雨上がりの午後

Chapter 193 兄と姉と弟の昼下がり

written by Moonstone


「−で、この確率を求めるにはな。」

 昼飯の後、2階の修之の部屋で俺は数学Tを教えている。
数学はセンター試験でも二次試験でも必要だったし、今では何らかの形で数式と付き合わないといけないから数学にはある種の慣れがある。
数学ってのは好き嫌いや得意不得意が明瞭に二分される教科の1つだ。かと言って、受験に必要なら嫌でも試験問題を解けるようにしておかないといけない。
数学嫌いにとってこういう状況は苦痛以外の何物でもないだろう。

「−と、こうするわけだ。」
「あー、なるほど。ようやく分かった。」
「公式と教科書にある例題の解き方だけ丸暗記してたのが失敗だったな。それだと此処で行き詰っちまう。」
「うーん。難しいな。」
「ま、俺が使ってた徹底練習問題集があるんだから、これの問題群Aをこなせるようにしておけば、センター試験は十分クリア出来る筈だ。繰り返しやってみることだな。」
「兄貴が家に置いていってくれて助かった。こんなの、俺の高校じゃ使ってないからさ。」
「それは仕方ない。学校の性質が違うんだから。」

 修之がてこずっていた確立の問題を教え終えたところで、数学Tはひととおり終わったことになる。
此処まで見てきた限りでは、致命的な弱点となる部分はないようだ。後は試験問題を解けるレベルまで掘り下げれば良いだろう。それにはある程度練習、
言い換えれば同じ問題でも繰り返し解くことが必要になる。

「数学はひとまずこんなところだな。次は英語か。問題集とかはあるのか?」
「あ、あるある。やっぱり兄貴が使ってた問題集。これ。」

 修之が本棚から取り出したのは、俺が高校時代に使っていた英語の問題集。大学進学と共に一人暮らしを始める際に高校時代に使っていた問題集とかをどうするか
考えたが、とりあえず残しておこうという形で紐で縛って押入れに突っ込んでおいた。それが3年後再び重宝される時が来たんだから、結果的には良かったわけだ。

「科目が代わるから講師も交代だ。晶子、頼む。」
「はい。」

 ベッドに座って修之の雑誌−弟は車関係が好きだ−を見ていた晶子が、雑誌を置いて立ち上がる。
俺と入れ替わりに晶子が隣に座った−椅子は家具が置いてある部屋から持ってきた−ことで、修之は背筋を伸ばす。緊張してるのか照れてるのかそれ以外なのか、
後ろからだと分からない。

「お、お願いします。」
「緊張しなくて良いですよ。」

 声が上ずっているところからして、修之は緊張しているらしい。
晶子を見るのは今日が初めてだし、いきなり自分の受験勉強を見てもらうともなれば、緊張するのも当然か。少し様子を見てみるか。

「分からないのは、どの辺りですか?」
「あ、はい。えっと・・・、この部分です。どうも意味が読み辛くて・・・。」
「じゃあまず、このページをひととおり声に出して読んでみて下さい。」

 晶子は予想外のことを言う。解説しながら解答を言うのかと思いきや、授業のように声に出して読め、とはどういうことだ?

「え?どうしてですか?」
「それは後でお話しますから、とりあえず騙されたとでも思って。」
「はい。じゃあ・・・。」

 修之は半信半疑の様子で、英文を読む、聞いていてかなり拙いという印象が拭えない。少なくともお世辞にも流暢とは言えない発音で、ローマ字読みとでも
言うのか、そういう感じだ。

「文の意味は凡そでも掴めましたか?」
「いえ、殆ど・・・。文法が苦手なんで・・・。」
「日本語を読む感覚で英文を理解しようとすると、混乱の原因になるんですよ。」

 晶子はやはり解答を言うことなく、英文、否、英語の根本部分に言及する。どういう意図を持ってのことだろう?

「英語の問題を解く際に必要なのは、日本語と英語では根本的に文法が異なるということを頭に入れておくことです。よく聞いてくださいね。」
「あ、はい。」
「日本語は助詞によって主語になったり目的語になったりしますよね。例えば『私』という一人称代名詞でも、『は』や『が』をつければ『私は』『私が』という具合に
主語になりますし、『を』や『に』をつければ今度は『私を』『私に』というように目的語になります。此処までは良いですか?」
「あ、はい。」
「一方英語には助詞というものがありません。『私は』という主語は『I』ですが、目的格の『私を』や『私に』は、『me』という形に変化します。
一般の名詞、例えば机の『desk』としますと、それ自体だけでは主語か目的語か、それとも『机に置いてある』という意味で使うのか、全然分かりませんよね。
これは分かりますか?」
「あ、確かに。」
「日本語は助詞をつけることによって主語になったり目的語になったりと変化しますから、それを知っていれば、文章の何処にあっても余程のことがない限り
文が崩れて読み取れないとかいうことはありませんが、英語はある程度順番があります。一例を挙げながら説明しますね。まず、主語があって、次に肯定や否定、
出来る出来ないや時間−現在形や過去形といったものを助動詞や『don't』などを使って表して、次に動詞本体が来て、以降は目的語や前置詞を伴っての場所や時間と
いったものの指定、という順番があります。つまり、日本語で言うと例えば、『私は見た』とかいう具合に主語と述語を並べて、あとで『女性が買い物をするのを』とか
『TV番組を』とか目的語や目的語に相当する文節、そして『スーパーで』とか『リビングで』とかいう場所やその時間といったものを並べるんです。こんな感じで
英語と日本語では文法そのものが大きく違いますから、日本語と同じ感覚で主語を言って次に目的語とかそういうのを言って、と探しながら読んでいくと
理解し難くなるんですよ。」

 晶子は英文の読み方を解説する。なるほど、声に出して読ませたのは英文の構造を把握させる目的があってのことだったのか。

「それからもう1つ。英語はさっきお話したように主語の次に出来る出来ないや時間を表す助動詞や動詞が来ることもあって、主語と述語の間を短くする
傾向にあるんです。例えばこの部分。」

 晶子は問題集の一箇所を指差す。

「此処にItから始まって次に動詞があって、that以降に文章がありますよね?」
「はい。」
「これも例の1つです。主語が長くなるのを避ける傾向にありますから、itでまず主語を仮に設置して述語を言って、that以降でitの本体、つまり主語を言っているんです。
英語を使うには、日本語と違ってある程度文法が固定されているということを念頭に置けば、文章の構造も把握しやすくなりますし、英訳する時もスムーズに
出来るようになりますよ。」
「あー、なるほど。問題でも『itが指し示すものは何か』とかいうのが多いのは、それが理由なんですね?」
「そう考えてもらって結構ですよ。最初に日本語と英語では文法が根本的に異なるということを置くことを理解して、日本語を読む感覚で英語を読まないように
すること、英語はあくまで英語として捉えることが大切なんです。あとは教科書や問題集にあるような決まり文句を覚えて、そして兎に角単語を覚える。
これで大体の英文は読めるようになりますし、英文を書くのも楽になりますよ。」
「やっぱり・・・単語は覚えないといけないんですか?」
「それは必要不可欠です。英語に限らず、言葉は文法だけあっても単語がないことには成立しませんからね。例えば、『食べ物を煮る』の『煮る』は英語では
何と言いますか?」
「『煮る』。・・・えっと・・・。」
「普段当たり前のように使っている単語でも英語だと途端に出てこなくなるようだと、文法をどれだけ知っていても使いようがない、ということが分かってもらえますか?」
「あ、はい。」
「ちなみに『煮る』は英語だと『boil』です。単語だけひたすら覚えようとすると苦痛でしょうから、兎に角多くの英文を読んでみることですね。英語らしく声に出して
読むと更に効果的です。それを繰り返せば文章の概要は把握出来るようになってきますから、あとは身の回りにある、さっき例に挙げた『煮る』などの動詞や道具と
いったものを英語ではどう言えば良いか、英語でその動作とかを表現するにはどうすれば良いか、とか考えるようにして、分からなかったら辞書を使ったりして調べる。
そうすれば単語のストックも増えていきますし、英文にも親しめるようになりますよ。」

 晶子は問題の解答を言ったり解説したりするんじゃなくて、英語の理解の仕方を話す。
言われてみれば身の回りの動作とかを直ぐ英語にしてみろ、と言われてもとっさに思い浮かばないことは多い。それは文法より動作や名詞を英語ではどう言えば良いか
分からないことが理由になることの方が多いように思う。聞いている俺もためになる。英文学科の現役学生の看板は伊達じゃないな。

「単語を覚えるのと、発音を覚えるのとを別々にしないこともポイントですね。別々に覚えるのはやっぱり苦痛になりますから、辞書を引いたりするときには
発音記号も見るようにして、実際に声に出して読んでみる。常に発音を意識するようにしていると、単語の発音にはある程度共通する傾向があることが見えてきますから、
発音の問題も簡単に解けるようになりますよ。」
「へー。」

 修之は感嘆の声を上げて、納得した様子で何度も頷く。聞いている俺も胸にストンと落ちる解説だ。
今仮配属になっている研究室の週1回のゼミでも英語の文献を輪読しているが、それでも何処までが主語か、itが指し示すものは何かとか、そういうものが把握し難くて
意味が掴めないことが時々ある。晶子のアドバイスは俺にも十分役立つ実用的且つ効果的な手法だと思う。

「さすが、兄貴と同じ新京大の現役学生。俺とは全然違いますね。」
「別に大学は関係ありませんよ。ただ、さっきまで修之さんのお兄さんでもある祐司さんが言っていたように、教科書や問題集に出てくる公式や文法を丸暗記するだけだと
応用が効かなくなりますから、あくまでそれは道具の1つとみて実際に問題に取り組むようにすれば良いんですよ。前置きが長くなりましたけど、解説していきますね。」

 晶子は解説する。それが終わると修之が再び問題集に取り組む。その間晶子は黙って見ている。
手取り足取りじゃなくて、まずは自分でさせて分からないところを解説する、というスタイルは俺と同じだ。実際の試験はどんな問題でも自分1人で取り組まなけりゃ
ならないから−試験会場まで親が同伴することはあるそうだが−、当然と言えば当然だ。
 臨時家庭教師を始める前に聞いたところ、修之も塾には行っていない。俺の時は「自分の勉強は自分でしろ」という親の方針があったが、就職から大学受験へと急に
方針転換することを余儀なくされた修之は、塾に通わせても良さそうな気がする。とは言え、金の問題を出されたらどうにもしようがないんだが。
 少ししてノック無しでドアが開く。母さんだ。
自室のドアには鍵などないし、子どもの部屋に鍵など付けさせないというのが親の方針だ。

「おやつ持ってきましたよ。」

 母さんはいたって愛想良く、持っていたトレイを部屋の中央にあるテーブルに置く。一口サイズのチョコレートやクッキー、キャンディが並べられた皿と
3人分のホットコーヒー。勉強の合間に母さんがおやつを持ってくるなんて、俺が一人暮らしを始めるまでなかったことだ。

「祐司と修之は兎も角、井上さんも一息入れてください。」
「わざわざありがとうございます。」
「いえいえ。こうして今日来ていただいたのに修之の勉強を見てもらってるんですから。」
「では、お言葉に甘えさせていただきます。修之さん。此処で休憩にしましょう。」
「あ、はい。」

 晶子と修之は席を立って、テーブルの方に来る。ベッドに腰掛けて雑誌を捲っていた俺の左隣に晶子、晶子と向かい合う形で修之が座る。

「何かありましたら井上さん、遠慮なく伝えてくださいね。」
「重ね重ねありがとうございます。」
「じゃあ、修之。兄さんも居るんだから、今日みっちり教えてもらいなさいよ。」
「はいよ。」

 修之に念押しした母さんは部屋を出て行く。俺と晶子と修之はチョコレートを口に運んだり、コーヒーを啜ったりする。
こうして修之の部屋でおやつを食べるなんて、今までなかったよな。晶子の存在が大きいと改めて実感する。

「あー、兄貴が来てくれて助かった。父さんも母さんも塾に行かないで自分で何とかしろ、って言うし、かと言って兄貴が置いていった問題集も思うように解けないし、
小宮栄大も新麻布大も結構倍率高いしで、困ってたんだ。」
「今年の倍率って、どのくらいだ?」
「センター試験直前も市の結果の段階でだけど、小宮栄大が2.2倍で、新麻布大が3.5倍って予想。」
「俺が受験した年とさほど変わりはないな・・・。でも修之は3年になって急転換だから、きついよな。」
「そうなんだよ。兄貴みたいに1年からテストとかで受験対策してないし、予備校の模擬試験は受けられるけど、それ以上のフォローとかは殆どないからなぁ。俺の学校。」
「まだ時間はあるから、あの問題集の問題をひととおり解けるようにしておけば大丈夫だ。」

 気休めにしかならないかもしれないが、俺が高校時代に得た受験情報の限りでは、修之が受験する2つの大学は今修之が取り組んでいる問題集を解けるレベルに
達していれば合格圏内に入れる。試験を代わってやれないから修之の頑張りに期待するしかないが、修之の通っている高校も決して偏差値で言うレベルが
低いわけじゃないから、決して不可能とは思わない。

「でも、兄貴が向こうで付き合い始めた彼女を今日連れてくるとは思わなかったな。」

 修之の話題の急転換に、俺は少し啜ったコーヒーを噴出しそうになる。

「去年兄貴が帰ってきた時に話は聞いたけど、本物を見ると一発だから良いよな。」
「何が良いんだ。」
「兄貴が言ったイメージと本物とじゃ、違う可能性もあるからさぁ。」
「祐司さんからは私についてどう伺ったんですか?」
「あ、髪は腰近くまである茶色がかったストレートで、色白で目がぱっちりしてて、可愛いって言うより綺麗って言う方が適切な顔つきで、背は兄貴より少し低い
程度だ、って。もっと詳しく知りたかったんですけど、兄貴その時写真とか持ってなかったんで、兄貴がいう綺麗ってどんなのかな、ってちょっと疑問だったんですよ。」

 修之の奴、晶子と話す時はきっちり丁寧語に切り替えてるな。
昼飯の時に父さんに失礼にならないようにと釘を刺されたのもあるだろうが、それだけじゃないことは何となく分かる。

「今日拝見して、どうですか?」
「凄い美人でびっくりしました。『え?本当にあんな綺麗な女性(ひと)が兄貴の彼女?』って。」
「ありがとうございます。」
「モデルとかそういうのにならないか、ってスカウトされたことはないんですか?」
「いえ、ないですよ。」
「小宮栄の町だと結構芸能プロダクションのスカウトがうろついてて、そのスカウト以外は眼中にないっていう女が結構居るんですけど、井上さんが歩けば
そんな女なんか放っておいて突進してきますよ。」

 修之の言うことは聞いたことがある。
小宮栄はこの家がある麻布市や俺と晶子が普段住んでいる新京市をベッドタウンとしている大都市で、ファッションやグルメといったものが集中している。
当然そういうのを目当てにする客も居るし、目ぼしい男や女を探し回る場所にもなる。餌を撒いた生簀(いけす)のようにも思える。
小宮栄でスカウトされて芸能界入りした、っていうタレントとかもかなり居るから、後に続けとばかりに流行の服を着てスカウトを待っている女が居るらしい。
 そう言えば、宮城の就職先は芸能プロダクションだったな。奥平温泉のスキー場でのバンドの屋外ライブに同行していたから偶然出くわしたが、スカウトとか
そういうのも修行してるんだろうか。

「小宮栄に行ったことはないんですか?」
「何度かありますけど、全部祐司さんと一緒でしたね。普段は大学とバイトがありますから、新京市から出ることは殆どないんですよ。」
「男くっついてる女にはスカウトも声をかけないでしょうから、兄貴は結構虫除けになってるんですね。」
「修之、お前なあ。」
「でも、事実じゃん。」

 嫌な言い方するな、修之の奴。晶子が俺の彼女−否、妻だと知ってのやっかみか?

「祐司さんは虫除けじゃありませんよ。守り神なんです。」
「守り神、ですか?」
「そうですよ。私をそういう声や手から何時も守ってくれる、私だけのかけがえのない守り神なんです。祐司さんと一緒に居られない時でも、祐司さんに填めてもらった
指輪が私を守ってくれてるんですから。」
「あ、そう言えば兄貴がプレゼントしたんですよね?その指輪。」
「ええ。以来ずっと填めてるんですよ。」

 晶子は修之に左手を見せる。細くしなやかな指の1つ、薬指にある白銀の輝き。
俺が晶子に初めてプレゼントしたものでもあり、俺と晶子の仲を内外に決定付けるものともなった代物だ。

「へえ・・・。シンプルなデザインですね。それに光り方が何て言うのか・・・、柔らかいですね。なあ兄貴。これって兄貴が井上さんと一緒に選んだのか?」
「否、俺が一人で捜して選んだ。晶子にはプレゼントするまで内緒にしていた。」
「へえ。ファッションとかには無頓着な兄貴が選んだとは思えないな。」
「で、兄貴はこれを井上さんの手を取って填めた、と。」
「ああ。」

 詳細を言うと、左手中指に填めようとしたら晶子が左手の薬指を指差して此処に填めてくれ、と言い出して譲らなくて、頭が沸騰するような気分でそうした後、
自分は予定どおり左手中指に填めようとしたら、俺にも左手薬指に填めるようこれまた頑として譲らなかったから、頭がどうにかなりそうな気分で左手薬指に
填めたという経緯があるんだが、言わないでおく。

「兄貴が井上さんに結婚指輪填めさせたのって、付き合い始めてからどれだけ経ってから?」
「正式に付き合い始めたのがクリスマスで、指輪をプレゼントしたのが翌年の5月4日、晶子の誕生日だから、大体5ヶ月ってところか。」
「5ヶ月で結婚指輪?兄貴って、かなり手が早いな。」
「もうちょっと言い方何とかしろ。」
「だってそうじゃん。付き合って半月で結婚指輪填めさせるなんて、手が早いとしか言いようがないじゃんか。」
「う・・・。」

 言い返そうにも言葉に詰まってしまう。
スピード結婚ってのは無くもないが、俺が晶子と自分の左手薬指に指輪を填めた時期は早い部類に属するだろう。単なる指輪ならまだしも、填めた場所は特別な
意味を持つことが普遍的に知られている。修之の言うことにはやっかみも含まれているようだが、事実を突いてきているだけに反論したりはぐらかしたり出来ない。

「それにしても兄貴、よくこんな綺麗な女性と知り合えたよなぁ。何処でひっかけたんだ?」
「引っ掛けたんじゃない。コンビニのレジで偶然横に並んだのがきっかけだ。」
「そして、私の方からアプローチを始めたんですよ。」
「え?井上さんの方から?」

 晶子の言葉が信じられない様子だ。
確かに晶子の側からアプローチを掛けたとは想像し難いだろう。でも、俺の側からアプローチを掛けたと言っても相手にされなかったと思われる確率の方が高い気がする。

「何でまた・・・。新京大だと兄貴や井上さんみたいな頭の良い学生が多くて、ルックスとかそういうもののレベルはあんまり高くないですから、大学でも結構
目立つんじゃないですか?文学部なんですから女の比率は高いでしょうけど、その辺の男が放ってはおかないと思うんですけど・・・。そっちの方には興味
無かったんですか?」
「全然無かったですね。声をかけられたことはありましたけど、お付き合いする気はなかったんです。」
「なのに兄貴と知り合って、井上さんの方からアプローチをかけて兄貴に結婚指輪を填めてもらうまでに至るなんて・・・。何か兄貴に脅されたとか、
そういうんじゃないんですか?」
「修之。お前、何て言い方しやがる。」
「だってさぁ。それくらいしか想像出来ないんだよ。生活費の足りない分は自分でバイトして補填する、って約束で新京市で一人暮らし出来るようになった兄貴に、
女を口説くテクニックを磨く暇なんて無いだろ?」
「まあ、な。」
「なのに、どうやって兄貴が井上さんからアプローチを受けるようになったのか、不思議なんだよなぁ・・・。」
「恋愛は必ずしも見た目とか第一印象とかで成立するものじゃないんですよ。」

 頻りに首を傾げる修之に、晶子が言う。

「人によりけりですけど、異性として自分の心を捉える何かを持っていれば恋愛感情は生じてきますし、それが双方に芽生えて向き合うことで、2つの心に
1つの絆の橋が架かるものなんです。祐司さんと私の場合は、最初私の方から気持ちが芽生えて、一緒のバイトをさせてもらうことになってお話しする時間を
多く持てるようになったりするうちに、祐司さんに私の気持ちが通じて、お付き合いすることになった。そういうものなんです。」
「はあ、なるほど・・・。」

 晶子らしい綺麗で的確な表現で、修之もそれなりに納得したようだ。
晶子の説明には、俺へのフォローも多分に含まれているのを感じる。俺には自分の心を惹きつける何かがあったから今の関係があるとアピールすることで、と
俺に魅力がある婉曲的に言っているような気がする。

「井上さんが将来、俺の義理の姉さんになるんだよなぁ。」

 修之の発言で、今度は飲んでいたコーヒーを別の方向に通しそうになる。びっくりさせるな、と言っても無理か。とりあえず本来の通路にコーヒーを通して呼吸を整える。

「な、おい、修之。」
「だってそうだろ?まさか結婚指輪填めさせておいてただの付き合いではいおしまい、なんてことはないだろ?」
「それは当然だ。いきなり話が飛躍したから焦っただけだ。それにまだ婚姻届は出してないから、事実婚の状態だし。」
「指輪填めてたら説明しなきゃ区別つかないって。去年だってそうだったじゃんか。」
「去年、というと祐司さんがこちらに戻られた。」
「はい。兄貴が今の指輪を今の位置に填めてたもんで俺もそうですけど、父さんも母さんも、正月に回った親戚とかも聞いたんですよ。兄貴は『アクセサリーだ』って
言うだけでしたけど、兄貴が井上さんと付き合ってるって先に聞いてたから、兄貴は照れてるだけだって直ぐ分かりましたよ。」
「そうなんですか。」
「兄貴、井上さんのことを誰かに聞かれて話す時は絶対顔赤くしてましたし。」
「去年のことは言うな。」

 俺は顔が内側から火照ってくるのを感じる。
修之の言うとおり、俺が填めている、田畑助教授とのトラブルの一件以外は一度も外したことがない指輪は、帰省したその日に家族全員に見つかった。
俺自身は手袋をし続けるとか−外せと言われるに決まってるが−左手を使わないようにするとかで隠していたわけじゃなく、普通に振舞っていた。
填めているという感覚が意識しないと感じられないこともあるが、何にせよ、俺が言うより先に見つかったのは間違いない。
 父さんと母さんは帰省第1日目の晶子からの電話があるまで、どういうつもりで填めてるのか、という感じだった。親子ということもあってか言わずとも分かった。
だが、晶子からの電話の後で一変というか180度転換というか、「連れて来い」アピールと共に同じ指輪を填めている晶子がどんな相手なのかと興味津々の様子を
あからさまにするようになった。写真を持っていないことも頻りに残念がっていのが端的な例だ。
 正月の親戚周りは3年ぶりだった。高校3年は受験間近ということで、一人自宅で机に向かっていた。
体よく留守番も任されたわけだが、それだけ日にちが空いていたことや、俺が新京大学合格後初の顔見世ということで、行く先々ではそれまでまともに顔を合わせたことも
ないような従兄弟とかも続々顔を出して、料理だ酒だと派手に振舞われた。
 そんな中でもやはり指輪は相当目立つらしい。
俺は晶子とは逆にさりげない様子で見せびらかすことはせず、普通にやり取りしていたんだが、料理を摘んだりする際に手を出すと程なく発見された。
それらの度に修之が言ったように「アクセサリーだ」とだけ答えたんだが、父さんと母さんは、向こうでそういう相手を見つけたらしいとか、俺に代わって先取りする形で応対した。
 俺は晶子との付き合いを疚しいと思ったことは一度もない。ただ、自慢したりといった客観的に見て表立つようなことになることをしないようにしている。
そういう話が好きな人も居れば、他人の惚気話など聞きたくもない、という人だって居る。煙草もそうだが、何らかの理由で敬遠する人の事情を優先した方が良いと
俺は思っている。だから晶子と付き合っていることを大学で公言したのは、晶子に購読している雑誌を理系学部エリアの生協の店舗に取りに来てもらった時の
集団での確認の際と、晶子よりずっと後だった。晶子にしてみれば不満かもしれないが、それは話して理解してもらうか何らかの形で妥協するかすれば良い。

「あー、将来学校の奴等とかに自慢出来るなぁ。こんな美人で凄く性格も良い女性が俺の義理の姉さんなんだぞ、ってさ。」
「自慢、ねぇ・・・。」
「父さんと母さんの受けも最高だし、文句なしじゃん。あー、俺も大学受かって井上さんみたいな彼女捜そうっと。」
「それじゃ、コーヒーを飲み終えたら勉強を再開しましょうね。受験に合格すれば、その先は自ずと開けてきますから。」
「はい。頑張ります。」

 修之は力強く宣言する。俄然やる気になったのが良く分かる。
必要に駆られてのこととは言え急な方針転換に苦しんでいたところに、何か目標を見出すことでその苦労を乗り越える力を得られるならその方が良いに決まってる。
大学に合格してから彼女を捜すというのは何も疚しいこととは思わない。二次試験までを含めたあと3ヶ月くらいの時間を、自分の未来のために使っていると思えるのなら、
その方がずっと良い。
 未来のための重大な事態に直面しているのは、修之も同じ。次元は違うかもしれないが、待っているだけでは何も打開出来ない。
受験は特にそうだ。受験は合格を目指す他の受験生との戦いより、自分1人で自分の知識や経験だけを頼りに戦うという側面が強い。突貫工事的な下準備だが、
その手助けになれるものならそうしたい。俺も3年前、仲間と共に、そして自分のために受験という大きな山を越えた経験があるからな。
 休憩は自然に収束して、修之は再び机に向かう。椅子に座って問題集に向かった修之の隣に英語担当の晶子が座り、様子を見守る。切り替えがこれだけ上手く
出来れば、集中を要求される受験本番でも精神面では大丈夫だろう。
受験対策はまだ間に合う。極論を言えば試験開始直前まで可能だ。俺も晶子も講師役しか出来ないが、修之がそれで合格へのハードルを越えられるなら十分だ。

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