雨上がりの午後

Chapter 103 憩いと語らいと幸せの時間

written by Moonstone


「何でこう、俺達は不幸なのかねぇ。」

 2コマ目の補講が終わった帰り道、智一がぼやく。
気持ちは分からなくもない。講義そのものは終わってるのに、教官の都合で出来た休講の分はしっかり補講をしてくれる。
こういうのをありがた迷惑と言うんだろう。補講のない連中が羨ましい。まあ、今の学科に入った以上、今更文句を言っても始まらないが。

「イブは一人きり。あーあ、つまんない年末だぜ。」
「誰か女探さなかったのか?」
「バーカ。俺には晶子ちゃんというターゲットがあるんだ。他の女にくれてやる金や時間なんてあるか。」
「・・・いい加減諦めろよ。」
「少なくともお前が彼氏である間は諦めるわけにはいかん。」
「どういう意味だ。」
「言った通りの意味さ。」

 智一の奴・・・付け入る隙を窺っているな。以前崩壊寸前まで行ったことだし、油断はならない。
こいつの話術と財力を持ってすれば、大抵の女は引っ掛かるだろう。
晶子は譬え俺と切れた直後でも無理だと思うが・・・。あんまり考えたくないな、こういうことは。

「そういえば、お前、イブの夜は晶子ちゃんと一緒だったのか?」
「ああ。」

 クリスマスコンサートの後は二人揃ってバタンキュー、というのが本当のところで夢もロマンもありゃしないが、一緒だったことには違いあるまい。

「やっぱりかぁ。そしてお前に汚されて・・・ああ!」
「汚されて、って、お前なぁ・・・。」

 言いたいことは分かるが、俺が獣と言われているようで気分が悪い。・・・まあ、寝たからある意味汚したとも言えるのは事実だが。

「で、年末年始も仲良く二人で年越しかよ。」

 深い溜息を吐いた智一がそう言ってまた深い溜息を吐く。
答えを予測しているんだろう。だが、生憎今年はそうはいかないんだよな。

「今年はそうじゃない。俺は帰省するから。」
「え?晶子ちゃんを放ったらかしてか?」
「人聞きの悪いこと言うな。俺は今年20歳になったから、成人式に出るために帰るんだよ。親からも一度帰って来い、ってしつこく言われてるしな。」

 そう。今年は晶子と二人で年越し、とはいかない。
成人式だけならわざわざそれに出るために帰省する気はないし、親からの催促も無視するところだが、成人式の時に集まろう、という高校時代のバンドの
メンバーとの約束があるからだ。成人式と帰省はそのついでだ。
 晶子はそれを聞いた時沈んだ表情を隠さなかったが、直ぐに気を取り直して毎日電話しますから、と明るく言って俺の実家の電話番号を聞き出した。
俺も晶子と離れるのは不安があるのは事実だが−距離が出来たことで切れたっていう「前歴」があるから余計だ−1週間程度なら大丈夫だろう。
電話口で泣かれたりしたら困るが。

「ふーん。でもその間、晶子ちゃんを一人にしておくのは事実だろ?」
「・・・誘うつもりかよ。」
「勿論。コブが居ない間に、ってやつさ。」

 それを言うなら、鬼の居ぬ間に、だろうが。
まあ、念のために晶子に智一のことを聞いたら、祐司さんに後ろめたくなるようなことはしませんし、誘われても丁重にお断りしますから、と言った。
このことを言ってやろうかとも思ったが止める。俺が言ったところで信用しないだろうし。

「それは抜きにしてもさ、わざわざ成人式に出るためだけに帰省するのか?あんなの出たって意味ないぞ、はっきり言って。」
「俺だって成人式に出るためだけだったらわざわざ帰省しないさ。約束があるんだ。成人式の時に会おう、っていうバンドのメンバーとの約束がな。」
「ああ、そう言えばお前、高校時代にバンド組んでたんだっけ。」
「ギターとアンプを忘れるな、って念押しの電話があったよ。成人式の会場で約2年ぶりのセッション、と洒落込むんだよ。」
「このくそ寒い中、外でライブかよ。大したもんだ。」
「ま、たまには良いんじゃないか?」

 他人事みたいな言い方だが、実際そう思うんだから仕方ない。
それに普段はセッションなんてしないから−クリスマスコンサートはその意味で貴重な機会だ−、久しぶりに顔を合わせるだけで終わるよりは
楽しみがあって良いと思う。
悪戯好きの連中揃いだから−俺はギターのくせにクール過ぎ、ってよく言われた−多分会場前でやるんだろう。
関係者からどう思われるかとか何を言われるかとかはこの際言いっこなしだ。

 俺は智一と別れて駅へ向かう。今日はマスターと潤子さんの家に寄って昼食を食べた後、荷物を持って晶子の家に行くという段取りだ。
そして今日明日と晶子の家に泊まって、明後日の朝に晶子の家を出て、俺の家に寄って荷物を置き、ギターとアンプを持って実家へ向かう予定になっている。
親からは何も持ってこなくて良い、と言われているが、ギターとアンプはバンドのメンバーとの約束を守るために必要だから仕方ない。
 駅に着き、少し待って電車に乗り、10分ほど揺られて降りる。そして自転車置き場へ行って自転車を取り出して外に出る。
学生が冬休みに入っているせいか自転車の数が少なくて取り出しやすい。
逆に言えば、他の奴が休みの時にまだ補講があるという自分の境遇がちょっと嫌になる。・・・考えない方が良いな。
 俺は冷たい風が吹き付ける中、緩い上り坂を登っていく。そして自分の家には向かわず、何時もの道を通って店へ向かう。
昼食は何が用意されているんだろう。まさかレトルトじゃないだろうな。まあ、潤子さんが居るからそんな心配は無用か。
 どうにかこうにか店に辿り着き、裏側に回って自転車を止め、インターホンを押す。程無く潤子さんの声で応答がする。

「はい、どちらさまですか?」
「祐司です。帰ってきました。」
「はいはい、ちょっと待ってね。ドアの鍵開けるから。」

 トタトタ・・・と音が近付いてきて、ドアの鍵が開く音がする。そしてドアが開いて潤子さんが出迎えてくれる。

「た、ただいま。」
「そうそう。それで良いの。お帰りなさい。丁度昼食を作ってるところよ。」

 俺は中に入ってドアと鍵を閉める。 靴を脱いで上がると、腹の虫を騒がせる良い香りが漂ってくる。これは・・・潤子さん特製のミートソースだな。
てことは、昼食は潤子さん特製、店の名物ともなっているミートスパゲッティか。これは学食を食べずに帰ってきた甲斐があったというものだ。

「晶子は?」
「晶子ちゃんは店のキッチンよ。今日は晶子ちゃんが作ってるのよ。」
「え?!」
「作り方を教えてから傍で見てたんだけど、覚えが良いわ。もう晶子ちゃんにあのスパゲッティを任せても大丈夫ね。」

 まさか晶子が作っているとは・・・。驚きも程々に、俺は潤子さんに言われて洗面所へ手洗いとうがいをしに行く。
風邪をひいたらこの先どうしようもなくなる。晶子ほど喉に気を使わなくて良いだけまだ楽だと思っておいた方が良いだろう。
 手洗いとうがいを済ませた俺はキッチンへ向かう。キッチンにはマスターが居て、茶を啜っていた。
潤子さんの姿はない。晶子の様子を見に行っているんだろう。俺を見たマスターが言う。

「おう、お帰り。未来の奥さんが張り切って昼ご飯作ってるぞ。」
「み、未来の奥さんって・・・。」
「何だ、そうじゃないのか?」
「いや、何と言ったら良いか・・・。」
「作り方を教えてくれ、と言い出したのは晶子ちゃんだ。自分の腕前を披露したいんだろう。この幸せ者め。」

 マスターがにやついて言う。
マスターには潤子さんっていう、よく気が利いて料理も上手くて美人の奥さんが居るじゃないか。
・・・これ以上言い返すと、何だか彼女自慢みたいになりそうだから止めにしておこう。
俺は朝食の時に座った席にコートとマフラーを引っ掛けて、店のキッチンへ向かう。
 そこでは鉄板の乗ったコンロに向かうエプロン姿の晶子が居た。
晶子は茹であがったスパゲッティを一掴み鉄板に乗せると、脇に置いてあったボウルから溶き卵を流し込み、さらに特製ミートソースをお玉でかける。
その動きには迷いや戸惑いは見えない。潤子さんが言ったとおり、晶子に任せても間違いはなさそうだ。俺は心弾むのを感じながら自分の席に戻る。

「はーい、おまたせー。」

 それから間もなく、潤子さんの快活な声と共に食欲をそそる匂いが近付いてきた。
晶子と潤子さんが二つずつ特製ミートソーススパゲッティの乗った鉄板を持ってくる。
この鉄板、意外と重くてそこそこ力があると思っている俺でも片手では一つしか持てない。
 晶子と潤子さんが入れ替わり立ち代わり店のキッチンと此処を行き来して4人分の昼食を食卓に並べる。
スパゲッティの他にサラダとオレンジジュースまである、立派なものだ。
潤子さんがフォークをそれぞれの席に配布して準備は完了した。晶子と潤子さんはエプロンを外して席に着く。

「「「「いただきます。」」」」

 4人の唱和の後に昼食が始まる。
俺は早速湯気が立ち上るアツアツのスパゲッティに手を伸ばす。
スパゲッティにミートソースを絡めて口に運ぶと、コクのある豊潤な旨味が口いっぱいに広がる。腹が減っているせいか余計に美味く感じる。
俺はがっつくようにスパゲッティを食べる。多少熱いが空腹はそんなこと構ってやくれない。

「今年の年末年始はどうするんだ?」

 唐突にマスターが聞いてくる。どう答えようか迷っていると、隣に居た晶子が食事の手を休めて答える。

「今年は祐司さんが帰省するんで、私一人なんです。」
「む、それはいかんなぁ。祐司君。大切な彼女を放り出すとは。」
「俺だって好き好んで放り出すわけじゃありませんよ。今年は成人式があって、そこで高校時代のバンドのメンバーが集まろう、っていう約束があるから、
それを守らなきゃならないんです。」

 半ば犯罪者扱いされた俺は少々むきになって反論する。
俺だって晶子と離れたくない。出来れば去年同様一緒に年を越したい。
だが、親は成人したんだから、といって親戚周りをさせると言っているし、それ以前にバンドのメンバーとの約束がある。それを反故にするわけにはいかない。

「何だ、先約があるのか。それじゃ仕方ないな。」
「晶子ちゃんはどうするの?」
「え・・・。別に何も決めてませんけど・・・。」
「良かったら家にいらっしゃいよ。一緒に初詣に行くのも良いし、一人じゃつまらなかったら何時でもいらっしゃい。ね?あなた。」
「ああ。一人だと心細いだろう。遠慮は要らんからね。あ、井上さんも実家に帰るとか?」
「その予定はありません。」

 晶子はきっぱりと言う。そう言えば晶子は過去のごたごたのせいで親とは半ば絶縁状態にあるんだったな。
幾ら一人が嫌でも実家には帰るつもりはないとなると、こりゃ相当帰省を嫌ってるな。
まあ、晶子は一人で何でも出来るし、マスターと潤子さんの誘いどおり、年末年始を此処で過ごすのも良いだろう。
嫌々帰省するより気心の知れた人間と一緒に居るほうがずっと良い。

「祐司君の、バンドのメンバーが集まろう、っていう約束は同窓会みたいなもんかい?」
「まあ、そんなところですね。ほぼ3年間ずっと同じメンバーでやってきたし、思い入れもありますから。それに、ギターとアップを持って来い、って
念押しされてるんですよ。」
「そりゃまたどうして?」
「成人式会場でライブ演奏するです。そうじゃなかったらギターとアンプを持って来い、っていう必然性がないでしょう?」
「ほほう。成人式会場でライブか。なかなか面白いじゃないか。若いうちは色々やっておいた方が良い。どこぞの偉いさんの長話を聞くよりその方が
有意義ってもんだ。此処で培ったステージ度胸を存分に発揮してきなさい。」
「そのつもりです。」
「・・・羨ましい。」

 成人式会場で実施されるであろうライブ演奏の話題で盛り上がっていたところに、晶子の呟きが飛び込んでくる。
俺の方を見ているその顔は何時になく寂しげだ。一人にしてしまうってことをもうちょっと考慮に入れて話をした方が良かったな。

「祐司君もそうだけど、晶子ちゃんは、此処が実家だと思って良いのよ。寂しかったり辛いことがあったりしたら、遠慮なくいらっしゃい。歓迎するから。」
「・・・はい。」

 潤子さんの言葉を受けて、返答した晶子の表情に明るさが戻る。
やっぱり一人にするのは不安だな・・・。かと言って「先約」であるバンドのメンバーとの約束を破るわけにはいかない。
辛い選択だが、その分一緒に居る時間を大切にしておかないといけないな。

 和やかな昼食はあっという間に終了し、食器は完全に空になった。
潤子さんは4人分の鉄板を重ねて、そこにサラダが入っていたガラスのボウルを重ねて店の方へ向かう。両手でとは言えあの鉄板を4枚持てるとは、
潤子さんの力は凄い。マスターが頭を引っ叩かれた時に痛がる理由が良く分かる。
店の食器だから店のキッチンで洗い物をするんだろう。美味い料理をたっぷり食べて、腹の虫はすっかり大人しくなった。
 潤子さんが洗い物を済ませて戻ってきた後−幾ら俺でもそれくらいの礼儀は弁えてるつもりだ−、俺と晶子は荷物を持って一緒にマスターと潤子さんの家を出る。
これから向かうは晶子の家だ。今日明日は晶子の家で厄介になる。こうも他所様の家に居続けると、自分の家がどうなっているのか少々心配になる。
まあ、ゴキブリが餌を探して喘いでいるのが関の山だな。

「食事は張り込みますからね。」

 隣で自転車を押している晶子が言う。
晴れやかで、そして活気刈るその表情からはやる気がたっぷり感じられる。
潤子さんの料理で染まった俺を舌を自分の料理で染め直してやる、といった感じだ。

「そんなに力まなくて良いぞ。作るのも大変だろうし。」
「一人だったらしませんけど、今日は大切な人が居ますからね。手抜きはしませんよ。」

 晶子が微笑んでみせる。
さり気なく、大切な人、と言われて俺はちょっと照れくさく感じて頭を掻く。
好きな相手からそう言われて嬉しく思わない奴は居ないだろう。補講があるということで少々重かった気分が一気に軽くなる。

「今年は祐司さんの家を掃除出来ませんね。」
「去年晶子に手伝ってもらって綺麗にしたから、今年は塵を捨てる程度で終わりさ。それより晶子の家の方は?」
「ちゃんと掃除してますよ。でも1週間空けちゃいましたから、また掃除しないといけないですね。申し訳ないですけど手伝ってくれますか?」
「ああ、いいよ。それで少しでも去年俺の家を掃除してもらった礼になれば。」
「十分ですよ。」

 晶子はまた微笑んでみせる。この微笑みを見ると心がふわりとした感じになる。
逆に寂しげだったり悲しげだったりするものは見たくないな。
明後日その表情を作らせることになっちまうかと思うとちょっと胸が痛い。だが約束は破るわけにはいかない。
晶子が毎日かけるという電話でしっかり絆を保とう。
 俺と晶子はゆったりしたペースで晶子の家があるマンションに辿り着く。
何だか妙に久しぶりに来たような気分がする。1日だけと1週間連続の違いだろうか?
まあ、今までは家族気分を満喫出来たから、今日明日は晶子の家で幸せ気分を満喫するとしよう。
 自転車置き場に並べて自転車を置いて、俺と晶子は例のガチガチのセキュリティを晶子に解除してもらって中に入る。
管理人に会釈して、晶子に先導される形で家に向かう。
廊下に人通りはない。時間がまだ社会人の帰宅時間には早過ぎるから、少なくて当然といえば当然かもしれない。
 晶子が鞄から鍵を取り出して、鍵を開ける。ドアを開けて晶子が先に中に入り、俺はそれに続く。
薄暗い室内は外同様芯まで冷え込む寒さだ。
晶子は家に上がるなり早速暖房のスイッチを入れる。暖かくなるまではコートは手放せそうにないな。まあ、これが冬の風物詩なんだが。

「お茶入れますから、うがいと手洗いだけ済ませてください。」

 キッチンで湯を沸かし始めた晶子に言われて、俺は鞄からタオルを取り出して洗面場へ向かう。
面倒な気もするが風邪で寝込んで看病される、なんて御免だから−自分が苦しいのは勿論、晶子に迷惑をかけたくない−するべきことはしておくに
越したことはない。水が冷たいがこの時期文句は言えない。
 タオルで念入りに水分を取り除いてキッチンに入ると、晶子は紅茶の準備をしていた。
少し前に昼食を済ませたばかりなのに紅茶を飲むなんて、と思われるかもしれないが、晶子の家にお邪魔したらまず紅茶、というのが慣例だ。
特に寒いこの時期は、入れたての紅茶を啜ることで晶子の家に来たという実感が沸く。
 晶子はキッチンでうがいと手洗いを済ませたらしく、手と顔が赤い。自分の家なんだから先に洗面場で済ませば良かったのに・・・。
晶子らしいといえばそうなんだが、そんなに気を使わなくても・・・。晶子にとっては気遣いの中に入らないのかもしれないが。
 何時もの席に座って待っていると、程なく芳香を漂わせる茶褐色の液体を含んだ透明のポットとお揃いのティーカップが出てくる。
晶子がティーカップを俺の前と向かい側に置き、そこにティーカップから紅茶を注ぐ。
この香り・・・。よく出てくるミントやフルーツ系のものじゃなさそうだ。何だろう?心なしか高級感を感じるが・・・。

「今日のは何なんだ?」
「ウヴァですよ。久しぶりですね、そう言えば。」

 ウヴァか。最初はシヴァと聞き間違えて晶子に笑われたが、出会って1年を祝した時に出た紅茶だ。
そんな記念すべき日に出された紅茶が出てくるということは、今日は「とっておきの日」ということなんだろう。
晶子が俺の向かい側に座ってティーカップを手に取る。

「それじゃ・・・お疲れ様でした。」
「「乾杯。」」

 俺と晶子はティーカップを軽く合わせる。カツン、という軽い音がする。
芳香を伴う湯気が立つ紅茶をゆっくり飲んでいくと、心が静まっていく。そしてようやくヤマ場を乗り切った、という気分がする。
ティーカップから口を離すと、自然と溜息が漏れる。

「終わりましたね。今年のコンサートも。」
「ああ。こういうのって、終わってみればあっという間なんだよな。準備とかコンサートそのものが遠い昔のことのように思えるよ。」
「今年はコンサートまでに色々ありましたから。」
「そうだな・・・。」

 俺はもう一口紅茶を啜る。
一時は晶子との仲が断絶する危機に陥ったこともあった。
講義や実験で練習の時間が思うように取れず、危機感を募らせたこともあった。
でも終わってみれば大団円。意外に何とかなるもんだ。

「来年はどうなるんでしょうね・・・。」

 晶子が少しばかり不安げな表情で言う。
来年は順調にいけば研究室への仮配属があるし、就職活動も始まる。将来のことを今以上に真剣に考えなければいけない時期だ。
それに加えて講義や実験もある。音楽に触れる時間がどんどん少なくなっていくような気がしてならない。
 俺としてはバイトや今回のコンサートのような形で音楽と接していたい。だが、時期や周囲が容易には許してくれないだろう。
かと言って、バイトを止めることは死活問題に繋がるからそう簡単に行く回数や時間を減らせない。
あっちもこっちも並行して進行させなければならないという、難しい時期に入るわけだ。本当にどうなるんだろう?

「どうなるんだろうな・・・。俺自身分からない。」
「目標とかはあるんですか?」
「それさえ漠然としてるよ。俺は電子工学科だけど、正直言って俺は会社員としてやっていけるタイプの人間じゃないと思う。人間関係の構築が下手くそだからな。
じゃあ公務員か、となると、選び方にもよるだろうけど何のために今の学科に入ったのか分からないことになりかねない。」
「・・・。」
「それに、コンサートのMCでマスターが言ってたように、今の学科に居ることで将来が全て決まるとは考えたくないんだ。企業に就職する道を選ぶのは否定しない。
それが悪いことだとはさらさら思っちゃいない。だけど・・・果たして俺の人生それで良いのか、って思うんだ。」

 俺の半ば愚痴みたいな回答を、晶子はじっと聞いている。
就職活動のカウンセリングとかってこんな感じなんだろうか?否、こんなに真剣に俺の話を聞いてくれる保障は何もない。
今は兎に角、心にあること全てを吐き出したい。そんな気分だ。

「それなら音楽の道か、ってなると、これは・・・会社員か公務員かという選択肢より難しいと思う。自分の腕が百戦錬磨の人達の中で通用するような
ものなのか見当もつかない。それに音楽を職業にするってことに対する躊躇いがあるのも否定出来ないんだ。」
「ご両親とかの反対があるからとかですか?」
「それもある。まあ、それはとりあえず置いておいて・・・音楽を職業にするってことは、真っ当な人生からはみ出したことかもしれない、っていう思いがあるんだ。
それは今まで親や親戚から将来は良い大学へ入って良い会社へ、とか散々言われてきたせいで、変な規定概念が出来ちまったせいだと思う。責任問題は別としても、
音楽と四六時中べったりくっついて生きていく人生に耐えられるのかどうか分からない、ってこともある。趣味に留めておいた方が良いんじゃないか、とも思う。
将来闇の中、って感じだよ・・・。」
「凄く真剣に考えてるんですね。言葉は悪いですけど、感心しました。」

 晶子がそう言って紅茶を啜る。心の中のものを出し切って幾分すっきりした俺は、紅茶を啜って喉の渇きを癒す。

「私は・・・このまま祐司さんについて行きたいです。祐司さんが会社員や公務員とか、世間的に言うところの真っ当な道を選ぶのなら、祐司さんとの
触れ合いの時間を持てるような仕事を選ぼうと思います。祐司さんが音楽との生活を選ぶなら、それを金銭的に支援出来る仕事を選ぼうと思います。
私はあまりよく知らないんですけど、有名になるまで生活はその日暮らしみたいな感じなんでしょ?音楽家に限らず芸術に携わる人達って。」
「ああ。こと芸術に対する認識が低い日本では特に、な。」
「主体性がないって言われるかもしれませんけど、私は祐司さんをサポート出来る道を選びたいんです。私は文学部で資格とかもないですから、
就職先と言ってもせいぜい事務職。それが悪いとは思いませんけど、仕事に生き甲斐を見出すことは、私には難しいと思うんです。」
「・・・。」
「それなら祐司さんを安心させたり、支えたりする人生を選びたいんです。女性は、女性は、とか言いますけど、私は前面に出るばかりが人生じゃないと
思うんです。パートナーを安心させたり支えたりすることも選択肢の一つとしてあって良いと思うんです。」
「晶子・・・。」
「今の祐司さんは将来を模索している段階ですから、具体的にこうしたい、ということは出来ませんけど・・・祐司さんとの今の関係は大学時代の思い出だけに
したくありません。これだけははっきり言っておきます。これからも続けていきたい。大学時代の思い出を作るために祐司さんを追い掛け回したり、
祐司さんと家を行き来するような関係になったりしたんじゃないんです。私は・・・祐司さんと生涯一緒に居たいと真剣に思ってます。」

 晶子ははっきりした口調で言う。一点の曇りも迷いも感じられない。それだけ真剣に俺との関係を大切にしたいと思っているんだろう。
この気持ちを大切にしたい。どんな道を選ぶにしても、その一点だけは変わらない。

「俺も・・・晶子とずっと一緒に居たいと思ってる。」

 俺が言うと、晶子の表情が微かに緩む。自分の気持ちと一致した言葉が出たことが嬉しいんだろうか。

「だけど・・・晶子は変に思わないか?その日暮らしの男を経済的に支える人生を。」
「いいえ、ちっとも。自分にしか出来ないことが出来るんですから、そんな幸せな人生はそうそうないですよ。」
「そうか・・・。」
「それに、人生の形なんて色々ですよ。他人がどう思おうがそれは自由ですけど、妙な口出しをする権利はない筈です。」

 晶子の言葉が心に染みる。
仮に俺が音楽を飯の種にする道を選んだとしても、晶子は俺と一緒に居てくれる。
それが温かい陽射しの中で芝生に大の字になるような気持ち・・・他に何と表現すれば良いのか分からないが、兎に角心地良い気分にさせてくれる。

「ありがとう、晶子。まだ将来のことは何とも言えないけど、心はすっきりした。それに心強いよ。晶子がずっと俺の傍に居てくれるってことが分かったから。」
「前にも言ったかもしれませんけど、離れたいと思っても離しませんからね。私はそういう性格ですから。」
「そうじゃなかったら、邪険に扱う俺をストーカー顔負けの執念で追い回したりしないよな。」

 俺が言うと、晶子は頬をほんのりと赤らめる。過去の自分の執念深さを指摘されて恥ずかしいんだろうか。
でも、晶子の言うとおり、晶子があそこまで、勿論良い意味で執念深くなかったら、今の俺と晶子の関係はなかったんだ。晶子に感謝しないといけない。
 俺と晶子はコンサートやそれに至るまでの話に花を咲かせる。
時に相手の話に聞き入り、時に笑い・・・。心地良い時間が過ぎていく。
こんな時間が過ごせるのなら、コンサートの準備や後片付けもそれに至る凸凹道でしかない。
部屋は何時の間にか暖かくなり、紅茶はすっかり冷めてしまったが、俺と晶子の時間は温かいまま過ぎていく・・・。

 楽しい時間というものは本当にあっという間に過ぎ去るものだ。
晶子の家に2日厄介になって、とうとう今日晶子の家を離れる。そして住み慣れたこの町とも暫しお別れだ。約2年ぶりに帰省するからな。
 俺は晶子から誕生日プレゼントに貰った手編みのセーターをコートの中に着込んで−濃厚なキスもおまけでついてきた−荷物を持って出発の準備を整える。
一旦家に寄って荷物を置き、ギターとアンプを持って駅へ向かう、という段取りは決まっているからその通りに動くだけだ。
 準備を終えた俺は晶子と一緒に出口へ向かう。晶子は沈んだ顔をするのかと思ったら、何時もと変わらない横顔を見せてくれる。
意外と芯が強いからな。行かないで、なんて駄々をこねられたらそっちの方が困るんだが。
 エレベーターで1階に降りてロビーに到着する。
晶子と出会って恐らく初めての、長期間−1週間程度だが−距離を離して−電車を乗り継げば位置に近からずに会える距離だが−時間を過ごす時がやってきた。
名残惜しいのは勿論だが、何時までもここの居心地の良さに浸っているわけにもいかない。俺には守らなきゃならない約束があるんだから。

「それじゃ・・・。」

 適当な言葉が思いつかない俺は曖昧な言葉を使う。すると晶子はにこりと微笑んで言う。

「行ってらっしゃい。」

 ・・・そうだ。これでさよならするわけじゃないんだ。ちょっとの間出かけるだけだ。また戻ってくるんだから、そういう挨拶で良いんだ。
晶子の挨拶に対する応えは勿論・・・。

「行ってきます。」

 俺は最も相応しい言葉を告げて外へ出ようとする。
その時、不意に腕を掴まれる。何事かと思った俺は晶子の方を向く。すると・・・!

唇に温かくて柔らかい感触が伝わってきた・・・。

 や、やられた・・・。唇から感触が消えた後、俺はそう思うしかない。周囲に人が居なかったから良いものの、なんて大胆なことを・・・。
キス自体は大胆じゃないか。もう何度もしてるから。しかし、タイミングがな・・・。本当に晶子には時々驚かされる。悪い方向じゃないから良いんだけど。

「電話、しますからね。」
「あ、ああ。待ってるからな。」

 俺は手を振って晶子から離れる。晶子はその場で手を振って俺を見送ってくれる。
その顔には笑みこそ浮かんではいるものの、何となく寂しげな雰囲気を漂わせているのは思い過ごしだろうか?
 1週間程度の距離を開けての生活・・・。何だか心にぽっかりと穴が開いたような気分がする。
まあ、毎日電話がかかってくる手筈になっているから、そこで互いの心をしっかり繋ぎ止めておかないとな。
俺と晶子の首にかかった、俺がクリスマスプレゼントで贈ったペアのペンダントのように・・・。
 姿が見えなくなるまで手を振った後、俺は自転車置き場へ向かう。
籠に鞄を放り込んで自転車置き場から自転車を押し出して通りに出る。
冬の朝の空気は冷たくて凛としている。俺はそんな空気に包まれた静かな通りを自転車に乗って走り出す。
晶子、暫く我慢してくれよな・・・。俺も我慢するから・・・。

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