・・。」

 当事者の晶子や俺が何か言うより先に、母さんは駆け出していく。やる気満々だ。
自分の提案を即実行に移す、良く言えば行動力がある、悪く言えば強引な母さんらしいと言えばらしい。

「俺の服って・・・そんなに残してあったっけ。」
「兄貴、服殆ど買わなかったもんな。」
「ああ。だから思い当たるものがないんだよな・・・。」

 ファッションとかにてんで無頓着だった俺は、服を買うということに興味がまったくなかった。「ある服を着る」「破れとかが目立ってきたら買う」
「サイズが合ってて派手な色や柄じゃなければ何でも良い」っていう、物凄くアバウトな考え方は今でも健在だ。実際一人暮らしを始めてから服を買ったためしがない。
「あんたは服を買わない子だから」と一人暮らしを始める前に母さんに半ば無理矢理連れて行かれて買った服を、今でもそのまま使っている。

「あったあった。これこれ。あんたの部屋着。」

 そんなことを思っていたら、母さんが問題の服を持ってきて見せる。高校時代の俺が帰宅した後や休みの日に着ていた、明るいグレーのトレーナーだ。
一人暮らしを始める際にも買ってはあるが、今じゃパジャマと区別が付かない。大学から帰宅してバイトして帰宅して、という生活リズムが定着した今では、
着替える時は風呂に入って寝る時で着る服はパジャマだから、尚更区別が付き難くなっている。

「井上さん、背が高いから、祐司の服が着れるでしょ?ちょっと合わせてみてもらえます?」
「はい。」

 晶子は特に驚いたり困ったりする様子もなく、母さんに駆け寄る。母さんが晶子の前で服を合わせる。ちょっと大きめだが十分許容範囲内だ。

「あ、丁度良いくらいの大きさね。これで良いですか?」
「はい。勿論構いません。」
「下着は・・・。」
「今着ているもので十分ですから、どうぞお気遣いなく。」
「そうですか。すみませんねぇ。じゃあ井上さん、先に入ってください。」
「よろしいんですか?」
「ええ、勿論ですよ。さ、どうぞどうぞ。」
「では、お言葉に甘えさせていただきます。祐司さん。引き続き修之さんの勉強をお願いします。」
「ああ、分かった。」

 母さんの極めて愛想の良い勧めを受けて、晶子は部屋を出て行く。母さんが次に俺に入るように言って、ドアを閉める。
今修之に教えていたのは数学Tだし、晶子の風呂の時間を考えるとまだ十分問題に取り組めるだろう。

「兄貴、井上さんと一緒に風呂には入らないのか?」

 続きを見ようとしたところで、修之が鳩尾(みぞおち)に食い込むデッドボールを投げつけてくる。

「な、何言ってんだ、お前。」
「だって、井上さんと兄貴、同じ指輪填めてて兄貴の家にも出入りしてるんだろ?だったら一緒に風呂に入ってるんじゃないかって思ってさ。」
「入ってない。」

 照れを隠すのを兼ねて断言する。これは事実だ。
晶子は去年の秋から毎週月曜の夜に必ず俺の家に泊まっていくし、俺はそれより前から晶子の家にバイト帰りにお邪魔している。俺の家でもそうだし、
晶子の家でも風呂は別だ。

「ふーん。じゃあ、一緒のベッドで寝たりしてるのか?」
「・・・別だ。」

 修之が続いて放ってきた頭部への強烈なデッドボールをどうにかかわす。こっちは嘘だ。
一昨年の俺の誕生日、俺が20歳になったその日に晶子を抱くより前から、寝るのは一緒だった。俺は来客用の布団なんか持ち合わせてないし、晶子は持っているかも
しれないが俺に見せたことはない。晶子の方から一緒に寝ようって誘ってきたのもあるし。
 晶子の柔肌の感触を知って以来、欲求が表面化してきた。ようやくという感が否めないが、先に宮城との破局を経験して、セックスが必ずしも関係の維持に
繋がらないと思い知らされたことで、晶子の場合もそうなるんじゃないかと恐れていたことが大きな原因だ。
今のところそうなっていない。晶子は、俺が他の女の裸やセックスを見て興奮するより自分で興奮して処理して欲しいと思っている。晶子が月曜の夜に
俺の家に泊まるようになってから、そう匂わせることを言っている。それが晶子とのセックスやその前段階までの儀式となって定着するに至ったと思う。

「でもさ。井上さんって珍しいよな。」
「何がだ。」
「兄貴が井上さんを晶子って呼ぶのはまだしも、井上さんが兄貴を祐司さんってさん付けで呼ぶのがさ。今時そんな女居ないんじゃない?」
「それは・・・確かに。」

 最初はさん付けで呼ばれることに照れから生じる違和感なんかを感じたが、今ではすっかり馴染んでいる。
もっともそれで俺の立場が上だとかそんなことは思ったことはない。だが、世間一般では修之の言うとおり今時珍しい呼び方ではあるだろう。

「井上さんって、兄貴と同い年だろ?」
「・・・否。学年は同じだが、年齢は晶子の方が1つ上だ。事情があって大学を入り直したからな。」
「ふーん。入り直して兄貴と同じ新京大なんだから、やっぱり凄いよな。」

 修之は晶子と俺の年齢の違いや、大学を入り直したことにもっと突っ込んでくるかと思ったが、入り直して新京大学というところに関心を向ける。
言って良いものかどうか迷ったが、大学だと同じ学年でも年齢が違うことは珍しくないし、入学したは良いが合わなかったとか経済的な事情とかで別の大学に
入り直すことも時にはある。だから、そういう好奇心を抱くには至らないんだろう。

「井上さんの方が年上だと尚更、兄貴をさん付けで呼ぶのって珍しいよなぁ。」
「話が戻ってるぞ。」
「だって実際そうじゃん。両方名前呼び捨てならまだ分かるけどさ。兄貴がそう呼べって言ったのか?」
「否、言ってない。」

 言ってないことは確かだが、どういう経緯で今の呼び方になったかの詳細は憶えてない。最初は俺が「井上」で晶子が「安藤さん」だったことは間違いない。
関係が親密になっていくに連れて−俺が心を開いたと言うべきか−姓が名前に置き換わっただけと言えなくもない。

「それより、時間が勿体無いから問題を解いていけ。」
「はいよ。」

 強引に話というか追求を打ち切って、修之を「赤本」に向かわせる。
受験じゃなかったら修之はもっと詰め寄ってくるだろうが、尻に火が付いている現状では手を引かざるを得ないと分かっているようだ。この状況で助かったと考えておこう。
 修之の解答と間違いとそれらの流れを見ていて、やっぱり致命的な弱点はないことが分かる。公式の丸暗記に頼っているところが確率の分野で幾分見受けられるが、
それ以外は公式を利用して解答へ繋げている。途中の計算ミスに気をつければ、大方の目標である俺が高校時代に使っていた問題集の「問題群A」をひととおり
こなせるだけの力量はある。その点を気をつけるようにアドバイスする。

「−良し。三角関数や因数分解はしっかり出来てるな。あとは繰り返し解いて公式の使い方を覚えることだな。特に確率。公式自体はややこしいもんじゃないから、
機械的に問題の数値を当てはめないよう気をつけるようにすると良い。」
「うーん・・・。兄貴に教えてもらって割と分かるようになってきたけど、確率って何となく意味がないように思うんだよなぁ。そうなるかならないかは
五分五分じゃないかって思えて。」
「それは言葉どおり、確率の事象を二択に矮小(わいしょう)化した場合の話だ。数学的な考え方じゃそうはいかない。」
「兄貴。頼むから難しい言い方しないでくれよ。」
「難しく言ったつもりはないけど、表現を変えると・・・そうだな・・・その問題でありうる可能性を出るか出ないか、当たるか当たらないかの二者択一で強引に
置き換えてしまった場合、と言えば良いか。」

 これでも修之はイメージが掴みきれない様子だ。こういう時は実際に計算させてみるに限るな。

「此処で一つ、確率の問題でよく出るサイコロより身近な例を挙げてみる。宝くじだ。」
「宝くじ?」
「ああ。これだって立派な確率の問題だ。桁が多いとイメージし難くなるから、0から9までの数値で5桁の宝くじがあるとする。その中で1等のある数値、
例えば12345を1回で引き当てる確率はどうだ?」
「えっと・・・。」
「当たるか当たらないかだけで言えば確かに五分五分、数値にすれば1/2と出来る。だけど、0から9までの数値を使った5桁の宝くじを各1枚ずつ全部作ろうとしたら、
何枚印刷する必要がある?」
「それは・・・、00000から99999まであるんだから、10万枚に決まってるじゃん。」
「そうだな。じゃあ、その中にさっき例に出した12345っていう数値が印刷された宝くじを1回だけのチャンスで引き当てる確率は?」
「そんなの、10万枚の中の1枚なんだから、10万分の1に決まってるじゃん。」
「そのとおり。それじゃ、そうやって直感的にも10万分の1って分かる確率を、当たる当たらないの二者択一にしたら、俺が例示した確率の問題が成立すると思うか?」
「問題の成立・・・?式の証明が必要になるんじゃないの?」
「否、式の証明なんて必要ない。5桁の数値が全て違う10万枚の宝くじの中から目的の12345が印刷された宝くじを1回のチャンスで引き当てる確率を、最初から
引き当てるか引き当てないかの二者択一にしてしまってるんだから、問題が成立する筈がないだろ?」
「・・・あ。」

 修之は確率の問題を数学的に捉えるための直感的なイメージが出来たようだ。
目的や定義があって初めて公式が成立するんだし、それを使ってある事象を導き出す。これが数学の基本だ。これが分かってないと、数学は公式を丸暗記するだけの
意味不明な暗号もどきでしかなくなるし、当然面白みもなくなる。

「改めて最初の方から順に辿っていく。0から9までの数値で5桁の宝くじを各1枚ずつ、合計10万枚印刷して、その中から12345っていう桁があるやつを
1回のチャンスで引き当てる確率、っていうのが俺が例示した問題。その確率は10万分の1。じゃあ、直感的に分かりそうなその10万分の1って値のまず10万って値は、
確率の公式を使った場合どうやって弾き出せる?」
「えっと・・・。」
「問題集とかを見て良いぞ。今は受験本番じゃないから。」

 それまで頭の中に公式を次々並べて考えている様子だった修之は問題集を見る。その眼差しは真剣だ。

「0から9までの数値は10あって・・・。その中から1つ取り出して並べる、を5回繰り返すことと同じだから・・・!重複順列を使うのか!」
「それを俺に説明してみろ。」
「えっと、0から9までの数値は0、1、2、3、4、5、6、7、8、9の10個。その中から1つを選ぶんだから、1回につき10通りの選び方がある。1桁選ぶ際には、
前に選んだ数値を使っても良いんだから、1桁目が10通りで、2桁目も3桁目も、5桁目まで全部10通りずつある。だから、10の5乗、重複順列の公式と使うと、
10Π5。答えは10万。」
「大正解。そういうことなんだよ。その10万の中から、1回のチャンスで12345っていう数値が印刷された宝くじを引き当てる確率は?」
「12345っていう組み合わせは1回しかないから、10万分の1。」
「というわけ。ちなみにこの例題は重複組み合わせの確率とも考えられる。重複組み合わせの定義をよく読んでみれば、直ぐ分かるだろ?」
「あ、そうかそうか。0から9までの10個の数値が全部違ってて、その中から繰り返しOKで5回選ぶんだから、重複組み合わせの公式で、nが10、rが5とすれば、
105と同じ。それは・・・、n=10でr=5を代入して、10+5-15ってなるわけか。」
「そういうこと。確率の問題で言えば、問題が何を求めたいのか、どういう組み合わせを使うかをしっかり捉えて、それに応じた公式を使えば良い。」
「あー、なるほど、なるほど。そういうことってわけか。」

 どうやら納得出来たようだ。
確率の問題で使う公式は限られてるから、問題の意味を汲み取れればさほど難しいもんじゃない。これで苦手意識とかが克服出来るだろう。
後は修之本人のやる気次第だ。
 俺が卒業した高校は名だたる進学校だが、そこに進学したからといって誰でも有名大学や難関大学に進学出来るわけじゃない。
教師の「当たり」「外れ」の落差が大きいのもあるし、ひたすら授業を進めてその間にテストや宿題が加わってくるという超過密且つ混沌状態。分からないからと言って
フォローがあるわけがなく、進学先の変更や「ランク」引き下げを余儀なくされる場合の方がむしろ多かった。
 高校卒業から3年を過ぎようとしている今でも、現役高校生の修之の受験勉強を見てやって、問題の解き方などのテクニックだけじゃなくて、今回で言えば
数学的な考え方から説明してイメージ出来るような例題を出したり出来るのは、バンド仲間が居たからだ。
ただ問題を解くだけじゃ満足出来ない、どうしてそうなるのか、どういう流れや背景があるのか、といったことをバンドの練習の合間や泊り込み合宿でとことん追及しあった。
最初は耕次に押し切られて入ったバンドだが、今は本当に良かったと思っている。
 今までと違って目を輝かせて問題に取り組む修之を黙って見ていると、ドアがノックされる。修之が手を休めて、はい、と応答すると、ドアが開いて晶子が入ってくる。
母さんが引っ張り出してきた俺のかつての部屋着だったトレーナーの上に、俺のコートを羽織っている。

「お待たせしました。お母様から、次に祐司さんに入るよう言伝されました。」
「あ、ああ。それは良いけど、何時の間にそのコート・・・。」
「これですか?お風呂に入る前に祐司さんのコートが掛かっているのを見て、お母様にお風呂から出た後羽織って良いか尋ねて、了承を得たんです。」

 晶子は新品のそれを披露するように、楽しげに身体の向きを左右に何度か捻る。その度にコートの裾が少しだけふわりと舞い上がる。同時に揺らめく、水気を含んだ
茶色がかった長い髪も相俟って、本当にファッションショーのモデルみたいだ。服はファッションショーには場違いにも程があるが。

「祐司さんの上着はお母様が用意してくださってますから、どうぞお風呂へ。」
「・・・ああ。修之。問題を何処まで解くかはお前のペースや判断に任せるから、英語は今までどおり晶子に見てもらえ。」
「オッケー。」
「じゃあ晶子。俺が風呂に入ってる間は修之の勉強を頼む。」
「はい。」

 俺は晶子と入れ替わって部屋から出る。修之の部屋は加湿器つきのストーブがあるから結構温かいが、全館冷暖房完備なんて大層な代物じゃないから、
廊下や階段はかなり寒い。寒さに体温を奪われないうちに、急いで階段を駆け下りて風呂場に向かう。

「あ、下りて来たのね。」

 洗面台もある脱衣場には、母さんが居た。

「あんたの下着とパジャマと上着は用意してあるから、それを使いなさい。」
「ああ。それよりさっき、晶子が俺のコートを羽織ってきたんだけど。」
「祐司と井上さんはあまり身長差がないし、井上さんも着たそうだったから、丁度良いと思ってね。」
「ふーん。」

 母さんの肝入れもあるわけか。となるともう口出ししようがない。
別に晶子に俺のコートを着られるのは気にならないし、晶子は俺の服を着てみたいと前から仄めかしていたし、丁度良いだろう。俺は疲れを癒すため、風呂に向かう。

「あんたの着替えは去年帰省した時のものがあるから、それを着なさい。」
「ああ。」
「あと、上着はこれね。」

 母さんは、壁にかけてあった、ダウンジャケットとコートを掛け合わせたような厚手の服を、下着やらタオルやらが入っている棚の上に置く。
これは去年の帰省の時にも着ていたものだ。

「井上さんには、あんたのコートを貸したから、これで良いでしょ?」
「ああ。良いよ。」
「次は修之に入るように言ってね。」
「分かった。」

 母さんがダイニングに消えると、俺は服を脱いで風呂に入る。実家での風呂は1年ぶりだが、特に感慨とかは感じない。何時ものとおり、先にシャワーで全身を
隈(くま)なく濡らして、髪を洗って、身体を洗って、シャワーで泡を洗い落として湯船に浸かる。夕食の席で幾分緊張したせいか、湯船に浸かると思わず溜息が出る。
 60気持ちゆっくり数えて湯船から出る。シャワーでかけ湯をしてから風呂を出る。先に用意されている、俺が帰省した時に使うことになっている白一色の
バスタオルで身体を拭う。夏場は多少いい加減でも良いが、冬場は水気をしっかり取っておかないと風邪の原因になりうる。残りの休みを風邪で寝込んで
過ごすなんて真っ平御免だから、全身を拭くのは念入りに。
その後は下着とやや濃い目のグレーのパジャマ−これまたトレーナーと区別が付かないが−を着て、コートを羽織る。
 準備が完了した俺は、ダイニングと脱衣場を仕切るドアを開ける。ダイニングでは、父さんと母さんがTVをつけて料理の仕込をしている。店は明日から営業だからな。

「お先に。」
「もう上がったの?相変わらず短い風呂ねぇ。」

 母さんは少し呆れた様子だ。俺の烏の行水ぶりは今に始まったことじゃない。先に入った晶子が長かった分−時間は計ってないが−、余計に短く
感じるのかもしれない。

「井上さんにも言ったけど、次は修之に入るように言って。お父さんと母さんは明日の準備をして洗濯機をセットしてからにするから。」
「分かった。」

 俺はドアを閉めて2階に向かう。脱衣場は風呂場の熱と湿気があるからそれなりに暖かいが、廊下や階段はやっぱり寒い。こればかりは致し方ないから、
暖房がある修之の部屋へ急ぐしかない。
 念のためドアをノックする。はい、と応答が返って来たのを受けてドアを開ける。修之の隣には晶子が居て、修之と同じく俺の方を見る。

「兄貴、本当に風呂に入ったのか?」
「俺の風呂が短いことくらい、知ってるだろ?」
「そりゃそうだけどさ。さっき井上さんに英語を教えてもらい始めたところだぜ?」
「兎に角先に風呂に入って来い。母さんから言われた。」
「はいはい。」

 修之はやや面倒そうに席を立って、俺と入れ替わりに部屋を出て行く。階段を駆け下りる足音が遠ざかっていく。俺はベッドに腰を下ろす。すると、
それまで修之の隣に座っていた晶子が、俺の隣に座る。

「修之さん、以前に増してやる気になってますよ。」
「そうか。受験は結局本人と試験問題だけの1対1の勝負だから、良いことだ。」
「祐司さんに数学の基本を教えてもらったことを、目を輝かせて話してましたよ。英語も単に問題を追うだけじゃなくて、文法の基礎や単語の意味を同時に
複数調べるようにしたり、意欲的です。」
「俺が教えたことがきっかけの1つになったみたいだな。」

 俺が居ない間、講師が俺から晶子に代わって科目も数学Tから英語に代わって、違和感を感じたんじゃないかと思っていたが、余計な心配だったようだ。
こういう心配は杞憂に終わることに越したことはない。

「流石は、祐司さんですね。」

 晶子が俺に称賛を向ける。

「修之さんから聞いたんですけど、確率の問題でどんなものでも結局は五分五分になるんじゃないかっていう疑問に、それだと確率の事象が成立しないことを
解説して、確率の公式を実際に使った例題を提示したんですってね。」
「数学は好き嫌いが両極端になりやすい科目の1つだけど、修之の疑問はその原因の1つでもあるし、もっともな疑問でもあるからな。それに応えないと
修之は納得しないまま、問題の解き方だけ覚えることになって、数学の意味とかを知らないまま苦行に耐えるだけでつまらないって思い続けることになるだろう、って
思ってな。大したことじゃない。」
「私も高校で数学を履修しましたし、受験でも1次2次両方であったんですけど、祐司さんに教えてもらっていれば、祐司さんと同じ学科に進学出来ていたかも
しれませんね。」
「そうだったら良かったような・・・。」

 晶子の仮定に、俺は同じ学科で晶子と学生生活を送れる様子を思い描く。だが、1つの不安が浮上したことで、その様子は直ぐに霧散する。

「否、やっぱり晶子と同じ学科じゃなくて良かった。」
「どうしてですか?」
「俺は一応1年の秋まで宮城と付き合っていたんだ。そんな状況で晶子が俺と同じ、男の数が圧倒的に多い電子工学科に居たら、晶子との出逢いはあんなに
上手くいかなかったと思う。」
「・・・。」
「あれが良い出会い方だったかどうかは疑問の余地があるだろうけど、晶子はあの日の夜俺とコンビニのレジで出会うまで、他に晶子の目に敵うだけの男に
出会わなかったから、俺との関係が始まったんだ。だから、男と出会う可能性が文学部より圧倒的に多い工学部に居なくて良かったと思ってる。」
「・・・そうですね。祐司さんと私の大学での位置関係が違っていたら、今までのような出会いや関係はなかったかもしれませんよね。」

 晶子は少ししんみりした顔と口調で言う。

「こうして付き合っている今だけは、晶子と一緒の学科に居られたら良いな、と思ってる。それだけは誤解しないでくれよな。」
「はい。」

 俺の補足で晶子の顔からしんみりしたものが消える。
実際、晶子と一緒に大学を行き来して、一緒の学科で講義を受けたり出来れば良いのにな、とは思う。だけど、他の男の目に晒されることになる。
それを考えると、晶子がある意味女に飢えている電子工学科に居なくて良かったと思う。我ながら見事な独占欲の塊だ。

このホームページの著作権一切は作者、若しくは本ページの管理人に帰属します。
Copyright (C) Author,or Administrator of this page,all rights reserved.
ご意見、ご感想はこちらまでお寄せください。
Please mail to msstudio@sun-inet.or.jp.
若しくは感想用掲示板STARDANCEへお願いします。
or write in BBS STARDANCE.
Chapter 195へ戻る
-Back to Chapter 195-
Chapter 197へ進む
-Go to Chapter 197-
第3創作グループへ戻る
-Back to Novels Group 3-
PAC Entrance Hallへ戻る
-Back to PAC Entrance Hall-