雨上がりの午後

Chapter 191 不安と緊張の初対面

written by Moonstone


 久しぶりに降りた柳駅を出たところで見える風景は、やや薄らいでいた俺の記憶と殆ど変わらない。
少し離れたところでひっきりなしに車が行き交う道路と、方角は違うがやはり少し離れたところにある精米工場とそれに隣接する事務所の建物以外は、
大半が田んぼで埋め尽くされている。
住宅が田んぼの中に点在するといった感じだ。その田んぼも今年の春に新しく稲の苗を受け入れる態勢を整えてあるところが減って、草が少し生えているか
どうかの荒れた部分が多くなっている。
 駅前は小ぶりのロータリーになっていて、マイクロバス程度なら十分旋回出来る広さを持つ。雨や雪の日には此処で子どもを降ろしたり乗せたりする車が目立ったもんだ。
駐車場と駐輪場も隣接していて、俺はこの駐輪場に自転車を止めて、雨や雪の日はレインコートを自転車に被せて駅に急いだ。
 今日は穏やかに晴れていて、寒さも緩い。
1週間程度とは言え雪がひっきりなしに降り続く寒い地域に居たことで、その寒さに多少慣れたせいもあるんだろう。俺は晶子を連れて、車が頻繁に行き交う
道路の方へ向かう。
 この道路は麻生市中心部へも繋がる、言わば交通の大動脈の1つだ。
朝の出勤ラッシュと夜の帰宅ラッシュの時の混雑はかなりのもので、渋滞も珍しくない。俺がバス通学をしなかったのは、この渋滞があることを知っていたこともある。
 道路に沿って少し歩くと、バス停がある。時刻表と携帯の時刻を照らし合わせると、一応10分ほどでバスが来ることにはなっている。
バスの時刻表っていうのは意外と当てにならない場合がある。編成の際に交通量を想定している筈だが、麻生市の住宅街が彼方此方にあって、年々大規模化
している上に拡散していることもあって、予想が覆されてしまうからだ。住宅街に入るとかなりスムーズに運行されるだけに、落差に戸惑うこともあるだろう。

「此処から祐司さんの家までどのくらい時間がかかるんですか?」
「バスだと・・・、そうだな・・・15分くらいだと思う。この混雑を抜けると俺の実家がある住宅街に入るし、そこからはスムーズに行けるから。」
「祐司さんの実家は、住宅街にあるんですね。私の実家は典型的な農村地方にあるんですよ。」

 思いがけない形で晶子の実家についての話を聞けた。だが、俺からは晶子が言った以上のことに言及しない。
晶子が実家や親とのことについて話そうとしないのは今でも変わらないし、今までの経験からかなり深刻な断絶があることが分かってるから、晶子が言うまでは
聞かないで居る。それが優しさと言えるのかどうかは知らないが、恋人、否、夫婦でも自分以外という意味では他人だ。特別な関係だからといって
むやみに心の奥底に踏み込むのは良くない。俺はそう思ってる。

「・・・祐司さんのご両親に、これからお会いするんですよね。」

 暫く間を置いてから−別に間が持たないわけじゃない−晶子が呟く。
ロードノイズにかき消されそうな声量でのそれは、晶子のやや硬い表情を見れば理由が自ずと分かる。

「去年祐司さんが年末年始に帰省していた際に電話で少しお話しましたけど・・・、厳格そうな印象で・・・。それが悪いっていうわけじゃないですけど・・・何て言うか・・・、
お話しするきっかけを掴むのが難しいかも、と思って・・・。」

 俺の両親と対面出来ることに今までは割と積極的だったが、その場面が近づくにしたがって緊張感や不安感といったものが表面化してきたようだ。
無理もない。息子である俺が見聞きしていても、その時の感情や雰囲気が表情や口調に露骨と言えるほど反映されるからな。
晶子は去年電話越しで話をしたが、電話は顔が見えない分尚更口調の変化が良く分かるから、どんな顔で出迎えられるかという不安があるんだろう。
 その不安を証明するのが、俺のコートの袖を掴む晶子の右手と表情だ。
やや俯き加減の晶子の横顔は、俺が見ても硬いと思うものだし、コートはしっかり掴まれていることを反映して局所的に深い皺が出来ている。

「・・・大丈夫。俺の両親は晶子に会いたがってるから。」

 俺の口から出た言葉は、自分で分かっている事実。晶子の不安を解消出来るかどうかは疑問だが、少なくとも晶子が歓迎されることを示す事実を話すのが良いだろう。

「小宮栄駅のホームで実家に電話した時母さんが出たんだけど、晶子を連れて行くって言った途端に口調ががらっと変わったんだ。それまで俺が行方不明に
なってたことを責めてたのが一変して、高速バスを使えとか言ってきたんだ。小宮栄から実家のある住宅地方面への高速バスの路線があるから、それを使えば
直ぐ来られるってことで。」
「・・・。」
「今日は俺が案内がてら、晶子に今まで何度も見てきた風景を見てもらおうと思って電車とバスを乗り継ぐことにしたんだけど、母さんはそれでも俺を急かしてたからな。
早く晶子を連れて来い、って。」
「・・・。」
「だから・・・大丈夫だ。何時もの、今の晶子なら。」
「・・・はい。」

 晶子の表情がほんの少し緩む。俺の励まし−と言えるものかどうかは分からないが−で多少なりとも不安が和らぐなら、それで良い。
逆の立場だったら俺も緊張するだろうし、不安に思うだろう。だから「しっかりしろ」とか無責任なことは言えない。
言ってる側には大したことじゃなくても、当人には底なし沼を跨ぐ何時割れるか分からないベニヤ板の橋を渡るようなものかもしれない。それに、そんなことを言う側は
実は自分では経験がなかったりする。神経が図太いか無神経かで気付かなかったのもあるだろうが。
 息子の俺から見ても、俺の母さんはかなりの強敵だ。
初対面からいきなり意気投合する様子は見たことがない。そして一旦否定的な印象を持つとそう簡単に肯定的な方向へ向かわない。
そういう意味では慎重とも警戒心が過剰とも言えるし、俺にも似たり寄ったりな部分がある。
 だが、晶子は去年俺が帰省していた時の段階で先手を打って、それが好印象の方へかなり大きくシフトしている。初日に晶子からの電話を取り次いだ母さんは、
電話の後で今度は連れて来なさいと言うようになった。俺が写真を持ってないことを頻りに残念がっていた。
少なくとも現段階では警戒されたりすることはない筈だ。電話と顔見世とはレベルが違うかもしれないが、先手が大きく影響してるからその分の積み増しは稼げている。
後は・・・俺次第だな。
 道路の幅と比較して鈍い車の流れの上流から、青と白のカラーリングが施されたバスの車体が見えてきた。近くの信号はあまり当てにならないが、乗るバスが
視界に入ってきたのは間違いない。
俺にとっては1年ぶりの帰省だから周囲の風景にさして変化はないだろうが、去年とはシチュエーションが明らかに違う。・・・1つのヤマ場だな。

 バスが低いエンジン音を残して去っていく。バス停には俺と晶子。20分ほどでたどり着いた実家のある住宅地の、ある意味住宅地らしい静かさは変わっていない。
バス停は公民館の北隣の歩道にある。そこからバス通りを一部含む道路を5分ほど歩けば、俺の実家に着く。
やや下り坂になっていることもあって、俺の実家は屋根と2階の一部が見えている。これで迷うような方向音痴だともう救いようがない。

「晶子。あっちの方に紺色の屋根が見えるか?」
「えっと・・・。あ、はい。」
「あれが俺の実家なんだ。」
「祐司さんの実家が2階建てってことは去年聞いてましたけど、此処から近いですね。小宮栄からこの方面に路線が敷かれている高速バスも、
このバス停に停留するんですか?」
「高速バスの最寄は、此処からこの道路に沿って西に少し行ったところにあるんだ。俺と晶子が乗ってきたバス路線と違って、小宮栄駅から直ぐ乗れる
高速道路を通って柳インターってところを降りて、そこから北側から回り込むように来るからな。途中で同じ道路になるけど。」
「便利ですね。」
「路線が出来たのは去年の10月のダイヤ改正の時だったそうだし、俺も去年帰省した時、小宮栄の駅で実家に電話して初めて知ったんだ。小宮栄に乗り継ぎなしで
楽に行けるから、今年のダイヤ改正で朝晩の便を増発したらしい。」
「へえ・・・。」
「じゃ、行こうか。」
「はい。」

 俺は晶子と一緒に道路沿いに歩く。普段バイト先との往復の習慣で手を繋ごうとしたが止めた。
此処は俺の「地元」。同年代の奴に見られるのはまだしも、大人、特に近所の人に手を繋いでいるところを見られると、何か色々言われそうだからそれは遠慮したい。
大学合格の時の狂乱振りが消えたとはとても思えないのもある。
 新京大学に合格した時は、当事者の俺を置いてきぼりにしたお祭り騒ぎそのものだった。
俺も一緒に合格発表を見に行った当時付き合っていた宮城も、報告を待っていたバンド仲間も大喜びしてくれたし、実家に報告の電話をした時も電話を取った母さんが
半ばパニックになっているのがありありと分かった。
 喜んでもらえるのは勿論嬉しいんだが、その後の実家周辺の騒ぎぶりは今思い返しても度を越していたとしか思えない。
親が近所に知らせたことで一気に近隣に広まり、近所や親戚だけじゃなくて少し遠くの親の友人などからもお祝いの品がどかどか舞い込んだ。去年帰省した時に
正月に親戚回りをした時は、何事かと思うくらい一家総出の歓迎を受けて料理と酒の洪水に溺れた。
 まあ、少子化云々が言われる昨今でも、新京大学はバンド仲間が合格を決めた有名どころの大学と同等の知名度と高偏差値で知られる大学。
高校や塾でも新京大学への合格者数が「実力」のバロメーターの1つとされるほどだし、俺は今までの模試でずっと五分五分の状態で受験に臨んでの合格だったから
尚更反応が大きいんだろう。
その余波は今でも十分存在していると考えた方が自然だ。その話と晶子を織り交ぜられたら、はっきり言って対応してられない。これからの晶子の顔見世に
全神経を注ぎたいところだからな。

「1つ、聞いて良いですか?」

 実家への道のり−というほど距離はないが−の途中、晶子が尋ねてくる。

「祐司さんの実家は自営業だとは聞いてますけど、どういうお店なんですか?」
「あ、言ってなかったっけ。」

 今までの記憶を出来る限り引っ張り出しても、俺の実家が自営業だとは何度も言ったが、その詳細について言った記憶はない。
この際だから言っておくか。実家に行けば分かるだろうけど、晶子に聞かれたんだからはぐらかすのも何だしな。

「弁当屋兼食堂だよ。」
「弁当屋さんと食堂・・・ですか。どういう・・・。」
「イメージし難いだろうな。要はコンビニに食堂と営業時間の制限がついたようなもんだよ。」

 俺はもう少し突っ込んだ内容を説明する。
朝には朝食やモーニングといったものを出すと同時に日替わりの弁当を販売して、夕方から夜にかけて夕食を出すのに併せてこれまた弁当を販売するという営業形態だと。

「−こんなところ。イメージ出来たか?」
「ええ。便利そうですね。一人暮らしで食事の準備とかには手が回らない人とか、コンビニの弁当はちょっと、っていう人とかに。」
「この辺りは普通の家−って言うと語弊があるかもしれないけど、単身者向けのアパートも多いんだ。コンビニも勿論あるけど、此処からだとバス通りに出ないとないし、
弁当は事前予約制で添加物なしの手作りってこともあってか、かなり人気なんだ。」
「ずっと此処に住んでいて、お父様が会社員を辞めた際に自宅を改装したとか。」
「そう。アパートが目立つし、父さんは会社を辞めるより前から調理師免許を持ってたから、コンビニの客層をイメージして手作りの味を親しんでもらおう、ってことで始めたんだ。
退職金は自宅の改装費とかで消えたんじゃないかな・・・。聞いてないから知らないけど。」
「だから、祐司さんは今のお店でも接客が上手なんですね。」
「上手っていうのか・・・。学校が休みの日とかに手伝わせられたりしたからな。朝早くに叩き起こされて弁当売りするように言われたり。」

 実家に居た頃を口にして、ちょっと苦笑い。
休日でもシフト勤務や交代制勤務の客が居るから、そういう人にとっては土日なんてカレンダー上の表記の違いでしかない。平日は勿論、学校が休みの日でも弁当売りを
担当させられたり食事運びをさせられたりした。当然客相手だから「金出して適当に持っていけ」なんて対応は出来ないから、それなりに接客態度は身に付いたつもりだ。
両親が揃って挨拶とかに喧しいのは、客商売を想定してのことだったのかもしれない。

「今日も営業中なんじゃないですか?」
「否。正月3が日と日曜は休みなんだ。弟はセンター試験が近いから絶対家に居る筈だし、母さんは電話に出たから居る。父さんも多分居ると思う。」
「あ、弟さんが今年受験なんでしたね。・・・お邪魔すると騒々しくなって勉強の邪魔になるんじゃ・・・。」
「1階の音は余程大きくないと2階には聞こえない。それぞれの部屋は2階にあるし、多分1階のキッチン兼ダイニングで迎える筈だから。」

 逆を言えば、実家の方は万全の態勢ということ。父さんも居るのかな・・・。
父さんも去年帰省した時に晶子を連れて来いって言ってたし、出かけていたとしても母さんが呼び戻した可能性がある。父さんも晶子が来るとなれば、
余程重要な用事じゃなければ帰ってくるだろう。
 そうこうしている間に、実家の前に来た。歩いてきた通りに北側が歩道を挟んで面していて、そこに車庫と玄関がある。ちなみに店は南側にある。
此処まで来た以上「敵前逃亡」は出来ないし、したくない。止まっていた歩を再開して玄関の前まで来て、インターホンを押す。この辺はどの家でもあまり変わらない。

「はい。どちら様ですか?」
「母さん。祐司だよ。」

 少しくぐもった母さんの声に応える。

「あ、帰ってきたのね?鍵開けるから、待ってなさい。」

 インターホンが切れると直ぐに足音が近づいてくる。
ドアは覗き窓とかそういうものがないから向こう側の様子は正確には分からないが、ドアノブのところで金属音が微かに聞こえる。金属音が止むと同時にドアが開く。

「ただいま。」
「おかえり。あ、井上さんね?」

 早速焦点が隣の晶子に移る。俺は晶子の案内人って感じだな。まあ、良いけど。

「昨年お電話ではお話させていただきましたが、改めてご挨拶いたします。はじめまして。私、井上晶子と申します。」
「あらあら、どうもご丁寧に。こちらこそはじめまして。祐司の母でございます。」

 緊張した面持ちで深々と一礼した晶子に、母さんは笑顔で応じる。内心ほっと一息。第一印象がプラス方向に傾いて何よりだ。
晶子が緊張のあまり固まってしまうんじゃないかと少し思っていたんだが、こういう心配は杞憂に終わるに越したことはない。

「こんなところだと寒いですから、さ、中に入ってください。祐司。案内しなさい。」
「分かった。」

 完全に俺は脇役だな。母さんは急ぎ足で戻っていく。改めて迎えるつもりなんだろう。俺は晶子を先に中に入れてから家に入ってドアを閉めて鍵をかける。
そして再度晶子を先導して土間へ向かう。センサーの反応で点灯する照明があるからけつまずくことはない。
俺と晶子は靴を脱いで上がる。晶子が直ぐ屈みこんでどうしたかと思いきや、靴を直している。・・・完璧だな。
 土間からやや狭い廊下を少し歩くと洗面台と洗濯機プラス乾燥機、浴室へのドアがあって、その左側に引き戸がある。
俺がドアを開けようとして晶子をふと見ると、また屈み込んでいる。今度はどうしたのかと見ていたら、鞄の中から土産の包みを取り出すところだった。
・・・育ちの違いが際立って見える時がある、って言うが、今がまさにそれだ。
 晶子が立ち上がったのを見て、俺はドアを開ける。
中心に長方形のコタツを置いて大型TVと流し、炊飯器やポット、食器棚で囲まれた台所兼ダイニング。台所側に母さんが、そして俺から見て向かい合う位置に
父さんが座っている。

「ただいま。」
「おう、おかえり。井上さんを連れて来たんだって?」
「ああ。・・・紹介するよ。こちらが井上晶子さん。」

 俺は脇に退いて晶子を前面に出す。晶子は鞄と土産の包みを後ろに置いて、背筋を伸ばして正面を向く。緊張しているのが分かる。

「昨年お電話でお話させていただきましたが、改めてご挨拶いたします。はじめまして。私、井上晶子と申します。」
「あー、ようこそ。こちらこそはじめまして。祐司の父です。どうぞ奥へ。」
「失礼いたします。」

 父さんに一度深々と一礼して挨拶した後、今度は小さく一礼してから鞄と土産の包みを持つ。俺は晶子を父さんの向かい側まで案内する。
俺はコタツに入るが、晶子は突っ立ったままだ。

「あ、どうぞ座ってください。」
「失礼いたします。」

 父さんが少し慌てた様子で−初めて見たような気がする−言うと、晶子は小さく一礼してから静かに腰を下ろす。続いて持っていた土産の包みを置いて差し出す。

「今日まで祐司さんとお友達の皆さんのご厚意で、奥平温泉への旅行に同行させていただいておりました。そちらで購入した品をお持ちしました。どうぞお受け取りください。」
「あ、わざわざすみませんねー。ありがとうございます。ご丁寧にどうも。」

 父さんは笑顔で−年に何度も見られるものじゃない−晶子からの土産を受け取る。どうやら父さんの第一印象もプラス方向に傾いたままだと見て間違いなさそうだ。

「今日はすみませんね。この年末年始にでも連れてらっしゃい、って何度も言ってたんですけど、祐司が気が利かないもんで。」
「祐司さんの弟さんが今年大学受験だと祐司さんから窺っていましたので、お邪魔するとご迷惑になるかと思いまして。」
「とんでもない。祐司が向こうで付き合い始めたっていう井上さんがどんな娘(こ)なのか、一度お会いしたかったんですよ。もう、祐司は本当に気の利かない子で・・・。
すみませんね。」
「いえ、とんでもございません。それより、本日は急な訪問にもかかわらず温かく迎えてくださって嬉しく思います。」
「祐司が電話で井上さんを今日連れてくるって言ったもんだから、あまり準備が出来てなくて・・・。とりあえずお茶を入れますね。」
「どうぞお構いなく。」

 両親と晶子との対面はつつがなく進んでいく。
晶子は緊張している様子だが、口調は落ち着いているし、普段より少し話す速度を抑えている。ゆっくり喋ることで緊張を和らげる意図もあるんだろう。
何にしても、晶子は全面的に歓迎されていることには違いないようだ。
 母さんがその場に居る全員、俺と晶子、父さんと母さんの前に茶を入れた小さな湯のみを置く。晶子は湯飲みを出された時に小さく一礼する。
抜かりないというか何というか・・・。一朝一夕に、ましてや今日この場で直ぐ出来るようなことじゃない。躾がかなり厳しかったそうだから、骨身に染み込むレベルにまで
達してるんだろう。

「祐司からどんな娘(こ)なのかはそこそこ聞いてたんですが、随分綺麗なお嬢さんで。驚きました。」
「恐縮です。」
「礼儀も大変しっかりしていて改めて感心しましたよ。さ、お茶でも飲んで一息ついてください。」
「ありがとうございます。では、いただきます。」

 晶子は小さく一礼してから、湯飲みを両手で持って軽く一口啜って静かに置く。隣で見ていても様になっている。

「もう、こういう娘は一度連れてきなさい、ってあれほど前から言ってたのに・・・。」
「そんなこと言ったって、去年俺が帰省した時にま、井上さんを連れて行ったらどう対応するつもりだったんだよ。」

 不満たらたらの母さんに、俺は去年から言っていることをコピーして返す。
晶子と付き合っていることを言ったのと、その時着ていった−今でも着ているが−セーターとマフラーを見せた段階では、編み物は上手みたいね、とは言ったが
明らかに訝っていた。それが電話を契機にころっと態度が変わって頻りに今度は連れて来い、と言うようになったんだからどうしようもない。

「それはその時で何とでも考えたわよ。井上さんに部屋で寝てもらって、あんたは此処で寝てもらうとか。」
「あ、そう。」
「あ、すみませんね。内輪の話ばかりで。」
「いえ、とんでもございません。」

 母さんは俺と晶子とで表情をころころ変えるな・・・。内向き外向きで表情が大きく変わるのは前々からだけど、その変化のめまぐるしさを見ると、かなり面白くも思える。

「お料理は出来ます?」
「はい。ひととおりのことはこなせます。」
「ひととおりと言うと、包丁を砥ぐことや魚を捌くことも出来ます?」
「はい。」
「あらまあ、立派ですね。ヒラメやカレイも捌けます?」
「はい。骨せんべいまで作れます。」
「まあまあ、凄いですね。祐司は食べさせてもらったことあるの?」
「あるよ。最初見た時はびっくりしたけど美味かった。」

 晶子が言うには、ハマチのような丸太っぽい魚は割と簡単に捌けるが、ヒラメやカレイのような平べったい魚は難しい部類に入るらしい。
俺にはどちらも到底手が及ばない領域だが、晶子が買ってきて捌いた刺身は何度か食べたことがある。魚のコーナーでパック詰めされているものと区別が付かないくらい
綺麗に切り揃えられていて、勿論美味かった。
 後日カブト煮っていう頭を煮込んだものが出てきたり、晶子が言った骨せんべいっていうヒラメやカレイを捌いた後に残った頭が付いた骨全体を油で揚げたものが
出てきたりして、最初はびっくりしたが、それらもやっぱり美味かった。骨せんべいは全部食べられると言われて最初は首を傾げたが、頭から尻尾までカリカリしていて、
本当にせんべいみたいでこれまた美味かった。
 骨せんべいを揚げるところを見たこともあるが、頭を揚げる段階では頭を油に突っ込んだ状態で手を止めて待っている必要があって−そうしないと中まで完全に
火が通らないそうだ−、かなり根気の要る作業だと傍から見ていて分かった。煮物故に時間のかかるカブト煮もそうだが、とても俺には出来ない業だ。

「祐司にも一人暮らしを始める前に料理器具一式を買い揃えてやったんですけど、この子、ご飯を炊くのがやっとの有様でしてね。」
「私は偶々幼少時から料理の手ほどきを受けまして、料理に関するひととおりのことは出来るようになったんです。」
「祐司には、一人暮らしを始める前に料理をひととおり叩き込むべきだったと今でも後悔してるんですよ。機会があったら料理を教えてやってください。」
「はい。私でよろしければ。」

 晶子と一緒に料理をしたことはあるが、それこそ晶子に手取り足取りでまったく自分のものになってない。おまけにそれ以降自分で料理らしいことをしたことがない。
晶子が月曜の夜に夕食を作ってくれたりすることで、料理器具に埃が被らずに済んでると言って良い有様だ。いきなり全部は無理にしても、せめてご飯くらいは自分で炊くか。

「井上さんは祐司と同じ新京大学で、文学部だそうですね。」
「はい。」

 料理を話題にした母さんとのやり取りが終わると、今度は父さんとのやり取りが始まる。

「学科は何ですか?」
「英文学科です。」
「ほう・・・。じゃあ、電子工学科の祐司とは大学内で知り合えたようには思えないんですが、何処で知り合ったんですか?」
「一昨年の秋、私がお茶菓子を買いに行った近くのコンビニで、偶然隣のレジに並んだことがきっかけです。」
「それくらいしか、祐司とは接点が持てないですよね。祐司は月曜以外夜の6時から10時まで喫茶店でバイトしてますんで。」
「祐司さんと出逢えたことがきっかけで、祐司さんと同じ喫茶店でバイトをさせてもらうことになりました。」
「あ、井上さんは祐司と同じ店でバイトしてるとは聞いてましたけど、祐司と知り合ったのがきっかけだったんですか。」
「はい。」

 父さんと母さんには、去年帰省した時に晶子と同じバイトをしていることは話してある。「何をしている娘か」という質問に対する答えとして。だが、その背景にまでは
言及していない。背景には当時付き合っていた宮城と別れたこと、その後荒れに荒れて大学もバイトもサボったことがあるし、もう過去のこととは言え
あまり言いたくないからだ。
 晶子は俺と出逢った状況については話したが、晶子も知っている、俺がその時コンビニのレジに並んでいた理由とそれに繋がる背景については言わない。
気を遣ってくれているんだなと思うと嬉しいが、客の晶子に気を遣わせているのがちょっと情けなくも思える。

「祐司。井上さんに家の合鍵は渡してあるのか?」
「あ、ああ。渡してある。」
「そうか。なら良い。井上さんを家に入れてやってるか?」
「3年の後期になってからは、月曜にある学生実験で夜遅くなるのもあって、井上さんに夕飯作ってもらってるから、その時来てもらってる。」
「何だ、井上さんに夕飯作ってもらってるのか。」
「ああ。」
「どうもすみませんね。祐司が毎度毎度手間をかけさせて。」
「いえ。祐司さんにはバイト先を紹介していただいたのも皮切りにずっとお世話になっていますし、女1人では何かと物騒ということで毎日の大学とバイト先との
往復をご一緒いただいていますし、それくらいはお礼として最低限のことと思っております。」
「祐司で良かったら、何処かへ行く時には引き連れてやってください。」
「祐司さんにご一緒していただいていることでとても安心していられますので、私の方こそこれからもご一緒していただきたいと思っております。」

 完全に俺はお荷物扱いだが、晶子は上手く俺を持ち上げてくれる。
父さんも俺の家の合鍵を晶子が持っていることや晶子を家に入れたりすることを問題視するどころかむしろ良しとしている。これだけ取っても、晶子が好印象を
持たれているのが良く分かる。

「祐司。あんた、井上さんにちゃんとお礼言ってる?」
「言ってるよ。」
「良いセーターとマフラーも貰って、夕食も作ってもらってて、何かお返しとかしてる?」
「誕生日とかにプレゼントしてる。」
「普段大学とバイト先との往復をご一緒していただいていることだけでもお礼として余りありますが、私の誕生日とクリスマスに凄く素敵なプレゼントをいただいています。」

 晶子は俺のフォローに続いて首の後ろ側に手を回し、ペンダントを外して机に置く。

「こちらのペンダントもその1つです。」
「ああ、これって祐司も着けてるものですよね?」
「はい。こちらは一昨年のクリスマスに祐司さんからいただいたものです。」

 母さんの問いかけに答えた後、晶子は隣に置いてある自分の鞄に手を入れる。取り出したのは・・・見覚えのある小さなジュエリーボックス。まさか、晶子・・・。

「こちらは、昨年の私の誕生日にいただいたイヤリングです。落とすといけないので着ける時は注意していますが、着けない時もこうして持ち歩いています。」

 持って来てたんだ・・・。晶子が開いたジュエリーボックスにあるのは紛れもなく、俺が去年の晶子の誕生日にプレゼントした、エメラルドをあしらったイヤリング。
着けない時でも持ち歩いてたのは初めて知った。

「あと・・・、こちらの指輪も祐司さんにプレゼントしていただいたものです。」

 晶子は最後に差し出したものは、自分の左手。厳密にはその薬指の指輪。
形を成すものとしては、俺が晶子に最初にプレゼントしたもの。同時に俺が今まで晶子にプレゼントしたものの中で一番思い出深いものでもある。
 思案と捜索の末に買ってプレゼントした際、晶子が予想外の反応を示した。
左手を差し出して薬指を指差し、此処に填めてくれと言って譲らなかった。動揺の中填めて一安心とはならず、俺にも同じく左手薬指に填めてくれと言って
これまた譲らなかった。そして今に至る。

「あ、この指輪って祐司も填めてるものじゃないですか?」
「はい、そうです。」
「まあまあ、そうだったんですか。祐司。だったらもっと早く井上さんを連れて来て紹介しなさい。」
「そんなこと言ったって・・・。」

 無茶なことを言うよなぁ・・・。
さっき俺が仮に去年の帰省の際に晶子を連れて来たらどうするつもりだったのかと尋ねたら、それはその時で考えたと言ったが、事前に連れて行くと言っておいても
警戒がそう簡単に解けたとはとても思えない。ましてや、俺と晶子が左手薬指に指輪を填めているのを知ったら、どういう反応を示すか分かったもんじゃない。
 だが、母さんの今の態度は、左手薬指に指輪を填めていることを問題視するものじゃないのは確かだ。それどころか、どうしてこんなところに指輪を填めたり
するのか、とでも設問してくるかと思いきや、歓迎さえしているのが分かる。指輪の位置が意味すること、つまり俺と晶子の結婚を歓迎すると考えて良さそうだ。

「何れはするのね?結婚。」
「する。日にちまでは明言出来ないけど、俺は将来彼女と、井上さんと結婚する。」

 ・・・言った。半ば自分に指輪の意味を忘れないよう念を押すためでもあったし、話の流れもあったが、案外すんなり言えた。
ここで口篭ったら何より晶子が不安に思うだろう。不安に思うだけならまだ良い。本当に私と結婚する気はあるのか、と疑問視されたら絆が揺れ始める。
信じることの対極に位置する疑うってことが恋愛にとって何より禁物だってことは、これまでの経験で身に染みて分かってるつもりだ。

「そう。井上さんなら安心ね。あんたみたいなずぼらな子には、井上さんのようなしっかりした娘さんじゃないと。井上さんもそのつもりなんですよね?」
「はい、勿論です。祐司さんと結婚させていただきたいと願っております。」

 母さんの確認に晶子は結婚の意志を明言する。語尾は「思っております」じゃなくて「願っております」となっていた。
意志が明確だということがそれだけ取っても分かる。尚更俺の責任は重大だ。逃げ道を塞ぐためには丁度良いかもしれない。

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