雨上がりの午後

Chapter 132 未来と思いを語る夜

written by Moonstone


 急いでいる時に限って電車のタイミングが悪かったりする。
俺が走って駅に着いた時には乗りたかった急行がその後姿を遠ざけていくところだった。
小宮栄方向の上り電車は数こそそれなりにあるが、時間帯によって偏りがある。夕方から夜にかけては下り方向の電車の方が多い。
この時間帯だと15分は待たないと駄目だな。
 俺は荒れる呼吸を無理矢理整えつつ、ズボンのポケットから財布を取り出し、その中から10円玉を取り出して電話ボックスに向かう。
携帯電話を持ってて当たり前のこのご時世だが、持ってない奴だって現に居る。
俺は今のところ持つ必要はないと思っている。会いたい人には時間こそ限られているが毎日会えるからな。
 電話ボックスに入った俺は、受話器を取って10円玉を放り込み、店の電話番号を押す。
受話器からコール音が鳴り始める。
3回目のコール音が終わったところでガチャッという音がする。

「はい。喫茶店Dandelion Hillです。」
「こんばんは。祐司です。」

 潤子さんの明るい声に俺は応える。
呼吸は鎮まったものと思っていたが、声を出してみるとまだ荒さの大きな断片が残っているのが分かる。

「あら、祐司君。こんばんは。個人面談は終わったの?」
「はい。今大学最寄の駅に居ます。電車が出て行った直後だったんでもう少し遅れるってことを伝えようと思って・・・。」
「良いのよ、慌てなくても。夕食は?」
「いえ、まだです。」
「そう。夕食の準備はしてあるから、慌てないで気を付けて来てね。」
「はい。それじゃ失礼します。」

 潤子さんが電話を切ったのを確認してから受話器を置く。
とりあえずすることはした。後は大人しく次の電車が来るのを待つしかない。
俺は電話ボックスから出て改札を通り、人のまばらなホームに向かう。
 急いでいる時ほど待つ時間がやたらと長く感じられるものだ。
ようやく来たと思った急行に乗り込み、ドア近くの座席の手すりに凭れて流れていく外の景色を眺めていても、イライラが募ってくる。
大学に行く時は、もう着いたのか、と思うような早さの筈の時間が、間違えて普通電車に乗ってしまって待ち合わせを何度も食らっているかのようにさえ感じる。
 潤子さんの言うとおり、慌てる理由はない。
個人面談があるからバイトに遅れるかもしれない、とは事前に言ってあるし、さっき店に電話した時も、慌てなくて良い、と潤子さんは言っていた。
それに、今日の面談の話は「仕事の後の一杯」の時にもするつもりだし、晶子には家に寄った時にもするつもりだ。
晶子には経緯を話す、って昨日約束したばかりだし。
 だけど・・・、分かっちゃいるけど、どうしてもイライラが収まらない。
早く話したいからか?そう・・・かもしれない。
自問自答の回答の方が曖昧になる。浮かんできた言葉も躓き、よたよたしたものになる。
話したくないのか?そうじゃない。
二度目の自問自答はきびきびしたものだ。
じゃあ何を躊躇ってるんだ?・・・分からない。
三度目の自問自答で浮かんできた回答は、極めて曖昧且つ無責任なものだ。
何故かも分からないのにただイライラしている。そんな自分がたまらなくもどかしい。

 ふとドア越しに外を見ると、風景の流れていく速度は極端なほど鈍っていた、否、鈍っている。
見慣れたホームの風景が見えてくる。何時の間にやら到着したようだ。
はは・・・何やってるんだろう?俺。自嘲の笑みが浮かぶのが分かる。
一人で思考の泥沼にはまり込んで一人でイライラしてたってわけか。全然進歩してないな、俺は。
 こんな俺とよく一緒に居てくれるよな、晶子は。
そんな晶子の心に、好きだ、か、ありがとう、の単語しか返せない今の俺・・・。どうすりゃ良いんだ?何処へ向かって歩けば良いんだ?

・・・まだ分からない。

 空気が抜けるような音と主にドアが開く。
俺は電車から降り、構内を小走りで抜け、改札を通り、自転車置き場へ向かう。
ごちゃごちゃの自転車の山の中から自分の自転車を掘り出し、籠に鞄を放り込み、通路を押していって外へ出たところでさっさと跨り、ペダルを懸命に漕ぐ。
緩やかな上り坂が今日はやけに長く、そしてきつく感じる。
 家の前に着くなり文字どおり自転車を飛び降り、一路行くべき場所へ、待っている人のところへ向かう。
点々と街灯が灯る住宅街の狭間を走っていくと・・・見えてきた。
窓から溢れる灯りの中に多くのシルエットが見える。今日も混雑しているようだ。
俺は緑色に藍色が覆い被さりつつある丘を駆け上る。
腕時計を見ると・・・7時前だ。
宮城に突然別れを押し付けられた翌日に無断欠勤して以来初めての遅刻だな。事前に連絡してあるとは言え、後ろめたいものを感じる。
 ドアを開ける。カランカラン、という軽やかなカウベルの音が響く。

「こんばんは。遅くなりました。」
「あら、祐司君。こんばんは。夕食の用意するからちょっと待っててね。」
「はい。」

 出迎えた潤子さんは何も怒ってはいないようだ。
俺は思わず小さな溜息を吐いて何時も座るカウンターの椅子に腰を下ろし、鞄をその左側、晶子が座る椅子に置く。
その晶子は・・・居た。水の入ったポットを持って客席を歩き回っている。マスターが走って来る。

「潤子。3番テーブルにミートスパゲッティと野菜サラダ、ホットコーヒーを2つずつだ。・・・って、おお、祐司君。こんばんは。」
「こんばんは。遅くなってすみません。」
「事前にきちんと連絡してくれているから構わんよ。意外に遅かったね。」
「前の奴が随分時間食ったもんで・・・。俺は割と早く済んだんですけど。」
「そうか。まあ、詳しい話は店が終わってから聞かせてくれ。」
「はい。」
「あなた。コーヒーお願いね。」
「了解。」

 マスターはキッチンに入って、コーヒーの準備を始める。
その間に潤子さんが料理を用意するという段取りは、俺がこのバイトを始めて以来殆ど変わらないスタイルだ。
俺はマスターが差し出した水を飲みながら、夕食が出来上がるのを待つ。注文があったからそちらの方が優先かもしれないし。

「はい、お待たせ。」

 と思ってのんびり構えていたら、潤子さんが夕食の乗ったトレイを差し出してきた。俺は、ありがとうございます、と言って受け取る。
あ、今日はカレーか。どうりで予想以上に早い筈だ。勿論カレーが悪いという意味じゃない。野菜サラダとアイスティーもある。
潤子さんのカレーは適度な辛さだから−晶子のは煮物と同様甘くなる傾向がある−アイスティーというのは洒落た組み合わせだと思う。
 いただきます、と言ってから食べ始める。
ぱっと見たところ客席はかなり混んでいるようだから、あまりゆっくりしてられないな。
カレーとご飯を適度に混ぜつつ、時にサラダとアイスティーを挟みながら、手早く夕食を済ませる。
 ご馳走様でした、と言ってすっきり食事が消えた皿が乗ったトレイを差し出す。
コンロに乗せた鉄板にスパゲッティを入れていた潤子さんがそれに反応し、はい、と言ってトレイを受け取り、手際良く皿を流しに移動させ、
トレイを棚に収納する。
俺は残っていたコップの水をくいと飲み干してマスターに差し出し、俯いていたマスターが−洗い物をしていたようだ−受け取ったのを見て、
俺はキッチンを通り越して着替えに向かう。
マスターが言ったとおり、今日の面談についてはバイトが終わってから話そう。それからでも遅くない。

 あっという間にバイトは終わった。まあ、これは今日に限ったことじゃないんだが、普段より1時間短かったということも大きいと思う。
何時ものように分担して掃除を済ませた後、「食後の後の一杯」と洒落込む。
今宵のBGMは「THE END OF SUMMER」。夏がとうに過ぎ去った今聞くと、ちょっとしんみりした気分になる。
 俺はマスターが入れてくれたホットコーヒーを飲みつつ、今日の個人面談の経緯を報告する。
晶子には経緯を伝えると前々から言ってあるし、マスターと潤子さんにも今日個人面談で遅れることを伝えてあるから、こういうことがあった、と
話しておいたほうが良いと思うからだ。
親や親戚といった、ある意味利害関係が絡んでくる相手より、第三者的見解が得られるのではという思惑もある。

「−此処までの祐司君の話を要約すると、現時点での成績は非常に優秀、教官の好感度も非常に高い、というわけだね?」
「はい。」
「新京大学の理系学部が厳しいという話は、祐司君が此処でバイトし始めた時にも聞いたし、人伝でも話は聞いてる。一応地元大学だからね。
そんな学部で現時点で非常に優秀、と教官に言わせるだけの成績で、教官の好感度も非常に高い、というのは、祐司君の生活の全容を知らない俺からしても
本当に立派なものだと思うね。」
「私も大したものだと思うわ。祐司君は此処のバイトもしっかりやってくれてるし、終了時間が予想出来ない実験が、幸か不幸か此処がお休みの月曜日にあって、
その事前事後のレポートも集1回のゼミもきっちりこなして、受講した講義の単位を全部、しかも優に5本の指に入ると先生に言わせるだけの成績だもの。
勉強が仕事だっていうことを差し引いても、祐司君は胸を張って良いわよ。」

 マスターと潤子さんは感心した様子だ。言葉は悪いが第三者からも好評が得られたのは正直嬉しい。
決して金にはならないが、自分がこれまでやってきたことは間違いじゃなかったと改めて実感出来るし、人間の心や感情は金じゃ買えないからな。

「一つ問題点を挙げるとすれば・・・、教官が言ったとおり、祐司君が殆ど一人で実験をしているということかな。」

 マスターが言う。

「実験はグループでするんだから、実験をせずに他人が作ったレポートを写してやった気になっていてはその人のためにならんし、何のために
グループ単位でやっているのか、という根本問題にも繋がる。それこそ怒鳴りつけてでも手伝わせるべきだな。」
「でも・・・今のグループで実験をするようになって半年経ちますけど、幾らやれ、って言っても全然言うことを聞かないんですよ。」
「祐司君のグループの人は祐司君が真面目に取り組んでいるのを良いことに。それに便乗している。祐司君は良いように使われている。それを許さないという
意味でも、祐司君が陣頭指揮をとる形で実験を進めるべきだな。それに文句を言うようなら、結果を教えたりレポートを写させたりするのは今後一切
止めるべきだ。それくらい厳しい態度で臨んで良い。」
「そうね。先生が言ったとおり、真面目な人が馬鹿を見るようなことじゃいけないわ。祐司君が真面目に取り組んでいるのは勿論良いことだし、
文句のつけようもないことだけど、優しさと甘さとは違うから。その辺の・・・けじめって言うのかしら。それはきっちり線を引くべきだと思うわ。」
「そうですね。」

 マスターと潤子さんの見解は一致している。
俺が築き上げた結果を横取りするようなことを許すのは自分が馬鹿を見ることになるし、そいつらのためにもならない。
それは分かっていたつもりだけど、幾ら言っても言うこと聞かないから勝手にしろ、と投げやりになっていた。
言うなればあえて憎まれ役になることも必要、ということか。

「で、今日の個人面談の本題、進路に関してなんですが・・・。」

 俺は続きを順を追って話す。
教官から大学院進学を勧められたが実家との約束や経済的事情で不可能だと話したこと。
自分が考えている進路候補として公務員、レコード会社など音楽に関連する企業、そしてミュージシャンを挙げたこと。
公務員の就職実績は多く、現時点の成績から考えるとまず問題ないだろうと言われたこと。
音楽関連の企業にはざっと見たところ就職実績はないが、俺にその気があるのなら進路指導の教官や久野尾先生が強く推薦することを確約してくれたこと。
ミュージシャンに関してはこれまでの経験を問われ、先に大学院進学を断念せざるをえない経済的事情に関して話したバイトの形式について問われて答えたこと。
何れの道に進むにせよ、今の調子でやっていけば大丈夫だろう、と言われたことを、全て。

「・・・ふむふむ。ミュージシャンという選択肢も否定されなかったということか。」
「はい。」
「この夏に明達と新京市公会堂でセッションする前に話したと思うが、自分の腕で飯食ってるプロからしても、祐司君のギターの腕前は十分プロとして
やっていけるだけのものを持っていると評価されたし、俺もそう思ってる。実力に加えて真面目さという社会人に必要な要素を十分持っている祐司君なら、
教官の言ったとおり、どの道に進んでもやっていけるだろうな。」
「あえて言うならどういうライフスタイルを考えているか、ってことね。祐司君が単独で生活していくなら、正直言ってマスターがやって来たような
ミュージシャンっていう道は厳しいと思う。どの程度お金がもらえるかは交渉と実力次第でしょうし、最初から十分なお金が貰えるっていう保障は
何処にもないし。その辺のところ、晶子ちゃんとは相談したことがある?」
「はい。・・・マスターと潤子さんを前にしてこんなことを言うのは誤解を生むかも知れませんけど、このまま二人揃って此処で働かせてもらって、
何処かのアパートで一緒に住むっていうことも考えてるんです。その場合、此処で働かせてもらう時間とか曜日とか、俺が働くのは此処のみなのか、
桜井さん達みたいに小宮栄周辺のジャズバーとかに出入りするのを混ぜるのかどうか、とか色々ありますけど・・・。」
「晶子ちゃんは進路をどう考えてるの?」
「私は祐司さんと一緒に暮らすことを念頭に置いてます。」

 それまで黙って俺の話やマスターと潤子さんの見解を聞いていた晶子が、静かだがはっきりした口調で言う。

「公務員とか会社員みたいに世間一般でいうところの一般的な職に就くか、さっき祐司さんが言ったように、このまま此処で働かせてもらうか、
それは祐司さんとは勿論、マスターと潤子さんにも相談して、一番適切と思う選択肢を取ろうと思ってます。」
「今から言うことを結論に直結させないで欲しいんだが・・・。」

 マスターが言う。

「この店の利益は、祐司君と井上さんが入ってきて以来右肩上がりなんだ。特にこの夏の新京市公会堂でのコンサート前からはもの凄い。
おかげで祐司君と井上さんには割に合わない働きをしてもらってるけどね。」
「「・・・。」」
「祐司君と井上さんが抜けた穴を埋めるだけの子が来てくれる保障はないから、出来ることなら祐司君と井上さんにはこのまま此処で働いて欲しい、というのが
俺と潤子の希望だ。これは前から潤子と話してたことなんだよ。言葉は悪いが、こんな貴重な財産を手放すのは勿体無い、ってな。」
「そういうこと。だから祐司君と晶子ちゃんには、二人が今後どうするかをよく考えて決めて欲しい、ってことだけ言いたいの。晶子ちゃんからは
さっき聞いたけど、祐司君も晶子ちゃんと一緒に住むことを念頭に置いてるんでしょ?」
「はい。」

 潤子さんの念押しとも言える問いに、俺は迷わず答える。
晶子とは「別れずの展望台」で願掛けの儀式もした。特別な意味があるということを承知で左手薬指にペアリングを填めている。
大学時代の思い出にするつもりなんてこれっぽっちもない。

「祐司君の返事を聞いて安心したわ。祐司君が晶子ちゃんと一緒に住むことを念頭に置いた上で進路を考えてるのなら、繰り返しになるけど、
二人でよく相談して決めてね。その結果此処でこのまま働くことになったとしたら、私とマスターは歓迎するわよ。」
「ありがとうございます。」
「お礼なんて良いのよ。祐司君と晶子ちゃんには本当に良くやってもらってるし、私とマスターは祐司君と晶子ちゃんの未来を応援してるから。
『別れずの展望台』で願掛けした先輩としても、ね。」
「さっき言ったことの重複になるが、俺と潤子が言ったことを結論に直結させないで欲しい、ということだけは忘れないでくれ。俺にも潤子にも、
祐司君と井上さんの未来を束縛する権利はないからな。」
「はい。」

 俺は残りのコーヒーを一気に飲み干し、立ち上がる。晶子がそれに続く。

「ご馳走様でした。お休みなさい。」
「おう、お休み。」
「ゆっくり休んでね。」
「はい。お休みなさい。」

 俺と晶子は揃って店を出る。
暗闇に街頭や家の灯りが点々と浮かぶイルミネーションを見ながら、俺は緩やかな下り坂を歩いていく。
ふと左手に意識を向けると、柔らかい感触と温もりを感じる。横を見ると晶子その人が居る。
視線を下に向けると、俺の左手に蛍のようにほんのりと白さを浮かべる手が結わえられている。優しく、しかし、しっかりと。

「どれを選ぶかは・・・やっぱり最終的には祐司さん次第ですね。」
「・・・ああ。」

 俺は視線を前に戻して坂を降り、街灯が点々と灯る道に入る。
午後10時を過ぎた住宅街の道は静まり返っている。俺と晶子が二人きりで話し合う舞台を演出するかのように。

「俺がさっさと決断してりゃ、マスターも潤子さんも、それに晶子もこんな面倒ごとに巻き込まなくて済んだのにな・・・。」
「それだけ祐司さんの未来を真剣に考えてるってことですよ。マスターも潤子さんも、それに・・・私も。祐司さん自身は勿論ですけどね。」
「・・・。」
「真剣に考えてるからこそ、祐司さんの話を聞いたり、意見を言ったりするんだと思うんです。そうじゃなかったら耳を傾けたり意見を言ったりしませんよ。
見て見ぬ振りしますよ。面倒事に巻き込まれるのは御免だ、って。」

 晶子は俺を見ながら、優しい言葉の布を織る。

「進路指導の先生も、自分なりに真剣に進路を模索しているのは非常に良い、って仰ったんでしょ?そのとおりだと思うんです。祐司さんは良いことを
してるんですよ。だから、それを可能な限り続ければ良いんですよ。自信を持って。」
「晶子・・・。」
「私は祐司さんと一緒に居ますからね。ずっと・・・。前にも言いましたよね?離せって言っても離さない、って。私にとって『別れずの展望台』での願掛けは、
その言葉に運命的側面からの裏付けを得るためでもあったんです。」

 この道を進んだら未来がどうなるか分かれば何の悩みも苦労もない。
セーブやリセットの機能があるゲームと違って、やり直しや別の選択肢を選ぶことが出来ないからこそ、嘘八百かもしれない占いを信じたりするんだろう。
「別れずの展望台」のようなジンクスが出来る場所があるんだろう。

「他人事みたいに言うな、って言われそうですけど・・・、精一杯悩んで苦しんで良いと思うんです。祐司さんの人生なんですから。その過程でマスターや
潤子さんや私が必要だと思ったら、相談を持ちかけて良いんですよ。少なくとも私はそう思ってますから。」
「・・・ありがとう。」

 そうとしか言えない自分が何とももどかしい。
就職という途方もなく大きな「食材」が目前の俎上に乗せられる日は近い。否、もう乗せられていると思うべきだろう。
それを捌くのは俺の仕事だ。その仕事から逃げるわけにはいかない。
逃げたら最後、他人−親も含まれる−の都合の良いように捌かれてそれを押し付けられるだけだ。

「こういう時・・・、次の休みには何処へ行こうかとか、少々気が早いけどクリスマスイブはどう過ごそうかとかで盛り上がるのが、今時のカップル
なんだろうけどな・・・。」
「私は所謂今時のカップルを望んでませんよ。それより、真剣に自分と相手の将来と向き合ってとことん話し合える関係を望んでます。だからこそ、
こうして今、祐司さんと一緒に居るんですからね。」
「・・・そうだよな。そうでなかったら、俺の将来についての話なんて聞きたくもないよな。」

 今更何を、ということかもしれないが、晶子が俺と一緒に居ることを考えていることが分かって嬉しい。
・・・そう言えば・・・。

「晶子の学科では、進路指導はないのか?」
「ありましたよ。」
「ありました、って・・・。過去形なのか?」
「ええ。後期の講義日程が発表された週の金曜にありました。講義のないコマで。」
「何で話さなかったんだよ。そんな大事なこと。」
「私の結論はずっと前に出ているからです。祐司さんと一緒に居ることを前提にして職を探す、って。」

 言葉が出ない俺を他所に、晶子は夜の闇に言葉を紡ぐ。

「それが祐司さんの重荷になっているなら心苦しいんですけど、私はそれに生き甲斐を見出したんです。精神的にも、場合によっては金銭的にも
祐司さんを支えることに・・・。前に言ったかもしれませんけど、女性は、女性が、って言って前面に出るばかりが女性の人生じゃないと思うんです。
パートナーを色々な側面から安心させる、言い換えれば縁の下の力持ちとか黒子とか、そういう人生もあって良いと思うんです。私はそうしたいんです。
私にとって、公務員とかサービス業とか、肩書きやそれに伴う収入なんかはどうでも良いことなんです。」
「・・・進路指導の時にもそう言ったのか?」
「ええ。先生には、このご時世にそんな主体性のないことでどうする、って言われましたけど、私は自論を貫きました。最後には、君がそう考えてるなら
そうしなさい、って言われました。」
「・・・誤解しないで欲しいんだけど・・・。」

 俺は心に沸き上がって来た疑問を、前置きしてから口にする。

「どうしてそこまで俺にこだわるんだ?」
「ずっと一緒に居る、って決めた人とずっと一緒に居たいから。それじゃ駄目ですか?」

 晶子の答えははっきりしているが、その顔に浮かぶ微笑みは柔らかくもあり、寂しげで儚げでもある。
・・・そう言えば晶子は、俺と付き合う前に大恋愛をしたんだっけ・・・。
ずっと一緒に居よう、って約束したのに結局ふられて泣きに泣いたとか・・・。だからだろうか?

「これも誤解しないで欲しいんだけど・・・、今度こそ、っていう気持ちがあるからか?」
「ええ。」

 短く即答した晶子の表情は真剣で、同時に何かの拍子に大声で泣き出しそうな雰囲気を漂わせている。
この表情、見た憶えがある。・・・あの時だ。
晶子の母親から電話がかかってきて、私に生き恥晒させるつもりか、とか、悪かったと思うなら二度と電話するな、と今まで聞いたことがない激しい口調で
怒鳴って電話を叩き切って俺に泣きつき、兄さん絡みで親と絶縁状態になったことを話した後シャワーを浴びて、俺の前で裸になって、抱いてくれ、と
言ってきたあの時と同じだ。
 俺も晶子と付き合う前に宮城と真剣に付き合っていた。
結婚したいと思っていたし、宮城もそう言った。
所詮は飯事遊びの延長線上だったのかもしれないが、その時の気持ちが真剣だったことには間違いない。
だからこそ、ある夜いきなり宮城から電話越しに最後通牒を押し付けられた後、絶望と愛が裏返った悲しみと憎しみに任せるがままに自棄酒飲んで
大学もバイトもサボる羽目になるほど大暴れしたんだ。
 俺はその後、女なんて、恋愛なんて二度と御免だ、と拒否する方向へ走った。
晶子はその逆で、今度幸せを掴めるきっかけがあるなら何が何でも離すものか、という方向へ走ったんだろう。
だからあれ程邪険に扱っていた俺を執拗に追い回し、凍てついていた俺の心を氷解させたんだろう。
そう考えると、晶子がここまで俺と一緒に居ることにこだわることに納得がいく。

「離せって言っても離さない、って言ったり、『別れずの展望台』に行きたいって言い出したのも、そういう気持ちが根本にあるからなのか?」
「ええ。」

 晶子の答えには何の迷いも感じられない。
進路指導の教官が何を言おうが、親が何と言おうが、俺から絶対離れない、離してなるものか、というある種の気迫が篭っている。
そんな切望とも言うべき強く熱い想いを俺は真正面で受け止めなければならない。
「別れずの展望台」で願掛けした相手として。特別な意味があると知った上で左手薬指に指輪を填めて填めた相手として。
・・・ひっくるめて言うなら、パートナーとして。

「まだ進む道を決められないけど・・・、晶子のその大きな気持ちを・・・絶望に替えるようなことはしたくない。晶子の涙は嬉し泣きの時だけで十分だ。
比較対象にはならないかもしれないけど・・・、永遠と信じてた愛を失った時に刻まれる傷の痛みと辛さは分かるつもりだから・・・、そんな傷を負わせるような
ことはしたくない。否、しない。」
「祐司さん・・・。」

 晶子は潤ませた目を閉じ、俺の左腕に抱き付いて来た。
やや斜め上から見えるその表情は、晶子が俺の彼女だというオフセットを除いても本当に嬉しそうで幸せそうで・・・。俺の口元が自然と緩む。
この表情を悲しみの濁流で濡らすようなことはしたくない。否、しない。
それが晶子のパートナーである俺の役割なんだから・・・。

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