雨上がりの午後

Chapter 26 歌う横顔に吸い寄せられる瞳

written by Moonstone


「じゃあ先へ進むか。次のペアは・・・っと。」
「私と晶子ちゃんのデュエットよ。」
「おっ、そうだったか。祐司君、起き抜けでいきなりだけどバック頼むよ。」
「はい。」

 もうそんな順番になったのか。
恐らく今度のコンサートのプログラムで1,2を争う目玉になるだろう、井上と潤子さんがデュエットする『Secret of my heart』。
シーケンサと一緒にバッキングを担当する俺も楽しみな一曲だ。
 一方で不安もある。井上とは何度も音合わせをしているが、潤子さんとはアレンジの構成の情報を共有しているだけだ。
シーケンサを使うといっても俺は持っていないから−普段はMIDIデータを作る必要が無い−、井上は俺のギターだけで練習してきた。
こういう流行りものの曲を演奏するのは、練習してきたこととはいえやはり俺は違和感を感じてしまう。
高校時代は海外のバンドのコピーをやったり、それこそ流行りものをコピーしてたりしたんだが、この店でジャズやフュージョンに触れてから
曲の好みがすっかり変わってしまった。今ではロックを当たり前のように聴いたり弾いたりしていた高校時代のほうが不思議に思えてしまう。
 それよりもっと不安なのは、井上と潤子さんが声を合わせるのはこれが初めてだということだ。
同じフレーズを歌うにしても、呼吸が合ってないと本当の意味でのデュエットにならない。
コンサートとカラオケが違うのは、自己満足のみか人に聞かせるものかどうかということなんだから。少なくとも俺はそう思う。

 マイクスタンドをもう一つ、マスターが最初からあるマイクスタンドの横に並べる。
このステージにマイクスタンドが2つ並ぶのは初めて見る光景だ。
二つ並んだマイクの前に井上と潤子さんが並んで立つ。
ギターのチューニングを再確認してから改めて横を見ると、俺に近い方に井上が、その奥に潤子さんが居る。潤子さんは井上より少し背が高いんだ。
 二人とも正面を見たまま顔を合わせようとしない。緊張しているのか、それともライバル意識か・・・。
潤子さんは普段ほんわかした感じだが、意外に内に秘める感情は激しいのかもしれない。
或いは実力に裏打ちされた自信があっても、「初めての」という修飾語が付くシチュエーションでやはりは緊張するものなんだろうか?

「祐司君。」
「・・・あ、はい。」
「シーケンサはフットスイッチの一番右でオンオフできるから、いいと思ったら始めてくれ。2小節分のリズムから
打ち合わせどおりのアレンジが始まるようにしてあるから。」
「はい。・・・井上と潤子さんは準備良いですか?」
「ええ。お願いします。」
「私も良いわよ。」

 二人とも歌う気構えは出来ている。
俺の足元にあるフッとスイッチを押せば、二人の固い表情の理由が歌声という形で分かるかもしれない。

「じゃあ・・・井上と潤子さんのペアで『Secret of my heart』。」

 これまでの例に倣って簡単な紹介を済ませて、俺はフットスイッチを押す。
僅かにモタった安っぽい感じのリズム音が2小節分演奏されたところで、俺はギターのストロークを始める。
リズムに合わせた一定のストロークを4小節分鳴らし終えると、2人の声がマイクを通じて朗々と流れ始める・・・。
 二つのソプラノボイスがシーケンサの刻むリズム音と俺のギターが織り成す固めの演奏を柔らかいベールで包み込む。
それは歌うというより、二人がそれぞれ歌詞を台詞にして目の前の相手に語りかけるような、気持ちを独白するような・・・。
 横を見ると、両手をマイクに添えて歌う井上の横顔が見える。
見覚えのあるその顔は・・・俺に想いを告げたときそのまま、否、それ以上に真剣でそして切なげで・・・。

あの顔をこっちに向けられたら、俺は・・・。

 胸の奥を強く掴まれたような収縮が襲う。
不意の強烈な感覚にシーケンサに合わせて半ば自動演奏していた両手の動きが乱れそうになる。
俺はとっさに視線と意識を両手に集中させるが、異常に早まった心拍数と上昇した体温は気にするまいと思ってもダイレクトに意識に伝わってくる。
 自分ではどうにか平静を装っているつもりだが、演奏が変に聞こえてやしないか不安だ。
・・・駄目だ。今は兎に角、演奏に集中しないと・・・。

 シーケンサのリズムが途絶えるに合わせてダウンストロークで締めるという手筈どおりのエンディングを終える。
フットスイッチを押してシーケンサを止めると、どっと汗が噴出すのが分かる。安堵の汗か冷や汗か分からない。
心拍数は演奏を続けている間にようやく収りかけてきたが、体温はこの程度の汗では下がりそうに無い。それだけ強烈な印象だったということか。

「うーん。上出来上出来。良い感じでユニゾンしてたぞ。」
「そう?歌ってて自分でもそう思ったけど。」
「私もです。」
「さっきみたいな調子で目の前で歌われたら、男性客は一撃でノックアウトされるぞ。特に免疫の無い純情少年は。」
「ふふっ、そうかしら?」
「潤子さん目当ての男性ファン、多いですもんね。」
「そうでもないわよ。晶子ちゃんが来てから私に向けられる視線の数が間違いなく減ったもの。」

 井上と潤子さんは顔を見合わせて楽しげに語らっている。
歌う前の張り詰めた雰囲気は、やはり初めて声を揃えることから来る緊張感だったようだ。
俺が勝手に不安がってたことなんだが、取り越し苦労で終わって何よりだ。

「で、祐司君の方だけど・・・。」
「は、はい。」

 突然マスターが俺の名を呼ぶ。反射的に返事をしたは良いが、何か引っかかるものがあったんだろうか?
・・・やっぱり不器用な俺では内心の乱れは誤魔化せなかったか?

「シーケンサに合わせるのは難しかったと思うけど、変につんのめったりモタったりしてなかったから、あれでオッケーだよ。」
「あ、どうも。」
「聞かないタイプの曲だっていうからどうかと思ったけど、さすがにギタリストだけのことはあるな。」
「責任がありますからね。それに・・・変な先入観を持つと身が入りませんよ。」

 ・・・先入観。自分で言ったその言葉が重く響く。
自分自身、その先入観とやらを頑強に持ってた、否、今でも持ってるんじゃないか?・・・井上に。そして、井上の気持ちに・・・。
 何時か裏切るんじゃないか、っていう気持ちはいるのは経験から学んだ法則に従っているんじゃなくて、単に自分で構築した法則、
そう、それこそ先入観を頑強に守ろうとしているだけなんじゃないのか?

井上を待たせているのも・・・その先入観を崩したくないからなんじゃないのか?

「さて、次は俺と祐司君の番かな。連続だけど良いかな?」
「え?ああ、それなら大丈夫ですよ。さっきはつい居眠りしちゃっただけですから。」
「あなた。その前に一度休憩しない?私達は休み休みだけど、祐司君は殆ど出ずっぱりだから。」
「そうだな。冷たい飲み物でも用意するか。ちょっと待っててくれ。」

 あっさり続行から休憩に方向転換するマスター。やれやれ。潤子さんの頼みは断れないんだなぁ。
俺が夜の部に調理専門を一人入れたらと言っても楽器が出来るのが条件、と譲らなかったけど、
潤子さんが井上を入れるように頼んだらあっさり覆したくらいだし・・・。
 そう考えると、俺と井上が音楽やバイトという重要な接点を持つことになったのは、潤子さんが居たからこそ実現したことかもしれない。
それより前にこの店にバイトで来てなかったら、潤子さんやマスターとも接点がなかっただろう。
人と人との接点がまた新たな接点を生み出すというのは、こういうことなんだろうな・・・。

「はいはい、お待たせっと。」

 マスターがアイスコーヒーがなみなみと入った大きめのグラスを4つ載せたトレイを持って戻って来た。
マスターは普段あまり注文の品を運んだりしないが、こうしてみると結構様になっている・・・とはちょっと言い辛い。

「暖房も効いてるし、こういうものの方が良いかと思ってな。」
「祐司君なんか特にそうじゃない?汗だくよ。」
「ええ、そうですね。汗かきな方なんで・・・。」

 もっともこの汗は井上の歌う横顔を見たからなんだけど・・・。
井上のあの横顔が脳裏に浮かぶとまた体温が上昇して鼓動が早まり、汗が噴出してくる。強烈な印象と共に脳裏に焼きついたみたいだ。
困ったな・・・。今日は部屋は違えど、同じ空間で寝泊りするんだぞ・・・。
もし夜中顔を合わせたら・・・衝動的に抱き締めたりしてしまうかもしれない。

 ・・・一人で何を妄想に耽ってるんだ、俺は・・・。
アイスコーヒーで頭と身体を念入りに冷やしておこう。

「クリスマスソングは今日は別として、後は・・・俺と祐司君で『JUNGLE DANCE』、それと4人全員で『COME AND GO WITH ME』だな。」
「それにしても祐司君、ハードねぇ。ソロもあるしそれ以外にもバックもやるんだから。」
「ギターはピアノと同じでメロディもバックも出来る便利な楽器ですからね。」
「もっとシーケンサを使った方が良かったかな・・・。」
「出来るだけ生音のほうが良いですよ。」
「そりゃそうだ。ミュージシャン魂だねぇ、祐司君。」
「楽器の生演奏がこの店のウリなんじゃなかったでしたっけ?」
「そうかそうか。そうだったな。」

 マスターは思い出したように言って笑う。まったく暢気なもんだ・・・。
バンドをやってたときは全員最初から最後までフル稼働が当たり前だったし、それに加えてパフォーマンスと称して演奏以外に動き回っていたから、
これくらいでへばってはいられなかった。否、へばっている暇さえなかったというべきか。
 俺はギターという、ヴォーカル同様に目立つパートを担当していたから尚更だった。
ステージから客席にダイブして歩き回りながらソロを披露したり、そうでなくても客を煽ったりしたものだ。
・・・それを口実にするような感じで、優子の元にさり気なく近寄ったりもしたな・・・。
もっとも周囲から見れば全く「さり気なく」はなかったようで−同じ学年の奴はほぼ全員知っていただろうし−、
周囲から聞こえる歓声が冷やかしの声に急変したっけ。
そんな中でも手拍子をしながら嬉しそうに、そしてちょっと誇らしげに俺をじっと見つめていたな・・・あの頃の優子は・・・。

・・・なのに・・・どうして・・・?
どうして・・・あんなことになっちまったんだ・・・?

 あれは距離の近さが生んだ、ひとときの甘い幻影に過ぎなかったんだろうか?
もしかすると井上の俺に対する気持ちも、そして俺がまだはっきりさせられずにいる井上への気持ちも、あの時と同じものなんじゃないのか・・・?

「でも、もう少し安藤さんが出る間隔を開けた方が良いと思うんですけど・・・。」

 井上に対する疑念が心の大海に徐々に顔を出してきた時、井上がそう提案をする。

「ああ、それなら今日は音合わせだか相当連続したけど、実際はクリスマスソングを混ぜたりして数曲に1回の間が空くように
調整しておくから心配要らないよ。」
「やっぱり祐司君が心配?」
「だって・・・安藤さんが居ないと演奏できない曲がいっぱいあるじゃないですか。」
「あら、理由はそれだけじゃないでしょ?」
「もう・・・、潤子さんてばっ。」

 体温の上昇が頬に現れた井上が少しむきになって誤魔化す。
丁度気持ちの本質を考えていたから、そう言った井上の気持ちが本当のものなのかを疑問に思ったりしてしまう。

・・・疑念がさらに疑念を呼ぶ。疑念が無限に増殖していく。

 疑念はそうして際限なく膨らんでいく。そして本当のものまで疑いと否定の黒い覆いを被せていく。
・・・疑うことはそういうものだと前に思い知った筈なのに。
あの女とのことに拘るあまり本当のことまで逃してしまったら・・・不幸に拘って幸を不幸に変えて呼び寄せるなんて・・・まっぴらだ。

「さあて。じゃあそろそろ続きを始めようか。」

 マスターが言う。俺は残りのアイスコーヒーを一気に飲み干すと同時に考え事を胸の奥に流し込む。
今考えるのは日にちの迫ったコンサートのことだけにしておこう・・・。疑念になることは尚更な・・・。

 再開した音合わせは、俺とマスターのペアでの『JUNGLE DANCE』から始まる。
この曲、演奏も然ることながら、動物の鳴き声をギターで表現するのが難しい。
この擬音を再現するために音色を試行錯誤したり、音を採ろうと何度もCDを聞き返したものだ。
普段のステージでは滅多にやらないが、意外に客の注目を引くのはこの擬音のせいだろう。
 楽器は多いがギターとサックス以外はシーケンサ任せだ。
サックスとの細かいフレーズのユニゾンもあってなかなか歯応えがある。
普段は店の雰囲気もあってかアコースティックギターの方が使用頻度が高い。
バンドをやってた頃はギターといえばエレキギターだったんだが、本当に変われば変わるものだ。

「さすが実力派コンビねぇ。完璧じゃない?」

 演奏を終わると惜しみない拍手と共に潤子さんが賞賛する。
実力派といえば潤子さんは遜色ないと思うが、そういう人から誉められるのは嬉しい。

「動物の鳴き声って・・・安藤さんがギターで鳴らしてたんですよね?」
「ああ、そうだけど。」
「ギターであんなことが出来るんですか。凄いですね。どうやってるんですか?」
「早弾きと音程の操作、あと音色かな・・・。救急車の音とかも出来るよ。」
「やってみて下さいよ。ね?」

 井上が急に最初の頃を思わせる押しの強さを見せる。
目を輝かせてせがむようなこの目には・・・抵抗する気がどうしても沸いてこない。これは本当に天性のものだな・・・。

「・・・でも、今は音合わせやってるから・・・。」
「ああ、それなら良いよ。今日は君達泊り込みだし、残りも少ないから時間的には十分余裕あるから。」
「気兼ねしなくて良いのよ、祐司君。こういう時はね。」
「・・・じゃあ、ちょっと待って・・・。」

 マスターと潤子さんの後押しを受けられたら、もう俺に逃げ場はない。別に嫌じゃないから良いんだが。
俺は背後のラックにあるエフェクターを操作して、軽めのオーバードライブを基本に適当にギターをいじりながら音色を調整する。
 こんな感じかな、というところで調整を止めて、席に戻る。
ちょっと臨場感(?)を増すために、鳴り始めのウ〜と音程が変動するところから始めてみる。
その後サイレンを暫く鳴らしてから、走り去るイメージを演出するようにボリュームを下げながら音程を変化させていく。ドップラー効果ってやつだ。
ボリュームを操作するだけでかなり印象は変わる。さっきの動物の鳴き声の擬音にしたって、ボリュームの変化は重要な要素だ。
これを取り払うとそれこそシーケンサでベタ打ちしたデータ(一定の数値で揃ったデータ)と大差ない。

「凄〜い。本当に救急車が走ってくみたいでしたよ。」

 ボリュームを絞り切ると、井上が目を大きく見開いて言う。
拍手も忘れるほど驚いたらしい。臨場感がそれだけあったんだろうか?

「ドップラー効果が良いなぁ。」
「最初のサイレンが雰囲気出てたわ。時々あんな音するわよね。」
「ピーポーピーポーっていうサイレンはありがちなんで、こういうのも良いかなって。」
「楽器でこんなことが出来るんですね〜。本当に凄いですよ。」

 井上には擬音が余程新鮮だったようだ。
俺にはちょっとしたことなんだが、それが人を驚かせたり喜ばせたり出来るものなんだと実感する。
当然、その逆もあるわけで・・・。少し前に経験したばかりだし、それが人と人の繋がりで難しいところだと思う。

「いっそ、コンサートの余興でやっても良いかも知れんな。」
「結構ウケるかも知れませんね。」
「ショートコントでもするか?俺と祐司君で。」
「コンサートじゃなくなりますよ、それじゃあ。」

 聖夜とやらでムードを演出するところでコントをやってどうするんだ?
思わず苦笑いが浮かぶ。バンドをやってたときも、練習の合間にこういう他愛もない話で盛り上がったものだ。
俺に話が振られる時は、もっぱら優子とのことだったが・・・。
 まあ、所謂思春期の男5人が揃えば自ずとそういう話になるだろう。とりわけ彼女持ちは何かと注目される。
何処まで仲が進んだ?なんて冷やかしの混じった質問は基本中の基本だ。
子どもは元気か?なんて飛躍した質問もあったりした。言われても悪い気はしなかったな・・・。
 苦笑いの中に苦い溜息が混じる。何かある毎にあの女のことが浮かんできてしまう。そして今と比較してしまう。
井上が看病してくれたときに言ったように、過去の恋愛を忘れるなんて出来そうにない。
過去を忘れて新しい未来を、なんて気軽に言う奴が居るが、それは余程物忘れが良い奴に違いない。
過去を踏まえて今を進んでいくしかないのかもしれない。そしてむしろそれが自然なことなのかもしれない・・・。

「じゃあ、そろそろ『COME AND GO WITH ME』をやるか。」

 マスターがそう言って腰を上げる。いよいよ初の4人全員のアンサンブル『COME AND GO WITH ME』だ。
井上はヴォーカル、マスターはサックス、潤子さんはピアノ、そして俺はギターとそれぞれの専門パートがある、
このメンバーでのアンサンブルにはうってつけの曲だ。同時に問題や不安も数多い。
 それぞれそれなりに演奏慣れしているとはいえ、4人のアンサンブルなんて初めてだ。
練習はしてきたがもう一人のメンバーともいえるシーケンサを含めて他のパートと上手く合わせられるんだろうか・・・?
 客席にいた井上と潤子さんがステージに上がって、それぞれの「定位置」に就く。
サックスを何度か振ったり椅子の位置を確認したり、喉に手を当てたりチューニングをしたりと、自分が言うのも何だがそわそわと落ち着かない様子だ。
やはりこのメンバー初のアンサンブルを前に緊張しているんだろうか?

「準備は良いかな?」
「はい。」
「何時でも良いわよ。」
「大丈夫です。」
「それじゃ事前の打ち合わせどおり、祐司君がシーケンサを始めて2小節分の後ピアノのリフが入る4小節、それからヴォーカル。
井上さんはギターとシーケンサのリフを聞きながらしっかりテンポを取って。一応リズムはあるけど、上位の関係で聞こえないかもしれないから。」
「・・・はい。」

 頷く井上の表情はやはり硬い。練習のときも最初の頃かなり戸惑っていたからな・・・。
リズム音なしにテンポをしっかり取るのは思いのほか難しい。バンドをやっていたときもバラード曲の練習が一番梃子摺った覚えがある。

「大丈夫よ。今まで祐司君と練習してきたんだもの。」
「あ、そうだな。改めて言うことでもなかったか。」
「・・・。」
「・・・歌えます。始めましょう。」

 俺は返答に詰まったが、井上の顔には決意がみなぎっている。受け取り方の違いがもろに出たな・・・。
だが、これで一先ず最初の問題、即ち不安になるあまり演奏を躊躇してしまうということは突破できただろう。始めるなら今だ。

「・・・じゃ、始めますよ。」

 俺は足元のフットスイッチを押す。
『Secret of my love』でもあったような安っぽい音色のリズムが2小節分続いてから、潤子さんのピアノが高音部を使ったリフを奏でて−これはアレンジだ−
ラジオの声を模したSE(Sound Effect:効果音のこと)が混じる。
実はこれ、ある音源のプリセット音色にあったりする。知ったときには結構驚いたものだ。
 張り詰めた緊張感の中続いたイントロが終わると、井上の歌声が流れ始める。
・・・ちょっと声が固いか?だが、上ずったり妙な震えが混じるようなことはない。
 時々俺のギターとシーケンサのフレーズが入るとはいえ、殆ど井上のソロのようなものだ。
観客の目と耳が集中するというプレッシャーに晒されるが、上手く歌えれば拍手喝采は間違いない。
 そしてピアノの駆け下りるフレーズに続いて、井上のヴォーカルと交代で急に自己主張を始めるリズム音とマスターのサックスが加わる。
バッキングを担当する潤子さんのピアノは、マスターのサックスに阿吽の呼吸で絡む。
当然店が終わって俺と井上が帰ってから練習を重ねてきたんだろうが、やっぱり互いにとって最高のパートナーなんだな・・・。

俺と井上は・・・他人から見てどうなんだろう?

 マスターのサックスと交代で井上のヴォーカルが再び加わる。今度は声の固さが随分取れている。
英語が得意な方だというだけあって明瞭な発音と良い感じの抑揚が、横で聞いていて心地良い。
普段の練習じゃ音量全開、というわけにはいかないから、思う存分歌えるというのも張りのある声に結びついているのかもしれない。

 暫くヴォーカルメインが続いてから、今度はヴォーカルとサックスが掛け合いをする。
これは鳥肌物の出来だ。初めてとは思えないほど上手く融け合っている。
・・・何だかちょっと悔しい気もする。これは嫉妬というんだろうか?ただ物珍しいからというだけじゃないみたいだ・・・。
 掛け合いが終わるとマスターのサックスソロが始まる。
かつてジャズバーを席巻したというだけあって、文句のつけようがない。
マスターがフットスイッチでエフェクタを操作しての深めのリバーブが色っぽい効果を醸し出す。
サックスは元々色気のある音を出す楽器だが、エフェクタを上手く使うとさらに色気が増す。
 聞き惚れてばかりはいられない。今まで控えめだった俺のギターも、マスターとの掛け合いでストロークを音量を上げて前面に出ないといけないからだ。
足元のボリュームを操作してタイミングを見計らって・・・。
オッケーだ。バッキングといっても気は抜けないのは勿論だし、ここで失敗したら今までの流れがぶち壊しだ。

このまま行けば・・・大丈夫だろう。


「うん。予想以上の出来だったな。」

 エンディングまで滞りなく進んだ後、サックスのリードを口から離したマスターが満足げに言う。
俺も同感だ。バンドをやってた頃でも、新曲の最初の音合わせがすんなり行くことはまずなかったと言って良い。
誰かのテンポがずれたり、譜面を覚えきれずに演奏そのものを失敗するなんて珍しくなかった。

「皆、テンポがしっかり取れてたわね。こういうテンポが遅めの曲は意外とずれやすいんだけど。」
「シーケンサのリズム音があったからですかね?」
「まあそれもあるだろうけど・・・練習しただけのものになってるってことじゃないか?」

 オーバーアクション気味の−「見せる」ためだろうが−マスターは勿論、井上も潤子さんも額に汗が浮かんでいる。
マスターや俺はまだしも、井上や潤子さんが演奏で汗をかくなんて珍しい。それだけ熱を帯びてたということか。
 井上は額の汗を指先で拭う。首をやや俺の方に傾けて吐く軽い溜息。ほんのり紅く染まった頬。
妙に艶かしいその様子に俺は思わず見とれてしまう。
こういうさり気ない仕草に現れる色気ってのはわざとらしさがないから、自然と気を惹かれてしまう。

「あら、祐司君。何見てるの?」

 潤子さんに言われて急に我に帰る。振り返ると、ピアノから離れた潤子さんが、井上に似た悪戯っぽい笑みを浮かべて俺を見ている。

「べ、別に何も・・・。」
「あら、視線は何処かにくぎ付けになってたみたいだけど。」
「!そ、そんなことは・・・!」
「ふふっ、隠しても駄目よ。ちゃんと見てたんだから。」
「・・・。」

 返す言葉が見当たらない。ピアノは俺の斜め後ろにあるんだった・・・。
俺が井上の仕草に見とれていた一部始終は、潤子さんから丸見えだったんだろう。

「んー?何の騒ぎかな?」

 直ぐ近くで騒いでいたら、それもこの手の話と来れば気付かないわけがない。
マスターと井上が疑問符を頭上にいっぱい並べて、とりわけマスターは顔には好奇心の色を浮かべてやってくる。

「誰かの視線が誰かにくぎ付けになってたってことよ。」
「ほほう。もっと詳しく聞きたいな。」
「べ、別に聞かなくても良いことです!」
「本人を目の前にしてもかな?」
「え?本人って?」
「何でもないから・・・。」

 事情が良く分かっていないらしい井上が首を傾げている。
俺は視線を横に逸らしてはみるが、時既に遅し。ひたすら誤魔化しと沈黙で押し通すしかなさそうだ・・・。

・・・でも、あの井上の横顔は魅力的だったな・・・。


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