雨上がりの午後

Chapter 67 そしてまた新しい日へ

written by Moonstone


 それから後、休憩の続きを−変な表現だが−して、再び練習を始めた。
休憩前を前半とするなら、後半は新しくレパートリーに入れてまだ間もない「Can't forget your love」がメインになった。
 この曲は前半のかなり長い時間、リズム楽器なしでベルっぽいエレピの高音部のバッキングを頼りに歌わないといけないから、
歌うテンポが早過ぎても遅過ぎても曲の雰囲気を台無しにしてしまう。俺がシーケンサのデータを作ったは良いが、晶子の家にシンセサイザーはないから
−まさか買えとはいえない−此処ではギター用にアレンジした方をリズム楽器なしで演奏するしかない。当然、俺のリズム感が重要になって来るわけだ。
 晶子もこの曲をレパートリーに加えたは良いが、音程が激しく動くし転調もあるしでかなり梃子摺っている。
初めてステージで歌った時−勿論俺もステージに上った−歌いにくそうなのが端で見ていてよく分かったくらいだ。

「すみません。もう一度最初の方をお願いします。」

 声を出すタイミングを身体で覚えようとしていたらしく、晶子は最初の方を特に念入りに練習した。
俺も晶子の感を狂わせないように、注意深くテンポを刻んだ。
その甲斐あってか、最後の方では晶子も歌いながらテンポを保つことが確実に出来るようになった。
こうして晶子の成長を見るのも、俺がこうして毎週月曜日に晶子の家へ通う原動力になっている。
最初は楽譜もろくに読めなくて音程をまともに取れなかったとは、今の晶子を見れば誰も信じまい。
 時間にして約1時間半、何時も、否、今までより半時間ほど超過したところで練習を終えた。
幾ら音量を控えているとはいえ、歌い続けるのは喉を酷使することに繋がるし、それで晶子の喉が潰れたら最悪だ。
晶子はもっと練習したそうな様子だったが、俺が喉のことをいうと練習終了を了承してくれた。
 先に夕食を済ませているから、あとすることといえば風呂に入って寝るくらいだ。だが、時計を見ればまだ9時を過ぎたばかり。
小学生じゃあるまいし、幾ら疲労が蓄積されているといっても寝るにはまだ早すぎる。

「CD、かけますね。」

 晶子は「指定席」を立ってCDケースが並ぶ棚の前で少し動きを止めた後、1枚のCDケースを取り出してCDをコンポにセットしてボタンを押す。
すると聞き覚えのあるイントロが流れてくる。これは・・・「HEAVEN KNOWS」だ。
俺がたまに演奏する曲が入っているCDをかけるとは、晶子もなかなかやってくれる。

「祐司さん、自分の練習できないでしょう?両手疲れてるでしょうから。」
「だからこのCDをかけてくれたってわけか・・・。心憎いな。」
「私が歌う曲が入ったCDをかけるのは、まだ練習したいって唆すようでちょっと・・・。」
「実際、まだ練習したいんだろ?」
「・・・本当のところは。」
「あれだけ密度の濃い練習をしたんだから、今日のところはさっきので終わりにしておこう。晶子の気持ちは分かるけど、喉を休めてやらないとな。
喉は晶子の大事で脆い楽器だから、壊れると直すのが大変だから。」
「・・・はい。」

 晶子は再び「指定席」に腰を下ろして、俺の方に身体を傾けてくる。俺は晶子の肩を抱くことでそれを受け入れる。
何時も後ろ髪を引かれるような思いでロビーで見送って貰っていたのが、今日からその必要がなくなる。
帰宅して一人で練習したりシーケンサのデータを作ったりするか、疲れに負けて風呂に入って寝るかのどちらかだった生活じゃなくなる。
 だけど嬉しいばかりじゃない。晶子と一緒に寝る機会が確保できたことで、俺の中の欲望が何時暴発するか分からない。
暴発しないという保証は何処にもない。何せ晶子のパジャマは胸元が見えるし、甘酸っぱい香りと柔らかい感触が欲望を擽る。
自制心がこれまで以上に要求されるわけだ。
 ・・・でも、こうも思う。
晶子がその気なら、つまりは俺の欲望のベクトルと向かい合っていたら、晶子に覆い被さって行為に及んでも抵抗されないんじゃないか、と。
問題なのは晶子の気持ちだ。晶子は感情が表に出やすいタイプだが、出るまでは何を考えているのかはなかなか読めない。
読めれば何の苦労も要らないんだが・・・。この辺り、仲を続けて深めていく過程で難しいところだ。
 宮城との時は順調に進んでいたと思っていた。でも、大きな一線を超えたことで、それでしか精神的に繋がりが持てなくなっていたのかもしれない。
だから会う間隔が月に1、2回程度だった分だけ、それも宮城が俺の家に泊まっていく時しか精神的に繋がりが持てなかったと言い換えることが出来る。
それが宮城に「身近な相手」に気持ちを向けさせ、あの夜の破局への道を形作ったのかもしれない。
 それを教訓にするなら・・・いっそ晶子から求めてこない限り大きな一線を超えないようにするべきだろう。
俺の自制心が余程しっかりしていないと駄目だろうが、もう二度と手に出来ないと思っていた絆を手に入れたんだ。
その絆を保つためなら、肉体的欲望を封じ込めることを躊躇う理由はない。

「祐司さんって、こんな難しいフレーズを弾きこなすんですよね。この左手で・・・。」

 晶子の右手が晶子の肩を抱いている俺の左手にふわりと被さる。羽根布団のような感触が伝わってくる。
部屋には「GOOD BYE HERO」のギターソロが流れている。この部分は俺自身かなり気に入っていて、練習で初めて最初から最後まで弾き通せた時は
思わずガッツポーズをしたくらいだ。

「晶子だってこの喉で、難しい歌を流暢に歌いこなすじゃないか。」

 俺は右手を晶子の喉へ運び、軽く指を動かして擽る。すると晶子はううん、と猫みたいな声を出して顎を引く。何だか猫をじゃらしているみたいだ。
俺は試しに晶子の喉と顎に挟まれた右手をこちょこちょと動かす。晶子はその度にううん、うん、とかいう呻き声か何か分からない声を上げて
身体を左右に小さく振る。

「何だか・・・猫みたいだな。」
「猫じゃないですよぉ。」
「猫みたいだって。ほら、こうすれば・・・。」

 ちょっと拗ねたような顔を見せた晶子が、俺が右手を擽るように動かすと目を閉じて猫がくすぐったがるように身体を動かす。
その様子が本当に猫みたいで可愛らしい。
あまり続けると嫌がられるからしれないから−今でも嫌がってるかもしれないが−ちょっと名残惜しい気分で右手を引っ込める。
晶子が少し恨めしげに上目遣いで俺を見る。・・・やっぱりちょっとしつこかったか?

「祐司さんの意地悪。」
「御免御免。だって本当に猫をじゃらしてるみたいで可愛らしかったから。」
「・・・可愛い?」
「ああ。凄く可愛らしかった。普段じゃ見れない晶子の様子、可愛らしかったぞ。」
「・・・それなら良いです。」

 晶子は体重をより俺の方に預けてくる。俺は晶子の肩をしっかり抱いて体の芯を床に可能な限り垂直に保ってそれに応える。
どうやら怒ってはいないようだ。今日泊まっていく筈が追い出されてしまっては、元も子もない。
 晶子はそれこそ猫みたいに俺の肩に頬を摺り寄せる。その甘えるような様子が俺の胸をぎゅっと締め付ける。
可愛い。本当に可愛い。今までの晶子の印象は可愛いというより綺麗で、さっきみたいなじゃらしが効かないタイプ、
言い換えれば潤子さんに近いものだったが、今日でそれは一変した。

「やっぱり・・・可愛いな。」
「可愛いって言葉、始めて祐司さんの口から聞いた・・・。」
「今まで晶子は潤子さんとよく似たタイプだと思ってたけど、こんな一面もあるんだな。今日は良いことを知ったよ。」
「うーん・・・。喜んで良いのかなぁ・・・。」
「良いさ、勿論。言い方難しいけど、晶子ならではってところが見れたから。」
「猫みたいに反応するのが私ならではってところなんですか?」
「そればかりじゃないけどさ、今まで晶子がこんなにじゃれたり甘えたりするのって、布団の中くらいしかなかったから・・・。」

 自分で言って俺は急激に顔が熱くなる。
布団の中では晶子はそれこそ猫みたいに俺に擦り寄ってくる。その時の様子、独特の柔らかい感触、甘酸っぱい匂い・・・。
それらが妄想となって俺の頭の中で膨らんでくる。

「・・・今、私と寝てるところ想像してるでしょう?」

 晶子に言われて、俺は慌てて妄想を押し込んで平静を装う。
でも智一から不器用な奴と言われた俺だ。きっと顔や顔色に出てるに違いない。

「い、いや、別に・・・。」
「嘘。顔にしっかり書いてありますよ。」

 晶子はそう言って俺の左頬を左手の人差し指で突付く。俺はその突っつき攻撃に苦笑いしながら嘘を押し通すしかない。

「何も想像なんてしてないってば。」
「駄目ですよ。顔にしっかり書いてあるんですから。『俺は今、晶子と寝ているところを想像してました』って。誤魔化しは効きませんよ。」
「な、何のことやら・・・。」
「ふふふ。正直に言いなさい。もうバレバレなんですからね。」

 思わぬ形で晶子の「逆襲」が始まった。俺は兎に角知らぬ存ぜぬを通すしかない。
晶子の言うとおり、晶子と一緒に寝ているところを想像してました、なんて言える筈がない。言おうものなら何て言われるか、分かったもんじゃない。

 晶子の「逆襲」にどうにか耐えられた。でも晶子は何もかもお見通しですよ、って顔をしている。完全に俺の負けだ。
これから晶子をじゃらす時は妄想しないようにしないと拙いな・・・。
 晶子は口元に勝利の笑みを−俺はそう感じた−浮かべて風呂の準備をしにリビングを出て行った。
CDはとっくの昔に終っていて、リビングはしんと静まり返っている。遠くに水の流れるような音が聞こえたが、風呂桶に湯が入り始めた音だろう。
 ドアが開いて晶子が入ってくる。そして「指定席」に腰を下ろすと再び俺に凭れて来る。俺は晶子の左肩に手を回す。
これが待ち時間やくつろぎの時の自然なスタイルとして定着したような気がする。
さっきまでとは打って変わった静寂の中、風呂桶に湯が流れ込んでいく微かな音をBGMにして、俺と晶子は二人の時間を無言で過ごす。
それが退屈とかつまらないとかは少しも思わない。こういう過ごし方が二人とも出来るから、こうして仲が続いているんだろう。

「・・・こうしてると、凄く安心できる・・・。」
「俺もだよ・・・。」

 さっきのようにじゃれあうことは宮城の時にもあった。だが、こういう身を寄せ合う沈黙の時間を心地良く思うことはなかったと思う。
こういう過ごし方が何時からどうして出来るようになったのかは分からないが、心地良いと思えるならそれで良いような気がする。
 今日は準備をしてきて晶子の家に泊まる初めての夜だ。
さっきは様々な妄想が頭の中いっぱいに膨れ上がったが、今は不思議と落ち着いている。本当に不思議だ。
宮城と初めての夜を迎えた時は興奮を抑えるのが精一杯だったというのに・・・。これも過去の教訓から学んだ結果だろうか?
 晶子に対する肉体的欲望がないといえば嘘になる。
だけど、今はそれを行動に結び付けるつもりは毛頭ない。胸を愛撫したことがある程仲が深まった、好きな相手が自分に密着しているのに不思議な話だが、
今は胸に触れようとも思わない。本当に不思議なくらい自制心が欲望の上に覆い被さっている。
 静まり返ったリビングで俺と晶子は可能な限り身を寄せ合う。
愛しい、一緒に居たい。そんな気持ちで俺は晶子の肩を抱き寄せる。晶子は・・・どう思ってるんだろう?
・・・止めた。考えるだけ損だ。嫌ならとっくに跳ね返されているだろうし、現に晶子自身、俺の方に頭を預けてるじゃないか。
 風呂の準備が出来た、というアラームが鳴る。
俺が自然に晶子の「束縛」を解くと、晶子は俺の肩から頭を起こし、すっと立ち上がって御免なさい、と言って俺の足を跨いでリビングを出て行く。
俺は持ってきた鞄の中からパジャマとバスタオルとタオルと下着を取り出して、下着をタオルの中に隠す。
別に疚(やま)しいことはないんだが、下着を見られるのにはまだちょっと抵抗がある。
これが晶子との仲をさらに深めようとしない心理の一端なのかもしれない。
 晶子は直ぐに戻ってきた。俺が風呂に入る準備を整えたのを見てか、笑みを浮かべて言う。

「お風呂の準備が出来ましたから、入ってくださいね。」
「ああ。そうさせてもらうよ。」
「私は此処で待ってますね。」

 晶子は俺と入れ違いに「指定席」に座り、俺は荷物を持って立ち上がり、リビングを出ようとする。
そこで試しに晶子に向かって小さく手を振ると、晶子は微笑んで小さく手を振る。
俺の口元に自然に笑みが浮かんでもう一度手を小さく振ってからリビングを後にする。何だか見送りを受けて仕事に向かうみたいだ。
あ、実際見送りを受けたのか。
 俺は脱衣場で服を脱いで風呂場に入る。手早く髪と身体を洗って湯船に身を浸す。
ここへ来て今日から毎週月曜日にこうして晶子の家に泊まるのか、という実感がふつふつと湧いてくる。
一時は妄想に耽(ひた)ったりもしたが、自分の家のような感覚の前に、それも一時の記憶として湯煙の中に消える。
 のんびりした気分で湯船に暫し浸かった後、俺は風呂から上がって自分のバスタオルで−一瞬、晶子のものを使いそうになった−
身体を拭いてパジャマを着る。この季節、屋内に居る限りは熱くもなく寒くもなく、ちょっと厚手のパジャマを着ていれば充分だ。
自分の家ではとっくに暖房を落としているせいもあってか、多少の寒さは平気だ。
だが、湯冷めすると良くないから着てきたトレーナーを背中に羽織って、荷物を纏めてリビングに戻ることにする。
 一応ノックしてみると、ドアの向こうからどうぞ、という応答が返って来る。その後で俺はドアを開けてリビングに入る。
リビングにはBGMはなく、晶子が「指定席」にちょこんと座っているだけだ。
結構のんびり風呂に入っていたから、てっきり暇を持て余してCDを聞いているかと思ったんだが。

「お先に。いい湯加減だったよ。」
「そうですか。良かった・・・。」
「それより晶子、退屈じゃなかったか?俺、ゆっくり風呂に入ってたから。」
「え?10分くらいですよ。別に退屈なんてしてませんよ。」
「そうか?」
「体感時間と実際の時間の違いが大きいですね。それだけゆっくり寛いで貰えたら私も満足です。」

 晶子は微笑んで立ち上がり、俺と入れ替わりにリビングを出て行こうとする。ドアが閉まると思った時、祐司さん、と呼びかけられる。
俺が声の方を向くと、晶子が小さく手を振っている。・・・さっき俺がやったのと同じだ。俺は苦笑いが混じった笑みを浮かべて手を振り返すと、
晶子は嬉しそうに手を振ってそっとドアを閉める。
やれやれ。これじゃ銭湯の前で別れる夫婦かカップルと変わらないじゃないか。って、さっきもやったんだよな。
 晶子は多少長風呂なので−髪を洗う時間が長いんだろうか−、俺はCDの棚を探って「AZURE」のCDをコンポにセットして部屋に流す。
俺が弾き鳴らすフレーズが耳に入ってくる。・・・やっぱり上手い。音の粒がはっきりしていて、それでいて自己主張しすぎない程度に収まっている。
こういう表現が俺はまだ未確立だ。そのまま真似するんじゃ芸がないが、参考にはなる。
 ピアノとストリングスと絡みながら「AZURE」は進んでいく。こうなるともはや単なる演奏ではなく一つの芸術と言って良いかもしれない。
音圧の強いピアノやストリングスに埋もれることなく、音の粒を浮かべては消していく演奏振りは、俺の理想とするところだ。
潤子さんとペアで演奏する「EL TORO」もこのタイプの曲だが、プロというものの実力の程を改めて思い知らされたような気がする。

 本当に俺は、音楽のプロとしての道を進んで良いものなんだろうか?
音楽で飯を食っていくつもりだ、なんて言ったら、親は絶対強硬に反対するだろう。
脱サラをして客商売で苦労してきただけに、子どもにはそんな思いはさせたくない、と前に親父が酒の席でそう言っていたことを思い出す。
 現に今、こうして大学に行かせて貰っているし、生活費だって最低限やっていけるだけの仕送りをして貰っている。
それは電子工学関連の職やそうでなくても会社員や公務員とか、安定している職に就いて欲しい、という親の希望もあるだろう。
音楽の道に進むことはそれを反故にすることになるから、反対するのはある意味当然かもしれない。
 だけどこうも思う。挑戦してみるだけの価値はあるんじゃないか、と。
音楽を趣味から生活の糧に変えれば、気が乗らないものでも形にしなきゃいけない。スタジオミュージシャンは生活が厳しくて、
明日はどうなる我が身、と言う状態らしいから、カバーなりオリジナルなりアルバムを作って稼ぐ必要があるだろう。
そうなると、単純に音楽を楽しむということから逸脱することになるだろう。四六時中音楽がついて回ることを考えると、ちょっと待てよ、とも思う。
 でも、多少なりとも自分の腕をそれなりの腕前を持つ人達から−マスターと潤子さんだ−称賛され、その人達も、そして晶子も
サポートしてくれると言っている。よく言われる言葉だが一度きりの人生だ。可能性にかけてみるのも良いだろう。
駄目だったら駄目で他の道を改めて模索すれば良いことだ。

 楽観的だと言われればそこまでだ。実際普通に就職することも厳しいこのご時世。やり直すのは突き進む以上に険しいかもしれない。
就職面接で「今まで何をしてたんですか?音楽?ふーん、そうですか。」などと蔑視されるかもしれない。
音楽に限らず芸術なんて普通の人間が手出しするものじゃないっていう認識が根強い国だ。そういう蔑視感情があっても不思議じゃない。
 でも、俺は一人じゃない。プロダクションと多少コネがあるらしいマスターと潤子さんも居るし、俺のサポートをしたいという晶子がいる。
それに甘える形になるが、可能性にかけてみるのも良いんじゃないだろうか?成功したら後で恩返しは出来る。
失敗しても労いこそすれ、嘲笑することはしない筈だ。
実際、マスターはその道を進もうとしていた時期があった人だし、潤子さんはそんなマスターの境遇を知って尚マスターと結婚した人だ。
俺もやってみようか。晶子はサポートしてくれると前から公言している。それに甘えても良いだろう。
 BGMを背景に物思いに耽っていると、ドアがノックされる。
晶子が風呂から上がったんだろう。どうぞ、と応答すると、例のV字にカットされた胸元を見せるパジャマに半纏を羽織った晶子が入ってくる。

「『AZURE』のCDかけてたんですね。」
「ああ。ちょっと聞いてみたくなってな・・・。」
「確かこのCDの中に祐司さんが演奏する曲が結構入ってるんですよね。よく演奏するのは「AZURE」ですけど。」
「『EL TORO』も入ってるしな。このアルバムの曲は難しいのが多いから、聞いて技術を盗もうと思って。」
「あ、私もそうですよ。此処はこんな感じで歌うと良いのか、って思いながらCD聞いてるんですよ。普段は。」

 晶子も同じことをしていたのか。成る程、練習の度に声に磨きがかかって、更に向上させたいという欲があるのかよく分かる。
晶子もいっそ歌手の道を歩んでも良さそうなもんだ。あの歌声は下手なアイドル歌手を軽く凌駕している。
プロデュースさえしっかりしてやれば、それ相当な反響が期待できそうだ。・・・ちょっと試してみるか。

「晶子もいっそ、プロデビュー目指してみたら?」
「私は出来ませんよ。」
「何でだよ。晶子の歌声ならそんじょそこらの歌手よりずっと・・・。」
「私には祐司さんをプロデュースするっていう大役がありますから。」

 そう来たか・・・。晶子は自分より俺のほうを優先させる腹積もりなんだな、やっぱり。もっと自分に目を向けても良さそうなものだが・・・。
裏を返せばそれだけ俺が音楽のプロを目指すことを期待しているってことだろう。だったら俺もいい加減腹を括らないといけないな・・・。

「ねえ、祐司さん。」
「ん?何だ?」
「何か一曲、演奏してくれませんか?」

 何を言うかと思ったらそんなことか・・・。
ギターはソフトケースに仕舞ったし、アンプとか接続しないといけないが、まあ、それ程手間じゃないし、晶子が頼んでることだから良いか。

「曲は何が良い?」
「やっぱり私と祐司さんの思い出の曲、『AZURE』ですね。」
「思い出の曲、ねえ・・・。」
「だって、私が祐司さんの家を探してた時、お店であの曲を演奏してなかったらすれ違いで終ったかもしれないんですよ。」

 晶子のいうことはもっともだ。言うなれば「AZURE」は俺と晶子を正式に出会わせた記念碑的な曲ってわけだ。ならご要望に応えて「AZURE」を弾くとするか。
俺はギターを再びソフトケースから出し、電源と接続したアンプと接続してチューニングを施した後、ベッドに腰を下ろして演奏の準備を整える。
晶子は俺のほうをじっと見詰めている。・・・緊張するなぁ。
 一呼吸おいて旋律を爪弾き始める。・・・いい感じだ。
フレットの上を左指が踊り、それを右指が跳ね上げる。そして生まれた旋律が部屋に拡散する。
アコースティックギターに似た柔らかく、濃淡に飛んだ音が自分でも心地良い。
演奏者が心地良いと思う音楽は聞き手にも心地良いと言う。今は晶子の様子に目を向ける余裕はないが、晶子もきっと心地良く思っているだろう。
 最後のフレーズを引き終えて、余韻を味わいながら左手をフレットから離すと、パチパチパチと拍手が起こる。
晶子が感嘆の表情で手を叩いている。どうやら好評を得たようだ。聞き手を満足させられたなら演奏者としては光栄だ。

「凄ーい。やっぱり祐司さんのギターの音は凄いですよ。あの時以上に衝撃的でした。」
「自分でも上手くいったとは思ったけど、そう言って貰えると嬉しい。」
「何て言うか・・・祐司さんの両手がギターの上で踊ってるように見えたんですよ。指が音を鳴らすのを楽しんでるようで・・・本当に凄かったです。」

 晶子の手放しの賞賛の言葉の中に、俺も感じたことが混じる。良い演奏は聞き手にも同じ印象を与えるようだ。
そういう心の共鳴が生まれて良い演奏だ、と思わせ、時には涙させるんだろう。何にしても、晶子を満足させられて満足だ。
たった一人の聴衆からの拍手と賞賛が、俺にとっては何よりの報酬だ。
 身体がほんのりと温かい。手を見ると綺麗なピンク色に染まっている。これも俺がいかに夢中になって演奏できたかということの証明だろう。
ちょっとした運動の代わりにもなったようだ。軽くシャワーを浴びたい気分だ。

「祐司さん、シャワー浴びますか?」
「え?」

 晶子の突然の申し出に俺は思わず聞き返す。晶子の奴、俺の心が読めるのか?
偶然にしては出来過ぎている話に俺はそう思わずにはいられない。

「祐司さん、じんわり汗ばんでますから。すっきりしたいでしょ?」
「あ、ああ。」
「シャワーは直ぐに準備できますからちょっと待っててくださいね。」

 晶子はそう言うや否や立ち上がって、小走りでリビングを出て行く。
俺がストラップから身体を解放してギターとアンプを片付け始めた頃、晶子が戻って来た。本当に早いな。
まあ、俺の家でもシャワーはボタンを押して湯が熱くなるのを少し待つだけだから、それと同じようなものだろう。

「シャワーの準備出来ましたよ。」
「ありがとう。これ片付けてからにさせてもらうよ。」
「祐司さんの大切なものですからね。勿論構いませんよ。」

 晶子の気遣いが嬉しい。自分を楽しませてくれた−拍手と賞賛の言葉があったからそう思う−代わりに、俺にシャワーの準備を施してくれるなんて・・・。
自分の家で練習して汗ばんだ後はそのまま寝るか、面倒だなと思いながらシャワーの準備をするかのどちらかなんだが。
これも二人で居ることのメリットの一つだろうか。
 アンプとギターの結線を外してケーブルを束ね、ギターをソフトケースに入れてから、俺は鞄の中からバスタオルを取り出して、
リビングを出て風呂場へ向かう。
服を脱いで−パジャマと下着だけだから直ぐだ−風呂場に入ると蛇口を捻る。
丁度良い温度のシャワーが身体に降り注ぐ。心地良い演奏の後のシャワーはこれまた心地良い。俺は思わず「AZURE」のフレーズを鼻歌で歌う。
 全身を隈なく濡らした後、俺はシャワーを止めて風呂場から出る。バスタオルで身体を拭いて再び下着とパジャマを着て背中にトレーナーを羽織る。
ふと壁を見るとオレンジ色のLEDが光っているパネルがある。これが風呂やシャワーの調節に使うパネルなんだろう。
俺はそれを見て「点火/消火」と書かれたボタンを見つけてそれを押す。するとLEDが消えた。これで大丈夫だろう。一応晶子に言っとかないといけないが。
 リビングに戻ると、晶子が「指定席」に腰を下ろして待っていた。半纏を羽織ってちょこんと座っている様子が可愛らしい。

「お待たせ。パネルの電源、切っておいたよ。」
「オレンジのLEDが消えれば良いんですけど・・・よく分かりましたね。」
「基本的には家のと同じだからな。『点火/消火』ってあるボタンを押してオレンジ色のLEDが消えたのを確認したから。」
「そうですか。ありがとうございます。」

 晶子は笑顔を浮かべて礼を言う。簡単なことだったが礼を言われれば勿論悪い気はしない。
俺はよりすっきりした気分で晶子の横に座る。すると晶子は直ぐに俺の左肩に、否、左半身全体に身体を委ねてくる。

「ん・・・良い気持ち・・・。」
「凭れてるだけでもか?」
「ええ。凄く安心できる・・・。」

 俺は晶子の左肩に手を回す。すると晶子は俺の左肩に頭を乗せて、より全身を俺に委ねてくる。
少し手を伸ばせば触れられる位置にある−左手は既に触れているが−晶子の髪や身体から甘酸っぱい良い匂いが漂ってくる。
それが俺の胸を擽(くすぐ)ってこそばゆくする。
 かと言って前のように晶子の胸を愛撫したいのかと言われると、思わないといえば嘘になるが実際に行動に出るまでには至らない。
このまま芳香剤のような晶子の肩を抱いて、その身体を受け止めるだけで充分心は満たされる。
こういうごく自然に、そのときその状況その感情次第で仲を深める関係も良いだろう。
何も恐れるものがない、二人だけの時間を満喫できるこういう仲も・・・。
 暫く無音の世界で晶子の香りと柔らかさを堪能していると、肩口から隙間風のような微かで規則的な音が聞こえてくる。
晶子の奴、安心し過ぎて眠ってしまったらしい。このままじゃ湯冷めして風邪をひいてしまいかねない。
晶子の持つ楽器は風邪をひいたら最後だ。寝るならベッドで寝させないと・・・。

「晶子、おい、晶子。」

 俺は空いた右手で晶子の身体を抱くようにして軽く揺さぶる。んん、というくぐもった声がして晶子が薄目を開ける。

「あ、祐司さん・・・。」
「祐司さん、じゃない。こんなところで寝たら風邪ひくぞ。」
「んー。じゃあ祐司さん、ベッドへ連れてってください・・・。」

 晶子の言葉に俺は耳を疑う。ベッドへ連れていけだなんて、誘ってるも同然じゃないか。
そう思うと、今までどこかに引っ込んで鳴りを潜めていた肉体的欲求が急激に頭を擡げてくる。こんな時に限って・・・。
これも男の性と言ってしまえばそれまでだが。
 兎も角晶子をこのままにしておくわけにはいかない。
俺は晶子をベッドの側面に凭れさせるようにしてから、ベッドの上にある布団を可能な限り捲る。
敷布団が露になったところで、晶子が羽織っている半纏を脱がしにかかる。欲望と理性が交錯している中で他人の服を脱がせるのは意外に難しい。
晶子の腕を半纏の袖から引き抜いて、と・・・。
 どうにか半纏を脱がせて、俺は晶子を両腕で抱え上げる。所謂「お嫁さん抱っこ」の態勢になった。
なおのこと心が複雑に激しく揺れ動くが、どうにか平静を保ちながら晶子を敷布団の上に横たえる。
 明日俺は朝が早いから目覚ましが必要なんだが・・・。ベッドの周辺を探すと、目覚し時計があった。
俺は時計の表示板や裏側を眺めて、7時に鳴るだろうと推測する。外れたらそのときだ。
目覚し時計の上部のボタンを押して出っ張った状態にして、元あった位置に置く。
 俺も背中に羽織っていたトレーナーを床に置いてベッドに入る。晶子と密着した形で横になると、掛け布団を引き寄せて肩口まで被せる。
これで一先ず寝る準備は出来た。俺は再び身体を起こして電灯の紐に手を伸ばす。
かなり厳しい距離だがどうにか届いたところで、紐を何度か引いて部屋の電気を消す。
一転して暗闇に覆われた部屋の中で聞こえるものといえば、壁時計の秒針が時を刻む音くらいだ。

 俺は再び布団に潜り込む。シングルベッドに二人並んで寝ているからやっぱり狭い。・・・こうなったら・・・。
俺はベッドの中心寄りに身体をずらして、晶子の身体を抱き寄せて頭を俺の左肩に乗せる。
身動きは取れなくなったが、これで窮屈を感じずに寝られる・・・と思う。
間近に居る晶子の存在が気になって仕方がない。左脇腹には独特の柔らかい感触を感じる。神経を高ぶらせるには充分すぎる状況だ。
 その原因の根本であるところの晶子といえば、規則的な寝息を立てて俺の肩口を枕にして、全くの無防備ですっかり眠ってしまっている。
その様子を見ていると、不思議と荒ぶりかけていた欲望が静まっていくのを感じる。
この寝顔を壊したくない。この安らかな時間をぶち壊しにしたくない。そんな思いが俺の中で膨らんでくる。
晶子の寝る様子には欲望を鎮める力があるようだ。全くの無防備だからこそ、それを守らなきゃ、という気持ちにさせるのかもしれない。
赤ん坊が自分を抱きかかえることに何の不安も疑念も見せないのと同じように。
こんな調子じゃ更に仲が深まるのは相当時間がかかりそうだ。まあ、それはそれで構わない。無理に深めようとしてもろくなことにならないだろう。
二人三脚でゆっくりでも良いから確実に深めていけば良いことだ。
 ・・・そんなことを思っているうちに俺の意識も朦朧としてきた。
今日の練習は一段と熱を帯びていたし、風呂上りに入魂の一曲を演奏して、身体の疲れは相当溜まっているんだろう。
此処はその疲れが意識を侵食するのに任せるのが一番だろう。
お休み、晶子・・・。

Fade out...


 ・・・俺の目の前が少しずつ明るくなってくる。此処は・・・晶子の部屋だ。晶子のベッドに横になっている。当たり前といえばそうだが・・・。
そう言えば晶子は・・・?左肩の方を見ると晶子の姿はない。半纏も片付けられ、俺のトレーナーもきちんと畳まれて床に置かれている。
晶子は先に目を覚まして朝食の準備をしているんだろうか?
 枕元の目覚し時計を手に取って見ると、7時を少し回ったところだ。
目覚ましがないとまともに起きられない、否、目覚ましが合ってもギリギリまでしぶとく抵抗する俺にしては珍しいを通り越して奇跡に近い。
それだけぐっすり眠れたという証拠だろうか?
 俺が上半身を起こすと、ドアが音を立てないように開き、そこからエプロン姿の晶子が姿を現す。
晶子は俺が起きているのを見て意外そうな顔をする。まあ、今までは決まって晶子に起こされていたから、晶子も俺がまだ眠っていると思っていたんだろう。

「おはよう、晶子。」
「祐司さん・・・。あ、おはようございます。目覚ましなしで起きたんですか?」
「ああ。自然と。自分でもちょっとびっくり。」
「てっきりまだ寝てるものかと・・・。あ、そうだ。丁度朝御飯が出来たところなんですよ。一緒に食べましょうよ。」
「そうだな。それじゃ・・・。」

 俺はベッドから出ると畳まれていたトレーナーを背中に羽織って晶子の方へ向かう。朝食はダイニングの方に用意されているようだ。
晶子もいちいちリビングとキッチンを何度も往復するのは億劫だろうし、朝食が食べられるならそれ程場所にこだわる必要もないだろう。
 俺は晶子に先導される形でダイニングにあるテーブルに備え付けの、玄関側の椅子に腰掛ける。
寒い時期、此処に着てまずご馳走になる紅茶を飲むのも、その他この空間で食事を摂る時の俺の「指定席」だ。
その向かい側に晶子がエプロンを着けたままで座る。
 朝食は焼いた鮭の切り身をメインに、目玉焼きに付け合せの千切りキャベツ、味付け海苔にワカメの味噌汁、それに御飯という、旅館を思わせるメニューだ。
随分手が込んでいる。俺にはとても真似の出来ない芸当だ。
これを用意するには少なくとも6時半ごろには起きていたんだと思う。料理がまるで駄目だから推測の域を出ないが。
目覚ましは7時にあわせたつもりだが、それがなくても十分起きられること自体が俺には難しいことだ。

「さ、食べましょうよ。」
「ああ、そうだな。それじゃ・・・。」
「「いただきます。」」

 二人で唱和した後、俺と晶子はできたてほやほやの朝食を食べ始める。
普段味わえる筈もない、豪華で見た目にも栄養面でもバランスが取れている朝食が腹に染みる。
何より一人で焼いた食パンを齧るのと決定的に違うのは、向かい側に人が、それも自分にとって大切な人が居ることだ。
 朝食は今日の俺の実験内容や−晶子にも分かるように丁寧に説明したつもりだ−俺の自動車学校の進み具合を話題にして進んでいく。
話をしながらだと食も弾む。時には笑いも挟みながら、楽しいひとときが過ぎていく。
 朝食が二人ほぼ同時に終わり、晶子が手早く食器を重ねて流しへ運ぶ。
俺もそれに続く。晶子は袖を捲ってスポンジに洗剤をつけて後片付けに入る。ここは私に任せて準備をしてて下さい、と言われた俺は
厚意に甘えてリビングへ戻って出かける準備を始める。準備といっても服を着替える程度だからすぐ終る。
歯磨きは・・・まあ良いだろう。準備してこなかったし。
 服を着替えてパジャマを鞄に押し込んで準備完了。
時間は7時半前。これから家に寄って別の服に着替えてから改めて出かけても充分間に合う。俺はギターを背中に担いでアンプと鞄を持ってリビングを出る。
晶子はまだ洗い物の最中だったが、俺がリビングから出たのを察したのか洗い物の手を止めて俺の方を向く。

「もう出かけるんですか?」
「家で着替えもあるしな。時間に余裕を持っておきたいし。」
「じゃあその前に洗面台の前へどうぞ。」

 何のことか分からぬまま、俺はダイニングにある洗面台に足を運ぶ。
別段変わった様子はないようだが・・・あれ?歯ブラシが二つ。今までは確か一つだったのに、何時の間に増えたんだろう?

「歯を磨いていって下さいね。歯ブラシはグリーンの新しいほうですから。あと、櫛もありますから必要なら使って下さい。」
「何時の間に・・・。」
「昨日の夜出しておいたんですよ。でも私も歯を磨くのすっかり忘れてましたけどね。これからそれを使って下さいね。」
「歯ブラシまで用意されてるとはな・・・。何だか一緒に住んでるみたいだ。」
「ふふっ、似たようなもんじゃないですか。一緒に食事したり寝たりしてるんですから。まだ恒常的なものじゃないですから、
通い婚って言った方が良いかもしれないですね。」

 通い婚か・・・。言われてみれば確かにそういう表現がぴったりだ。相手の家に行って食事して泊まっていくんだから。
また一つ既成事実が積み重ねられたような気がする。そのうち本当に表札に二人の名前を連ねた場所に住むことになったりして・・・。
あながち妄想とも言えないところが怖いと言うか何と言うか・・・。

「昨日歯磨き忘れた私が言うのも何ですけど、食後の歯磨きは基本ですよ。」
「俺、歯磨きするのはバイトから帰って寝る前だけなんだけどな。」
「昼や夜は仕方ないにしても朝は磨いた方が良いですよ。すっきりしますから。」
「じゃあ、使わせてもらうぞ。」
「ええ、どうぞ。」

 俺はアンプと鞄を床に置き、背中のギターを壁に立てかけてから晶子に指定された新しいグリーンの歯ブラシに歯磨き粉を
ブラシの半分くらいの量だけ乗せて歯磨きを始める。虫歯はないが歯磨きをしておくに越したことはない。
歯は一回虫に喰われると時間と金がかかるからな・・・。
 何時も夜寝る前と同じ調子で歯を磨いて、コップに水を注いで口の中を濯(すす)ぐ。数回濯いだ後洗面台にかかっていたタオルで口を拭って歯磨き終了。
確かに口の中がすうっとして気持ちが良い。ついでに顔も洗わせて貰って髪に櫛を何回か通す。やっぱり一人で迎える朝とは気分的に全然違う。

「あー、すっきりした。」
「そうでしょ?そう言えばタオルはどうしました?」
「これ、使わせてもらったけど・・・拙かったか?」

 俺が洗面台にかかっていたタオルを手に取ってちょっと引き気味に尋ねると、晶子は首を横に振って何故か嬉しそうな表情を浮かべる。

「全然。歯ブラシは別としてもタオルや櫛は共用ですよ。その方が一体感があって嬉しいですし。」
「一体感・・・ねえ。」
「だって夫婦や恋人同士だったら洗面台のタオルや櫛を共用してても不思議じゃないでしょ?」
「まあ・・・そうだな。」
「祐司さんもこれからのために、家で新しい歯ブラシを用意しておいて下さいね。」

 おいおい、それって自分が俺の家に泊まりに来た時のために準備しておけってことか?・・・口に出すまでもないか。
歯ブラシ1本約200円。それで晶子が気兼ねなく泊まれるなら安いもんだ。

「ああ、そうしておくよ。」
「これから出かけるんでしょ?外まで見送りますよ。丁度洗い物も終りましたから。」

 晶子は本当に新婚間もない妻みたいな振る舞いを見せる。でも悪い気はこれっぽっちもしない。
俺自身、晶子にそうして欲しいと思っているという無意識の欲求の表れだろう。
 俺は再びギターを背負ってアンプと鞄を持って玄関へ向かう。その後を晶子がついてくる。
俺が靴を履くと何時の間にか靴を履いた晶子がドアの鍵を開ける。俺はドアを開けて先に晶子を外に出してから続いて外に出てドアを閉める。
 晶子はズボンのポケットから鍵を取り出して鍵を閉めると−準備がいいなぁ−、俺の左腕に手を回して心底嬉しそうな表情で俺に尋ねる。

「どうでした?通い婚第一回目の感想は。」
「そりゃ・・・幸せな時間だったさ。」
「私も。」

 晶子はそう言ってかかとを上げる。その直後、俺の左頬に熱い点が出来る。・・・これじゃ本当に新婚さんじゃないか。
俺は思わず周囲を見回すが、幸にも人は居ない。女性専用のマンションでさっきの様子を見られたら、どんな目で見られるか分かったもんじゃないってのに・・・。
晶子の奴、本当に大胆だな。
 俺と晶子は並んでエレベーターに乗って1階に辿り着く。
ロビーに出たところで晶子はようやく俺の左腕から手を離して、そのまま出入り口へ向かい始めた俺に向かってにこやかに言う。

「いってらっしゃい。気をつけて。」
「・・・ああ。行ってくる。」

 俺が晶子に向かって小さく手を振ると、晶子はそれに応えて小さく手を振る。俺は何度も前と後ろを向きながら、名残惜しさを感じつつ外に出る。
ちらっと振り返ると、晶子は笑顔を見せつつ手を小さく振っている。俺は小さく手を振って、名残惜しさを振り払うように前を向いて
少し急ぎ足で自転車置き場へ向かう。
 振り返ってみればあっという間だった。でも幸せな時間だった。
一緒に食事をして音楽に親しみ、身体を寄せ合って一緒に寝た・・・。これが幸せでなかったら何が幸せなんだろう?
付き合い始めてから一気に俺と晶子の距離が近くなったように思う。
以前はこんなことになるなんて欠片も思いはしなかったのに・・・。まったく、人も状況も時間が経てば変わるもんだとつくづく思う。
 心なしか足が軽い。これから毎週月曜日、こうして晶子と時を同じくできる。そう思うだけで心が軽く感じる。
朝靄(もや)がまだ晴れ止まぬ通りを軽快に自転車で駆け抜ける。頬に感じるほんのり温かい風が心地良い。
 勿論、このことは俺と晶子二人だけの秘密だ。
こんなことをばらしたら、智一は錯乱しかねないし、マスターや潤子さんは格好の冷やかしのネタにするに決まってる。
でもそう思う一方でばらしてみたいなぁとも思ったりする。こういう気分になるのも幸せな時間の中に居るという証拠だろう。
 晶子は通い婚だと言った。俺は同居への既成事実の積み重ねの一つだと思った。
どちらも正しい表現だろう。やってることはまさにそのものなんだから。
ただ一つ相違点を挙げるとすれば、セックスという行為がないことだろう。
だが、それがなくても今は充分だ。何れ時が来ればそういうことになるだろう。
そこからそれだけの関係にならないようにしていかなければいけないという、意外に難しい問題があるんだが・・・まあ、それもなるようになるだろう。
今はそうとしか思えない。
 通りを勢い良く走っていくと、俺の家があるアパートが見えてきた。
一旦家に帰って服を着替えて、改めて出発だ。
こうしてまた、平凡にして平穏な日常が始まる。さあ、今日も張り切っていこう・・・。

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