雨上がりの午後

Chapter 83 募る疑問に答えはなく・・・

written by Moonstone


 俺と晶子はその後和やかに昼食の時間を過ごしたが、俺が時々今日が何の日が尋ねても、晶子はバイトが終わってから思い出してもらいます、の
一点張りで教えてくれなかった。
晶子も意外に強情なところがあるから、こりゃ晶子の言うとおりバイトが終わった後を待つしかなさそうだ。
 俺は昼食後、試験勉強を始めた。
今度は電気回路論Tと電磁気学T。共に厄介な科目だ。
正直な話、講義を聞いていても殆ど理解出来なかった。
何でも聞いた話によると、講義や教科書の演習問題から出題されるそうだから−この辺の情報は智一が意外に詳しい−、教科書の演習問題と
ノートに記録しておいた演習問題を、教科書やノート記載の公式と見比べながら解いていく。
これがなかなか厄介だが、教科書を見ながらなら解けないこともない。俺は必死に机に向かい続ける。
 ふとベッドの方を見ると、晶子がヘッドホンをしてベッドに腰掛けてCDを聞いている。
食事が済んだ後後片付けを済ませて帰るのかと思ったら、邪魔にならないようにするから居させてくれ、と言ってきた。
勉強の邪魔にならないならCDを聞くなり雑誌を読むなり好きにして良い、と俺が言ったとおり、晶子は俺の勉強の邪魔にならないようにしている。
どんな試験勉強なのか、と覗いて来るかとも思ったがそんなこともなく、俺が気にしなければ居ないも同然の存在感になっている。
流石にかつて俺をストーカーの如く執念深く追い駆けただけのことはある。
 ひととおり問題を解き終えたところで、俺はシャーペンを放り出して背骨をぐっと伸ばす。ボキボキという音がする。
時計を見ると3時を過ぎている。一息つくか、と思ったところで晶子がヘッドホンを外して歩み寄って来る。
CDを聞くことで頭がいっぱいかと思ったら、俺の様子を監視していたようだ。

「お疲れ様。コーヒーでも入れましょうか?」
「今日は俺がやるよ。晶子は客だから。」
「駄目です。今日は祐司さんは受け身に徹して下さい。」
「・・・それも今日という日絡みか?」
「ええ。祐司さんは机に座って待ってて下さいね。」

 晶子はそう言って戸棚へ向かい、インスタントコーヒーを入れる準備を始める。
一応ものは揃ってるし、コーヒーは昼の休憩の時によく飲むから−夜の休憩の時は缶ビールになったりする−晶子も所在が分かりやすい筈だ。
晶子はインスタントコーヒーが入った瓶とカップ2つ、砂糖が入った金属の入れ物とクリープを取り出して、コンロで二人分の湯を沸かし始める。
調理器具の所在は晶子の方がよく知っているから−情けない気もするが−晶子に任せておけば大丈夫だろう。
 程なく湯が沸く音が聞こえて来たかと思うとそれが止まり、何かをかき混ぜたりする音が聞こえて来る。コーヒーを作っている音だろう。
俺は背筋を伸ばして腰を左右に捻りながらコーヒーが出来上がるのを待つ。
一人だと休憩の支度とかも自分でしなきゃならないから、こういう時誰かが居てくれるのはありがたい。それが晶子なら尚更だ。
 俺は椅子から立ち上がってテーブルへ向かう。
幾ら休憩といっても、折角二人居るのにそっぽを向きながらコーヒーを啜(すす)るなんて侘びしい話だ。
俺が床に腰を下ろすと、晶子が砂糖とクリープとスプーンに続いて二人分のコーヒーを持って来て俺の向かい側に座る。
そしてそのうち一方をスプーンと共に俺の前に差し出す。
 俺が先に砂糖とクリープを入れると、晶子は砂糖だけ入れてかき混ぜてから飲み始める。
何分肩が凝る問題の連続だっただけに、コーヒーの芳香と苦みが何とも心地良い。
俺は一口飲んだところでカップを置いて大きく溜息を吐く。本当に一息ついているという実感がする。
自分一人でやってる時は試験勉強の番外編みたいな感じで何か味気なかったが、今日は晶子が作ってくれたせいだろう、本当に張り詰めていた緊張の糸が緩む。

「2時間以上もよく連続して出来ますね。私は1時間毎に休憩してますよ。」
「俺は一旦休憩すると結構長いからな。それに切りの良いところまで進めないと休憩したくないって思うから、長時間勉強、割と長時間休憩、っパターン。」
「それだけ集中力があるってことですよ。その反動が休憩時間の長さになって出て来るんですよ。」
「そうかな・・・。今日は何時も以上に集中出来た。晶子が本当に邪魔にならないようにしててくれたからな。」
「進級がかかった大切な試験の勉強を邪魔するなんて、祐司さんの彼女失格ですよ。」
「そういう気遣いが嬉しいんだよな。ありがとう。」
「どういたしまして。」

 晶子が嬉しそうに微笑む。本当に心安らぐ・・・。
晶子が居ると居ないとではこんなに違うんだな・・・。改めて俺の中での晶子の存在感の大きさを実感する。
俺はそれに依存するんじゃなくて、それに負けないだけの存在感を晶子の頭に中に示せないと駄目だな。
そうじゃないとさっき晶子が言った台詞じゃないが、晶子の彼氏失格だ。
 コーヒーを飲み終えた俺は試験勉強を再開しようと思うが、何か晶子に礼が出来ないかと考える。
昼食を作って持ってきてくれた上に休憩のコーヒーも入れてくれた。
・・・ま、俺が出来る礼といえば、ギターの音を聞かせることくらいか。
俺は徐に立ち上がると愛用のエレキギターを−晶子の家に練習する時に持っていくやつだ−ソフトケースから取り出して、アンプとパソコン、
そしてシンセサイザーの電源を入れる。

「何を演奏してくれるんですか?」
「『AZURE』のアレンジバージョン。ストリングスとかも入ってるからそれなりに様になってると思う。今まで非公開のやつ。」
「へえ・・・。」
「店じゃアコースティックギターでやるのが暗黙の了解みたいなもんだからな。データは作ったけど店に持っていってないんだ。
家で息抜きと指慣らし兼ねてたまに弾いてる。」
「じゃあ、私が初めて聞く人間なんですね?」
「そういうこと。それじゃ・・・ちょっと待って。」

 俺は起動したパソコンのマウスを操作してシーケンサソフトを起動してデータファイルをロードする。
画面に音符やコントロールチェンジ(註:MIDIでボリュームや音程を変化させたりする機能が割り振られた番号とそのデータ)があることを示す記号が
並んだのを確認して、演奏開始のボタンをクリックする。
 俺が考えた、柔らかいストリングスのイントロに続いて、俺のギターが入る。
一回目はギターのみ、二回目はストリングスとピアノとベースが入る。
そしてサビのところでドラムのシンバルワークが入り、ストリングスが勢いを増す。
俺のギターはその中にエレキギター特有の伸びと響きを使った音を漂わせる。
 ストリングスとピアノとベース、軽いドラムの音が続く中、俺の指はフレットを忙しなく動きまわり、弦を爪弾く。
ストリングスとピアノが控えめになったところがギターの独断場だ。
フレットの上を動く左手がより動きを激しくし、右手が指が残像を見せるほど早く弦を爪弾く。
俺が得意とするライトハンドを織り交ぜたフレーズが、控えめなストリングスに乗って部屋にこだまする。・・・良い感じだ。
 一旦基本フレーズに戻ってストリングスとユニゾンした後、ピアノがジャズの様相を強め始める。
ストリングスの動きも速くなる。ベースとドラムも複雑になる。
ドラムは4WAY(註:両手足を独立させて演奏する、ドラムの基本奏法の一つ)が出来ないと絶対叩けないフレーズだ。ちなみにこれは完全に俺の趣味だ。
俺はそんな中で出来るだけ滑らかに、そして軽やかに歌うようにギターを弾く。
音が伸びるところではアームも効かせて、音が生きていることをアピールする。
ここが自分でアレンジしておいて一番苦戦した、そして一番出来が良いと思っている部分だ。
何時もなら割と適当に弾くところだが、今日は晶子という大切な観客が居る。自然と気合いが入る。
 楽器全てが勢いを最大限まで持ち上げて、一転して静かな雰囲気を醸し出す。
ストリングスは控えめで音もあまり動かず、ピアノもクイ(註:コードの音の塊のこと)が中心になり、ベースは少々フレーズがあるが
ドラムは極めて控えめにシンバルワーク中心になる。
俺のギターはその中でリバーブを効かせた音を響かせる。そして細かいシンバルワークとジャズっぽいピアノとベース、
白玉(註:二分音符或いは全音符のこと)が続くストリングスの中で、俺はギターをジャズっぽくフレーズを下らせていく。
そしてストリングスとベースと共に音を伸ばしつつ自然に音が消えるのを待つ。
 音が消えて俺がギターから手を離したところで、パチパチと拍手が起こる。晶子が感動した様子で手が痛くなりそうなほど叩いている。
オリジナルとはかなり違って忙しない感じのアレンジバージョンだが、どうやら晶子には気に入ってもらえたようだ。
やっぱり人に聞いてもらって拍手をもらえるのは嬉しい。

「凄いです。こんなに凄いアレンジバージョンがあるなんて・・・。のめりこんじゃいました。」
「ふう・・・。ステージで演奏する時並に気合いが入ったよ。客が居ると違うな、やっぱり。」
「これって、お店に持っていくつもりはないんですか?」
「店じゃアコースティックギターの音が染み付いちゃってるからな。多分変に聞こえるから持っていくことはないと思う。」
「じゃあ、私だけが聞けるんですね?」
「そうだな。そういうのもあって良いだろ?」
「本当は私が祐司さんを感動させなきゃならないのに、不覚にも感動させられちゃいました。」

 俺を感動させる・・・?これも今日という日と意外性とやらに関係があるんだろうか?
バイトが終われば分かることらしいが、今知りたいことには変わりはない。
知りたいと思うほどその気持ちが膨らんで来る。俺に関係があるということなんだから必然的と言えるだろう。

「なあ、晶子。俺を感動させる必要があるっていう今日は、一体何の日なんだ?」
「バイトが終わったら必ず思い出しますよ。」
「そういう意味ありげな言い方されると余計に気になって仕方ない。教えてくれよ。」
「覚えてないから意外性があるんですよ。今教えちゃったら折角のそれが台無しになっちゃいますから。」

 晶子は禅問答みたいな言葉で巧みに俺を逸(はぐ)らかす。策士の晶子に俺が適う筈もないか・・・。
俺は溜息を吐いてギターを片付けにかかる。
ストラップから体を引き抜いてそのストラップを外して、ソフトケースに仕舞う。
シンセサイザーのボリュームを最小限まで絞って電源を切り、最後にパソコンのシーケンサソフトを終了させて電源を切る。
これで片付けは終了。ついでに息抜きも終了だ。
 時計を見ると3時半を少し過ぎたところだ。
バイトに出掛けるのは余裕を持って5時40分頃にしているから、まだ2時間ほどある。
今度は教科書やノートの公式なんかを見ずに演習問題を解けるかどうかを試すことにするか。2時間あればそれなりに出来る筈だ。
あとは帰宅してからと明日に振り分ければ準備は整うと思う。

「じゃあ、俺は試験勉強の続きをするから、5時半になったら教えてくれないか?」
「ええ、分かりました。後片付けもしておきますね。」
「頼むよ。」

 晶子がカップなどを片付け始めるのを見て、俺は放り出したシャーペンを持ってまずは電気回路論Tの方から試験勉強を再開する。
先にルーズリーフの楽譜に演習問題の文と図を書き出して、それが終わったら教科書を閉じて解答にかかる。
背後で食器が軽くぶつかり合う音が聞こえるが、気になるほどのレベルじゃない。それより記憶が新鮮なうちに問題を解くのが先決だ。
 俺はシャーペンを動かす手を度々止めて、考え思い出ししながら解答していく。
公式はややこしいがある程度法則性があるから、それを掴んでしまえば一つの公式から芋蔓(いもづる)式にずるずると引っ張り出せる。
記憶にある公式を変形したり数値を当て嵌めたりしながら、一つ一つ問題を解いていく。・・・これはどうにかなりそうだな。
 概念を理解しているかどうかと言われると困ってしまうが、兎に角今は目先の試験という大きく険しい山を突破するのが先だ。
高校時代、一応物理は得意科目だったから−周囲からはよく変人扱いされたが−、公式だけ覚えているというわけでもない。
概念がどうも掴み辛い個所があるというくらいのものだ。
 どうにかひととおり解き終えた。
やはり公式や定義を覚えきれてなかった部分があってどうしても解けなかったものもあるが、大体2/3は完全に解答出来た。
さて、答え合わせをするか・・・。
講義中必死に取ったノートにある解答を見ながら答え合わせをしていく。
・・・結構出来ている。「○○の定義『・・・』を利用して」とかいう部分をそっくりぬかした部分が幾つかあるが、そういうのはまあ別として、
どうにか解答に行き着いている。
概念の理解に苦しんだ辺りは流石に正解率が悪い。数値計算をするだけの部分にも関わらず、てんで違う値になっていたりする。
この辺を特に念入りに復習する必要がありそうだな。
 続いて電磁器学Tに取り掛かる。
これは概念が分かり辛いところが多いので−無限大とか言われてもピンと来ない−かなり苦しむことになりそうだ。
少なくとも高校の物理の延長線上にあるようなところはきちんと押さえてあるつもりだ。明日はこれに大きく時間を割くことになりそうだな。
教科書の例題や演習問題を見ながら−例題は勿論解答を見ないように−懸命に公式や定義と格闘する。
やっぱり厄介だ。今までの試験の中では電子回路論Tと同じくらい、否、それ以上に突破が難しそうだ。だったら尚更しっかりやらないとな・・・。

「祐司さん。時間になりましたよ。」

 ようやく1/4程問題を解いたところで晶子から声がかかる。
それまで張り詰めていた緊張の糸がぷっつり切れて、俺はシャーペンを放り出して背筋を伸ばしながら溜息を吐く。
これはまだまだ勉強が足りないな。範囲が広いくせに講義の内容が教科書そのまま、という感じだったから自分で補うしかない。
この辺が高校時代と大きく違う。
 高校時代はご丁寧にも補講やらペナルティーが−問題集を解いて提出するとか−あって、それをすれば済んだが、大学はそうはいかない。
電磁気学Tには追試はないそうだし、これは必須科目だから単位を落としたら2年から3年へ進む時に留年へ一歩近付くことになる。
留年は不可だから−4年分しか学費は用意しないと言われている−自力で何とかするしかない。
ま、帰ってからと明日に大きく時間を割いてしっかり取組むか。

「もうそんな時間か・・・。早いなぁ。」
「CDだと大体2枚半ってところですけど、その間、祐司さん、ちっとも視線を机から逸らしませんでしたね。」
「一応本番を想定してるからな。本番で視線をあちこち動かしてたらカンニング扱いされて失格決定になりかねない。」
「本当に凄い集中力ですね。こんなことを試験開始からずっとやってきたんでしょ?私じゃ到底ついて行けませんね。」
「新京大学の理系学部は試験が厳しいって聞いてたし、それを承知で受験して入ったんだから今更文句言っても始まらないさ。」

 俺が席を立とうとすると、晶子が俺の元に駆け寄ってきて俺の両肩を軽く下に押す。
座ったままで、という意味だろうが、一体何だろう?

「肩凝ったでしょ?マッサージしますから。」
「出来るのか?」
「ええ、一応。短時間コースで行きますね。料金は勿論無料ですから。」

 苦笑いして椅子に座り直した俺の両肩を、晶子がゆっくり揉み解しはじめる。
意外に握力があるのか、それとも俺の肩がそれだけ凝っていたのかは分からないが、かなり痛く感じる。
だが、痛みの中で次第に肩が軽く感じてきたのは事実だ。どうやらかなり本格的なマッサージらしい。

「はい、おしまい。どうですか?」

 晶子が俺の両肩から手を離して問い掛ける。
俺は右肩から左肩の順で交互に回して感触を確かめる。
確かにマッサージ前よりぐっと楽になった。俺は立ち上がって晶子に言う。

「驚いた。凄く軽くなった。今まで自分の手で揉んだり湿布を貼るしかしなかったけど、それよりずっとすっきりした。」
「本を読んで覚えたんですよ。人にするのは今日が初めてですけどね。」
「へえ、本からか・・・。色々な本読んでるんだな。流石は文学部。」
「単に本を読むのが好きなだけですよ。それでたまたまマッサージのやり方みたいな本を読んで、試験勉強の休憩の時に自分で試して覚えたんです。」
「助かった。これで肩凝ったままバイトに出掛けなくて済むよ。」

 俺は部屋の鍵を取って、少し屈んで晶子の頬に唇を軽く押し付ける。
晶子は驚いた様子でキスをした右頬に手をやって俺を見るが、直ぐにそれは嬉しそうなものに変わる。
俺からアクションを起こすことはあまりないから、予想外だっただろうし、多分嬉しかったんだろう。

「たまには良いだろ?」
「・・・嬉しい・・・。また感動させられちゃいました。」
「さ、行くか。今日が何の日か、早く知りたいし。」
「ええ。」

 俺は戸締まりを確認してから先に晶子を外に出して、続いて俺が出てドアの鍵を閉める。
鍵をズボンのポケットに仕舞って晶子と並んで歩き始める。
・・・そう言えば、晶子は持ってきた重箱を持ってないな。俺の家に寄って片付けるつもりなのか?
まあ、迷惑じゃないし、そこまで水道代をケチらないから、それならそれで構わないが。
 問題は今日が一体何の日なのか、ということ。これに尽きる。
晶子に聞いてもバイトが終わるまでは絶対に口を割らないだろうし・・・。
そうだ、マスターか潤子さんに聞いてみよう。もしかしたら何か知ってるかもしれない。
時間が過ぎるのが待ち遠しいとこれほど思うのは、恐らく初めてなんじゃないかな・・・。

 カランカラン。
聞き慣れたカウベルの音が夕暮れ時の空に響く。俺と晶子のバイト先「Dandelion Hill」で人を出迎える最初の音だ。
その音で、それまで俯いていた頭がむっくりと起き上がり、髭をたっぷり蓄えた顔がその様子に似合わない微笑みで俺と晶子を出迎える。

「「こんにちはー。」」
「おっ、今日は二人一緒か。潤子はもうすぐ来るだろうから、何時もの席に座ってなさい。」
「「はい。」」

 俺と晶子は正面にあるカウンターの、何時もの椅子に腰掛ける。
場所は中央付近、俺の左隣に晶子がいる。これも何時もの週末と変わらない。
再び俯いたマスターの方から水の音がする。どうやら洗い物をしているらしい。
コーヒー作りが主な仕事というか、接客以外はほぼそれだけしかしないマスターにしては珍しい。
まあ、俺と晶子が居ない間は潤子さんと二人で切り盛りしてるんだから、やらざるをえない時は当然あるだろう。

「祐司君、晶子ちゃん、こんにちは。」

「あ、こんにちは。」
「こんにちは。」
「今から夕食準備するから、もうちょっと待っててね。」

 髪を後ろで束ねた、たんぽぽの刺繍が施されたエプロンを着けた潤子さんが駆け寄ってきて、俺と晶子の後ろを通り抜けてカウンターの隅から中に入る。
そして休む間もなく夕食の準備に取り掛かる。これも何時もと変わらない。
待ち受けている忙しさを前にした、ひとときの安らぎの時間。
さて・・・役者が揃ったところで早速聞いてみるか。

「マスター、潤子さん。一つ聞きたいことがあるんですけど。」

 俺が話を切り出すと、マスターと潤子さんが手を休めて俺の方を見る。

「ん?何だ?」
「どうしたの?」

 二人が尋ねてきたところで、俺は少し身を乗り出して単刀直入に質問を投げかける。

「今日って何の日か、知ってますか?」

 これで長々と心に引っ掛かっていた謎が明らかになる。そう思ってマスターと潤子さんの言葉に期待を寄せる。
すると、マスターと潤子さんは顔を見合わせて、意外そうな表情で答える。

「・・・敬老の日の翌日だろ?」
「別に旧盆でも何でもない、普通の土曜日だけど・・・?」

 何だか聞いた俺が間抜けに思えて来た。
・・・否、絶対何かある。
晶子は、覚えてないみたいですね、とか、覚えていないことで意外性が増す、とか言っていた。何もない筈がない。きっと何か隠してるに違いない。
この謎を解く鍵は二人が握っているに違いない。晶子が頑として教えてくれない以上、二人から聞き出すしか謎を解く術はない。
俺は重ねて問い掛ける。

「いや、だって晶子は今日、出し抜けに俺の家に弁当を持ってきてくれて、そこで『今日が何の日か覚えてますか?』って聞いてきて、
俺が覚えがないって答えると呆れたような顔をされたんですよ。何かあるんでしょ?ねえ。」
「井上さんがそう言ったからって、俺と潤子に聞かれてもなぁ・・・。」

 俺の問いにマスターは困ったような顔をして洗い物を再開する。
マスターは駄目か。となると潤子さんしか居ない。俺は潤子さんに目で回答してくれるように訴えかける。

「・・・さあ。別に思い当たることはないけど。」

 潤子さんは首を傾げてそう言うと、夕食の準備を再開する。
隠してる。絶対何か隠してる。・・・もしかして、晶子と口裏合わせをしてるんじゃないか?
策士としては相当な晶子のことだ。可能性がないとは言い切れない。だがこれ以上マスターと潤子さんに尋ねても逸らかされるのがオチだろう。
うー、気になって気になって仕方がない。
 俺はテーブルを人差し指で叩きながらあれこれ考える。
敬老の日の翌日・・・。そう言えば、昨日は休みだってことで昼まで寝てたな。それは今日も変わらないか。
コンビニに弁当を買いに言ってそれを食ってから試験勉強をして、5時半過ぎに着替えてバイトに出掛けて、ここで晶子と合流したよな・・・。
晶子が弁当を作ってきてくれて一緒に食べたこと以外は今日と同じだ・・・。
うーん・・・。何かあったような気がしないでもないんだけどな・・・。
 ふと潤子さんの方を見ると、フライパンに落とし蓋をして蒸し焼きしている間にポタージュスープを温めつつサラダを作っている。今日は洋食系か。
昨日の夕食はキノコの炊き込み御飯と吸い物に、胡瓜ともずくの酢の物と漬物だったな。
・・・って、こんな事はしっかり覚えてるくせに、今日は何の日かまったく思い出せないっていうのはどういうことだ?俺の頭の構造を疑ってしまう。

「はい、お待たせ。」

 俺が尚を考え込んでいるところに、潤子さんがトレイに乗せた夕食を差し出して来る。
俺はありがとうございます、と言ってそれを受け取る。その時、潤子さんが俺に向かって口を開く。

「晶子ちゃんは、祐司君が覚えてない、って答えた後で何か言ったの?」
「え?あ、えっと・・・『バイトが終わったら思い出してもらいますよ』みたいなことを・・・。」
「じゃあ、その時まで我慢するしかないわね。」

 潤子さんに言われて、俺は沈黙するしか出来ない。
凄くもどかしい気分のまま、俺はいただきます、と言って夕食を食べ始める。
今日のメインは鳥肉のソテーか。表面が黄金色になっているのは、食べてみて卵のせいだと分かった。
でも今日が何の日なのかは一向に分からない。何かこう・・・喉元まで出てきてるんだけどそこで引っ掛かってると言うか・・・
そう表現するのが相応しい気分だな。
 食べつつも必死で考える。
晶子と関係がある日じゃないことは確かだ。俺と晶子が出会ったのは忘れもしない10月11日の夜。場所は何時ものコンビニ。
それはあと1ヶ月くらい先のことだからそれはそれとして・・・。
うーん・・・。どうしても引っ掛かって出てこない。何かあった筈だ。何か・・・。

「井上さんが思い出させてくれるって言ってるんだから、その時まで期待して待ってる方が良いんじゃないか?」

 不意にマスターが言って来る。
ふと晶子の方を見ると、かなり食べ終わっている。一方の俺はまだ半分も食べていない。
それだけ考えることで頭がいっぱいで食が進んでなかったってことか。

「・・・ねえ、マスター。それに潤子さん。まさかとは思いますけど、晶子と何か裏取り引きしてるんじゃないでしょうね?」
「別に。」
「裏取り引きって・・・悪いことするわけじゃないんだから。」

 マスターはあっけらかんと言い、注文の品らしいスパゲッティを茹でていた潤子さんは苦笑いして言う。
俺は首を傾げつつ食事を再開してスピードを上げる。
とりあえず考えるのは後にしよう。食事が終わったら着替えてバイトの始まりだ。
ここには客としてきたわけじゃなくてバイトしに来たんだから、何時までも考え事をしているわけにはいかない。
引っ掛かりが残るのはもどかしくてならないが、マスターの言ったとおり、晶子が思い出させてくれるのを待つのが賢明なようだ。
 俺は晶子とほぼ同じに食事を終えて、ごちそうさまでした、という言葉と共にトレイを差し出す。
潤子さんは料理の手を休めてそれらを受け取って流しに置いて水を張る。
晶子は席を立って自分のエプロンが掛けてある場所へ向かい、俺はカウンターから中に入って奥に着替えに行く。これも何時もどおりだ。
変わったこと、つまり今日が何の日が判らないことを除けば、そんなことは一つもない。さて・・・今日もバイトに励むか。

このホームページの著作権一切は作者、若しくは本ページの管理人に帰属します。
Copyright (C) Author,or Administrator of this page,all rights reserved.
ご意見、ご感想はこちらまでお寄せください。
Please mail to msstudio@sun-inet.or.jp.
若しくは感想用掲示板STARDANCEへお願いします。
or write in BBS STARDANCE.
Chapter 82へ戻る
-Back to Chapter 82-
Chapter 84へ進む
-Go to Chapter 84-
第3創作グループへ戻る
-Back to Novels Group 3-
PAC Entrance Hallへ戻る
-Back to PAC Entrance Hall-