雨上がりの午後

Chapter 39 聖夜に広がる音の潮−1−

written by Moonstone


 それからコンサート当日まで昼間は晶子と一緒に練習して、夜は例の曲のアレンジと練習に費やした。時計の針が一気に回転を早めたような感覚だ。
でも、不思議と疲れは感じない。好きなことを好きな相手の為にやっているからだろうか?
 ふと練習の手を休めて椅子の背凭れに体重を預けて考える。

俺は何時から晶子のことが好きになったんだろう・・・?

気持ちを告げられてその返事を迫られたからか?
それとも俺が熱を出して寝込んだとき、駆けつけてつきっきりで看病してくれたからか?
どれもそうだと思えるし、どれもそれだけじゃないような気がする。
もしかしたら、音楽のパートナーと教育係を引き受けた時点で、俺の中で好きだという気持ちが固い心の殻を破り始めていたのかもしれない。
本当に毛嫌いする相手だったら頑として断っていた筈だ。
 好きだ、という気持ちは色々なシチュエーションで生まれるものだ。
一目惚れも勿論そうだし、同じクラスやクラブで自然と気になる相手になったり、いきなり告白されて驚きと嬉しさで、などなど・・・。
以前は3つ目だったが、今回はあえて言うなら2つ目か。同じ店のバイトをやってるし。
 今思うとやっぱり優子との関係が切れるのは仕方のないことだったのかもしれない。
晶子と共有する時間と比べても優子と共有した時間は少ない。
2つ目のパターンで出来たカップルが進学と同時に切れやすいのは、時間の共有が圧倒的に少なくなることで相手の印象や
相手への想いが薄らいでいくからだと思う。
・・・だとすれば、同じバイトと音合わせという晶子との時間の共有が少なくなれば、必然的に今の関係は薄らいで、やがては切れる運命を辿るんだろうか?
そんなことがないとは言い切れない。本当に・・・付き合ってくれと言って良かったんだろうか?
何を今更。単なるバイト仲間のままで終わりたくなかったから、晶子の気持ちが俺から逸れるのが嫌だったから付き合ってくれ、と言ったんじゃないか。
所詮俺は、また傷つくことが怖かったんだ。それを敢えて乗り越えることで、晶子との距離を自分から縮めたんじゃないか・・・。

「俺は・・・どうしてこうもあれこれ考えるんだろうな・・・。」

 心の呟きが微かに口から漏れる。時はもうすぐクリスマス。コンサート本番の日も近い・・・。

 いよいよクリスマスイブがやって来た。
コンサートの初日、俺と晶子は会場準備の為に2時間ほど早めに店に入ってくれ、と昨日マスターから言われた。
今日明日は開場までは閉店だ。入場料は1000円だが、会場の都合なんかもあって19時に入場を締め切ることになっている。先着順ってやつだ。
勿論このことは事前に店の入り口や窓、各テーブルといった目に付きやすい場所にチラシを置いて知らせているから、大きな混乱はないだろう。
そう言えば、塾帰りの高校生が井上さんを見るぞ、とか息巻いてたな。
今年は俺と晶子が加わるから、客はかなり増えるだろうとマスターは予測していた。
 俺もそう思う。晶子は中高生を中心に人気が高いし、潤子さんは言わずもかなだ。
その二人のデュエットもあるから、相当の盛り上がりになるだろう。俺はさしずめ脇役ってところだな。
ま、俺はそれでも構わない。脇役には脇役にしか出来ない仕事ってものがあることくらい、バンドをやっていた俺はよく知っているつもりだ。
 俺は晶子と一緒に裏口から店に入る。一緒に行こうと昨日晶子から言われたからだ。
店の方からがたがたと何かを動かす音がひっきりなしに聞こえて来る。もう会場の準備は始まっているようだ。
俺と晶子は荷物を置いてキッチンの方から店に出る。

「マスター、潤子さん。」
「おっ、来たか。早速だが机や椅子を動かすのを手伝ってくれ。」
「「はい。」」

 俺と晶子は声を揃えて応える。
あまりにも声が揃いすぎていたので、晶子と顔を見合わせて小さく笑う。
 店の壁や窓には既にクリスマスのデコレーションが施されていて、マスターと潤子さんがシャツにジーンズというお揃いの格好で
机や椅子を並べ直している。
席に座れるのは先着10数名ほどで、後は立ち見になるようだ。
しかし、潤子さんのジーンズ姿って言うのは初めて見る。
何時もは接客のことも考えて割と良い服を着ているが、こういうのも新鮮で目を見張る。
長い黒髪を後ろで編みこむ髪型も初めて見る。何だか本当に高校の文化祭みたいだ。
 俺はコートとマフラー、そしてセーターを脱いでカウンターにどかっと置いて作業に加わる。
晶子もいそいそとコートとマフラーを脱いでカウンターに置く。セーターは脱がないようだ。そのうち暑くなって脱ぐことになるだろうが。
マスターの指示で大きめの机だけを前に並べて、2、3人用の小さな机はステージの背景の裏に−実は物置になっている−持っていく。
そして椅子は大きめのテーブルに5,6個ずつ並べ、残りは後ろに並べていく。結構な重労働だ。
マスターと潤子さんは、俺と晶子がバイトに入るまでずっとこの準備を二人でやっていたのか・・・。さぞ大変だっただろう。
それでもこのコンサート毎年の恒例行事としてやってきたのは、マスターと潤子さんが如何に音楽とこの店が好きなのか、
ということの裏返しでもあると言える。
俺と晶子は極力マスターか潤子さんの指示を受けてから動くようにする。そうしないと出鱈目なことになってしまう可能性が大きいからだ。
マスターや潤子さんは俺と晶子の問いに嫌な顔一つせずに指示を出してくれる。こうしてくれると手伝いの側としては楽だ。

 早回しにしたようにテーブルや椅子の配置が進んでいく。
晶子も途中でセーターを脱ぐ。やっぱり暑くなったんだろう。
暖房が控えめになっているのは作業で身体が熱くなることを想定してやっているんだろうが、それを通り越して身体が熱を持つようになるからだ。
俺達が来て1時間ほどで全ての作業が完了する。
いかにも気楽なコンサート会場という雰囲気だ。
マスターと潤子さんが額の汗を拭う。

「やっぱり人手があると違うよ。圧倒的に早い。」
「そうですか?」
「そりゃそうよ。今まではこれだけの数のテーブルや椅子を二人で並べてたんだから。二人が一生懸命にやってくれて助かったわ。」
「指示どおりに動いただけですよ。」
「それが居ると居ないでは大違いだよ。去年までは更に2時間はかかってたからな。」
「2時間も・・・。」
「それだけ君達二人の存在が大きいってことだよ。さ、夕食には早いからちょっと休憩しよう。」
「蜂蜜ミルクを作ってあるから、それを飲みましょう。」

 俺達はカウンターの何時もの席に座って、潤子さん手製の蜂蜜ミルクを飲む。暖かいミルクと甘い蜂蜜が丁度良い具合に溶け合っている。
飲む度に小さな溜息が漏れる。ステージが出来たという安堵の気持ちと、益々迫ってくるコンサートの緊張感がそうさせる。

「ん?どうした祐司君。落ち着かないみたいだな。」
「準備が終わってほっとしてるのもあるんですけど、やっぱりコンサート当日ですからね。何だか落ち着かなくて・・・。」
「あれ?祐司君は高校時代にバンド組んでたんだろ?だったら大勢の観衆の目に晒されることなんて慣れっこだろう。
それに人前に立つことは今日が初めてじゃないし。」
「高校時代はクラスの奴とか顔知ってる奴が少なからず居ましたからね。それに今回は珍しい組み合わせのセッションがあるでしょ?
それが上手くいくがどうか不安で・・・。」
「多少なりとも経験者の君がそんなに緊張してたら、井上さんはどうなるんだ。小さな店のささやかなイベントなんだから、気を大きく持ってだな・・・」
「あなた。それは無理よ。祐司君は殆ど出ずっぱりだし、厄介な曲も多いから・・・。」

 潤子さんが俺の気持ちを代弁してくれる。
ぼやっとしてるとどれがどれだか分からなくなるくらい弦を引っ掻くから、不安にもなるというものだ。
勿論、マスターの言うことも理解できる。
井上は初めて単独のヴォーカルとして普段より多い客の目に晒される、それも多少なりとも好奇の目も混ざって。
その不安は俺よりもずっと大きいかもしれない。

「マスター。ゆ・・・安藤さんはそんな脆い人じゃありません。私よりずっと多くの曲を練習して弾きこなしてるんですから。」

 晶子も続いてフォローを入れる。
祐司さん、と呼びかけて寸前で安藤さんに替えたのは、まだ此処で関係が進展したと悟られたくないんだろうか。
気遣いが嬉しい反面−何せどう突っ込まれるか分からない−、ちょっと残念な気もする。複雑な気持ちだ。

「さあ、夕食作るわね。しっかり食べてコンサートに備えてね。」

 潤子さんが明るい調子で言う。この弾んだ声を聞くと不安が一気に解消されていくような気がする。
俺は残りの蜂蜜ミルクを飲み干してカウンターの前のほうへ置く。
幾分気が楽になった俺は、両手に顎を乗せて潤子さんが夕食を作る様子を眺めることにする。
4人分の夕食を用意するのは大変だろうが、重いフライパンを軽く煽って炒め物をする様には驚きすら感じる。
普段は店の「昼休み」−14:00〜17:00となっている−にマスターと潤子さんが食べて、俺と晶子が18:00頃に店に入って食べるから
夕食の時間がかち合うことはないが、今日と明日に限っては特別だ。
 何だか、この4人が揃うと家族という感じがしてならない。
飄々としているが押さえるところはきっちり押さえている親父−というにはちょっと若すぎるが−、
気さくで朗らかで心強い相談相手になってくれる母親−わ、若すぎるか−そして子どもが俺と晶子。そんな感じがする。
 俺は高校時代にバンドをやっていたのは、ギターの腕を同じ中学出身の奴を通じてバンドのメンバーに知られたからだ。
最初はバンド組んでやるなんて鬱陶しいとさえ思ったが、練習をしたりコンサートの曲順を決めたりしているうちに仲間意識が出来てきた。
少なくともあの時、俺は独りじゃなかった・・・。
俺があれほど突っぱねていながらも晶子のヴォーカルと音楽の指導を引き受けたのは、無意識に独りからの脱却をしたかったからかもしれない。
そうでなかったら、あんなに熱心に教えたりしなかったかもしれない。

「はあい、お待たせ。出来上がったわよ。」

 潤子さんが湯気の立ち上るチンジャオロースを2皿ずつカウンターに出す。
そしてサラダに中華スープ、そしてご飯と続いてカウンターに並ぶ。まるで魔法だ。
調理師免許はマスターも潤子さんも持っているが、潤子さんは聞くまでもないような気がする。
流石に俺や晶子が入るまで殆ど独りでキッチンを切り盛りしていただけのことはある。
潤子さんもエプロンを外して、カウンターを出て自分の席に座る。
4人揃ったところで一斉に、いただきます、と言って食べ始める。
・・・本当に家族みたいだ。
 この夕食を終えたら「CLOSED」になっている店のドアにかかっているプレートを「OPENING」にして開場して、
客を順に前の方から詰めていくように誘導する。
何でも話に聞いたところでは、開場を並んで待っている客が年に4,5人は居るらしい。単なる喫茶店のコンサートとは思えない。
やっぱり潤子さん目当ての男の客が多いんだろうか。あとはカップルくらい・・・かな。

 俺も優子とまだ切れてなかったら、呼び寄せていたんだろうか・・・。
隣の晶子をチラッと見てそんなことをふと考えたりする。
優子はやきもち焼きではなかったし、男友達と彼氏とは分けて考えるほうだったから−俺にはそれがどうも納得いかなかったが−
晶子との仲を疑ったりはしなかっただろう。
 実際、俺が優子と続いてて晶子が前みたいに付きまとっていたらどう対応してたんだろう?
しつこい女だな、とは思っただろうが−現に最初の頃はストーカーかと思ったくらいだ−どんな関係になっていたんだろう?
こうして同じ店でバイトをして時にパートナーとしてステージに上がる間柄になっていたんだろうか?
その場合はもしかしたら、自然と晶子を受け入れていたかもしれない。
俺には優子という彼女が居るんだし、あくまでも演奏のパートナーとして接していたと思う。
大体俺には二人同時に付き合うなんて器用なことは出来ない。
 どっちが俺にとって幸せなのか分からない。
ただ、今俺がいる現実、優子と切れて晶子と付き合うようになった、その現実が幸せなことは感じる。
それで・・・良いだろう。

 夕食も終わり、いよいよ開場の時間が近付いてきた。
マスターと潤子さんも準備のときの服装からちょっとお洒落な服に着替えて、開場へ向けて緊張感と雰囲気が盛り上がる。
俺と晶子も着替えてからカウンターから客席に繋がるところに向かい合って並んで、客を迎え入れて客席へと誘導する。
潤子さんがステージに立ってマイクで前の方から詰めるように案内する係だ。
 マスターが少し開けて、入り口のドアを開けて掛かっていたプレートを「OPENING」に変える。
そしてドアを開け放つと、どやどやと厚着のカップルや男性、それに混じって高校生らしい連中が入ってくる。
まさか、開場前からこんなに並んでいたとは・・・。しかし驚いている暇はない。

「さあ、前の方から並んで座ってくださーい。」
「前の方が良く見えますよー。」
「席の数に限りがありますので、前の方から順番にお座りください。」

 客は素直に前のテーブル席から椅子席へと順番に座っていく。
それにしても客は多い。テーブル席はもとより椅子席もどんどん埋まっていく。
予想以上の観客数にドアの近くに居るマスターは客席の方と入ってくる客を交互に見て閉めるタイミングを窺う。
幾らなんでもスペースには限りがある。先着順だからスペースが埋め尽くされたらそこまでだ。
 マスターがほっとした様子でドアを閉める。どうやら客はスペースぎりぎりのところで収まったらしい。
それでも客はテーブル席、椅子席は満員で、立ち見客も残りのスペースを埋めるくらい居る。
マスターはすみません、を連発しながら人垣を掻き分けてステージに上る。
 俺と晶子もステージに向かおうとするが、人垣が固くてなかなか前に進めない。
1コマ講義のときの満員電車を思わせる厄介な代物だ。

「すみません。演奏者が通りますので、道を開けていただけませんか?」

 潤子さんがステージから客に依頼する。
客も俺と晶子に気付いて人一人通れるくらいの幅を確保してくれる。
潤子さん、良いタイミングだ。俺は心の中で潤子さんに感謝する。
 どうにか俺と晶子もステージに上り、全員一列に並ぶ。
マイクが潤子さんからマスターに渡り、マスターがマイクに向けて第一声を放つ。

「皆様こんばんは。ようこそ当店のコンサートへお越し下さいました。」

 マスターの第一声に客席が拍手と歓声で反応する。

「これまでは私と潤子の二人で細々と続けてきましたが、今年は一気に新しく二人、それも実力も相当な二人が加わり、
よりバリエーション豊富なコンサートに出来ると思います。是非、ご鑑賞下さいますようよろしくお願いいたします。」

 一礼するマスターに倣って潤子さんと俺と晶子も一礼する。
客席から再び拍手と歓声が沸き起こる。もう会場は暖房が要らないくらいの熱気を帯びている。薄手の服にしておいて正解だったと思う。
 俺と晶子は予め決められたとおりにステージの脇に下りる。
先陣を飾る潤子さんがピアノの前に腰掛けて髪をさっとかきあげる。
最初の曲は潤子さんのピアノソロによる「清しこの夜」。興奮収まらない客席を静めてクリスマスの雰囲気を醸し出すにはもってこいだ。

「それではまず最初は、聖夜をしっとりと彩る『清しこの夜』・・・。」

 マスターが洒落た台詞を−別に台本などは持っていないのに−口にすると、潤子さんの両手が動き始める。
4小節分聞き慣れないメロディが続くが、多分潤子さんがアレンジしたイントロだろう。
 メロディと低音域でのアルペジオが絡み合う、ゆったりした音が会場に響く。
ライブ会場さながらの熱気に包まれていた客席が、徐々に落ち着きを取り戻していく。
そしてメロディが和音になり、アルペジオも高音域を交えてクラシック調のアレンジが展開される。
本当に潤子さんのピアノは有無を言わさない「上手さ」がある。一体何所でマスターと出会ってどうやって口説かれたのか気になるところだ。
テンポがゆったりと前後して、揺り篭に入って優しく揺すられているような気分になる。
客もそう感じているのか、身体を前後に不規則に揺らしている人がぽつぽつと見える。
うっかりしていると俺も立ったまま眠ってしまいそうになる。
 エンディングの一音一音小さく刻むような高音域のアルペジオの最後の音が消えると、それまで水を打ったように静まり返っていた客席から
一斉に拍手が沸き起こる。
歓声のない拍手は客が興奮より感動をより強く感じたからだろう。
さすが潤子さん。早速立派な腕前を披露した上に客席を良い雰囲気にしてくれた。
ライブ会場じゃないから客が興奮してばかりである必要はない。これから続くクリスマスソングに繋げるには、今が一番良い状態だ。
 マスターが素早くステージに上り、マイクをステージ正面中央に立てられたマイクスタンドに立てる。
俺と晶子は続いてステージに上る。晶子はマイクを持つマスターの横に並ぶ。
進行はマスターが行うから、それが終わってから位置交代ということになる。

「さて、しっとりと纏めた後は定番のクリスマスソングに、普段ステージで演奏している曲、そして本日初めてお聞かせする曲を交えて進めてまいります。
まずは井上さんと安藤君による『ジングルベル』、私と潤子による『WHEN I THINK OF YOU』、そして初の4人同時演奏となる『メリークリスマス』、
この3曲を続けてお聞きください。」

 とうとう最初のステージがやってきた。まあ、メインは晶子のヴォーカルだが。
晶子は白いブラウスの上に黒いベストを着て、下は黒のフレアスカートという出で立ちだ。
ちょっとコンサートでは地味な気がするが、4人全員こんなスタイルで統一しているから良いのか。
晶子はマイクスタンドからマイクを取る。普段ならマイクに両手を乗せて歌うスタイルなんだが、どうしたんだろう?
兎も角、俺は4小節分のイントロを始める。潤子さんが途中でピアノの音を散らしてくれる。
ピアノの高音域を上手く使うとベルのように聞こえる。良い感じのイントロになった。
 晶子が歌い始める。勿論英語の歌詞だ。
透明感のある声が流暢な発音で会場に響く。自然と会場から手拍子が始まる。
晶子はステージを彼方此方動き回って時々くるっと身を翻してみたりする。
その度にスカートがふわりと舞って、どよめきか歓声か分からない音が会場から聞こえる。
普段マイクの前から動かない晶子とは全然印象の違う、随分活発なステージだ。
 なるほど、晶子もそろそろ「見せる」ことを考え始めたということか。
マイクの前で直立不動だと「聞かせる」ことは出来るが「見せる」ことは出来ない。
コンサートでは「見せる」ことも大事なことだと前に晶子に言った覚えがあるが、それを覚えていたんだろうか?
 俺の短いエンディングで締めると、客席から拍手と共に歓声が噴出す。
「井上さーん」なんて呼び声も聞こえる。
晶子はぺこりと客席に一礼してゆっくりとステージ脇へ降りる。俺もストラップを通して身体をギターから外してそそくさとステージから降りる。

「二人とも、良いステージだったわよ。」

 通り道でピアノの横を通るとき、潤子さんが小声で言う。俺は笑みを返す。
俺と晶子は一旦休み。次はマスターと潤子さんの息の合ったところが伝わると言って良い『WHEN I THINK OF YOU』だ。
盛り上がった客席をまたしっとりとした気分にさせる選曲だ。
 それまでステージ脇に控えていたマスターがアルトサックスを持ってステージ正面に出る。
マスターが楽器を持ってステージに立つと印象が全然違ってくる。かつてジャズバーを席巻したという風格が漂っているような気がする。
 曲の雰囲気を察したのか、客席の興奮が徐々に収まっていく。
そして潤子さんのゆったりしたイントロが流れ、マスターがサックスを構える。
そして抑揚豊かな甘いサックスの音色が会場いっぱいに広がる。
目を閉じてじっと佇んで聞いている客も居る。カップルらしい二人は肩どころか頭を寄せ合って二人の世界に入って聞き入っているようだ。
 この二人、本当に息が合ってるよなぁ、と思って腕組みをしながら聞いていると、ふと左横に何かが触れるような感覚を感じる。
見ると、晶子がさり気なく−本人はそのつもりだろう−俺の左横に密着している。
俺は小さい溜息を吐くだけで何もしない。向かい側の客席から見えているかもしれないという懸念もあるが−一応ステージ分の陰になる部分があるが−、
まだ肩を抱いたりする余裕が俺にはない。

 マスターの口がサックスから離れ、潤子さんのピアノがイントロを基本にしたアレンジのエンディングを静かに鳴らす。
一瞬の間をおいて、客席から大きな拍手が飛ぶ。その演奏に聞き惚れて拍手をするのを忘れていたんだろうか。
それだけのものをまだ持っていない俺と晶子は、ただ二人に感服するしかない。
しかし、余韻に浸っている暇はない。次の曲は4人全員が揃う1回目の曲だ。
俺と晶子は急いでステージに上り、所定の位置にスタンバイする。
この曲は潤子さんの4小節のイントロから始まるから、耳をピアノの方に集中させる。
いよいよイントロが始まった。俺は頭の中でリズムを刻みながらストロークを入れるタイミングを計る。4・・・3・・・2・・・1・・・今だ!
 潤子さんのピアノ、俺のギター、そして晶子のヴォーカルが同時に陽気なメロディを奏でる。しっとりしていた客席から再び手拍子が起こる。
晶子の流暢な英語でのヴォーカルは、聞いていて全く違和感を感じない。
一番最初のレパートリーになった『FLY ME TO THE MOON』も英語だったが、あの曲を練習しているときも、
リズムや音程は兎も角として発音は上手いな、と思ったものだ。
 一頻り晶子が歌うと、次はマスターが前に出てきてメロディをソプラノサックスで奏で始める。
歌っているようなサックスの音色がジャズっぽい雰囲気に甘味をプラスする。
あまり音合わせをしていないにもかかわらず、上手い具合に曲は進んでいく。コンサートだからこそ成せる「ノリ」の魔術だろうか。
 そしてマスターが一旦退いて晶子が再びヴォーカルを披露する。
『ジングルベル』のときと同じかそれ以上にステージを動き回り、聞かせると同時に「見せて」くれる。
歩くときに緩やかに舞う茶色がかった髪が、ライトを反射して煌く。その様についうっかりと見入ってしまう。
 8小節分のヴォーカルが終わると、マスターが再び全面に出てきてサックスとヴォーカルのデュエットが始まる。
客には相当珍しく映ったらしく、おおっと歓声が沸き、続いて手拍子がより大きくなる。
こうして演奏する側と聞く側が一体になって楽しめる。これがコンサートの醍醐味だと改めて思う。

 エンディングを終えると大歓声と拍手が沸き起こる。指笛まで飛んで観客の興奮はピークに達したようだ。
晶子がマスターにマイクを渡す。サックスの次は進行役。マスターもなかなか大変だ。

「皆さん、3曲連続でお送りしましたが如何でしたでしょうか?」
「最高ー!」
「凄く良かったぞー!」
「ご声援ありがとうございます。この店がこの地に構えて以来、年末の恒例行事となっていたこのコンサート、
今年は音楽的センスに溢れる若い二人が加わったことで、更なる興奮と感動を皆さんにお届けできるようになったと思います。」

 マスターの言葉を受けて拍手や指笛が鳴る。
俺はまだ脇役だけだが、大勢の前で誉められるというのには勿論悪い気はしない。

「ここからさらに色々な曲をお聞かせしていきます。まずはこれまで脇役に徹してくれていた安藤君のソロ曲『AZURE』、
初めての組み合わせ、安藤君と潤子のペアによる『EL TORO』、そして今やこの店の定番となった安藤君と井上さんによる『FLY ME TO THE MOON』と
続けて3曲、お聞きください。」

 とうとう俺のギターが前面に出る番がやってきた。嬉しい気持ちより緊張感、否、責任感の方が強い。
ここまで上手く進んできたコンサートを俺の番で台無しにしたら元も子もない。
俺はおまじないのようにチューニングを確認してから、静まり返った客席にギターの調(しらべ)を流し込む。
 ・・・いい感じだ。何時も以上にリラックスした指が弦を爪弾き、フレットを滑る。抑揚もテンポも問題ない。
こんな大舞台なのに−高校時代のライブよりは小さいが−客席の様子を窺う余裕まである。
 今までの中で一番良い出来かもしれない。
そう思うと自然と弦を操る指に静かな、しかし熱い感情が篭る。
一音一音が自分の中で昇華していくのが分かる。それは音と心との静かな共振・・・。
 最後の一音を弦から解き放つと、大波のような拍手が起こる。
この曲は最初の公開のときからマスターと潤子さんの受けも上々だったが、これだけ大勢の客を前にこういう拍手を受けるといい演奏が出来たんだな、
という実感が湧いてくる。

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