雨上がりの午後

Chapter 72 昇華されかけていた過去との遭遇

written by Moonstone


 宿を出た俺と晶子は、並んで海へ向かう。
海との距離が近づいても歓声やざわめきは聞こえてこない。どうやら殆ど人気はないようだ。
臨時に設けられた更衣室の前で一旦俺は晶子と別れる。
一緒に着替え・・・なんてして、もし誰かに見つかったらひと騒動起こりかねない。ここは妙な欲望に身を任せないのが賢明だ。

「それじゃ、昨日のところで待ち合わせような。」
「はい。また後で・・・。」

 俺と晶子は小さく手を振って更衣室に入る。更衣室の中には2、3人若い男や中年男性が居るくらいでひっそりしている。
俺は後で分かりやすい、端の方に陣取ってクーラーボックスを床に下ろし、手早く着替える。
換気があまり良くないせいか、この中は蒸し暑い。外の方がむしろからっとしていて気持ちが良い。
 着替えが済むと、俺はジャンパーを羽織り、再びクーラーボックスを肩にかけて外に出て、昨日と同じ場所、とある海の家の傍へ向かう。
晶子の姿はまだない。女は男より着ているものが多い分だけ時間がかかるんだろうな。こういう時、手っ取り早く出来る男に生まれて良かったと思う。

「祐司さーん!」

 5分ほど経っただろうか。背後から俺を呼ぶ声がする。
振り返って見ると、昨日とは違ってジャンパーのファスナーを開け放った晶子が手を大きく振りながら俺の方へ走ってくる。
その表情はこれも昨日の最初の頃と違って快活そのもので、見ているこっちも晴れ晴れとした気分になる。

「遅くなって御免なさい。」

 ビーチパラソルを担いで来た晶子は俺の傍まで走り寄ると、肩で息をしながら言う。
1時間も2時間も待たせたわけじゃないんだから、謝らなくても良いのに・・・。

「いや、俺も少し前に来たばかりだから。それより、行こうか。」
「はい。」

 俺は晶子と一緒に浜辺へ向かう。一望した限り、浜辺には殆ど人影はない。
俺達一行と同様の泊り込みの客でも、朝から海に繰り出そうとは思わないんだろうな。
日帰りのカップルや友人同士、家族連れとかは昼前にどどっと雪崩れ込んでくるだろうから、今は殆どプライベート・ビーチと言って良いくらいだ。
 俺は待ち合わせ場所の海の家から少し離れたところ、浜辺の大体真中辺りに来て晶子からビーチパラソルを受け取って広げてから砂に突き立て、
そこに出来た円状の影の下に肩にかけていたクーラーボックスを置いて、準備完了。絶好の位置に場所を確保することが出来た。
 砂は熱いが、ビーチサンダルを履いてないとおちおち歩けやしないというほどのものじゃない。
夜の間に熱を奪われた砂は、まだ夏の熱気を十分に吸い取ってはいない。
俺は結構重かったクーラーボックスを抱えてちょっと疲れた体を休めるために、砂の上に腰を下ろす。晶子はそれに倣って、俺の左隣に腰を下ろす。
寄せては返す波の音が良く響く、静かで穏やかな時間が流れていく。

「夏で静かな浜辺なんて、珍しいですね。」

 晶子が話し掛けてくる。俺は人影少ない海を見ながらそれに応える。

「時間が時間だからな。でも、何か優雅で良いよなぁ。」
「プライベート・ビーチって、こんな感じなんでしょうかね?」
「まあ・・・少なくとも海と砂浜を見る限りはな。」
「どういうことですか?」
「プライベート・ビーチに海の家はないってこと。」

 俺が右手の親指で後ろを指し示すと、晶子はくすっと笑う。
プライベート・ビーチがあるような高級リゾート地に行ったことなんてないから絶対、と言うことは出来ないが、まず−失礼だが−木造の民家を
持って来て改造したような娯楽施設はないだろう。
 それにしても、本当に人は少ない。昨日の混雑を考えると、それこそプライベート・ビーチに来たような気にさせられる。
波が高い場所ならサーファー連中が波乗りをしてても不思議じゃないが、こういう穏やかな波の場所にはそういう輩は出没しない。
まあ、昨日晶子に声をかけてきたようなナンパ目的の男は共通して存在するだろうが。

「・・・海に入るか?」
「そうですね。折角朝から来たんですから、混雑しないうちに楽しんじゃいましょうよ。」
「よし、じゃあ行くか。」

 俺は晶子の手を取って立ち上がり、海へ走っていく。晶子は直ぐに俺の横に付いて楽しそうに微笑む。
俺と晶子は海に足を踏み入れる。まだ十分に熱気を吸い込んでいない海水は意外とひんやりしている。
照りつける日差しがそろそろ本格的に熱くなってきた今は、そのひんやり感が気持ち良い。
 俺と晶子は腰まで海水に浸かるくらいの場所まで入って、互いに手を離して距離を置く。
早速晶子から日光を受けてきらきら輝く水の洗礼が来る。俺はそれを正面からまともに受けて、あっという間に全身水浸しになってしまった。

「やったな、このっ!」

 俺は声こそ張り上げるが顔は笑いながら、晶子に腕全体で掬った水を浴びせ掛ける。
白く輝く水飛沫が晶子を覆い尽くし、水飛沫が消えた後には、俺と同じく全身ずぶぬれになった晶子が立っていた。勿論、その顔から笑顔は消えてない。

「あはは、やられちゃったぁ。お返ししますよー!」
「何のっ!」

 俺と晶子は歓声を上げながら水を掛け合う。
人気の少ない海で自分の彼女と海で戯れる・・・。これだけでも楽しい夏の記憶が出来る。
今までの分を含めて思い出が積み重なっていき、今が楽しくて幸せなら、それで十分だ。

 それから暫くの間、俺と晶子は水を掛け合ったり一緒に沖の方まで泳いだり潜ったりして−昨日と同じく、海中でのキス呼吸もあった−存分に遊び、
一旦海から上がることにした。
長い間水に使っていたせいで身体が結構冷えたし、何より存分に遊んだからここらで一息入れた方が良いだろうと思ったからだ。
 俺と晶子が海で遊んでいる間に、砂浜も随分混み合ってきていた。
俺と晶子が来た時には2、3しかなかったビーチパラソルが幾つも花咲き、浜辺では俺と晶子と同じように水を掛け合ったり、
ビーチボールで遊んでいるカップルや友人らしい数人の団体、家族連れの姿が見える。
砂浜では子どもが城や堤防を作って、それが波で流されまいと懸命に「工事」している様子も見えて微笑ましい。
 混み合ってきたとはいえ、まだ自分達の場所がそう簡単に分からないというほどじゃない。
俺と晶子は人波を避けながら主が居なくなって久しいビーチパラソルの下へ戻る。
念のためにクーラーボックスの中身を確認してみるが、ちゃんと中身はある。モラルなき社会といわれて久しいが、まだまだ捨てたもんじゃない。
 クーラーボックスの蓋を閉じると、俺は晶子の隣で改めて溜め息を吐く。
目の前には海は殆ど見えない。代わりに人の波が左右に行き交う。
まだそんなに腹は減ってないが、10時か11時前くらいだろうか?
時計を持ってないから混雑具合と自分の感覚で推測するしかないが、後者は楽しい時間を過ごした後だからあまり当てにならない。
 俺の肌に纏わりついていた水分が、熱気でじわじわと空中に吸い取られていくのが分かる。いよいよ夏本番、といったところか。
賑わいを見せる砂浜からは、俺と晶子が来た時のプライベート・ビーチの雰囲気はすっかり消えて、日本の夏の海の風景そのものになっている。
まあ、これはこれで悪い気はしないんだが。

「熱くなってきましたね。」
「そうだな。人の熱気もあるかもしれないけど。」

 熱気の増大にしたがって濡れた肌や髪と同様に乾いてきた喉を潤そうと、俺はクーラーボックスの蓋を開けて、オレンジジュースの缶を2つ取り出す。
ちなみにクーラーボックスの中身にアルコールの類はない。酒を飲んで水に入るのは生命の危険に関わる、という潤子さんの指摘によるものだ。
その点に関して、酒飲みのマスターや俺は反対しなかった。無論、晶子もだ。
酔っ払って海に入ったらどざえもんになりかねないことくらい、知っているつもりだ。

「はい、どうぞ。」
「あ、ありがとうございます。」

 晶子は最初ちょっと意外そうな顔をしたが、直ぐに笑顔に戻って俺から缶を受け取る。
まさか俺がジュースの缶を取って渡すとは思わなかったんだろうか?
まあ、普段の生活から考えれば、俺の方からアクションを起こすことが少ないから驚いても当然といえば当然かもしれない。
 プルトップを開けてジュースを軽く喉に流し込む。酸味と甘味が混じった冷たさが喉を通って腹全体に染み渡る感じがする。
夏には冷たい飲み物が良く似合う。ただ、こういう飲み物は後で口に甘味が残るのが欠点なんだよな。
その点、熱い茶なんかは飲む時は熱いが、後味はさっぱりする。
 のんびり行き交う人波を眺めながら休息を取っていると、数人の若い女の集団が視界に入る。
どれもが男の目を誘うような派手で大胆なカットの水着を着ている。

・・・あれ?何処かで見た覚えがあるような、ないような・・・。

そう思っていると、その集団の一人がふと俺の方を向いて、目を丸くして俺を指差す。

「あ、安藤君じゃないの!」
「え?あ、本当だ!久しぶりー!」
「・・・誰だ?あんたら。」
「あ、覚えてないのも無理ないか。あたし達の存在はあの娘(こ)の陰に隠れて消え失せちゃったってとこね。」

 俺はその集団を見ながら記憶の棚を引っ掻き回す。
・・・確かに見覚えがある。何時だったか・・・。
最近じゃない。もっと前、・・・高校時代に関係する奴等か?
集団・・・。俺の名を知ってる・・・。
!もしかして、こいつら・・・。

「ちょっと、あの娘何処行ったの?」
「あ、また男に引っかかってる。ちょっと待っててね。引き連れてくるから。」

 そう言い残してその集団はもと来た道を急いで引き返していく。俺はただ呆然とそれを見送るしか出来ない。
記憶の底からある場面が鮮明に浮かび上がってきた。間違いない。あの集団は・・・!

「祐司さん。あの女性(ひと)達、誰ですか?」

 当然、隣に居る晶子が尋ねてくる。俺は緊張か何かで強張った視線を晶子の方へ向けられないまま答える。

「・・・高校の同期の奴等。」
「その割には祐司さん、顔が強張ってますよ。」
「そりゃそうだろうな・・・。あの集団が居るってことは、つまり・・・。」

 答えが核心に入りかけたところで、さっきの集団が一人の女を引っ張って戻ってきた。
俺は声を上げることも出来ない。集団はその女を俺の正面に立たせる。女は緊張した面持ちで突っ立っている。
肩口で切り揃えた髪、この顔、このスタイル。忘れようにも忘れられない。
隣で晶子があっ、と驚きの声を漏らす。
そりゃ当然だろう。俺だってまさかこんな場所で出くわすなんて想像もしなかったんだから。

「祐司・・・。久しぶりね。」
「・・・宮城・・・。」

 そう、集団が俺の目の前に引っ張り出したのは紛れもない、宮城優子だ。
久しぶり、とか気軽に声をかけようにも喉につっかえて出て来ない。否、無意識に言葉を出すのを拒否しているのかもしれない。

「何で・・・此処に?」
「あたし達、この4月に久しぶりに集まってね。折角だから泊りがけで何処か行かない?ってことになって、此処に来たのよ。
海なんてここ数年行ってなかったし、丁度良いかなって思って。」
「で、その時に優子から安藤君と別れたって聞いてさ。あたし達びっくりして事情を聞いたの。そしたら何でも、安藤君の気持ちを確かめたくて
別れ話を電話口で切り出したら本気に取られちゃったって言うじゃない。優子は別れたくないって言ってるし、この際よりを戻したらどうかな、なんて。」

 何を今更・・・!一度は「身近な存在」とやらに惹かれて、俺との待ち合わせに思いっきり遅れたばかりか、「疲れた」とか言って別れを暗喩したのは一体誰だ?!
それにあの夜の電話で「別れた」後、その「身近な存在」とやらと付き合ってこれも別れて、就職活動の移動ついでに俺が居る町に来て、
晶子と映画を見に行った帰りに偶然出くわした俺とやり直したいって言い出したんじゃないか!
その辺の経緯も友人に話さないで単に俺とよりを戻したいだなんて、勝手過ぎるにも程がある!

「そんなこと出来るかよ。試しか何だか知らんが、その電話の前に別れ話を持ち出したのはそっちだ。俺は電話でその時と同じような形で
別れ話を切り出されたから、もう終わった、と思ったんだ。その辺の事情は知ってんのかよ?」
「それは・・・初めて聞いた。」
「だろうな。自分の都合の良いところしか話さないで俺とよりを戻したいなんて、勝手も良いところだ。・・・もう行ってくれ。これ以上思い出を
ぶち壊しにされたくない。」
「ちょっと待ってよ。同じ形で別れ話を持ちかけられたからもう終わった、って思ったのは安藤君の思い違いじゃないの?」
「思い違いと言えばそうだけど、人の気持ちを試そうなんて方が問題なんじゃないのかよ。それにさっきも言ったとおり、そいつは実際俺と別れた後に、
別れ話の時に存在を仄めかした「身近な存在」とやらと実際に付き合ってたんだ。これが関係が切れたって言う以外、どう言えば良いんだ?」

 俺の語気がどんどん荒くなっていくのが自分でも良く分かる。
折角良い思い出になっていく過程を辿ってきたっていうのに、また現れてよりを戻したいだなんて言うもんだから、苛立ちが増してくるのも当然だ。
 女の集団からの返答はない。筋が通ってるのは客観的に見ても俺の方だ。
関係が切れることが予想外だったとはいえ、実際に別の男と付き合うようになったなら、関係が切れたと宣言してるようなもんじゃないか。
それを俺の思い違いが原因だ、なんて勝手なことを言われては困る。

「・・・祐司。あの時は完全に私が悪かったって思ってる。」

 それまで黙って突っ立っていた優子が口を開き始める。

「人の心を試そうなんて馬鹿げたことした、って後悔してる。私、その人とも完全に別れたし、その人と付き合ったのも祐司と別れる羽目になった
寂しさを紛らわせるためだった。本当に御免なさい。だから・・・もう一度私と・・・。」
「それは・・・」
「出来ない相談だ、って、まだ分からないんですか?」

 俺が言おうとしていたことを、晶子が遮って言う。
思いがけない方向からの「援護」に、宮城の顔が驚きから険しいものに変化する。
宮城にとってみれば、晶子は自分の目が行き届かないうちに俺を奪った泥棒猫という感覚なんだろう。
もっとも、明らかに関係が切れて、その後で付き合い始めたんだから、晶子が泥棒猫呼ばわりされる筋合いは何処にもない。

「安藤君。その女性誰?」
「今、付き合ってる相手だよ。付き合い始めて約7ヶ月ってとこ。」
「7ヶ月ってことは・・・去年の終わりか今年の初めくらい?」
「そう。」
「じゃあ、まだ日は浅いんだ・・・。」

 まだ日が浅いのは事実だが、それを口実にして宮城とよりを戻せ、なんて言っても無理な話だ。
俺は晶子と別れる気は毛頭ないし、第一、宮城とよりを戻すつもりはさらさらない。
俺を「切った」理由が初詣で出くわした時にはっきりした以上、もう昔の良い思い出として記憶のアルバムに残しておきたいんだ。
 宮城は唇をぎゅっと結んで晶子を睨んでいる。対する晶子も厳しい表情で宮城を見据えている。
一人の男を巡って今の彼女と元彼女が争う、なんて図式は傍目には羨ましく見えるかもしれないが、当事者にとっては緊迫感と険悪な雰囲気ばかりで
良いことなんてこれっぽっちもない。

「・・・私は祐司と話してるのよ。邪魔しないでくれる?」
「前にも私、言いましたよね?貴方の言い分は勝手過ぎるって。一度別れ話を切り出して、相手の気持ちを試そうと思って同じように別れ話を切り出して、
挙句の果てには別の男の人とお付き合いして、その人と別れたからもう一度、なんて貴方、祐司さんを何だと思ってるですか?」
「しつこいわね!私はあんたとじゃなくて、祐司と話してるのよ!」
「しつこいのはどっちですか!祐司さんを散々弄んでおいて会う度によりを戻した言って言う方が、よっぽどしつこいじゃないですか!」
「安藤君。その女性、私達より年下なの?」
「その逆。俺より1つ上だよ。・・・晶子がそう呼ぶって言ったんだ。」
「年下相手に『さん』付けか・・・。随分腰の低い人ね。」

 腰が低いからじゃなくて、祐司、って呼ぶのは宮城と同じになるから嫌だってことで祐司さん、って呼んでるんだ。
それに晶子はかなり躾が厳しい家で育ったみたいだから、敵相手でもですます調で喋ってしまうんだろう。
 周囲を見ると、やはり俺達の方にかなりの視線が向いているみたいだ。
そりゃ、こんな状況を見れば成り行きを見たくなるのも無理はない。
だが、これは見世物じゃないんだ。
宮城とはもう終わったんだし、晶子との時間をこれ以上邪魔されたくない。
ここはやっぱり当事者である俺が、譲り合う筈がない闘いに終止符を打つべきだろう。俺だってこんな喧嘩に巻き込まれるのはまっぴらだ。

「宮城。俺は前にも言った筈だぞ。お前とはもう終わったんだ、ってな。どんな事情や思惑があったにせよ、お前が俺を切って別の男と付き合ってた
事実がある以上、やり直そうなんてどだい無理な話だ。それに見てのとおり、俺には新しい彼女が出来た。もうお前の割り込む余地はない。
俺のことはすっぱり諦めて別の相手を探しな。その方がお前のためにもなる・・・。」
「・・・諦められる筈ないでしょ?私の中じゃ終わってないんだから。」
「俺の中で終わらせたのは宮城、他ならぬお前自身だろ?電話口で別れ話を蒸し返して俺がこの前会ったのに、って言っても、お前は
『御免なさい。でももう疲れた』って言ったじゃないか。お前は言った覚えがないって言うかもしれないが、言われた俺は今でも覚えてる。
あの時のショックと一緒にな。」
「・・・それは・・・本当に悪かったと思ってる。」
「悪かったと思ってようが何だろうが、その電話で俺を切った後、最初に別れ話を切り出した時に存在を仄めかした『身近な存在』とやらと付き合ったんだろ?
それはどう説明するんだ?気持ちが切り替わったからじゃないのか?お前はさっき寂しさを紛らわすためとか言ったけど、俺への気持ちが続いていたのに
その『身近な存在』とやらと付き合ってたなら、お前は二股かけたことになるんだぞ。違うか?」
「それは・・・。」
「どう言い訳しても、お前の気持ちが俺から離れて、あの夜の電話で俺とお前の関係は終わった。俺は今までの経緯からそう解釈した。
そして実際、お前は別の男と付き合って別れて、俺はお前と切れて間もなく知り合ったこの娘、晶子と去年の終わり頃から正式に付き合い始めた。
これが事態の大まかな流れだ。だからもう、お前の入る余地は何処にもない。・・・諦めな。」
「ちょ、ちょっと安藤君。確かに話を聞いてみて、優子が安藤君に悪いことをしたとは思うけど、そんなに綺麗さっぱり優子を捨てられるわけ?
あんた達、学校中で知らない人は居ないぐらい仲良かったじゃないの。」
「綺麗さっぱり?そんなわけないだろ。俺はあの夜の電話の後で、自棄酒飲みながら宮城絡みのものを全部この手で叩き壊して引き裂いたんだからな!」
「「・・・。」」
「それから暫く女なんて信じられなくなったさ。俺の隣に居る晶子が好意を寄せてきても全部突っぱねたんだ。でも、時間が経つにつれて宮城とのことが
良い思い出だけ残るようになってきて、去年の終わり頃になってようやく、俺は晶子の気持ちを受け入れて、同時に自分の気持ちも認めたんだ。
俺は晶子が好きなんだ、っていう気持ちをな。」
「「・・・。」」
「ようやく気持ちの整理がついてきたところだったんだ。良い思い出だったな、と思えるようになってきたところだったんだ。
なのにまた話を蒸し返しやがって・・・!いい加減にしてくれ!また憎しみを湧き出させるつもりなのかよ!」

 俺は思いの丈を宮城にぶつける。宮城は困惑した表情で俺を見ている。
まさかこんなにきっぱりと自分を拒否するとは思ってなかったというところか?
初詣で出くわした時にもお前との関係は終わった、って言って俺が拒否したこともすっかり忘れて、尚も俺との復縁を希望してるのか?
だったら何で・・・あの夜あんな馬鹿げた真似をしたんだ?
直ぐに前言撤回の電話もしてこなかったくせに、その上『身近な存在』とやらと付き合ってたっていうのに、よくいけしゃあしゃあと
よりを戻したいなんて言えたもんだ。
 ・・・駄目だ。また以前のように腹の底からどす黒い感情が湧き出してきた感じがする。
このままじゃ良い思い出にするどころか、また女に対する疑心暗鬼が生じてしまう。
そうなったら晶子すら信用できなくなっちまう。このままこうして宮城と向かい合ってるのは得策じゃない。

「もう俺の前に現れないでくれ。これが最後の頼みだ。」
「祐司・・・。」
「晶子。ちょっと早いけど宿へ戻ろう。」
「あ、はい。」

 俺と晶子は立ち上がり、俺は晶子の手を取って−こうしていないと不安で仕方がない−足早に立ち去る。
俺を呼び止める声は聞こえない。宮城、このまま俺のことは良い思い出に留めておいてくれ。頼むから・・・。
 俺と晶子は砂浜を横切り、防波堤を越えて更衣室や海の家が立ち並ぶ通りに出る。
此処まで来ればもう追っては来ないだろう。俺は歩くスピードを緩める。
それにしても、晶子にはまたみっともないところを見られてしまったな・・・。「援護射撃」までして貰って・・・情けないったらありゃしない。

「・・・上手く言えませんけど・・・。」

 晶子が控えめな口調で声をかけてくる。

「まだ完全には心の整理がついてないんですね。」
「・・・ついているつもりだった。だけど、またよりを戻したいだなんて話を蒸し返してきたから・・・崩れちまったよ。」
「私だって本当に気持ちの整理がついてるかって聞かれると、そうじゃじゃないかもしれない、って答えるかもしれませんよ。
もし完全に整理がついてるなら、この夏に1週間くらい帰省するか、っていう気になったかもしれませんし。」
「・・・。」
「でも、こうして祐司さんやマスターや潤子さんとの時を過ごして行く度に、少しずつ気持ちの整理が完全になっていっているような気がするんです。
その点では祐司さんは・・・大事な過程を邪魔されて辛いんじゃないかなって思うんです。」
「・・・辛い・・・かな。そう言われると確かに・・・。」

 俺自身分かるくらい、声が沈んでいる。言葉も言ったというより漏らしたと言った方が正確だろう。
行き場のない、泥沼に嵌まり込んでいくような気分が胸全体を覆っている。
同じく行き場を失った、否、形まで失った言葉が唇に粘り付いているように感じ、俺は唇をせわしなく動かしたりしゃぶったりする。

「こういう時、男の人って損ですよね。」
「・・・?」
「泣けないから・・・。耐えるしかないから・・・。」

 晶子の言うとおりだ。男は泣くものじゃない、っていう妙な因習のお陰で泣くことが憚られる。
ただ、唇に粘り付いた言葉の塵を拭い去るくらいしか出来ない。
こういう時泣けたらどんなに楽になれるだろう。
あの時だって泣けることが出来たら、自棄酒飲みながら思い出の品を全部叩き壊して潰して引き裂いて酒の肴にするなんてこともなかったかもしれない。

「今は・・・私が居ますから・・・。」

 安心して、と言いたいんだろうか?
晶子が居なかったら、俺は今ごろどうなってるか想像もつかない。下手すりゃ宮城に殴りかかってたかもしれない。
またのこのこと見たくない面出しやがって、とか叫びながら・・・。
晶子は俺の心の支えどころか、心の土台になっているように思う。その土台が崩れたら、俺は本当に壊れてしまうかもしれない。

「俺から・・・離れないでくれよな・・・。」
「離れろって言われても離れませんよ。離しませんよ。」
「・・・ありがとう。」

 月並みな言葉しか返せない自分がもどかしい。
晶子の言葉が再び荒れを現し始めていた俺の心にじんと染み込んで潤し、荒れを消し去っていく。
俺は目を瞬(しばたた)かせながら、晶子の手を離さずに更衣室へ向かう・・・。

 着替えを済ませた俺と晶子は、再び手を取り合って民宿や商店が建ち並ぶ通りに出る。此処でも潮の匂いが微かに届いてくる。
普段なら心地良い気分にさせてくれる匂いだが、今はさっきの出来事を思い出させてくれる招かざるものだ。
勿論、潮の匂いに何の責任はないのは分かってる。だが、今は嫌な気分にさせられることには違いない。
 それにしても宮城の奴・・・。
新年早々出くわして「衝撃の事実」を語ったばかりか晶子に「奪還宣言」をしておいて−晶子が俺を奪ったっていうのは、それこそ宮城の思い違いだ−、
さっきはさっきでよりを戻したいなんて言ってくるとは・・・。そんなに俺に執着するくらいなら、あんなことしなきゃ良かったものを・・・。
 駄目だ。考えれば考えるほど、どす黒いものが胸の底から湧き出してくる。
まだ心の整理が途中の段階であんな馬鹿げたことを言い出されたもんだから、あの時と同じようにどす黒いものが噴き出してくるんだろう。
全く良い迷惑だ。
 その時、俺の左手が強く握られる。
隣を見ると、晶子が俺を見ている。その瞳には、大丈夫ですか?と案ずる感情と、あんなことに何時までも振り回されないで、と叱咤する感情が
混じっているように思う。
俺の表情が普段と違うことを−智一に、お前は感情が外に出やすいタイプだから隠し事は出来ないって前に言われたな−見てのことだろうな。
確かに何時までもずるずる引き摺っていても仕方ないし、折角の楽しい筈の時間が台無しになっちまう。
俺が自ら立ち直ろうとしない限り、どうにも話は進まない。

「・・・もう、大丈夫だから・・・。」

 俺は無理に笑みを浮かべて晶子を安心させようとする。それでも、晶子の顔からは不安の色が消えない。偽りの笑みだと見破られているんだろうか?
勘の良い晶子のことだ。見破っていても不思議じゃない。それに俺は隠し事が出来ないタイプだからな・・・。
 俺と晶子はそれ以後何も話さずに宿に辿り着いた。落ち着いたとはいえ、俺の心は重いままだ。
このままマスターと潤子さんと顔を合わせたら多分、否、必ず何かあったのかと問い質されるだろう。
多分俺の表情は暗いままだろうし。参ったな・・・。何て言い訳しよう?
身体の具合が悪くなった、って言うのが一番自然かな?
気分が悪くて−意味は違うが−表情が重ければ疑いはしないだろう。
 俺と晶子は狭い階段を上って201号室へ向かう。
マスターと潤子さんは寝直しているんだろうか?それとものんびり寛いでいるか・・・。
何れにせよ、二つの部屋を隔てる襖は開け放たれて二つの部屋は繋がっているだろう。俺は覚悟を決めて201号室のドアを開ける。

「ただいま・・・。」
「ただいまー。」
「あら、お帰りなさい。意外と早く戻ってきたわね。」
「ん?祐司君、顔色が冴えないな。具合悪いのか?」

 予想どおり、部屋を隔てる襖は開け放たれていて、服装はそのままのマスターと潤子さんが茶を飲みながら寛いでいた。
マスターが早速俺の「異変」に気付いて尋ねてくる。これも予想どおりだ。俺は小さく頷いて答える。

「ええ、ちょっと気分が悪くなって・・・。」
「大変ね。暫く横になってた方が良いわ。」

 潤子さんは壁際に積まれていた座布団を一つとって、それを二つ折りにして床に置く。それを枕代わりにしろということだろう。
俺は晶子から手を離して、潤子さんが用意してくれた座布団に頭を乗せて横になる。そして直ぐに目を閉じて念のため右腕で目の部分を覆う。
万が一涙が出てきても汗とか何とか言って誤魔化せるだろう。
 横になった俺は、傍に誰かが座った気配を感じる。・・・晶子か?
目を隠しているから分からないが、事実を話さずに表情が暗いことを具合が悪いことにして横になったことに罪悪感を感じる。

「お昼御飯までにはまだ時間があるけど、どうかしら?」
「多分ですけど、そのくらいには良くなると思います。ごく軽い熱射病だと思いますから。」

 潤子さんの声が左側から、晶子の声が右側上方から聞こえる。
どうやら俺の傍に座ったのは晶子らしい。それを知っただけでも俺は気分が幾らか楽になった気がする。
それに晶子が本当のことを敢えて言わずに、軽い熱射病と俺に「話を合わせて」くれたのが嬉しい。また晶子の世話になっちまったな・・・。

「それにしても軽い熱射病だなんてね・・・。寝不足が原因かしら?」
「疲れが溜まってたんじゃないかと思うんですけど・・・。」
「それなら晶子ちゃんも具合悪くなってても不思議じゃないのにね。意外に祐司君、身体弱いのかも。」

 小さい頃はよく熱を出したが、今はそんなことはない。ただ・・・心が弱いと言われれば反論出来ない。
どちらにしても情けない話だ。折角の楽しいひと時をぶち壊しにされたことに毅然とした態度を示せなかったばかりか、ことの成り行きを知っている
晶子に庇ってもらって・・・。
 それにしても宮城の奴、どうしてこうもタイミング良く、否、タイミング悪く俺の前に現れるんだ?
晶子と映画を見に行った帰りにしろ、初詣に以降と電車を待ってる最中にしろ、いきなり現れて、そして逃げ出す経路を断たれたりする。
就職活動そっちのけで俺の行動をどこかで監視しているんじゃないかと思えるほどだ。
 また外へ出たら顔を合わせることになるんだろうか?その可能性は否定出来ない。
さっきの騒動で俺が居る場所を知られてしまったし、待ち構えている可能性がないとは決して言えない。
何せ友人複数と一緒だから、交代で俺が戻って来るのを待っているという、俺にとっては迷惑この上ないことも考えられる。
 俺の口から思わず小さな溜息が漏れる。
何でこの期に及んで俺とよりを戻したいなんて言うんだよ、宮城・・・。何でそこまで俺にこだわるんだよ・・・。
もう手遅れなんだ。俺とお前の関係は、あの日の夜の電話で終わったんだ。
俺のことはすっぱり諦めて他の男を探した方がお前の為だし、お前ならそれくらい訳ないだろうに・・・。
 もう仮病を使うのはよそう。何時までも考えていたところで結局はなるようにしかならないんだから。
俺は目を覆っていた右腕を退けて溜息を吐きながら上体を起こす。

「祐司君、もう良いのか?」
「・・・無理しなくて良いんですよ。」
「もう大丈夫。楽になったから。」

 実際はまだ気が重いんだが、いい加減自分の中で吹っ切らないことにはどうしようもない。
俺の心の問題は最終的には俺自身で解決するしかないんだから。
前の彼女と偶然出くわした。それだけのことだ・・・。

「顔の赤みも出てきてるわね。お昼御飯までまだ時間あるから、念のために横になってた方が良いんじゃない?」
「いえ・・・。大丈夫なのに何時までも床に転がっていてもしょうがないですから。」
「潤子さんの言うとおりですよ。こういう時は大人しくしてるに限りますよ。」
「いや、本当にもう大丈夫だからさ。」
「駄目です。お昼まで横になっててください。」

 晶子はちょっと強い口調で言う。俺を心配してのことだろう。
こう迫られた時に押し通そうとすると、それこそ売り言葉に買い言葉になって喧嘩に発展しかねない。それだけは御免だ。
ここは素直に晶子と潤子さんの進言に従うとするかな。
俺は身体を再び横になる。もう目を覆い隠すようなことはしなくて良い。ただ目を閉じてじっとしていて時間が過ぎていくのを待つだけだ。

「身体の具合が悪くなった時は、良くなったと思っても安静にしてた方が良いですよ。ぶり返したり後に引いたりしますから。」
「そうよ、祐司君。何事も無理は禁物。休める時はギリギリまで休んでおくことよ。」
「それにしても、さっきの祐司君と井上さんのやり取りは、もう立派な夫婦だな。祐司君が尻に敷かれてそうだが。」
「マ、マスター。夫婦だなんて話が飛躍してますよ。」
「そうかあ?良い感じだと思ったんだが。」
「私も同じ。祐司君、しっかりしてないと本当に晶子ちゃんのお尻に敷かれちゃうわよ。」
「・・・はい。」

 確かにさっきのやり取りは俺が押された格好だ。このままだと本当に晶子の尻に敷かれかねないな。
まあ、あれだけだらしないところを見られては、晶子が自分が頑張らないと、と思っても無理はないだろう。
宮城とのことは終わったことだと自分で言ったじゃないか。だったらそれに振り回される必要は何処にもない筈だ。
本当にもっとしっかりしないと駄目だな・・・。

このホームページの著作権一切は作者、若しくは本ページの管理人に帰属します。
Copyright (C) Author,or Administrator of this page,all rights reserved.
ご意見、ご感想はこちらまでお寄せください。
Please mail to msstudio@sun-inet.or.jp.
若しくは感想用掲示板STARDANCEへお願いします。
or write in BBS STARDANCE.
Chapter 71へ戻る
-Back to Chapter 71-
Chapter 73へ進む
-Go to Chapter 73-
第3創作グループへ戻る
-Back to Novels Group 3-
PAC Entrance Hallへ戻る
-Back to PAC Entrance Hall-