雨上がりの午後

Chapter 157 聖夜のハーモニー−2−

written by Moonstone


 マスターがステージから降りたのを見計らって、シーケンサをスタートさせる。客席が静まるのを待ってたらコンサートの進行が滞っちまう。
聞き慣れたというのを通り越して身体に染み付いたイントロが始まる。途中からコーラスが入る。ここは潤子さんのみ。
 Aメロに入る。ここは晶子担当。今まで晶子単独で歌っていたから違和感はない。
俺は原曲にはない、クリーンギター単音でのバッキング担当だ。なくても良いんだが、データを作ったという理由でステージ隅に居る。
この夏のコンサートでも大好評だった「Secret of my heart」。
今年は演奏曲を刷新する方向だったんだが、これ見たさに来る客も居る筈、というマスターと潤子さんに押されて組み込まれた。
 Aメロの繰り返し。メロディは晶子単独だが、潤子さんのコーラスが入る。
原曲にはあったが、今まではシンセの音で−コーラスの音色はある−代用していたパートを潤子さんが担当するわけだ。
晶子の声は勿論だけど、潤子さんの声も綺麗だよな。ウィスパリングが程好く効いたコーラスは、この曲にピッタリだ。
 いよいよサビに入る。晶子と潤子さんがユニゾンする。
マスターが「夢のデュオ」と言ったが、このペアは潤子さんがリクエストタイムに登場する日曜にもない、ファンにとってはまさに「夢のデュオ」だ。
互いに争う形で自己主張するんじゃなくて、手を取り合ってメロディの良さを引き出す2つの歌声が、清らかに店内にこだまする。
切ない歌詞が胸を少し締め付ける。
 サビが終わるとAメロに戻るが、今度は潤子さんが歌う。これは今年初の試み。
「潤子さんも一人で歌ってみてくださいよ」という晶子の提案が発端だ。
予想以上に良い−潤子さんには自覚はなかったが−ということで、Aメロを晶子→潤子さんの順で歌い、サビをユニゾンする、と決まった。
潤子さんの歌声を聞くことはあまりないから、新鮮な印象を受ける。
 Aメロの繰り返しでは、潤子さんのメロディに晶子のコーラスという、最初とは逆の構図が生まれる。
晶子のコーラスはやっぱり綺麗だ。耳にふんわり馴染んでゆるやかに溶け込んで来る。潤子さんの歌声が晶子の歌声を引き立てる効果を存分に発揮している。
 再びサビ。二つの透き通る声が協和して、切ない色模様の歌詞を清々しく歌い上げる。後ろで聞いていても気持ちが良い。
歌っている晶子と潤子さんを正面から見られないのは今の位置と役割があることの裏返しだから、何とも表現し難い。
その分、音合わせで見ているから由と考えるべきか。

 広がり間のある間奏に入る。此処でも晶子と潤子さんのユニゾンだ。
融合した2つの声で朗々と歌われる「Secret of my heart」は格別だ。
これだけでも、今日来た客は1000円払って寒い中此処に足を運んだ価値があったと思うだろう。少なくとも客よりは数多く聞いている俺はそう思う。
晶子と潤子さんの声が嫌味のなさをそのままに張りを増していき、単純明快にしてラブソングに不可欠な「理由」を見事に歌い上げる。
 曲調は一転静けさを取り戻し、晶子の声が英語の歌詞を切なげに歌う。その間隔に潤子さんがコーラスで入る。
1人では出来ないこと。2人だからこそ出来ること。色々な言い方が出来るが、今展開されている「Secret of my heart」はまさにそれだ。
ストリングスが音量を増して来る。クライマックスは近い。
 三度サビに入り、晶子と潤子さんのユニゾンが復活する。
それなりに数を重ねたとは言え、潤子さんがステージに立って歌うのを目にした回数はそれほど多くない。
潤子さんは昼から店のキッチンに立っているし、俺と晶子が泊り込んで以来、潤子さんがリクエストタイムに出たのはこの前の日曜だけ。
そこでも晶子との「夢のデュオ」はなかった。
なのに晶子との呼吸はピッタリだ。本当に何時練習してるんだろう?
元お嬢様と言うが、それだけで表現出来ない天性の才能というのか、潤子さんにはそういうものがあると思う。

 曲のタイトルでもあり、歌詞の根底を流れる言葉が繰り返される。
原曲ではこのままフェードアウトしていくんだが、今回はデータ更新に併せてそれなりに終わり方を考えた。
言葉が8回繰り返された後、ジャズっぽい白玉を背景に晶子と潤子さんのハミングが柔らかく浮かぶ。
 少なからず作曲の経験があって、アレンジは少なくとも数だけは多くこなしてきた俺から見て、曲は始める方より終わる方が難しいものだ。
フェードインして始まる曲は少数だが、フェードアウトで終わる曲が多いのはそれを象徴していると思う。
此処では、ありがちと言えばそれまでだがこの曲に相応しいと思う締め方を選んだ。
 晶子と潤子さんのハミングが楽器音と共に空気に溶け込むように消えた後、観客から大きな拍手と歓声が沸き起こる。見事。この一言に尽きる。
晶子と潤子さんは揃って一礼する。鳴り止まぬ拍手と歓声の中、マスターがステージに上がって来る。

「我が『Dandelion Hill』が誇る夢のデュオで、『Secret of my heart』をお送りしました。」

 マスターの解説で拍手と歓声は更に大きくなる。「天井知らず」とはこのことか。晶子と潤子さんが改めて一礼する。

「続いてはダンサブルに参りましょう。『La・di・da Woman』!」

 晶子がいそいそとステージから降りる一方、潤子さんが俺の隣にあるキーボード群の前に来る。
普段は音源としてのみ使われているキーボードに−キーボードの形でしか入手出来ないそのメーカーの音色がある−命が吹き込まれる。
 「La・di・da Woman」は今年俺が投入した新曲の1つだが、キーボードはエフェクトをかけたギターで代用したソロ以外全てシーケンサで演奏させて来た。
シーケンサの自動演奏から潤子さんによる演奏。これもこのコンサート独自のものだ。そもそも潤子さんがシンセの前に立つことはないからな。
 マスターがサックスを構えたところで、タンタタ、とやや軽めのスネアが鳴り響く。
俺はリズムに乗ってディストーションを効かせたコードを鳴らす。
この曲は軽くスイング(註:8分音符以上に細かい音符の偶数拍の開始を若干後ろにずらすこと。ジャズでよく使われる)するしテンポもやや速い、
マスターの紹介どおりダンサブルな曲だ。客の手拍子の中、俺は軽くアームを効かせつつコードを鳴らす。
 2拍挟んだ後、主役をマスターのサックスに譲る。
俺はコードを鳴らすが音量を落としてシンセのバッキング−これも潤子さんが演奏している−とユニゾンする。
サックスが艶っぽさを持たせたメロディを奏でる。
 チョッパーベース(註:親指でベースの弦を弾く演奏方法)のソロを2小節挟んで、マスターが演奏を再開する。
リズムに乗せて身体を揺らしながらの演奏は、実践の場を長く踏んできたことを窺わせるまったく嫌味がないものだ。
 また2拍挟んで−この曲では多い−今度はシンセに主役の座が移る。
口笛に似た音色でのフレーズは後半で非常に細かくなる。だが、ステージから見て右半身を見せる形で演奏している−これもこのコンサート独自の形態だ−
潤子さんによる演奏は、その難易度をさらりと受け流す。
プログラミングに苦労したところが潤子さんの手にかかるとすんなりこなされるのは、複雑な気持ちだ。

 サックスにバトンが戻る。ブロウが効いた音色が艶っぽい。勿論、リズムに乗ることは忘れていない。
俺はタイミングを計りつつボリュームペダルに足を乗せる。サックスのフレーズの終わりが俺の再登場の合図でもある。
グリスを入れてボリュームを一気に上げる。
 曲はイントロに戻る。コードを演奏するスタイルは変わらないが、音量を増して白玉部分でのアームを大胆にアピールする。
この曲に貫かれている「ノリの良さ」と「色っぽさ」をギターで表現する第一の機会。フレーズそのものは簡単だから、アピールに重点を置く。
 2拍挟んで一時マスターに主役の座を譲る。
基本的にAメロだが、サックスのフレーズは最後が少し違う。ドラムのフィルが入るに併せて再び音量を増し、同時にステージの一番前に出る。
ここからが俺の見せ場だ。

 最初にアームを効かせた白玉を2回ぶつける。ここで十分タメを作っておいて、細かいフレーズを続ける。
対照的なフレーズが作り出す面白さをアピールした後、見せ場の1つに入る。
ゆったりしたフレーズで音の継ぎ目を出来るだけ少なくして、気障な表現を使えば「色っぽい女の深いスリットから太腿が垣間見えるような色っぽさ」を
表現する。
 この曲で大切な「色っぽさ」の多くは、このギターソロにかかっている。
雰囲気を出すにはかなりの試行錯誤と練習を要したが、その分好評を得た時の喜びは大きい。
チョーキング(註:ある音を演奏した直後に弦を押し上げる、ギターの奏法の一つ)を使った低音のフレーズでも、存分に「色っぽさ」を醸し出す。
 ソロも後半。チョーキングをわざと目立つように−普段は装飾的な位置づけだ−すると同時に、細かいフレーズは、纏めた長い髪の拘束が解けて
流れ落ちるようなイメージを演出する。この「静」と「動」の対比のおかげで音をとるのに随分苦労したが、大きな見せ場を飾るには丁度良い。
 最後の4小節は、より色っぽさを強調した演奏にする。
チョーキングを目立たせ、音の切れ目を極力なくす。こうすることで、「水分を吸った長い髪をかき上げる女」或いは「スカートの裾がふわりと捲くり上がった
様子」、・・・俺のボキャブラリーじゃこの程度の表現が関の山だが、兎に角「最高の色っぽさ」を出せる。
 ドラムのフィルの終わりとほぼ同時にソロは終わる。エレピに似たシンセ音にバトンが渡るが、客席から大きな拍手が起こる。
俺はコード演奏をしつつ軽く一礼する。
潤子さんはリズムを保って、それでいて機械的じゃない演奏を続け、程なくプレイヤー泣かせの6連符の連続になる。
ここでも難しさをさらりと受け流す感じで弾きこなす。流石だな。
 シンセ音がピッチベンドで音程を下げて消えると、サックスとギターのユニゾンになる。
此処ではこれまでの色っぽさとは違って明るく華やかな雰囲気になる。チラッと見える客の顔も明るい。・・・良い感じだ。
 ユニゾンを一旦終えてAメロに戻る。
手拍子に乗ったサックスの音色は、ついさっきまでの明るさから艶っぽさを含ませたものに変わる。
その場その時で音色の雰囲気を変化させられるのも、それなりの技術と経験があるからこそ。
高校時代から数えて6年になるステージ経験が教えてくれたものの1つだ。
 Bメロに入り、主役はシンセに代わる。
ギターソロが長くて派手だった分シンセは控えめに感じるが、難度の高いフレーズがさらさら弾きこなされていくあたりにも、ギターソロとは違う
色っぽさがある。
ギターソロが、スリットから太腿が覗いたりするような「目立つ色っぽさ」と言うならシンセソロは、ポニーテールを横や後ろから見た時に見える
白いうなじのような「さり気ない色っぽさ」と言うところか。

 シンセソロの次は締めくくり、サックスとギターのユニゾンだ。
一気に目の前が開けるような明るい展開。そんな雰囲気をマスターと演出する。
原曲では途中2拍挟むところがあるが、此処で演奏する分にはカットしている。拍子がちょっと取り難いからだ。
 ユニゾンのフレーズは4小節が基本単位。
それを8回、つまり16小節演奏したところで、G→C→Dという上昇型コードを展開して、最後をEm(イーマイナー)で全ての楽器がユニゾンして締める。
締めくくりのドラムのフィルで音を全てシャットアウトする。客の方を見ると同時に大きな拍手と歓声が沸き起こる。

「『La・di・da Woman』、お楽しみいただけましたでしょうか?」

 サックスをマイクに換えたマスターが呼びかけると、客が拍手や歓声や指笛などで応える。大盛況のようだ。

「ではこの辺で、メンバー紹介と参りましょう。」

 マスターのMCを受けて、ステージ向かって左から俺、晶子、潤子さん、マスターの順に並ぶ。これは音合わせの際に決めてある。

「向かって左側からご紹介しましょう。まずは安藤祐司君。その道のプロの触手をも動かした、有能な若手ギタリストです。ギター全般の他、
多忙な学業の合間を縫ってアレンジやプログラミングもやってくれています。」

 拍手に応える形で俺は一礼する。「安藤くーん」と呼び声がかかる。
呼び声の主である、中央やや奥に見える常連のOLに小さく手を振る。

「その向かって右隣は、井上晶子さん。ヴォーカルという新たな形の楽器を担当すると共に、この店を支える重要な要素である料理も担当してくれています。
彼女目当てに来るという男性客もちらほら・・・。」

 笑いに続く拍手に晶子が一礼して応える。「井上さーん」という呼び声が彼方此方からかかる。

「やはりその向かって右隣は、渡辺潤子。店では基本的に料理専門ですが、日曜に限ってはリクエストタイムに登場します。担当はピアノとキーボードです。
店の自慢の料理の数々は、彼女の手で生み出されます。」

 拍手の中、潤子さんが一礼する。「潤子さーん」という呼び声がやっぱり彼方此方から飛んで来る。

「最後は私、渡辺文彦です。担当はサックス全般です。普段はコーヒー作りに併せて、店の看板に悪い虫がつかないように強面を生かして目を光らせています。」

 笑いに続いて拍手が起こり、マスターが一礼する。
確かに今のマスターの役どころは「監視役」だからな。マスターが来ると途端に借りてきた猫みたいに大人しくなる中高生も居るくらいだし。
 大人しいと言えばあの客、吉弘も随分大人しいな。
女王態度で近付いて来たという先入観を除けば、普通の客として違和感がない。
「こんな狭苦しいところに客を押し込んで何様のつもり?」とか言い出しそうなもんだが、一向にその様子はない。
こういう形で音楽を聴くのは初めてということで新鮮な気分に浸っているのかもしれない。

「私ばかり喋っているのも何ですので、順に挨拶などしてまいりたいと思います。」

 そうそう、今回はメンバー紹介に続いて短い挨拶なんかをするんだよな。
人前で話すことにあまり慣れてない俺には難しい部類に入るが、此処は飲食店なんだし、順調に行けば、という前提条件があるが来年の卒業研究とかでも
就職の面接とかでも必要な「技術」の一つとして、人前で話すことの場数を踏んでおいた方が良いだろう。

「皆さん、こんばんは。渡辺潤子です。本日は当店の恒例行事であるクリスマスコンサートにお越しくださいまして、誠にありがとうございます。」

 まずは潤子さん。大きな拍手と共に「潤子さーん」という呼び声が幾つも上がる。
キッチンに居る時間が圧倒的に多い−俺と晶子がバイトしている時間帯に限っての話だが−潤子さんだが、やっぱり人気は高い。
マスターも言っていたが、この店が誇る美味い料理は潤子さんの手によるところが大きいから、当然と言えば当然か。

「普段はキッチンから皆さんに料理をお届けしていますが、今日は店いっぱいのお客さんの前で、プレイヤーの1人として音楽をお届けしております。
どうか心行くまでお楽しみください。」

 潤子さんのすっきりした挨拶で、客のボルテージがまた上昇する。
練習して来たとは言え、上手く喋るなぁ・・・。
マスターと結婚する前普通のOLだったそうだけど、ピアノも出来て歌も歌えて料理も抜群だなんて、箱入り娘だったのかな?
 この前の夕食の時にさり気なく−俺の「さり気なく」はあくまで俺がそう思っているだけだが−潤子さんにOL時代のことを聞いてみたけど、
「昔のことだからねぇ」とかわされてしまった。
OL時代にジャズバーでマスターと出会って、実家を勘当されてもマスターと結婚して、OLを辞めて調理師免許を取ってマスターと一緒に此処に店を構えた、
ということは前に聞いたが、それ以上はかわされてしまう。あまり話したくないんだろうか?

「こんばんは。井上晶子です。今日は寒い中このコンサートに来てくださって、ありがとうございます。」

 晶子の挨拶で、また客のボルテージが上がる。贔屓目で見ているせいかもしれないが、呼び声は潤子さんの時より多いと思う。
マスターのメンバー紹介で潤子さんがマスターと夫婦だと分かったのか?晶子の時は「井上晶子さん」と呼んでいたが、潤子さんの時は「渡辺潤子」だったしな。

「このお店で働かせてもらうまでは、まさか人前で歌う機会があるとは思わなかった私ですが、こうして沢山のお客さんの前で歌える今が幸せです。
最後まで楽しんでいただければ幸いです。」

 今を大切にする晶子らしい挨拶だな。
大きな拍手と歓声は、高校時代にバンド仲間や宮城と行ったライブハウスや学校でのライブでの熱狂ぶりを思い出させる。
ライブハウスでは客、学校のライブではプレイヤー、っていう立場の違いはあったが、どちらにしても楽しかったな・・・。
 思い出に浸りかけたところで、晶子からマイクが差し出される。最後は俺なんだよな。
客の人気からすると俺は中間で良いと思ってたんだが、こういう並びになってしまった以上は仕方ない。
俺はマイクを受け取って口に近づける。・・・やっぱり緊張するな。

「皆さんこんばんは。安藤祐司です。今日はコンサートに来てくださって、ありがとうございます。」

 客のボルテージの上昇は晶子と潤子さんの時に比べれば緩やかだが、温かく感じる。
耳が店内の音に溶け込むように馴染んでいく。同時にざわめいていた心に凪が訪れる。すっとした気分で、改めて客席全体と向き合いながら言葉を続ける。

「接客専門なのに話し下手なので、言葉をステージでの演奏に代えさせてもらっているつもりです。最後までゆっくりお楽しみください。」

 客席からやって来た拍手や歓声は、何時になく温かく感じる。
俺は一礼した後マイクを晶子に渡す。マイクは晶子、潤子さんと渡ってマスターの元に戻る、とう段取りだ。

「メンバーからの挨拶の次は、歌声に酔いしれていただきましょう。『Can't forget your love』と『The Rose』。どうぞお聞きください。」

 拍手と歓声の中、メンバーはそれぞれの持ち場に散開する。
マスターはステージ脇に、潤子さんはキーボードの前に、晶子はマイクスタンドの前に、そして俺は後方に下がってエレキをスタンバイする。
普段は全ての演奏データをプログラムしてある「Can't forget your love」を、今日は一部を俺と潤子さんの生演奏で置き換える。
俺は「Secret of my heart」と同じく、原曲にはない単音でのバッキング、潤子さんは曲の雰囲気を演出する上で不可欠なエレピとストリングスを担当する。
 波が引くように、店内が急速に静まっていく。静まり返った店内にコーラス−ちなみにこれは晶子の声−がフェードインして来る。
そして、ベルの雰囲気を帯びたエレピの高音部でのフレーズ。
主にベースとドラムを担当するシーケンサの演奏は、歌が入るより1小節手前で−同時だとタイミングが取り辛いからだ−俺が開始させる。
 コーラスが柔らかいストリングスに置き換わり、晶子のヴォーカルが入る。
満を持して、という感さえある「Can't forget your love」。晶子の声は甘く切なく、ゆるりゆるりと会場にこだまする。
演奏がまだの俺は、フレットに右手を置いて目を閉じて聞き入る。
シンバルのリバース(註:音の開始と終了を逆転させること)が入り、ドラムのフィルが続く。クリスマスコンサート限定の豪華メンバーでの
「Can't forget your love」が、本格的に幕を開ける時だ。
 ドラムとベース、そして俺のギターが加わったとは言え、賑やかさはない。歌をじっくり聞かせるところだ。
ヴォーカルはスフォルツァンド(註:発音後直ぐ音量を絞り、その後音量を増していく奏法。ブラスセクションでよく利用される)を組み込んでいて、
切なさを醸し出すのに一役買っている。
 ストリングスが入る。ヴォーカルの切なさが更に増す。
歌詞が相手を想う気持ちを前面に出しているだけに、ラブソングと言うに相応しい。
想い人のちょっとした言葉や仕草に見入り、胸の鼓動を早まらせる・・・。人を好きになった経験があるなら分かる心情が見事に演出される。

 ストリングスがコーラスに戻り、曲調が一旦落ち着く。想う気持ちを綴った歌詞が織り成す切ない心模様が、緩やかに歌われる。
後半薄く加わるストリングスと絡み合って、夢でも逢いたいという気持ちが描かれる。
 ストリングスが動きを加える。ヴォーカルは相手の自分にとっての存在の大きさを切なく綴る。
・・・本当にこの曲、俺のことを言われてるような気がしてならないな。俺が変わったのも、変われたのも晶子との出逢い故のことだからな。
 ドラムとベースが消え、俺のギターも退散する。
エレピをバックにした晶子のヴォーカルが、愛あるが故の心の変化を優しく奏でる。
この部分、本当に俺のこと言われてるみたいな気がしてならない。
宮城に一方的な絶縁状を押し付けられたショックで瓦解した俺の心を優しく包み込み、俺に手を差し伸べて立ち上がらせてくれたこと、今でも晶子を
好きになった経緯は忘れてはいない。
 コーラスがフェードインして、ドラムとベース、そして俺のギターが再び加わる。
透明感と張りをバランス良く持ち合わせた晶子の歌声が朗々と流れる。
後ろで演奏していて本当に心地良い。心に染み入る、という表現が相応しい。
 永遠(とわ)の愛を願い謳った最後の歌詞がリズム楽器なしで歌われ、清流のような滑らかな発音で語られた−こう表現した方が良い部分だ−後、
ストリングスがオーケストラのような壮大な盛り上がりを演出し、それまで待機していたベースとドラム、そして俺のギターが加わる。
主にストリングスとエレピを背後に控えた晶子の声。何度でも、何時までも聞いていたくさせる。今日は特にそう思わせる。
練習の10回より本番の1回っていうやつだろうか?
 ベースとドラムと俺のギターが下がり、ストリングスとエレピが晶子の語りに花を添える。
やがて2つの楽器が白玉のコードを奏で、晶子が曲のタイトルでもある「Can't forget your love」を、ウィスパリングを効かせた声で言う。
向いている方向こそ違うものの俺に投げかけているような言葉に、アレンジした俺の胸がドキッとする。
全ての音がゆっくり消えた後、拍手と歓声が急速にフェードインして来る。大成功だ。

 鳴り止まない拍手と消えない歓声の中、晶子が一礼して潤子さんがキーボードからピアノへと移動する。
次の曲「The ROSE」は晶子のヴォーカルと潤子さんのピアノだけ。当然俺の出番はないから、後方の客くらいしか見えないステージの一番後ろに下がる。
 徐々に店内の音が消える。
それまでの賑わいが嘘のように店内が静まり返って、大きくひと呼吸するタイミングでピアノが鳴り始める。
機械的要素を一切排した、2人の人間の共演。
リクエストでも潤子さんが登場する日曜日にほぼ必ず上がる−生ピアノが聞けるという要素と潤子さん見たさが絡み合ってるんだろうが−、
晶子がかなり強く後押しして今回のコンサートの曲目に加わったこの曲。ステージの隅でじっくり聞かせてもらうことにする。
 ピアノ演奏を背景に晶子のヴォーカルが入る。「The ROSE」の歌詞は全て英語だが、英語に関しては素人−聞いて「それっぽい」と思えるかどうかという
レベルだが−の俺が聞いても流暢に聞こえる晶子の歌声は、聞いていて気持ちが良い。
 収録されているCDのブックレットでこの曲の歌詞の対訳を読んだことがあるが、内容はラブソングの王道の一つ「自分の気持ちが少しでも相手に
近付くことを願う」を踏まえたものだ。歌声はそれに相応しい。
今年のクリスマスコンサートのコンセプトは「じっくり聞かせる」というものだが、その観点からしてもこの曲を加えたのは良かったと思う。
後押しした晶子に先見の明があったというべきだろう。
 曲が盛り上がりに入る。
ピアノのアタックも強まり、ヴォーカルも張りが増すが、決して「私が、自分が」とでしゃばるものじゃない。ましてや、衝突するものでもない。
互いの良さを尊重しつつ補完するという、理想的なハーモニーを演出している。ヴォーカルは高音域に入っても張りの良さと透明感が欠けることはない。
 最後が近付く。ピアノの演奏はシンプルになり、ヴォーカルを引き立てる役に回る。
シーケンサを一切使ってないから、テンポキープは完全に晶子と潤子さんの呼吸に委ねられているんだが、生演奏の雰囲気は保ちつつもテンポが崩れることはない。
音合わせで何度か聞いたが、晶子は勿論潤子さんも入念に研究と練習を重ねたことを感じさせられる。
 ヴォーカルが消え、ピアノだけになる。この曲の締めくくりに相応しいしっとり感が醸し出される。
最後の最後、高音部でのフレーズが絶妙なテンポで演奏される。
最後の音がすうっと消えた後、待ってましたとばかりに拍手と歓声が一気に噴出す。
晶子と立ち上がった潤子さんが客に向かって一礼する。拍手と歓声は一向に収まる気配を見せない。

「『Can't forget your love』そして『The ROSE』を続けてお送りしました。」

 客の興奮冷めやらぬ中、マスターがアルトサックスをぶら下げてマイクを持ってステージに上がってくる。

「今年のコンサートは『じっくり聞かせる』をコンセプトに、曲目を全面的に見直しました。そのため、今日初めてお披露目と相成る曲も加わりました。」

 客からどよめきが起こる。
マスターの言うとおり、ほぼ毎日のように来ている中高生−何処にそんな金があるのか疑問だが−でも聞いたことがない曲を今回は組み込んだ。
データは作ったものの変拍子(註:4/4拍子以外の拍子で作られている曲を総じて言う)だとか、曲が複雑すぎるとか、複数人必要で普段演奏出来る程
練習時間がないとか、色々な理由でお蔵入りになっていた曲だ。

「論より証拠と申します。早速お聞きいただきましょう。『PAPILLON』『PRIME』『NAVIGATORS』。このインストルメンタル3曲を続けてお送りします!」


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