雨上がりの午後

Chapter 195 2度目の会食−後編−

written by Moonstone


 付け出しを摘みながらちびちび飲んでいると、障子が開いて料理が運ばれてくる。ほうれん草と竹輪のゴマ味噌和えと野菜の天ぷら、1人用の小さなコンロ
−火はガスじゃなくてマッチで火をつける平たいろうそくのようなもの−に乗った鍋。これでも十分夕食が成立する。メニューの写真では確か、まだこの段階では
半分も出揃ってない筈だ。

「あ、井上さんもどうぞ食べてください。」
「では、いただきます。」

 父さんが少し慌てた様子で言う。見ると、晶子はようやく割り箸を割ったところだった。父さんもまさか自分が勧めるまで待っていたとは思わなかったらしく
−俺も思わなかったが−、食べつつも晶子を気にしている。母さんも言葉は発しないが考えていることは同じらしく、驚いた様子で晶子を見ながら箸を進める。

「それにしても、祐司は随分立派な娘さんを連れて来たもんだな。」

 ビールのジョッキを置いた父さんが、感慨深げに言う。

「去年帰省した時に外見とかの概要は聞いたが、今日実際に会って話をしてみたら、礼儀は驚くほどしっかりしてるし、派手に着飾ったりしてない。
その上、祐司と同じ新京大の現役学生と来ればもう、才色兼備と言う他ないな。」
「恐縮です。」
「祐司は成績の方はそこそこだが、ご飯を炊くのがようやくで、一人暮らしを始めるまでろくに自分で掃除も洗濯もしなかったから生活出来てるのか心配だったんだが、
井上さんが食事まで面倒見てくれてるなら、妙なもの食って腹壊したりすることはないだろう。井上さんから見てどうです?祐司の暮らしぶりは。」
「掃除や洗濯は祐司さんが自身できちんとこなしていますし、月曜以外は毎日夜10時までバイトをして、その上、私も見せていただいたことがあるんですが、
難しいレポート提出を沢山、しかもきっちりこなしています。それを反映して、先生方から成績は非常に優秀というお墨付きを得ています。新京大学の理系学科は
総じて厳しいとは私も知ってはいましたが、その理系学科の1つで学業とバイトをしっかり両立している祐司さんは、私が模範とするところです。」
「生活費の不足分は自分で補填して4年きっかりで卒業する、っていうのが今の大学への進学と一人暮らしをさせる条件ですから、それを守るのは義務ですよ。」
「学業とバイトの両立に加えて、昨年の秋から用心のために毎日私と通学してくれているので、身体を壊さないかと心配になることがしばしばあります。
今は実験で終了が何時になるか分からない月曜の夜と翌朝の分だけしか食事の用意が出来ないんですが、言ってもらえば毎日のお弁当くらいは作るつもりでいます。」
「昼ご飯は大学で済ますでしょうから、休みの日に料理を教えてやったり、何処かへ行く際に必要でしたら連れ出してやってください。」
「祐司さんには今のバイト先を紹介していただいたり、毎日の通学とバイト先との往復をご一緒していただいていますから、それでお礼になるのでしたら、
喜んでお受けします。」

 やっぱり晶子は、俺が言えば毎日弁当を作るつもりで居る。流石に月曜の夜に晶子が俺の家に泊まって、晶子と寝ている−2つの意味を含む−ことは言えないが、
俺が頼めばそれこそ、必要最小限の衣類や生活用品とかをバッグに詰め込んで俺の家に住み込んででも家に居る分の食事を用意するつもりで居るのも確かだ。
俺との同居への決意は固いと一言で片付けるのが安易過ぎるものだってことは、俺でも分かる。

「祐司も去年帰省した時に井上さんを連れて来れば、親戚廻りの時に紹介出来たのに。」

 今度は母さんが言う。去年晶子を連れて来なかったことにまだ不満たらたらだ。

「去年の親戚廻りでも、指輪について聞かれたのに『アクセサリーだ』としか言わないから、お父さんと説明したのよ?」
「そんなこと言われても、去年井上さんを連れて行ったらどういう態度に出るか分からなかったし、去年の帰省はバンド仲間との約束を果たすのが
目的だったんだからさ・・・。」
「まあ、そうだけどね。」

 去年晶子を連れて来なかったことがまだ不満な様子が一目で分かる表情で、母さんは溜息を吐く。
去年帰省した際には前々から「成人式会場でバンド仲間と会う」っていう約束があるからだと言っていたし、俺はその約束を果たすために帰省した。
言い換えれば、バンド仲間との約束がなかったら別に帰省する目的はなかったわけだ。
 そんなこともあって、晶子を連れて行くつもりはなかった。連れて行くにしても日帰りというのは結構面倒だし時間もかかる。それに、仮に日帰り出来る
距離だとしても、晶子を連れて行くだけでもどうなるか分かったもんじゃないし、ましてや、俺と晶子が左手薬指に揃って指輪を填めているのを見たら、
驚いて説明どころじゃなくなるのは予想出来た。
 その時は今ほど晶子との結婚を明確に意識して固めてなかったから−大学卒業ではいおしまいとするつもりは毛頭なかったが−、ただでさえ説明が難しい
父さんと母さんに驚きと混乱の中でどう説明すれば良いか分かりゃしなかった、ってのもある。
 去年でも指輪の説明で訝っていた。俺の説明不足だったのもあるが、晶子からの電話を受けて態度が一変したんだから、それまでどうすれば良いかなんて
想像するしかない。当初の予定どおり俺単独で帰省することで、結果的に安全パイを選択した格好だ。

「でも、良かったわ。井上さんが本当に良い娘で。」

 母さんの表情が一転、晴れやかなものになって晶子に向けられる。こうして第三者的に見ていると、めまぐるしく表情が変わって、見ていて割と面白い。

「礼儀はしっかりしてるし、料理もきちんと出来るそうだし、性格もしっかりしていて。」
「恐縮です。」
「私、こういう女の子が欲しかったのよねー。」

 母さんの口癖の1つがやっぱり出た。母さんは女の子が欲しかったんだが、子どもは俺と修之の男2人。3人目は諦めたそうだが、親戚廻りなどの時に母さんの兄弟、
俺から見て叔父や叔母、そしてその娘である俺から見て従姉妹に会うと、「女の子が欲しかった」とぼやくのが恒例だ。
 男の家系、女の家系というのは傾向として存在するらしい。父さんも母さんも兄弟が多い世代だが、特に男が多いとか女が多いとか、そういうことはない。
ただ、その子どもではやや傾向が生じている。俺の知りうる範囲では、父さんの兄弟では男が多くて、母さんの兄弟では女の方が多い。
 思い浮かべられる顔の範囲で数を数えてどちらが多いかと比較したらそうだ、というレベルだが、母さんの姉2人と妹1人にはどういうわけか女の子が集中している。
母さんが女の子に今尚未練があるのは、姉妹に女の子が必ず1人は居るのに自分だけ男の子だけ、というある種の疎外感があるのかもしれない。

「祐司と結婚してもらえれば、ようやく念願が叶うわ。披露宴とかそういうのは別にして貰わなくて良いから、式はハワイか何処かの教会で簡単に済ませて
入籍してもらえばそれで十分だし。」

 いきなり内角を深く抉るストレートが投げかけられて、箸が無意識に止まる。
母さんは、父さんの兄弟姉妹の長男、つまり俺の叔父の長男の結婚披露宴が盛大だったのを、勿体無い、と零していた。
「何百万もかけて披露宴をするより、結婚後の物入りに使う方がよっぽど有効なのに」というのが母さんの思いだ。
頻りに結婚だどうとか言う一方で、結婚そのものにはかなり進歩的というか現実的というか、そういう面が母さんにはある。

「まあ、それは言えるな。後で挨拶回りをするなり葉書で『結婚しました』って報告して済ますなりすれば、それでも良いだろう。」
「今日みたいに両方の家族が揃って此処で食事会をすれば、良いものが沢山食べられるし、使えない引き出物を貰うよりその方が私は良いわ。」
「それは祐司と井上さんが決めるだろう。」

 父さんは半ば強引に話を打ち切る。披露宴と聞いて自分の兄弟と甥の披露宴が頭に浮かんで、母さんがそれを槍玉に挙げたのが引っかかったんだろう。
母さん、ストレートな言い方をする一方で他のことを考えない時あるからな。だから一方的な物言いになることがある。

「失礼します。」

 少し気まずくなったところで、タイミング良く障子が少し開いて声がかけられる。
ゆっくり開いた障子の間から入室してきたのは、店長。その両手には一抱えある見ただけで高価なものだと分かる皿に、大きな鯛1匹が丸ごと刺身になって
乗せられている。「尾頭付き」ってやつだ。

「はい、サービスです。」
「おお、随分立派な鯛じゃないか。」
「祐司君が結婚を想定してのお付き合いをしているお相手を連れてきた、お祝いに。」
「ありがとうございます。」
「ご厚意に感謝いたします。」
「活きの良いやつを捌いたんで、どうぞ食べてやってください。」

 店長が退室した後改めて見ると、机の中央に鎮座した鯛の刺身は見るからに豪華な一品だ。これだけでも数千円はするだろう。店長自ら運んできたってことは、
店長自ら捌いたんだろう。

「うわっ、凄え美味そう。」
「立派ねぇ。」
「眺めてるだけでも何だ。食べよう。」

 少し惜しいものを感じるが、食べなきゃ始まらない。一切れ箸で摘んで山葵醤油を軽くつけて、口に運ぶ。・・・うん、これは本当に美味い。祝いの品として
この高級料理店を仕切る店長自ら捌いて運んできただけの事はあるな。

「そういえば、井上さんは魚を自分で捌けるんでしたよね?」
「はい。」
「鯛を捌いた経験はお持ちですか?」
「はい。回数はあまり多くありませんが。」
「あらまあ、凄いじゃないですか。」
「ほうほう。それは随分立派なもんで。」

 晶子に尋ねた母さんに続いて、父さんも感嘆の声を上げる。
以前、晶子と買い物に出かけた時、晶子が魚を買う専門店で、此処に尾頭付の刺身になっているやつほど大きくはないが優に一抱えはある鯛が特売で売られていた。
店員も「今日は活きの良いものが安く入ってお買い得」と頻りに宣伝していた。
 だが、その時は月曜の祝日で当然人が多くて、専門店に立ち寄る人も多かったんだが、その鯛を買う手は挙がらなかった。「良いんだけどちょっとねぇ」と
買い物仲間らしい数人で、その鯛を見ながら尻込みしている様子が彼方此方で展開されていた。
 そんな中、颯爽と−俺から見てだが−飛び出したのが晶子だ。晶子はその店で頻繁に買っていることで店員と顔馴染みでもあるんだが、晶子は迷うことなく
その鯛を買った。しかも1匹丸ごと。周囲が驚きや怪訝で−どうにか出来るのかと訝っていた−ざわめき注目する中、晶子は上機嫌で包まれた鯛を買い物籠に入れて、
「今日は良い鯛の刺身を作りますね」と俺に笑顔で言った。
 帰宅して−日曜のバイトが終わってから俺の家に来ていた−早速、晶子は鯛を捌き始めた。晶子が買い物途中で大根を買ったのが疑問だったんだが、
捌く過程で謎が明らかになった。鯛の表面に切った大根の先端をこすり付けて、それこそ大根おろしのように鯛の鱗(うろこ)を落としたからだ。
 俺も触って分かったが、鯛の鱗は思いの外頑丈だ。金属の破片を連想させるような硬さを持っていた。
晶子が言うには、鯛の鱗を落とす方法としては包丁の背中を使う方法があるが、それだと落とした鱗が彼方此方に飛び散って、掃除が大変な手間を伴うらしい。
料理屋とかなら別の人に掃除をさせるなりすれば良いが一般家庭ではそうもいかないから、大根を少し犠牲にする形にはなるがこうした方が掃除の手間を
大幅に削減出来て、しかも鱗を綺麗にそぎ落とせるらしい。実際、大根の一部と引き換えに鯛の鱗は綺麗に落とされた。
 そして、晶子の手によって、その大型の鯛は見事に三枚におろされた。半身は晶子の宣言どおり夕食の刺身になり、残りの半身は2人分に切り分けられて
後日ムニエルになった。アラと頭はやはり後日大根と共に煮付けに変貌。それこそ骨と皮しか残らない状態にまでになったが、魚にとっては本望だろう。

「鱗落とすのって、どうしました?」
「私は大根を使って、鯛の鱗をおろし金にするような形で落としました。大根は勿体無いことをしたことになりますが、包丁の背中でそぎ落とした場合鱗が散乱して、
一般家庭の台所では掃除が大変なことになりますので、あえてそうしました。」
「そうですか。鯛の鱗を落とすのは厄介ですからねぇ。大根は仕方ありませんよ。でも、鯛まで捌けるなんて凄いですねぇ。どのくらいの大きさでした?」
「今私も食べさせていただいているものよりは小さなものでしたが、およそ30cmくらいはあったかと。大きさの割りに随分安かったので。」
「それでも相当な大きさですから、結構な量になったでしょう?捌いた身とかはどうしました?」
「半分をその日の刺身にして、残り半分は後日ムニエルに。アラと頭はやはり後日煮付けにしました。全て祐司さんに食べていただいて、好評を戴きました。」
「文字どおり無駄なく使ったんですねぇ。祐司、あんた良かったわねぇ。立派な娘さんで。」
「俺もそう思ってる。」

 お世辞でも何でもなく、そう思ってる。
ただ美味い料理を作ってくれるだけじゃなくて、俺がレポートと演奏用データの作成で忙しいことを気遣ってくれるからだ。父さんや母さんの言葉じゃないが、
買い物の荷物持ちにでも使ってくれれば良い。

「包丁は自分で手入れしているんですか?」
「はい。普通の包丁と刺身包丁を主に使うんですが、両方共自分で砥いでいます。特に刺身を作る前は刺身包丁をちゃんと砥いで、使用後は水気を十分取っておきます。
そうしないと錆びますから。」
「ほう・・・。自分で包丁も砥ぐんですか。大したもんですねぇ。」
「今時の娘(こ)は気持ち悪いとか言って、魚を捌くどころか切り身や干物にも触れるのを避けるんですが、まったくそういうことがないのは立派ですね。」
「ありがとうございます。」
「本当に立派な娘さんで良かったわ。祐司。こういう娘は大切にしなさいよ?」
「分かってるよ。」

 母さんに言われるまでもない。
外見からして決してもてるタイプとは言えない俺に両腕で抱えきれないほどの愛を向けてくれて、甲斐性なしそのものの俺との付き合いに何も文句や不平を言わず、
俺と一緒に過ごすことそのものをこの上ない幸せと明言し、そうしている晶子。こんな良い相手をみすみす手放すようなことはしない。

「へえ・・・。井上さんって、自分で魚捌けるんですか。」

 隣の修之が参加する。あ、修之は自宅での話を聞いてなかったっか。だとすると、驚異的な話をこの場で初めて耳にしたことになる。

「魚捌くってことは、包丁でこう、ざくっと頭切り落としたりするんですよね?」
「はい。そうですよ。」
「修之、当たり前だろうが、そんなこと。」
「だってさ、井上さんも兄貴と同じ現役大学生で年もそんなに変わらないから、母さんが言ったみたいに触るのも出来ないって奴の方が多いだろうし、なのに
井上さんは魚の頭を切り落とすのも平気なのかな、って。」
「包丁の扱いは幼い頃から少しずつ修練してきましたし、その過程で魚を捌くことも覚えてきましたから、最初は怖いとか思ったこともありますけど、
今は何とも思わないですね。それよりは、綺麗に捌いて無駄なく食べよう、っていう気持ちの方がずっと強いですよ。」
「で、兄貴は今日みたいに料理屋に行かなくても、井上さんが捌いてくれた刺身を食べられるってわけですか。」
「そうですね。」
「近くのスーパーに魚屋が入っててスーパーに行った時見たことあるんですけど、丸ごと1匹の魚を買ってくところを見たことはないんですよね。」
「修之。井上さんはそういうこともきちんと出来る、今時珍しい立派な娘さんなんだから、失礼なこと言ったりするんじゃないぞ。」
「勿論さ。将来の義理の姉さんに嫌われたくないし。」

 修之はこれまたさらりと言ってのける。
俺も俺だが、修之も修之で姉さんが欲しかったと前々から言っていた。それが度重なる兄弟喧嘩の要因の1つになっていたんだが、その願望が叶うとなれば、
父さんに改めて釘を刺されるまでもなく晶子に嫌われるようなことはしないだろう。

「話の続きになりますけど、包丁はどうやって砥いでます?やっぱり家庭用の機械を使ってですか?」
「いえ、砥石を使って自分で砥いでいます。」
「え?砥石で砥いでるんですか?」
「はい。砥石を使って砥ぐ方法を教わりましたので。」
「まあまあ、本当に凄いですねぇ。砥石で自分で砥げるなんて。」

 質問した母さんは、晶子の問いを聞いて驚愕と感嘆を最高潮にする。父さんも目を丸くしている。
父さんと母さんは店で出す料理や弁当を作るために当然包丁を使う。その頻度は一般家庭より当然多いから、包丁の磨耗も早い。買っても良いんだが、調理師免許を
持ってる父さんが研いでいる。その時には機械を使っている。機械と言うと仰々しいものを連想するが、卓上で使えて十分手で持てる大きさだ。それに刃を通すと
砥いでくれる、というわけだ。
 一方の晶子は包丁を砥石で研ぐ。大学があるから流石に毎日というわけにはいかないが、それでも最低毎週1回は砥ぐ。特に刺身を作る時は前日の夜から
砥石を水に浸しておいて、入念に研ぐ。何でも砥石は十分水に浸さないとかえって包丁を痛めてしまうことにもなりかねないそうだ。
研ぐ際にも最低1時間はかけている。使い込まれた包丁は徐々に小さくなっていることが、新品と比べると一目瞭然だ。
 普通に−普通っていうものの定義が難しいところだが−使う包丁はステンレスだが、刺身包丁は鋼で出来ている。日本刀と同じだ。だから砥ぐのは勿論だが、
使った後はきちんと洗ってしっかり水気を取って保管しないとさび付いてしまう。
 そんな管理の難しさと引き換えに、晶子愛用の刺身包丁は何時も切れ味抜群だ。ステンレス製の普通の包丁ではかなりの力を入れてもびくともしない魚の頭も、
いとも簡単に切り落としてしまう。包丁が違うだけでこれほど違うのか、と思うほどだ。

「砥石で研ぐって、あの、昔話で山姥(やまんば)とかが夜にシャーシャー音をさせて刃物を砥ぐ時に使うあれですよね?」
「ええ、そうですよ。」
「凄ぇ。あんなので包丁砥げるんだぁ。」

 修之も感心しきって目を輝かせている。修之が挙げた例えは、分かりやすいことには違いないが晶子のイメージと正反対の様相を呈しているものだ。
だが、その例で使われるように、逆に言えば目にすることがない光景が実在することに、そして晶子がそれで包丁を砥いで魚を捌くことが出来ると知って、
改めて驚いているようだ。

「兄貴と同じバイトしてるって聞いてますけど、やっぱり料理もしてるんですか?」
「ええ。最初は料理補助ということでバイトさせてもらうことになったこともありますし、今では随分料理を任せてもらっていますよ。」

 当時宮城に最後通牒を突きつけられてささくれ立っていたこともあって晶子と距離を置きたがっていた俺との距離を縮められるように、と店のキッチン一切を
仕切る潤子さんがマスターに晶子をバイトに加えるよう進言したから、晶子は「楽器が出来る」という条件を免除された。
 だが、ヴォーカルという新しい形で加えようということになって、マスターと潤子さんの策謀もあって俺にお鉢が回ってきて気乗りしないまま晶子を教えて、
晶子は無事ステージデビューを果たし、以後レパートリーの増加にほぼ比例する形で、俺と晶子の距離は縮まっていった。
 今では晶子は店の看板の1つである料理の一翼を担っている。
店の種類というか方向性というのか、そういうのが喫茶店や食堂と違っていても、料理を扱う店だとその店の評判の根本を左右するのはやっぱり料理だ。
どんなに安かったりポイント制度があったりしても、料理が不味かったら自分の家でCDでも聞きながら食べた方が良いと相成る。
 俺や晶子が加わるまであの店が経営を維持してこられたのは、潤子さんの料理の腕によるところが大きい。晶子はそんな重要な要素の一端を、潤子さんからの
委任を受けて任されている。潤子さんが作っても晶子が作っても客から好評が出ても不評が出たことはないから、その腕は俺の好みに合うようにだけのものでは
ないことが分かる。

「祐司がバイトをしてるお店でも、料理を担当してるんですか。」
「はい。」
「お店って、何人も料理する人が居るわけじゃないんですよね?」
「はい。お店のマスターの奥様と私とで切り盛りしております。」
「ほうほう。そういう小規模のお店で料理を任せてもらうとなれば、それなりに腕があるということですね。いやいや、大したもんです。」
「恐縮です。」
「礼儀の正しさや性格の良さでもまったく問題ないし、料理もそれだけ出来るとなれば、もう完璧ですね。祐司。こういう娘さんは大切にしなきゃいかんぞ。」
「分かってるよ。」
「井上さんには何としても義理の姉さんになってほしいし。」
「そっちか。」

 父さんに続いての修之の念押しに、俺は思わず苦笑いする。
勉強の合間の休憩でも晶子が義理の姉さんだと自慢出来る、と喜んでいたし、修之の期待が大きいことが分かる。若干方向性が間違っているような気が
しないでもないが、歓迎されているのならそれに越したことはない。
 晶子は俺との結婚を強く願っている。仮にこの場で「結婚しよう」と言っても、晶子は驚きこそすれど、拒否したり返事を先延ばしにしたりはしないだろう。
その確固たる願いは、今までの会話の中でも窺い知れた。
だとしたら、晶子が結婚を願う相手であるこの俺が、結婚に続く本来の課題でもある同居での生活に向けての基盤を固めないといけない。
一緒に生きる決意と条件が整った時、晶子に面と向かって言おう。

結婚しよう、と・・・。


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