雨上がりの午後

Chapter 160 冬の雨と買い物のひと時

written by Moonstone


 平日の住宅街はこれまた閑散としている。
坂道を上って左に折れて少し進むと、茶色一色の丘に建つ白い建物が、青空と見事なコントラストを作っている。
ブラインドが下ろされた窓が面する南側を迂回して、私用でのみ使われる渡辺夫妻の家の入り口に向かう。
自転車を壁際に立てて、俺はインターホンを押す。

「はい、どちら様ですか?」

 あ、この声は潤子さんだ。そこそこ慣れた筈なんだが、どうしても少し緊張してしまう。

「あ、祐司です。帰って来ました。」
「あら。それじゃ今開けるわね。」

 インターホンが切れて少しして、足音が近付いて来る。ドアノブの辺りで物音がして、ドアが開く。

「た、ただいま。」
「お帰りなさい。改まらなくて良いのよ?」
「何か・・・癖みたいなものかと。」
「さ、入って。もう直ぐお昼ご飯が出来るから。」

 潤子さんが改めてドアを開ける。俺は中に入ってドアを閉める。
玄関を上がって少し歩くと見えてくる台所には・・・あれ?潤子さん以外居ない。

「潤子さん。晶子とマスターは?」
「ああ、晶子ちゃんならお店のキッチンでお昼ご飯作ってる最中よ。マスターは買出し。もう直ぐ帰って来るわ。」
「買出し、ですか。」

 そう言えば車がなかったな・・・。
買出しと言えば、土曜日の午前中に行ったばかりなのに、まだ他に買出しに行くものがあったんだろうか?・・・ま、考えごとは後でも良いか。
俺はコートを脱いでまず2階に上がる。
晶子と共用で割り当てられている部屋に鞄とコートを置いてから、洗顔とうがいのために洗面所に立ち寄ってから台所に戻る。潤子さんの姿はない。
 店の方から微かだが物音が聞こえてくる。耳を澄ますと、何かを焼くような音と人の声が入り混じっている。
晶子は潤子さんと一緒に昼飯を作ってるんだろうか?
 こういう時、料理が出来たらな、と思う。
前に晶子と一緒に夕食を作ったことはあるが、それこそ手取り足取りでそのくせ何も覚えられなかった。
ご飯を炊くくらいは出来るが、材料を揃えて包丁や鍋とかを駆使して作るのとは全然レベルが違うしな。
 料理がからっきし出来ない人間がスペースに制限のある厨房をうろつくと邪魔になるだけだ。大人しく台所で待つことにする。
何時もの席−と言って良いものかどうかは別として−に座って頬杖を付く。
マスターは買出し、晶子と潤子さんは昼飯の準備、残る俺はぼんやり待つだけ。・・・何だか申し訳ない気がしてきたな。
 少しして、店の方から足音が近付いて来る。振り向くと、潤子さんが台所に入って来るところだった。

「昼ご飯の準備は良いんですか?」
「ああ、それなら大丈夫。晶子ちゃんがやってくれてるから。」
「晶子一人で作ってるんですか?」
「そうよ。私はその間、明日の分のクッキーを作ってたのよ。」

 潤子さんのクッキーは手作りだが、生地を作るところから始まる。
見た目はさぞかしお手軽そうに見える菓子作りだが実はかなりの肉体労働だったりすると、見せてもらって初めて知った。
クッキーの生地は1日寝かせて翌日焼く、というのが潤子さんのこだわりだから店に出せる数量には自ずと限りがある。
 台所に「ピンポーン」と音が鳴る。潤子さんはいそいそと流しの向かい、俺が座る席の背面にあるインターホンに向かう。
玄関のインターホンは台所と店に繋がっている。店の営業中は台所に人が居ないし店では音が聞こえないから、というのがその理由だ。

「はい。どちら様ですか?」
「文彦だ。帰って来たぞ。」
「あ、ドアを開けるわね。」

 潤子さんはその足で玄関へ向かう。マスターはこの家の鍵を持ってる筈なんだが、両手が塞がってるんだろうか?
買出しって言うくらいだから、結構な量があると考えるのが自然か。

「お帰りなさい。祐司君もついさっき帰って来たばかりよ。」
「そうか。タイミングが良かったな。荷物を先に持って行くぞ。」
「ええ。お願いするわ。確認はしておくから。」

 そんなやり取りが聞こえて程なく、潤子さんとマスターが姿を現す。
マスターは両手に大きな袋を抱えている。袋が相当張っているところからするに、やっぱり色々買い込んで来たようだ。

「こんにちは。」
「お、祐司君。此処に居る時はただいま、で良いぞ?」
「条件反射みたいなものですよ。」
「井上さんは昼飯作りか。」
「ええ、そうよ。もう少ししたら出来ると思うわ。」
「じゃあ俺は服脱いで来るから、確認は頼む。」

 マスターはテーブルに袋を置く。重そうだが置くのはかなり慎重だ。
マスターが踵を返して出て行くのと入れ替わる形で、潤子さんが袋の中を確認し始める。
 ・・・紅茶の瓶か。しかも取り出されて来るものは全て異なる種類。
瓶は機密性の面では優れているが、結構かさばるしそれなりに重い。小さなものでも量が増すとその「効果」は顕著になって来る。
なるほど、マスターがどかっと置かなかった理由が分かる。割れたりしたら使い物にならないからな。
 他には・・・薄力粉やバターといったクッキーの材料だ。
クッキーの量には制限があるとは言え、それなりの量を作るには「こんなに使うのか?」と思うほどの材料を必要とするのを目の当たりにした。
確かにこれくらいは買い込まないと持たないだろう。
 潤子さんはクッキーの作り置きはしないし、紅茶のストック補充は切れそうになったところでする。
時間が経過したものは酸化して味が悪くなる、というのが理由だ。
専門店で選んだものを必要量だけ購入する。それが、この店の「昼の顔」の評判を呼ぶための隠された、でも大切なこだわりだ。

「お待たせしました。・・・あ、祐司さん。お帰りなさい。」
「ただいま。」
「さっきマスターが帰って来たところだから、皆揃ってお昼ご飯が食べられるわね。」
「4人分一緒に作って良かったですね。」
「私は買出しの確認がもう少しあるから、晶子ちゃん。悪いけど全部運んでくれる?」
「はい。」
「俺も手伝うよ。」

 俺だけ何もしてないのは気が引ける。
どれだけ作ったのかは知らないが、場合によっては店のキッチンと此処とを何往復もしないといけない。
幾らずぼらな俺とて、こういう場合に料理が運ばれて来るのをぼうっと待ってるわけにはいかない。

「祐司さん。帰って来たばかりなのに。」
「料理は出来ないけど、運ぶくらいは出来るからな。」
「・・・じゃあ、お願いしますね。」

 少し躊躇っていた晶子だが、嬉しそうな笑顔に変えて店のキッチンに向かう。俺はその後をついて行く。
キッチンが近付くにつれて、良い匂いが嫌味にならない程度に強まって来る。この匂いは・・・ミートスパゲッティだな。
 熱した鉄板に茹でたてのスパゲッティを乗せて、周囲に溶き卵を回しかけたミートスパゲッティは店の看板メニューの一つで、初めて見た客は大抵驚く。
だがそれは直ぐに、「アツアツで美味しい」「卵とミートソースの相性が良い」と好評に変わる。中高生から初老まで支持層は広い。
今では晶子もこのメニューを手がける。混雑する夜は、スパゲッティを茹でる鍋が空になる時間の方が少ない時さえあるくらいだ。
 潤子さんが「昼の顔」の準備をする一方で、晶子が潤子さんに一任されて昼飯を作ったわけか。
クッキーの生地作りは肉体労働だし時間もかかる。その時に「使える」人間が居るのと居ないのとでは格段の差が生じるもんだ。
俺もレベルや時限は違うだろうが、実験で人手と「使える」必要性を幾度となく痛感しているから、潤子さんが晶子に昼飯作りを任せたくなる気持ちは
それなりに分かる。
 コートを脱いだマスターが戻って来た頃に、4人分の昼飯がテーブルに並んだ。
晶子が作ったのはミートスパゲッティと野菜サラダ、そして果物と牛乳のミックスジュース。
マスターと潤子さんの家に泊まり込むようになってから、大学の学食が貧相に感じられてならない。比べる方が間違っているのかもしれないが。

「今日で祐司君と晶子ちゃん、帰っちゃうのよね。」

 食べ始めて程なく、潤子さんが言う。

「はい。コンサートも無事終わりましたから。」
「年末はどうするの?」
「俺は帰省しないでこの町に居ます。」
「私もです。」
「何だったら何時でも来てね。話したいことや相談したいことがあったら、ちょっとしたことでも気にしないで。」
「ありがとうございます。」

 俺が帰省しないのは、親のごり押しを避けたいからだ。時間に追われる生活から解放されるひと時に、ゆっくり考えたい。
俺が進路を決めないことには晶子が身動き出来ないし、残された時間は限られている。
年が明けて一月したら後期の試験が待っているし、4月からは研究室に本配属になる。
進級すれば、という条件があるが、先に4年きっかりで卒業する、という取引条件があるし進級すると宣言したから後には引けない。
 マスターと潤子さんは何時でも俺と晶子を受け入れてくれるつもりのようだ。
進路を決める上で、人生の先輩であるマスターと潤子さんの助言を聞いたり、助言とまでは行かなくても体験談を聞くだけでも参考になるかもしれない。
少なくともこっちへ行け、とごり押しされるよりはずっと良い。

「二人で年末年始に何処かに行ったりはしないの?」
「いえ、特には。何処かに出かけるなんて考えもしませんでしたし。」
「私もです。」
「休みの間どちらかの家に泊まって、結婚生活を実体験するのも良いんじゃないか?」
「まあ・・・、そういう考えもありますね。」

 俺は言葉を濁す。と言うのも、補講がある28日までは晶子の家で、それ以降は俺の家で過ごすと決めているからだ。
何処かへ出かけるわけでもなく家でゆっくりして、一緒に考えたり双方の考えを言ったりするつもりでいる。
俺の場合、一人で考えているとどうしても視野を狭くしたり、悪い方向に向かいがちだから、丁度良い。
 明日は補講で大学に行ったついでに、生協に注文しておいたPCを受け取りに行く。
優柔不断な−晶子に言わせれば「慎重」だが−俺らしくあれこれ迷った結果、CPUが高速でメモリとHDDが多いA4サイズのすっぴんのノートPCに決めた。
併せて本配属を希望している久野尾研で使われているワープロや表計算ソフト、プレゼンテーション用ソフトも買ったから、インストールして使い方を
覚えていくつもりで居る。
 そうなると俺は食事や洗濯といったことを何時も以上におざなりにしてしまうんだが、それは晶子がしてくれるからありがたい。
「買い物は一緒に行ってくださいね」というのが唯一の条件だが、それくらいお安い御用だ。食材を選ぶ目はないが、荷物を運ぶ手はあるからな。
 1週間家を空けてるから、どういうわけか頼まなくても郵便受けに溜めてくれるチラシの類を取り込んで捨てないといけない。
あまり溜め込んだままだと「あの家には誰も居ない」と空き巣に宣言しているようなものだ。
晶子の家は郵便局や宅配便業者以外は入れないようになっているから良いが、俺の家にはそんな大層なセキュリティはない。
そんなものがあるマンションなりに入れる金があるなら、弟の進路を考えたりしない。

「そう言うマスターと潤子さんは?」
「例年どおり、家でまったり過ごして月峰神社に初詣、だ。」
「そう言えばマスターと潤子さん、一昨年も去年も行ったんですよね?」

 俺は去年帰省していたから晶子からの電話で知ったんだが、マスターと潤子さんは去年も月峰神社に初詣に行っている。晶子も一緒に行ったそうだ。
その時俺は朝から親戚巡りに引っ張りまわされてたんだが。

「婚約してからずっとよ。あそこは縁結びで有名だから。」
「え?」
「知らなかったの?だから一昨年二人で行ったものだと思ってたわ。」

 そんなこと、初めて知った。
あの時は付き合い始めて初めての年越し、ってことで何処かに出かけよう、じゃあ路線図にある月峰神社にしよう、という安直とも言える流れで決まった。
あの神社にこういうご利益がある、なんて情報を調べるほど俺の頭の回転は良くない。

「もしかしたら、初詣で会うかもしれないわね。黒のコートを着た拳銃を持っていても不思議じゃない男と長い黒髪の女の組み合わせは、多分私と
マスターだから。」
「潤子。何だ、その例えは。」
「端的に表現していて分かりやすいと思ったんだけど。」
「確かに分かりやすいですね。」
「井上さんまで・・・。」

 マスターは渋い表情をするが、去年の夏に海に行った時、晶子に声をかけてきた男達をひと睨みで追い払った「実績」があるから、納得がいく。
月峰神社に行くかどうかは勿論、初詣に行くかどうかも決めてないが、会ったら会ったで新年の挨拶を交わせば良い。
もう隠したりする必要なんでないんだから。

 俺は晶子の家に居る。
昼食が済んでから2人揃ってマスターと潤子さんの家を後にして、事前の取り決めどおり一旦俺の家に寄って郵便受けに溜まったチラシを捨ててからお邪魔した。
晶子は帰宅するなり洗濯を始め、続いて俺と共に家の掃除に取り掛かった。洗濯は全自動だから放っておいても良い。
 元々シンプルで整理が行き届いているから、掃除と言ってもそう手間はかからない。
家具類の拭き掃除をしてから掃除機を満遍なくかけて、窓拭きと換気扇掃除を分担した。
ちなみに俺の担当は窓拭き。換気扇掃除は油汚れを落とす関係で大変だから、というのが晶子の挙げた理由だ。
 掃除が終わって洗濯も済んだ。洗濯物は洗濯機がある脱衣場も兼ねた空間に取り付けられた専用の物干しに干されている。
晶子の家があるマンションにはベランダがあるが、そこには物干し竿がない。何でも「防犯の問題から」というのが理由だそうだ。
女性専用マンションだから、逆に洗濯物、特に下着が標的になりやすいからだろう。
 一仕事済んだ後はティータイム。晶子が入れてくれたラベンダーの紅茶と、出る直前に潤子さんがくれたチョコチップ入りの手作りクッキーがメニュー。
うっすらと流れるBGMは倉木麻衣のアルバム「delicious way」。最初に改めて乾杯してから会話はない。だが、ゆったりと寛げる時間と空間が確かにある。

「この後、買い物に行きたいんですけど。」

 徐に晶子が切り出す。
思えば晶子も1週間ほどこの家を空けていたから、冷蔵庫の中身が乏しくなっている筈だ。
俺と違って自炊しているが、無駄な買い物はしない晶子だ。しおれた野菜や霜が付いた冷凍品が片隅で眠っているということは考えられない。

「勿論、一緒に行くよ。」
「お願いしますね。」

 晶子は嬉しそうに微笑む。
晶子と買い物に行くのは随分久しぶりだ。今まで土日は俺がレポート作りに大きな時間を割かざるを得なかったから、一緒に買い物とはいかなかった。
晶子にとって、こういう時間は高価なプレゼントにも代えられない大切なものだ。
俺と一緒に過ごす時間だからこそ、その時間の中で大きな比重を占める「食」を構成するのに不可欠な要素の一つである買い物も一緒にしたいんだろう。
 ふと窓を見る。レースのカーテンを通して見える外の景色が、薄暗くなってきている。
日の入りの時間は早いのは今の季節の特徴の一つだが、この暗さは夜の訪れのそれじゃない。雲が重い。雨が・・・近いのか?

「どうしたんですか?」
「晶子。雨が降りそうだぞ。」
「え・・・。あ、そうみたいですね。」

 聞き方によっては他人事みたいだが、二人揃って天気予報を全然見てないから仕方ない。
マスターと潤子さんの家では、レポートを作るか練習をするかが大半で、「外界」と殆ど接していない。
マスターと潤子さんの家の台所にも、俺と晶子に割り当てられた部屋にもTVはないし、なくても困らなかったというのもある。
元々俺も晶子も決まった時間にTVを見るという習慣がないからだ。
 こういう時1人だと大変だろう。買う量にも依るが、荷物をぶら下げて尚且つ傘をさして、というのは厳しい。荷物運びの本領発揮の時だな。
・・・あまり胸を張って言えることじゃないが。

「今日はどのくらい買うんだ?」
「えっと・・・、明後日までの野菜と今日の晩御飯の材料です。レジ袋2つで収まると思います。」
「米とか重いものはないのか?」
「ええ。」
「それなら2人で1つずつ袋を持って、俺が傘を差せば良いな。」

 晶子はこれまた嬉しそうに微笑んで頷く。
雨の日は何となくマイナス方向のイメージが先行する。特に冬場は。
だが、時と場合にもよる。
晶子にとっては俺と一緒に買い物に行けて、荷物を両手にぶら下げて傘を差すこともなくて嬉しいだろうし、俺も晶子と2人で何処かに行けるのは楽しい。
 雨が降る前に買い物、とならないのが今だ。雨が降ったら傘を差せば良い。荷物があるなら分担すれば良い。
そういうある意味場当たり的な感覚で通せる今のような時間が、走ることばかりを要求される、そうでなくても周囲に合わせて走っている今には
必要なんじゃないかと思う。

 ティータイムが済んでマンションから出た時には、ポツリ、ポツリと頭や頬に冷たい感触を感じるようになっていた。
見上げると、空はすっかり鉛色。冷え込み具合からして雪に変わることはなさそうだが、冬の雨は冷たく感じる。
 晶子が傘を広げる。傘が雨を遮るようになったところで、俺は晶子から傘を受け取る。
少しだが俺の方が晶子より背が高いから、俺が持った方が良い。
晶子はすんなり傘を俺に託す代わりに、俺に身体を寄せる。傘は割と大きいが、2人を雨から守るには距離を詰めないと厳しい。
 本降りになりそうでならない微妙な降り加減の中、俺と晶子は通りを歩く。
晶子が買い物に行く店までには歩くと20分はかかる。だが、今は焦る必要なんてない。ゆっくり歩いていけば良い。
 通りは結構車が行き交うが、人通りは少ない、否、殆どない。
この通りは住宅街の真ん中を突き抜ける形だとは言え、こうも人影がないと、何時も居る世界と殆ど同じだけど何かが違うパラレルワールドに
入り込んでしまったような錯覚を覚える。
 暫く通りを歩いていくと、交通量−車に限ってだが−が格段に増す通りに出る。
途中にあるバス停には人が居る。だが、何となく「そこに居るだけ」という印象が先行する。
もったいぶっているかのように勢いを増さない雨が、人気のない世界を演出しているのかもしれない。
 やがて店が見えてくる。車はそれなりに多く停まっていて、入り口付近で人が出入りしている。
此処へ来てようやく、「人が居る」という感覚が戻って来る。何となく安心しつつ、入り口へ向かう。
まだ本降りにならない雨の中、出入りしている親子連れらしい人達が、レジ袋を幾つも持って小走りに車へと向かったり、逆に店に入って行ったりする。
そういう様子に、何となく生活観を感じる。
 雨避けになるひさし−と言うのか−に入ったところで傘を畳んでビニール袋に入れる。そして店内に入る。晶子は籠を1つ手にする。

「もう1つ持つか?」
「いえ、多分1つで大丈夫だと思います。」

 そう言えば、明後日まで−つまり晶子の家に居る間−の野菜と今日の夕飯の食材を買うんだったな。
野菜はキャベツを除けば1つが小さくて軽いし、今日の夕飯の食材を合わせてもそれほどたいした量にはならないだろう。
 晶子と共に野菜売り場から順に回って行く。
丁度タイムサービスの時間帯らしく、外の静けさから一転して店内はかなり混雑している。
晶子はそんな中で手際良く野菜を選んで籠に入れていく。シメジに人参・・・。今日は野菜炒めか?
 肉売り場で鳥のささ身を籠に入れる。唐揚げか?色々想像を巡らせる。
料理をするのはからっきし駄目だが−しないのもある−、食材から内容を推測することくらいはそれなりに出来る。
・・・あ、牛乳も入れる。食後に牛乳を飲むのか?何だかよく分からなくなってきた。

「晶子。今日は何にするんだ?」
「グラタンを作ろうと思って。祐司さん、好きでしょ?」

 グラタンか。晶子の家にはオーブンがあってグラタンも作れる。
店でもグラタンは冬限定のメニューで、ホワイトソースから手作りということもあってメニューには「ご注文から30分ほどお時間を戴きます」と注意書きが
してあるにも関わらず注文は多くて好評だ。
接客担当の俺は、香ばしい匂いを立てるグラタンの皿を運ぶ最中に何度も食べたくなった。

「ちなみに、シメジと鶏肉はグラタンの具にするんです。」
「へえ。楽しみだな。」
「時間はかかりますけど・・・。」
「それは構わない。楽しみが増えるから。」

 俺が微笑みを向けると、晶子は微笑みを返す。こういう時俺はやたら気長だ。出来ると分かっているものだったらじっと待つ。
去年の年末に魚の煮付けで2時間待ったこともあるが、台所から漂ってくる匂いで食欲を掻き立てられたのは間違いないし、その間ちっとも苦にならなかった。
 晶子は混雑するレジを待つ列の1つに並ぶ。
広い店内だが、晶子の買い物がターゲットを絞っていたということもあってか、ある種の物足りなさを感じさせる。
帰ったら出来立てほやほやのグラタンが出来るのを待つ、ということに端を発する待ち遠しさの裏返しかもしれない。
 レジの列は少しずつ進み、晶子の番になる。量がさほどないこともあって、すんなり終わる。
代金は晶子が払って、俺が籠を持って荷物纏めの場所に移動する。
晶子はレジ袋を広げて、ささ身が入ったパックを一番下にして、その隣に牛乳のパックを立てて入れ、後はシメジとかを入れていく。流石に手馴れてるな・・・。
袋は1つで収まった。俺が袋を持って出口へ向かう。
 外はまだ煮え切らない様子だ。
雨は降ってはいるものの、本降りになるわけでもなく、かと言って止む様子もなく、降るのか止むのかどちらかにしてほしいと思わずには居られない。
歩く距離を考えた場合傘を差さないと濡れてしまう程度には降っているから、俺は傘のビニール袋を取って傘を差す。
広げた傘を上に翳したところで、俺の手から買い物袋が取られる。

「私が持ちますよ。」
「それくらいだったら、片手で持てるから良いのに。」
「祐司さんは傘を差していてくださいね。」

 こうなると晶子はかなり頑固な一面を見せるから、俺は傘を左手に持って、晶子と歩調を合わせて歩き始める。
広げた傘に雨が当たる音を聞きながら、俺と晶子は歩いていく。

「濡れないか?」
「ええ。大丈夫です。」

 晶子は両手で買い物袋を持って前に出している。
傘は俺を晶子を雨から守るには十分な広さがあるし、今のように袋を前に出していれば、袋が濡れることはないだろう。
俺は先走らないように、言い換えれば晶子を濡らさないように注意しながら歩く。
雨は相変わらず本降りにもならず、止む様子もないというもどかしさを続けている。
 はっきりしない・・・。まるで俺みたいだな。今の今になっても進路を決められないで居る。
一応昼休みとかに企業の資料を集めたり過去の就職情報を調べたりはしているが、レコード会社とか音楽関連企業の就職実績はごく少ない。
楽器メーカーへの就職実績はあることにはあったが。
 業種をえり好みしなければ、逆に選り取りみどりになる。ただ、そこで果たしてやっていけるのか、という不安がある。
単に知名度や資料とかに書かれている待遇で選ぶとあまりのギャップに戸惑ったり、戸惑うだけならまだしも心身を壊してあえなく退職という事態が
待っている、と聞いたことがある。
 だが、俺が進路を決めないことには晶子が身動き出来ない。
晶子が今住んでいる家は4年住むことを取り決めてあるだけと言う。その後は俺次第ということも分かってる。
晶子との付き合いを大学時代の甘い思い出にするつもりはこれっぽっちもないし、入籍はまだだが結婚はしていると公言しているし、既成事実も積み重ねてきている。
この年末年始で決めるくらいの覚悟はしておかないといけないな・・・。
 煮え切らない、はっきりしない雨模様の中、俺と晶子は歩いていく。
冬の空のぐずつきは、もしかしたら俺に進路を決めるよう促しているのかもしれない。
誰かの心模様が天気に反映されるなんて普段は考えもしないが、ふとそう思う時もある。これも一種の現実逃避なんだろうか?

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