雨上がりの午後

Chapter 148 携帯電話と絆の披露

written by Moonstone


 ・・・これで良し、と。判明している分のレポート−実験以外のレポートの課題は講義中に唐突に出される−と今度のゼミの資料はこれで揃った。
レポートを挟んだバインダーファイルを鞄に仕舞う。思わず溜息が出た俺の前に芳香と湯気を漂わせるカップが差し出される。

「どうぞ。」
「ありがとう。」

 晶子が入れてくれた紅茶を啜る。
ストラップを買った足でそのまま繁華街や遊び場−何か幼稚っぽいが−に繰り出す、というわけにはいかない。
夜からは何時ものようにバイトがあるし、俺がこの土日でレポートを片付けたかったからだ。
 正直に言わなくてもレポートの量は尋常じゃない。
レポートの課題が出ない曜日はない、と言って良いどころか、その曜日につき1つで済めばありがたい、とう有様だ。
そのレポートの問題が平気な顔して試験問題になって出て来たりするから油断ならない。
レポートを提出しないと掲示板に学科と学年と名前が書かれた督促状が張り出されるくらいで済めばまだましな方で、講義によっては、レポート提出を
怠ると試験を受けられないこともある。
 試験にも絡むし試験を受けられるか否かにまで絡むから何としてもやらないといけない、ということで俺は時間をやりくりして、時に夜中までかかって
レポートを仕上げるんだが、おこぼれを頂戴しようという輩は何処の世界でも居る。と言うか、高校時代と大して変わらないような気がする。
この前PCを動員してまで仕上げたレポートを持っていったら、講義が始まる前に大量のクローンが培養されてしまった。
 以前までは単純にクローンを培養されておしまい、言い換えれば美味しいところだけ摘み食いされて泣き寝入り−本当に泣いたわけじゃない−していたが、
最近はちょこちょこと計算式や定数を変えておいて、第1次クローン−レポートのクローンは人から人へとコピーされていく−が出来たところで、こっそり
正しいものに置き換えていたりする。そうなると別のレポートや試験の時に引っかかるというわけだ。これくらいの悪さは罪になるまい。
 前回俺だけ先に帰らせてもらった実験は、智一を含む3名が暫く尋問された後−当然まともに答えられる筈がない−、「君達は4年になってもこの研究室に
来ないでくれ」と言われて解放された、と智一が零していた。
説教よりこういう突き放しの方がある意味ずっと怖い。研究室の勧誘まで受けた−智一には話していない−俺とは対照的な扱いだ。

「大変ですね。」
「厳しいと知ってて入ったところだから仕方ないさ。」
「私はもう各自ゼミに本当に配属されてますけど、祐司さんは仮配属の段階なんですよね?」
「ああ。希望者が多い場合は4年の時の成績順になるんだ。」
「祐司さんなら、今の研究室に入れますよ。」

 テーブルの前に腰を下ろしている晶子の励ましが嬉しい。
久しぶりの二人での外出なのにすぐ帰宅してレポート、っていう色気も何もない俺の生活に嫌な顔一つしないで、こうして紅茶を入れてくれたりする。
ジェンダーだ何だと叫ぶ奴等が見たら抗議殺到だろうが。
 俺はカップを持って晶子の向かい側に座る。自分だけデスクの前に座ってるのも何だしな。
時折車の走行音が遠雷の様に聞こえる静かな時間を、紅茶を飲みつつゆったり過ごす。慌しかった反動で尚更肩の力が抜ける。

「祐司さん。」

 カップを置いた晶子から声がかかる。俺はカップから口を離す。

「何?」
「明後日の4コマめって、祐司さんは休講なんですよね?」
「ああ。」

 大学で休講は珍しいことじゃない。補講があるかどうかは別として。

「大丈夫。文系学部エリアの生協の本屋で立ち読みでもしてるから。」
「携帯、使わせてもらいますね。」
「?あ、ああ。」

 何だろう?何時でも連絡を取れるように、ってことで携帯を買ったんだし、今日はお揃いのストラップを買ってまだ間もないっていうのに・・・。
まだベタ打ちで、しかも最初の方だけだが、俺と晶子だけの着信音として「Fly me to the moon」のギターソロバージョンと「明日に架ける橋」を作って
晶子の携帯に転送しておいてある。それが鳴るのを同じゼミの奴に見せて自慢するんだろうか?
まだ「聞かせる」レベルには程遠いが、晶子が喜べるものを提供出来るならそれで良い。

 時は流れて火曜日。3コマめの講義が終わった講義室が俄かに騒々しくなる。
俺は出口へと向かう流れを他所に、脱いで脇に置いておいたジャンパーの内ポケットから携帯を取り出して広げて、新規メールを作成する。

送信元:安藤祐司(Yuhji Andoh)
題名:連絡待ってる
こっちは3コマめの講義が終わったところ。これからそっち側の生協の店舗に行くから、終わったらメールか電話をしてくれ。

 どうして俺って、業務連絡のテンプレート的文章しか作れないんだろうなぁ・・・。
レポートに文学的要素なんて必要ないから、元々少なかった作文能力がすっかり退化しちまったせいなのかもしれないが。
まあ、兎も角メールを送ろう。昼休みに晶子から来たメールの返事も兼ねるから。

「おーおー。早速晶子ちゃんへ愛のメールか?」

 隣から羨望と冷やかしがごちゃ混ぜになった智一の声がかかる。・・・見られてたのか?
俺は携帯を畳んでシャツの胸ポケットにそそくさと仕舞う。

「覗くなよ。」
「お前がメール送る相手って晶子ちゃんしか居ないんだろ?覗かなくても分かるって。」

 言われてみれば確かにそうだ。
電話番号はマスターと潤子さんに教えてあるが、メールアドレスまでは教えていない。
俺が持つ携帯はそれこそ晶子との専用回線だから、俺をそこそこ知る人間ならその辺の事情は分かるだろう。

「これから逢引きと洒落込むわけか?」
「そんなところだ。」
「先週頭から携帯を持ったと思ったら、朝は早いし帰りは晶子ちゃんと一緒。・・・やっぱり心配か?」
「当然。」

 晶子と大学を行き来出来ることそのものは楽しいし、こんなことならもっと早く携帯を持てば良かったとも思う。
だが、携帯を持つことになったきっかけは、晶子に取り巻きの男連中を取られた−晶子にはそんなつもりはさらさらなかったことは分かりきってるが−
あの女王様気取りの女が絡んで来たことだ。
あれ以来まったく音沙汰がないとは言え、何時どんな手段で牙を向けてくるか分からない以上は100%気楽に構えて、智一の言葉を借りれば逢引きをしていられない。
 俺はジャンパーを着て、智一と一緒に人気が殆どなくなった講義室を出る。
外はもう涼しいを通り越して肌寒いと感じる。空を見上げれば太陽が大きく西に傾いて夕焼けの準備をし始めている。冬の訪れが近いことを感じさせる。
 まだキャンパス内は活気に満ちている。通りは人が頻繁に行き来しているし、近くに見える生協の店舗には多くの人影が見える。
時折吹き抜ける風に反射的に身を硬くしつつ歩を進める。

「研究室、何処にするか決めたか?」

 文系学部エリアへ向かう大通りとの交差点に近付いたところで、智一が言う。

「ああ。今の研究室にする。」

 この問いへの回答に迷うことはない。
理論的、工学的側面から「音」に関するアプローチが出来る、今俺が仮配属になっている久野尾先生の研究室は、雰囲気も良くて気に入っている。
 週1回のゼミに出入りしているうちに、この研究室に入りたい、という思いがより強くなった。
最初は興味半分だった。
そして、シンセサイザーに代表されるディジタル音源がどんな原理に基づいているのかを、これまで数式や経文のような解説でしか知りえなかった
定理とかと有機的に結びつけることが出来て、目の前が一気に開けたような気分になった。
何千何万という研究者が日夜それぞれの分野の研究に没頭している理由が、分かったような気がする。
 晶子とマスターと潤子さんにしか話していないが、前の個人面談の席上で内密の話として、久野尾先生も俺が希望するなら優先的に入れたい方針だと
言っていた。言わば相思相愛の関係にあるなら、迷う理由はない。

「そう言う智一はどうなんだ?」
「俺も今の研究室に入る。久野尾研は数ある研究室の中でも雰囲気の良さはピカ一だからな。それに・・・。」

 言葉を止めた智一の方を向くと、俺と目が合った瞬間にニヤリと笑う。

「頼りになる友人が身近に居る方が何かと都合が良いし。」
「・・・まだ懲りてないのかよ。」

 呆れてものも言えない。
先週実験指導担当の教官に絞られた挙句に「研究室に来てくれるな」と突き放されたのに、昨日に至っては「もう一度入学試験を受けてみるか」と詰められたって
いうのに−俺だけは設問に答えた後で先に帰らせてもらえた−、尚も俺に頼ろうって魂胆だとは・・・。
これだけ神経が図太い方が今の世の中有利なんだろうが、こういう「要領の良さ」は見習いたくない。見習えるほど俺は器用に出来てない。

「少なくとも堀田研には行けないし、他の講義が厳しい分、卒研くらいは楽させてもらわなきゃな。」
「久野尾研が楽ってわけないだろ。」
「いいや、それが違うんだな。久野尾研は院生はハードだけど4年は結構楽だったりするんだ。院生の指導を受けて卒研のテーマに取り組むって感じだし、
少なくとも堀田研みたいに学会に持っていけるレベルを要求されることはないそうだ。4年は留年させない、っていうのが久野尾先生の方針らしい。」
「そういう方面については随分熱心だな。」
「まあな。」

 皮肉を込めたつもりなんだが、智一には届いてないようだ。
卒業研究にも勿論単位が付いている。今の週1回のゼミには当然4年も出ているが、その合間に研究室があるフロアを歩いていると、締め切りがどうとか
実験のスケジュールはとか言っているのを耳にする。
後期になって以降、その回数や真剣さが増してきている。楽と言っても研究室に居るだけではい卒業、とはいかないだろう。

「部屋とかのキャパシティには限りがあるし、特に就職組の4年に痞(つか)えられると先生達も困るから、何だかんだ言っても学士(註:4年制大学を
卒業すると授与される称号。修士課程修了で修士号、博士課程修了で博士号が授与される)はさっさと与えて出せるものは出して院生や自分の研究に
集中したい、っていうのが先生達の本音なんだよ。」
「だからあれだけ絞られても平気な顔してられるってわけか。」
「大体の奴はクラブとかサークルとかの先輩から流れてくる情報や、週1のゼミの合間に今の4年にこそっと聞いたり情報交換したりしてる。かく言う俺も、
久野尾研の4年とか他の研究室に仮配属になってる奴等から色々話聞いてる。何も知らないでがむしゃらにやってるのって珍しいぜ?」
「・・・だろうな。」

 漏らした呟きに、怒りとも言える気持ちが混じる。
要領の良い奴はポイントだけ踏んで、三途の川をひょいひょいと渡って行く。俺みたいに要領の悪い奴は、よろめいたり踏み外したりしてずぶ濡れになる。
・・・こんなもんなのか?

「まあ、卒研で楽は出来てもその後は保障出来ないけどな。」
「どういうことだ?」
「さっき言ったろ?出せるものは出したい、っていうのが本音だって。言い換えれば、卒業はさせてやるけど後は知らん、ってことさ。それに、仕事に
追試なんてありゃしないしな。」

 そういう考え方も出来るな。
卒業までの面倒は見てやるけど後は自分次第、か。俺が目の前に突きつけられている大きな課題そのものだな・・・。
 学生、特に大学生っていうのはある意味壮大な身分保障だ。学生ってことで大目に見てもらえる部分は確かにある。
現に俺がこの大学に進学して一人暮らしをするようになって、酒は飲むわ女連れ込むわ−良い表現じゃないが−それこそしたい放題やり放題だが、
そのことで親に文句を言われたことはない。どういう暮らししていても大学に通っている分には問題ない。そういう思いがあるからだろう。
 だが、仕事となるとそうはいかない。
親は自営業だが、実際に自分で働いて生活費やら何やらを補う必要性に迫られて初めて、親が休日に遊び呆けたり家事の手を抜いたりする理由が分かった。
生活がかかっているという切迫感はそれだけ相当なものなんだ、と。だからたまの休みや他のことくらい楽させろという気分になるんだ、と。
 それを思うと、それだけ身分保障がしっかりしてるんだから、本業である勉強をしっかりするのは当然だろう。
勿論勉強だけしてりゃ良いってわけじゃない。
勉強だけやってた頭でっかちな奴等が大企業の役員や高級官僚や議員になって何をしているかを見れば、そのくらいのことは自ずと分かる。

「俺はこんな性格だし就職先云々は考えなくて良いから、今くらい楽しておこうと思ってる。親父の会社に入ったら色々覚えなきゃならないことが
あるだろうし、兄貴も姉貴も学生時代はそれこそ馬鹿ばっかりやってたのに、今じゃ役員候補ってことで親父の指揮下でみっちり働いてる。まさか
俺だけ逃げられるなんて思っちゃいないさ。」
「そうか・・・。」
「お前にしてみりゃ、良いとこ取りされてばかりで癪に障ることだらけだろうけどさ。それなりの評価はされてると思うぜ。前の週も昨日もお前だけ先に
解放されたのは、評価されてるっていうことの良い例じゃないか?そうじゃなきゃ、晶子ちゃんもお前のために夕食作って深夜まで待っててくれはしないさ。」

 個人面談の時に増井先生が言っていたことを思い出す。晶子は俺の真面目さや誠実さに惹かれた、と言っていた。
徒労感を感じることは何度もある。でも俺の場合、苦労した分の報酬は得ていると思う。
マスターと潤子さんは、バイトの俺と晶子が携帯を買って料金を払えるようにと今月分から時給を上げてくれた。
晶子は俺と一緒に居られることを心底喜んでくれる。信頼っていう報酬を得ていることには違いないだろう。

 智一と別れた俺は、大通りの文系学部エリア方面を歩く。
3年進級までに教養科目の単位を全部取って以来、文系学部エリアに行ってないし行く理由もなかったから、先週朝に晶子を文学部の研究棟に送り届けた後
歩いた時は戸惑いすら感じたもんだ。
 音が鳴る。
俺は立ち止まって、まだぎこちない「明日に架ける橋」の出だし兼サビを奏でる携帯をシャツの胸ポケットから取り出して広げて新着メールを開く。

送信元:井上晶子(Masako Inoue)
題名:待っててくださいね
講義お疲れ様。私はもうすぐ講義です。同じゼミの娘達に囲まれながらこのメールを書いています。メール着信音が鳴った時、皆驚いていましたよ。講義が終わったら電話しますから、退屈だと思いますけど暫く待っていてくださいね。

 また囲まれてるのか・・・。そんなに注目を集める代物なんだろうか?
俺は学科内での付き合いが殆どないこともあってか−そのくせ俺がレポートを持って来た時には馴れ馴れしく群がってくるが−、携帯を操作していて
どうこう言われたことはない。
携帯を操作するのは専ら昼休みや、「迎えに行く」メールを送るその日の講義が終わった時くらいだから目立たないのもあるんだろうが。
 俺は携帯を仕舞って大通りを歩いて生協に向かう。
生協の営業時間は夜側にシフトしている。研究とかが夜遅くなるのを考慮してのことらしいが、それは文系学部エリアでも変わらない。
だから営業時間の心配をする必要はない。
 生協の店舗に入り、書籍売り場に入る。
食堂も広いが−それでも昼時は混雑する−書籍売り場も広い。優に総合駅やビルとかに入っている本屋くらいの広さはある。
普通の本屋と違うところは、売れ筋の本以外の専門書の品揃えが充実していることだ。特に俺のような理工系の人間にはありがたい。
割引価格で買えるし、「類似品」がある場合中身を比較してから買うことも出来るからだ。
 PC関係の専門書コーナーに到着した俺は、鞄を床に置いて携帯を取り出してマナーモードにする。
店舗内が賑わっているとは言え、こういうところで携帯の音を鳴らしたり通話したりすべきじゃない、と思っている。
携帯を仕舞ってから手頃な本を物色する。「定番」ソフトの解説書の他、プログラム言語関係もかなりある。
とりあえず今勉強中のデータベース関連の解説書を1冊取って広げる。今の計算機関係の講義で頻繁に演習問題やレポートに出されているものの解説書だ。
 俺は自宅にPCを置いているが、殆どMIDIのシーケンサとしてしか利用していない。
最近は関数電卓ではとても追いつかない計算量を要するレポートが講義や実験で出て来る関係で、PCで即席のプログラムを組んで計算させたりするが、
それでもシーケンサとしての動作時間と比較すれば短い。
 シーケンサソフトは旧式のPCで十分動作するものだし、高校時代に親に強請って買ってもらって−半額出資するのが条件だったが−バンドの曲の
デモ作りとかに使用していた馴染みもあってそのまま使っている。だが、今のPCだとデータベースとかは扱えない。
これからに備えて新しいPCを買うべきか、とも思っている。
金に関しては普段の貧乏性が功を奏してかまったく問題ないし、晶子が使っているPCとデータをやり取り出来るだろう。
やり取りするものがあるかどうかは別として。
 胸に小刻みの振動を感じる。・・・もうそんなに時間経ったのか?と、兎も角電話に出ないと・・・。
俺は急いで本を棚に仕舞って走って生協の店舗から出ると、小刻みに震える携帯を取り出してフックオフのボタンを押す。

「はい、祐司です。」
「あ、晶子です。今講義が終わったところです。」
「出るのが遅れて悪かった。生協の書籍売り場に居たから、急いで外に出たんだ。」
「いえ。待っててくれてるって分かってましたから良いんですよ。」

 晶子の声は雑音をバックグラウンドにしている。聞き難いほどではないが・・・これは人の声か?

「晶子。後ろとかに誰か居るのか?」
「ええ。その説明も兼ねて道案内をしますから、このまま電話は切らないで文学部の研究棟正面出入り口まで来てくれませんか?」
「?ああ、分かった。」

 何だかいまいち事情が飲み込めないが、兎に角迎えに行くことが先決だ。
俺は電話を切らずに生協の建物から文学部の研究棟へ向かう。指定された正面出入り口は、先週から晶子を送り届けているから案内されなくても行ける。

「晶子。今正面出入り口に着いたぞ。」
「それじゃ、入り口から入って正面を歩いていってください。すると階段が見えてきますから、それを3階まで上ってください。」
「分かった。」

 俺は言われたとおりに入り口から中に入り、廊下を歩く。
程なく階段が見えてきた。3階までひたすら上る。
大学での階段の上り下りは毎週週1回のゼミくらいだからあまり慣れてないせいもあって、ちょっとしんどい。

「3階に着いた。階段を上ったところ。」
「今、階段を上って直ぐのところですか?」
「ああ。」
「それじゃ、そのまままっすぐ進んで、突き当りを右に曲がってください。部屋毎にプレートが出ていますから、『313号室』って書いてあるところまで
来てください。」
「313号室だな?分かった。」

 どうやら目的地は近いらしい。俺は指示どおりにまっすぐ歩いて突き当りを−窓ガラスしかないからまっすぐ進みようがない−右に曲がる。
確かに明るい茶色のドアの上からプレートが突き出ていて、そこに部屋番号が書かれている。俺はそれを辿って廊下を歩いていく。
・・・309、310、311、312、・・・313。此処か。

「晶子。313号室ってプレートが出ているドアの前に来たぞ。」
「それじゃ、そのドアを開けてください。今の私の状況と、わざわざ3階まで来てもらった理由が分かりますから。」
「分かった。」

 念のため携帯を切らずにシャツの胸ポケットに仕舞ってからドアを開ける−俺の鞄は紐が付いてないから片手が塞がっている−。
すると歓声が沸き起こる。な、何だ?!
・・・大学ではよく見かける形の机が並ぶ、中学高校とかの教室程度の広さの部屋。その机の列の最前列、ホワイトボード向かって正面の一角に人だかりが
出来ていて、その真ん中で晶子が小さく手を振っている。

「あー!写真の旦那だー!」

 視線を一手に受ける俺に歓声がまた飛んで来る。・・・なるほど、こういうわけか・・・。
晶子はホワイトボードと俺が入って来たドアが見える方向以外、完全に包囲されている。俺は携帯を取り出して通話を切ってから晶子の前に行く。

「つまり、実際に俺を見せろ、ってせがまれたんだな?」
「はい。見かけたことはあるけどしっかり見てないから、この際こっちに来させて見せろ、って言われて・・・。」

 広げたままの携帯を左手に持っている晶子が、照れくささと申し訳なさを交えた表情で答える。
大学へは双方に共通するように1コマめに余裕で間に合う時間帯に来るし、帰りは俺に合わせてもらっているから人目に付く時間帯からずれる。
そういうこともあって、俺の方が早く講義を終えた今日、「披露」することを迫られたんだろう。

「へえー。晶子の旦那って実物はこうなのかー。」
「写真とちょっとイメージ違うね。電子工学科だからもっと堅物っぽいと思ってたんだけど、柔らかい印象。」
「ねえねえ、メールの着信音鳴らしてよ。実際にメール送ってさ。」
「あ、それなら電話の方も聞かせて。あの曲凄く良かった。」
「というわけなので・・・。」

 晶子の言いたいことは分かる。俺は了承の意味を込めて頷き、携帯を取り出して広げる。その過程だけでもどよめきが起こる。
同じ機種で同じ色、そして同じストラップがぶら下がっているのを確認したからだろう。俺は新規メールを作成する。

送信元:安藤祐司(Yuhji Andoh)
題名:メール着信音披露
これでどうかな?

 メールを送って着信音が鳴るかどうかが目的だから、文面はこの程度で良いだろう。俺はメールを送信する。
俺の携帯の液晶画面に送信完了の表示が出るとほぼ同時に、制作途中の「明日に架ける橋」の着信音が晶子の携帯から流れ始める。するとまた歓声とどよめきが起こる。
 1フレーズ分鳴らし終えた−途中なのがみっともなく思う−携帯を操作した晶子を、周囲を囲んでいる奴等−ざっと見たところ9割以上女だ−が覗き見る。
そしてこれまたどよめきが起こる。そんなに珍しいものか?

「メールの方はこれで良いか?」
「はい。」
「じゃ、次は、と。」

 俺はメールのメニューから待ち受け画面に戻り、着信履歴一覧から晶子の電話番号−それしかないが−を選択して発信を開始して耳に当てる。
俺の耳でコール音が聞こえる始めると同時に、やはり制作途中の「Fly me to the moon」ギターソロバージョンが晶子の携帯から鳴り始める。そして忘れずに歓声とどよめきが起こる。そんな中、晶子が携帯を操作して耳に当てる。

「はい、貴方の目の前に居る晶子です。」
「これで電話の着信音も証明出来たかな?」
「ええ、十分です。」

 俺と晶子は同時に通話を切って携帯を畳む。晶子を包囲している連中の視線が、俺と晶子に交互に注がれる。

「へえー。本当なんだ。」
「メールの着信音は『明日に架ける橋』のインスト(註:インストルメンタルの略)版のコピーみたいだけど、電話の着信音は・・・何だったっけ?」
「『Fly me to the moon』よ。」
「ああ、そうそう。さっきの曲、凄く良い感じだったよね。ギターソロなんてお洒落で良いなぁ。晶子の旦那がアレンジしたやつでしょ?」
「そうよ。夫は実験とかレポートとかで凄く忙しいんだけど、少しずつ作っていってくれてて、ある程度出来上がった段階で更新してくれるの。」
「携帯サイトでダウンロードすればすぐなのに、自分でアレンジして携帯に打ち込んでくれるなんて、まめな旦那よねえ。普通そこまでしないわよ。」
「ねえ、晶子の旦那。指輪見せてくれない?」

 実物と携帯と着信音に続いて、今度は指輪か。
躊躇う理由はないから、俺は携帯をシャツの胸ポケットに入れてから左手を連中に向けて差し出す。どよめきが上がるのはもはやお約束と言うべきか。

「あ、指輪の裏側に名前が刻印してあるって本当?」
「私が前にも見せたでしょ?」
「折角だから旦那のも見せてもらわないと。」

 何が折角だか分からないが、証明が見たいならとことん見せてやろう。
俺は鞄を床に置いて指輪を抜いて、近くの女に手渡す。連中の視線が集中する中、女は指輪の内側を見て、納得した様子で何度も頷く。

「あー、あるある。『from Masako to Yuhji』って。」
「私にも見せてよ。」

 晶子の周囲が押すな押すなの騒動になる。
指輪を見ては、書いてある書いてある、とか、本当にペアリングなんだ、とか言っている。
デザインは厳選したものを選んだつもりだし気持ちはしっかり込めたが、価格的には安物に属するものだ。
それがペアで特定の人物の名前が刻印されているとなると、希少価値というか、そんなものが上がるんだろうか?
 暫くのすったもんだの末、指輪はようやく俺の元に戻って来た。時計を見ると・・・丁度良いくらいの時間だ。
指輪を元の位置、すなわち左手薬指に戻した俺は、立ち上がった晶子に言う。

「そろそろ時間だ。行こう。」
「はい。」

 晶子は机の前から通路に出たところで止まって手を差し出す。晶子の足元には少し段差がある。
俺はその手を取って晶子を軽く引っ張り寄せる。・・・こういう時はこうだよな。

「良いなー。優しい旦那でー。」
「旦那のソロライブ独り占めかー。」
「こんな旦那が居る人妻に手を出したのが、田畑先生の根本的な間違いね。」
「それは言えてる。普段優しい分怒ると怖いんでしょ?晶子。」
「怖いわよ。怒ると、だけどね。」

 背後から飛んで来た冷やかしの声に混じった問いに、晶子は何の躊躇もなく答える。
この様子だけでも、自分は結婚している、と普段から振舞っているのが窺える。ここで照れ隠しに否定するようなことはしないが。

「それじゃ、また明日ね。」
「「バイバーイ。」」

 ざわめきに送られて俺と晶子は部屋から出る。
ドアを閉めようと思って手を挙げたら・・・手を繋いだままだった。どうしようかと迷っている間に晶子がドアを閉める。そして何気なしに手を離す。
こういう場所で手を繋ぐのはちょっと憚られる、という意識は晶子にも共通しているようだ。

「携帯を持つようになってから、ずっとあんな調子だったんですよ。」
「携帯が同じってのがそんなに珍しいのかな。」
「今の今まで持たなかった私が週明けからいきなり持っていたことだけで、凄い注目を集めたんですよ。そこから旦那とお揃いか、とかいう展開になって、
それが今日も祐司さんに迎えに来てもらうことと繋がって・・・。」
「写真でしか見たことがない旦那を見せろ、って押されたわけか。」
「ええ。」

 晶子は照れくささと申し訳なさを織り交ぜた笑みを浮かべる。
講義の終わりの迎えだから、さっき居たのは同じ学科の奴等だろう。あるところでは梃子でも動かない頑固さを見せる晶子だが、自分の幸せを
見せびらかしたいっていう気持ちの前にはその頑固さも鳴りを潜めるようだ。

「着信音を聞かせてくれたのは勿論ですけど、指輪を披露してくれたり、私が手を出したら受けてくれたりしたのが、凄く嬉しかったです。」
「そうか?」

 俺の問いに晶子は嬉しそうに、幸せそうに微笑んで頷く。
俺は特段見せつけるつもりじゃなかったんだが、自分の期待に言わずとも応えられたら嬉しいと思うだろう。ちょっとは点を稼げた・・・というのは思い込みだな。
 外の殆どには深い蒼が染み透っている。俺は歩きながら晶子の手を取る。柔らかい感触が少し強まる。
光を放ちながら行き交う車を脇にして、俺と晶子は帰路を行く。
護衛がてら一緒に帰るようになってまだ半月にもならないが、こうして一緒に居られるのは素直に嬉しい。
今更遅いが、今までも一緒に行き来すれば良かったな・・・。

「着信音、更新してもらう度に洗練されていってますね。」

 大通り−この先は駅まで割とスムーズに歩ける−を渡ったところで晶子が言う。

「着信音は今までも同じゼミや学科の人達に聞かれたんですけど、それが日を追う毎に変わっていっているのが分かるらしいです。私も分かりますけどね。」
「聞き慣れてる晶子以外の奴にも分かるってことは、出来は良いみたいだな。」
「勿論ですよ。電話の着信音にしてもらっている『Fly me to the moon』は特に評判が良いんですよ。綺麗な曲だね、とか、これって何ていう曲なの、とか
聞かれるんです。知ってる人もたまに居るんですけど、ギターソロは初めて聞くし凄く良く出来てる、って、聞いた人が皆口を揃えて言いますよ。」
「元の曲の出来が良いからさ。俺はそれをギターソロにアレンジしただけ。」
「ギターだけで知らない人も知ってる人も綺麗とか良く出来てる、って言うってことは、祐司さんのアレンジの技術がそれだけ高いってことですよ。」

 晶子の口調は穏やかには違いないが熱が篭っているのが分かる。
この世に恐らく二つの携帯しか鳴らさない着信音が自分のもので、それの評判が良い=自分の夫が褒められている、という公式が成立しているんだろうか。
勿論悪い気はしないが。
 今、俺と晶子の携帯に入っている着信音の完成度は、俺にしてみれば30%程度だ。まだメロディだけベタ打ちというところもある。
携帯サイトにある着信音の完成度は聞いたことがないから分からないが、最初から入っていた着信音はオーソドックスなものから愉快なものまできちんと
聞けるレベルになっていた。早く完成させたいのは山々だが、時間が許してくれない。
 限られた時間を以下に有効に使うか。今はそのことを訓練している時なのかもしれない。
4年の卒業研究ではもっと覚えることが増えるかもしれない。社会に出たら尚更かもしれない。
・・・社会に出る形を未だに決めかねている段階では気の早い話かもしれないが。
・・・気が早い、と言えば・・・。

「晶子。聞きたいことがあるんだけど。」
「何ですか?」
「今日、久しぶりに文系エリアの生協の店舗に行って書籍売り場に居たんだけど、意外にプログラム関係の本が多かったんだ。晶子が居るゼミや学科でも、
メールやインターネット以外でパソコンを本格的に使ってるのか?」
「祐司さんの居る学科ほど専門的じゃないと思いますけど、ワープロソフトや表計算ソフトといった割と身近なソフトの使い方や、ホームページの作成方法、
データベースの使い方とかは必須科目の一つになってます。」
「データベースの使い方もか?」
「ええ。数ある書籍の中から目的の書籍を探すのが主ですけど、どうすればどれだけ絞り込めるか、っていうのは結構経験を要するんですよ。今は大学の
図書館のデータベースを対象にしてますけど、4年の卒業研究では新京市の市立図書館とかにも対象を広げて調べられるようにするんですよ。研究成果は
ゼミのホームページに掲載しますから、ホームページの作成方法も勉強してます。」
「そうなのか・・・。」

 意外に思うが、PCがまだまだ基盤整備が不完全とは言え家電製品の仲間入りしようとしている今じゃ、理系学部以外でもPCの使い方をかなり突っ込んだ
ところまで習得するのは当然か。
だとすると俺が配属を希望している今の研究室でも、PCに関してもっと突っ込んだ知識や技術が必要かもしれない。否、必要だと考えた方が良いだろう。

「俺も今使っているPCとは別に、新しいPCを買った方が良いかな・・・。」
「買って損はないと思いますよ。祐司さんの卒業研究がどんなレベルかは分かりませんから何とも言えませんけど、レポートを作ったり複雑な計算を
させたりするのに便利かと思いますよ。私の方でも、レポートをワープロソフトで書いて印刷したものを提出しろ、っていう講義もありますから、
祐司さんの方なら尚更そういう需要が出て来ると思います。」
「実際今でも、計算機関係の講義でデータベース関係のプログラム言語を使ってるんだ。レポートでも、PCで簡単なプログラムを書いて計算させないと
とてもやってられないものもあるし。ただ、俺が今家で使ってるPCはMIDIのシーケンサが主だし、今のプログラム言語に対応出来るものじゃないからさ。」
「祐司さんなら直ぐ覚えられますよ。音楽を何時も綺麗にアレンジしてシンセサイザーを操作してるんですから。」

 シーケンサの操作は慣れの問題が大きいと思うが、あれだって色々操作を覚えないと使えない。
シンセサイザーの音色を切り替えたり、エディトした音色を取り込んだり送り込んだりする−店のシンセサイザーは共有物品だから音色やマルチ
(註:シンセサイザーにおける音色の編成)は自分用に保存しておく必要がある−のも、シンセサイザーやMIDIの知識を必要とする。
プログラム言語もその延長線上と思えば良いかもしれない。

「買いに・・・行こうかな。今度の休みにでも。」
「良かったら、私も一緒に行かせてくださいね。」
「ああ。」

 また新たに晶子との半日デートの日が出来そうだ。
普段はバイトやレポートなんかでデートを満喫出来ないから、買い物とかちょっとしたことでも良いから、機会を見つけて一緒に出かけるようにしよう。

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