雨上がりの午後

Chapter 142 女王との遭遇、暗雲の再来

written by Moonstone


「ちょっと良いかしら?」

 晶子との結婚を公言した週の翌週の木曜日。
2コマ目の講義が終わって、智一と一緒に生協の食堂に向かっていた時、不意に後ろから声をかけられた。
誰かと思って振り向くと、女だった。・・・誰だ?
 長い黒髪を左手でかきあげるその女は、ファッション雑誌に出てても不思議じゃない顔立ちの整った美人だ。
ここまでは晶子とほぼ晶子と同じだ。しかし、晶子と決定的に違う点が幾つもある。
 まず目がきつい。
大きさそのものは晶子よりやや細めといった感じだが、晶子の目は柔和な印象なのに対して、この女の目はどこか人を見下しているような気分を感じさせる。
 そして服装。
晶子の服装はファッションとかにはてんで無頓着な俺とは違って綺麗にコーディネートされているものの、その辺の店で簡単に買えるような服の組み合わせだ。
この女もコーディネートの面ではしっかりしているが、かなり派手な印象を感じる。
 そしてアクセサリー。
晶子は俺がプレゼントしたペアリングとペンダントを常に身につけていて、イアリングは「落とすといけないから」という理由でデートの時など特定の時しか着けない。
サマーコンサートの時もその理由で着けなかった。
この女は確認出来るだけでも指輪を複数、ペンダント、ピアスを着けている。服装と相俟って派手な印象を強める。
 客観的に見て美人の部類に入ることは間違いないが、晶子が以前言った言葉を借りれば「住む世界が違う」タイプだと直感する。
何にせよ、相手は俺のことを知ってるようだが、俺は初対面だ。宗教の勧誘か?

「何か?」
「話があるから、来てくれない?」
「勧誘の類なら一切お断りだよ。」

 名前も名乗らず−晶子の時は智一を通じて自己紹介があった−、しかも「来てくれませんか」じゃなくて「話があるから、来てくれない」と来た。
少なくとも初対面の相手に対するものの言い方じゃない。
礼儀とか敬語とかは、高校時代にバンドをやってた関係で頭の固い生活指導の教師と散々やりあった経験からどっちかと言うと忌避する方だが、
最低限のマナーってもんがあるだろう。
 気分を多少害された俺が前に向き直って歩き始めたところで、右腕を掴まれた。不意打ちで危うく後ろに倒れそうになってしまう。
後ろを振り向くと、問題の女が眉をやや吊り上げている。どうしてこの私を無視するのか、と言いたげだ。

「ちょっと。話があるって言ったでしょ?」
「だったら最低限の順序は踏まえたらどうだ?」

 俺の「逆襲」に女は少し戸惑った様子を見せる。

「順序って・・・何よ。」
「君は俺を知ってるみたいだけど、俺は君を知らない。そういう場合はまず自分の名前くらいは言うべきじゃないか?」

 女は反論の糸口を見出せないらしく、俺の腕を離して髪をかきあげてから俺に向き直る。
だが、改まっては居ない。簡潔に言えばふんぞり返ってることは変わらない。
・・・俺が言うのも何だが、態度でかいな・・・。

「私は吉弘順子。情報工学科3年。」
「俺は・・・」
「安藤祐司君。電子工学科3年。そうでしょ?」

 俺の言葉を遮って、しかも学科と学年まで言い当てたことに一瞬驚いたが、直ぐに落ち着く。
俺を俺と知ってて声をかけてきたんだから、名前くらい知ってて当然だ。
それにしても、学科と学年まで言い当てたところからするに、先に探りでも入れてあるんだろうか?
 吉弘というその女は、少し首を横に傾けて髪をかきあげる。これで文句ないでしょう、と言わんばかりに。

「自己紹介も終わったことだし、来てくれるわよね?」
「・・・自己紹介をしたら即自分の要求を飲め、っていうのか?」

 だんだん腹が立ってきた。
この女、何が何でも相手を自分のペースに乗せないと、否、相手が自分のペースに乗らないと気が済まないタイプらしい。
晶子と宮城もこういう傾向がまったくないとは言えないが、この女は晶子と宮城とは全然比較にならない。勿論、悪い意味でだ。
 女は俺が自分の思いどおりにならないのが余程気に入らないようで、髪をかきあげた後眉間に急速に起伏を形成していく。その表情で俺を睨む。
見据えただけかもしれないが、腕を組んでいることや今までの印象も相俟って、そう表現せざるをえない。

「安藤君。私はね、話があるって言ってるの。分かる?」
「あのな・・・。」
「断る理由はないでしょ?」
「ある。」

 もう我慢の限界だ。こんな女に付き合ってられるか。

「な・・・。」
「俺はこれから昼飯食って午後から講義。帰ってバイト、レポート作成その他諸々。ただでさえ昼時は生協の食堂が混むから早めに行きたかったってのに。」

 早口で一気にまくし立てて一息吐いたところである考えが浮かんでくる。
このまま続けてると口汚く罵るまで突っ走っちまうんじゃないか?それは拙いな。
前に潤子さん−読みが同じだから余計に嫌な気分だ−に言われたっけ。言う前にはゆっくり10数えなさい、って。
1、2、3、・・・10。ちょっと落ち着いた。

「・・・兎に角、女王様ごっこなら他所でやってくれ。それじゃ。」

 俺は前を向いて早足で歩く。
呼び止められないところからするに、諦めたようだ。その方がありがたいのは勿論だが。

「なあ、祐司。」
「何だ?」
「さっきの女、吉弘順子と何かあったのか?」
「あるわけないだろ。そういう智一は知ってるのか?」
「・・・名前と噂はな。」
「噂?」

 噂・・・。
去年の冬、晶子が文学部の田畑助教授と仲が良いという噂を智一から聞いた。
最初は言葉どおりのものだと思っていた。だが、俺から見てあまりの親密度を目の当たりにして、更に田畑本人に嘲笑われたことで激昂した。
そして田畑が秘密裏に晶子に交際を迫る現場に遭遇し、はっきり断らない晶子が俺と田畑を天秤に掛けていると思い込んで怒りを爆発させて関係断絶を告げた。
 潤子さんの仲裁で誤解が解けて仲直りは出来たが、田畑はキャンパスセクハラそのものの行為に出た。
晶子は俺がプレゼントしたICレコーダーを証拠として大学のセクハラ対策委員会に訴えたが、それを逆恨みした田畑がとんでもないデマメールを大学中にばら撒いた。
 結局田畑は停職プラス減給処分を食らって、今じゃすっかり大人しくなったらしいが、あの事件で噂の恐ろしさを改めて思い知らされた。
それを踏まえると、噂は聞き流す程度にするに限る。

「あの女、去年と今年の大学祭のミスコンテストで優勝したんだ。」
「大学祭ねえ・・・。」

 まったく関心がなかったが、此処新京大学では毎年5月に大学祭がある。高校の文化祭や学園祭の拡大版みたいなものらしい。
「らしい」というのは大学祭が土日に行われる関係もあって、俺が実際に見たことはないからだ。
 その前後に「ミスコンテストは容姿で女性を差別するものだ」とかいう主旨のビラを見たことはある。
ミスコンテストが女性差別なら、学歴やら収入やらで男を選り好みする方も槍玉に挙げるべきだと思うが、そんな話は聞いたことがない。

「で、さっきの吉弘って女は俺達みたいな理系学部じゃ絶対数が少ない女で、しかも成績優秀であれだけの美人、そこにミスコンテスト2連覇の栄誉も
重なって男の取り巻きが指数関数的に増えて、『新京の女王(クイーン)』って呼ばれるようになったそうだ。」
「ふーん。」

 女王と称されてるから態度まで女王になった、ってところか。思い込みもそこまで行けば立派なもんだ。

「けど、何でそんな女王様が俺に絡んでくるんだ?」
「それは分からねえけど、目に付いた男をあの手この手で自分の取り巻きにすることも女王って呼ばれるようになった一因だそうだ。」
「俺に目をつけてどうするつもりだ?」
「それは俺が聞きてえよ。晶子ちゃんに見初められただけでも十分犯罪的なのに、かの有名な『新京の女王』にまで言い寄られるとは。」
「あんなの言い寄られたうちに入るかよ。女王だか何だか知らないけど良い迷惑でしかない。」
「乗り換え、なんて・・・」
「するか。」

 厳しい口調で智一の言葉を遮る。そんな馬鹿げた真似するもんか。
先週晶子との結婚を公言しておいて、あっという間に女王様の下僕になってたら笑い者だ。
俺が笑い者になるだけならまだしも、そんな馬鹿な男に捨てられた晶子は生きる希望を失う。大泣きに泣くだけじゃ済まない。確実に死を選ぶだろう。
・・・考えたくもないが。
 どうしてあの「新京の女王」とやらが俺に目をつけたか知らないし、知りたくもない。あの女に言った言葉じゃないが、女王様ごっこなら他所でやって欲しい。
高校時代宮城と付き合っていたが、その時俺に言い寄って来た女は居なかったし、それより宮城が他の男と仲良くする様子を見てやきもちを妬く方が圧倒的に多かった。
 嫉妬。キリスト教で7つの大罪の一つに挙げられているそうだが、そうなる意理由は何となく分かる。
嫉妬で頭がいっぱいになったせいで、田畑に詰め寄られていた晶子を見て一方的に関係断絶を告げてしまったんだから。
あの時は潤子さんが仲裁してくれたから良いようなものの、これからずっとそんなことを期待するわけにはいかない。

 ようやく今日の講義は終わった。この後帰宅してバイトへ直行だ。
講義終了は本来の終了時刻を10分程オーバー。何時ものことだが、この10分のずれが結構痛い。
電車は余程のことがない限り定刻で動くから、本来ならギリギリ間に合う筈の発車時刻の電車に乗れない。晶子に先に帰るように言ってあるのはこのためだ。

「もうそろそろコート出さなきゃならねえな。」

 夕闇が色濃くなっている。日の入りの時刻は日に日に早くなっている。朝晩の冷え込みもこのところ急速に強まっている。
冬は確かにもうそこまで来ている。智一の言うとおり、衣替えとやらをしないといけない時期だ。ずぼらな俺には面倒な作業だ。

「祐司は良いよな。寒くなっても晶子ちゃんが優しく温めてくれるんだからさ。」
「妙な言い回しは止めろ。」
「でも実際そうなんだろ?良いねえ、彼女持ちは。大学じゃすれ違いでも外じゃしっかり繋がってるし。」

 羨んでいるのかぼやいているのか分からない智一と並んで歩いて行く。
急いでも1本遅れは確実だから、正門まで智一と適当に会話して駅に向かうだけだ。

「今度は良いわよね?」

 十字路に差し掛かったところで声がかかる、否、呼び止められる。
この高飛車な口調、この声・・・。声がかかった左側を見ると、交差点の一角にある街灯の灯りの下にあの女、吉弘が立っていた。
何なんだ?この女。しつこいにも程があるぞ。
晶子もストーカーかと思うくらい執念深かったが、この女の場合は高慢さがある分癇に障る。本人はそんなこと自覚しちゃいないだろうが。

「話があるの。来てくれない?」
「そんな暇はない。」

 即答して俺は前に向き直って歩くのを再開する。
待ち伏せして呼び止めた次は女王様ごっこの続きとは・・・。
趣味が悪いのレベルをはるかにすっ飛ばして、迷惑行為に他ならない。こんな馬鹿女に付き合ってられるか。

「ちょっと待ちなさいよ!」

 後ろから声がかかる、否、怒声が飛んでくるが俺は気にしないようにして歩く速さを速める。
あんな女に付き合ってたらバイトに遅刻してしまう。それ以前に気分が悪くなるだけだ。

「おい、祐司。良いのか?」
「何が。」
「あいつ、かなり怒ってるみたいだぞ。」
「知るか。ある日勝手に出て来て自分の言うことを聞いて当然、って構える女王様の示威行動になんか付き合ってられない。」

 智一はあの女の表情を見たようだが、どんな顔をしようが何を思おうが俺の知ったことじゃない。
そもそも、あの女が俺に目をつける理由がまったく分からない。
単に取り巻きを増やしたいなら、その辺の男を捕まえれば良いだけの話だ。この理系学部のエリアは男の方が絶対数が多いんだから。

「しかし、何でまた祐司に目をつけたんだろうなぁ。」
「さあな。何なら智一、お前が下僕に立候補したらどうだ?高確率で当選出来るぞ?」
「性格があれじゃあなぁ・・・。はっきり言ってタイプじゃない。」
「新手の通り魔だな、あれは。」

 キャッチセールスや宗教の勧誘とかは、少なくとも見かけ上は好印象を持たせるように言い寄って来るが、いきなり現れて話があるから来い、なんてのは
今時中学や高校の勘違い野郎でもしない。
あの分だと相当周り、というか取り巻きとやらからちやほやされてるんだろう。
 ミスコンテストを女性を容姿で差別するものとは思わない。
女だって容姿で男を差別するし、ハゲ、チビ、デブだのもっと露骨な表現で切り捨てるから偉そうに言えたもんじゃない。
ただ、ミスコンテストでは少なくとも性格が審査の対象にならないことは間違いないようだ。

 バイトが終わり、何時ものように晶子の家で紅茶をご馳走になっている。
慌しい時間の終わりを告げる寛ぎの時間。鼻腔を心地良く擽る芳香が仄かな湯気と共に立ち上る液体が半分程残ったカップをテーブルに置くと、小さい溜息が出る。
緊張と多忙から解放された安堵感から反射的に出るものだ。

「・・・なあ、晶子。」
「はい。」
「大学祭について何か知ってるか?」
「少しは。1年の時行きました。」

 行ったことがあるのか。大学祭は5月だから、俺と出会う前の話になる。

「そこでミスコンテストがあるのって知ってるか?」
「ええ。何でも工学部の女性(ひと)が2連覇したとか。私が居る文学部の他、法学部や教育学部とかから結構出場して、私が1年の時に優勝した女性も
出場したそうです。それが何か?」
「今日、そのミスコンテスト2連覇の女が俺に声かけてきたんだよ。」

 晶子の表情が微かに曇る。
気持ちは分からなくもない。逆の立場だったら目の色変えて詰め寄ってるところだろうな。

「2コマ目が終わって生協の食堂に行く最中にいきなり後ろから『話があるから来てくれない?』とか言ってさ。それだけならまだしも、俺が自己紹介くらい
してからにしろ、って言ってそれが終わったら、これで断る理由はないわよね、って調子で迫って来たんだ。腹立って無視したけど。」
「話がある、って・・・何なんでしょう?」
「俺が聞きたいよ。智一の話じゃ、その女は目に付いた男を取り巻きに加えるらしいんだけど、何で俺に目をつけたのかすら分からないし、そんな状況で
話があるから来い、って、しかも高飛車に言われたんじゃ敵わない。」

 愚痴っぽくなったが、今回は場合が場合だけに勘弁してもらおう。
思えば晶子と出会ってから暫くは不快に思うことが多々あった。ストーカーという単語が相応しい執念に辟易したこともしばしばだった。
だが、あの時は宮城と良くない別れ方をした直後という独特のフィルターがあった時期だし、少なくとも晶子が横柄な態度を取ることはなかった。

「気がかりなのは、相手が俺の名前はおろか学科と学年まで知ってたってことだな。」
「かなり訳ありのようですね。その女性。」
「晶子もそう思うか?」
「ええ。好意かどうかは分かりませんけど、その女性が祐司さんに高い関心を持っているのは間違いないと思います。」
「その女、学部は同じでも学科が違うんだ。俺は自分の学科ですら未だに顔と名前が一致しない奴が居るのに、カリキュラムがまったく違う学科の奴が
どういう経緯で俺を知ったのかが気になる・・・。」

 時間割が違っても狭い校舎内で、教室の位置も隣り合っていた高校までとは違って、大学は無駄なくらい広い上にカリキュラムが学部や学科毎にまったく違う。
ちなみに俺が居る電子工学科と電気工学科は同じカリキュラムだが、これは特殊な事例。
 それに高校までは進級毎にクラス編成が変わったから、ある程度横の繋がりってのもあった。
現に高校時代のバンド仲間は5人バラバラだったし、当時付き合っていた宮城とは同じクラスになったことがなかった。その代わり、新学期早々見ず知らずの奴に
「彼女と一緒のクラスになれなかったんだな」と言われたことがある。
大学ではそんなことがないし、個人の裁量が格段に大きくなるから、極端な話実験以外ではあえて他人と関わる必要はない。
 それらを踏まえると余計に分からなくなってきた。
何であの吉弘って女は俺の名前も学科も学年も知ってて、俺に絡んできたんだろう?
晶子の言うとおり、何らかの事情で俺に関心を持っているようだが、こういう場合は迷惑行為でしかない。

「ま、適当にあしらっておけば、そのうち諦めると思うけど。」
「そうだと良いんですけど・・・。」

 晶子の声のトーンが急に落ちる。表情もかなり曇っている。不安なんだろうか?俺があの女の勢いに押されて自分を捨てたりしないか、と。
俺は左手を晶子の右肩にそっと置く。

「断る時はきちんと断るから大丈夫。先週結婚宣言までした相手を捨てるようなことは絶対しないから。」
「そう・・・ですよね。」

 とは言うものの、晶子の口調は何時になく歯切れが悪い。嫉妬・・・か?
俺が晶子を捨ててあの女の取り巻きになるという不安から生じるそれを抑えきれないんだろうか?
そう言えば晶子は俺と付き合う前、今の大学に入る前に大恋愛をして、一緒に居よう、って約束したのにふられたんだったな。
だから不安になるんだろう。あの悪夢がまた現実のものになるんじゃないか、って。

「その人を好きであればあるほど、気持ちを反故にされた時の反動が大きくてどうしようもなくなるってことは、俺にも分かるつもりだよ。晶子とは
比較にならないかもしれないけど、俺もそういう経験したから。」
「・・・。」
「俺と晶子はお互いそんな古傷を乗り越えて、今こうして一緒に居るんだし、先週は俺も結婚を公言した。今俺と晶子が左手薬指に指輪を填めている意味を、
大学時代のお遊びにするつもりなんてこれっぽっちもない。」
「・・・。」
「けれど、心を引き裂かれるような深さだった古傷が何かの拍子で疼くことはある。以前の俺がそうだったし、今は晶子がそうなんだと思う。勿論相手を
信じたいし自分を裏切ることはしないと思いたい。だけどもう二度とあんな思いはしたくない。そんな心の軋轢が生じても無理はないと思う。」
「・・・。」
「どれだけ、信じてくれ、とか、安心しろ、って言われても軋轢は100%消えないと思うからもう言わない。俺は行動で晶子の心に生じた軋轢を消すようにする。
言葉を並べるより行動で実証する方が確実だろうから。ただ、これだけは憶えておいて欲しい。」

 俺は身体を晶子に向けて両手を晶子の肩に置く。晶子は驚きで目を見開いて俺を見る。

「その過程で晶子のところに噂が舞い込んだり、妙な誘いとかがあったりするかもしれない。その時はまず最初に俺に面と向かって問い質してくれ。
俺はその時の状況なんかをきちんと話すし、勿論晶子が要求する分質問にも答える。それで・・・良いか?」

 晶子は頷いて俺に身を委ねてくる。俺の背中に腕が回り、軽く、しかし強く力が篭る。
俺の左肩口に頭を乗せている晶子のトレードマークの一つ、茶色がかった長い髪からは仄かに甘酸っぱい香りが立ち上っている。
 やっぱり心の何処かに、微かではあっても不安があるんだろう。田畑助教授絡みのトラブルとは、俺と晶子の立場が今と逆なだけだ。
その不安、始まりに付き纏う終わりという不安が最悪の形で現実のものになるんじゃないか、またあの痛い思いを味わわされる羽目になるのか、という不安は
失恋した、それも相当相手に入れ込んでいなければ分からないものだと思う。
 だから今の晶子に、俺を信じろ、とか、俺を疑うのか、とか念押ししたり恫喝したりすることは出来ない。
自分からして裏切りと取れる行為を絶対に避けて、不安を自然消滅させるしかない。

「祐司さんが私を捨ててその女性に走ることはしない、と思ってます。でも・・・どうしても不安が拭いきれないんです。信じてる人を、愛してる人を疑いたくない。
そうは思ってもどうしても・・・。」
「・・・。」
「100%信じきれない時点で言い訳がましい、って思われても仕方ないとは思います。でも・・・気になるんです。祐司さんにとって初対面のその女性が、祐司さんの
名前と顔を一致させていたことに加えて、学科も学年も知っていたことが・・・。その女性の意図は分かりません。でも、意図はどうであれ祐司さんに
接近しようとしている、って思わざるを得ないんです。」
「言わない方が良かったのかもしれない。晶子を不安の渦に放り込むことになっちまったことには変わりないから・・・。だけど、黙っておいていきなり変な噂が
晶子の耳に入ったら、もっと不安にさせることになるかもしれない。ついこの前自分との結婚を公言したのにどうして、って思うかもしれない。」
「・・・。」
「入籍どころかプロポーズもしてないけど、前言撤回、なんてことはしたくない。書面になっていてもいなくても、約束の重みは同じだと思うから。
俺は約束を守る。晶子にはそれを見てもらう。不器用な俺にはそれしか思いつかない。・・・良いか?」

 俺の問いかけに、晶子は俺の肩口に顔を埋めたまま頷き、腕に込めた力を強める。
自らを崖っぷちに追い込んでまでも、俺と一緒に暮らすと決めた晶子の心を引き裂くようなことはしたくない。しちゃいけない。
今こそ、左手薬指に填まっている指輪の意味とその重みを証明する時だ。
 俺は晶子をそっと抱き締める。芳(かぐわ)しい香りと心地良い弾力を腕いっぱいに感じて目を閉じる。
腕に抱えられるのはこの華奢な身体。だけど心に抱えられる、抱えなければならない、何としてでも抱えたい想いは計り知れない。
突然俺の前に降臨したこの女神をこの世に留める役目を担うのは・・・俺だ。
想いを受けた者として。絆の証を贈った者として。そして絆の証を公言した者として・・・。

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