雨上がりの午後

Chapter 21 一夜明け、夜がまた訪れる

written by Moonstone


 何時もの駅で降りて改札を潜り、大学へ向かう道を歩いて行くと緊張感が増して来るのを感じる。
この緊張感は井上と額合わせをしたり、井上が横で寝ていた時のものとはまったく違う。
・・・理由は唯一つ、智一に会うからだ。

 智一は俺と井上が互いに意地を張った故のトラブルに巻き込まれた被害者と言える。
智一が井上に熱を上げていたのは前々から知っているし、その気持ちも合コンとかで付き合うような遊び感覚じゃないことも分かっていた。
だから今回の件で井上とデートできることになったのは、智一にとってはそれこそ願ってもないチャンスだったと思う。
 だが、どういう経緯があったかはよく分からないが、井上の話を聞いた限りではデートの途中で井上は智一に「好きな人」が居るから付き合えないと言って、
「好きな人」の看病をするために帰ったわけだ。
そしてその「好きな人」とやらが、あろうことか井上に興味がないと言った俺だった・・・なんて、智一にとっちゃ笑い話にもなりはしないだろう。
 大学の敷地内に入ると緊張感が更に増す。落ち込んでるか怒っているか・・・。
俺が智一の立場だったら、お前らのトラブルに巻き込んでその上俺を弄びやがってと怒るところだ。実際そのとおりだと言われても反論できない。

「祐司。」

 不意に肩を叩かれ、背後から声がする。
振り向くと何時になく神妙な顔をした智一が居た。
ますます増幅する緊張感に俺の顔は自然に強張る。

「・・・智一。」
「具合はどうなんだ?」
「え?」

 智一の意外な第一声に俺は思わず聞き返す。

「何だよ、え?って。土曜に熱出して唸ってたんだろ?」
「何で・・・知ってるんだ?」
「お前馬鹿か。晶子ちゃんの口から聞いたからだよ。」

 ・・・本当に俺は馬鹿だ。
井上がバイト先にかけた電話で潤子さんから俺が熱を出して寝込んだことを知ったなら、智一にも帰る理由とかで説明していてもおかしくない。

「で、具合は?」
「・・・ああ、何とか良くなった。」
「そっか。・・・ま、立ち話もなんだし、歩きながら話そうぜ。」

 俺と智一は並んで歩く。こんなことも随分久しぶりに思う。
俺から何か言おうと思っても言葉が思いつかない。

謝る・・・?何を・・・?
俺と井上の痴話喧嘩に巻き込んだことをか?
じゃあ、何をどうやって謝れば良いんだ・・・?

話の切り出し方を考えていると、智一の方から話を切り出し始める。

「・・・お前が晶子ちゃんに興味がないって言って、晶子ちゃんがデートOKしてくれたことは、正直チャンスだって思ったよ。」
「・・・。」
「で、当日デートしてて晶子ちゃんの反応を観察してたんだけどさ・・・、ちゃんと礼は言ってくれたし喜んではくれてたけど、
心底楽しいっていうんじゃなくて、俺を気遣ってるような・・・そうそう、意識此処にあらずって感じだったな。」
「・・・。」
「考えてたデートコースを回ってから、夕方になって予約しておいたレストランに行こうとした時だったかな。電話して良いですか?って聞いたんだよ。
相手先を聞くなんて無粋なことはしたくないから勿論オッケーしたけどな。晶子ちゃん、今時珍しく携帯持ってないから公衆電話からかけて、開口一番こう言ったよ。」
「・・・何て?」
「『安藤さんはどうしてますか?』って・・・。参ったよ。晶子ちゃんは俺とのデートの最中でもお前のことを考えてたんだからな。」

 智一のぼやきが聞いていて辛い。やっぱり俺と井上の意地の張り合いが智一の気持ちを振り回していた。
感じるだけじゃどうにもならないが、罪悪感を感じずにはいられない。その代わり優越感なんてこれっぽっちも感じやしない。
こういう事が勝ち負けの問題じゃないっていうことが本当に今更だか肌身に染みる。

「電話のやり取りを見てたら晶子ちゃん、途中でえらく驚いてさ。何かと思ったら電話を切った後で、
お前が熱を出して寝込んでるって聞いたから帰りますって言ったよ。彼女、お前のバイト先まで調べてたんだな。」
「・・・ああ。」

 智一は俺と井上が同じバイトをしていることは知らないんだろうか?
確認しておきたい気もするが、「勝利」を誇示するようでどうしても言い出せない。

「一応俺は、『安藤は君には興味がないって言ってる。それでも君は気にかけるのか?』って聞いたよ。そしたら晶子ちゃん、何て言ったと思う?」
「・・・判らない。」
「『彼が私のことどう思ってても、私は彼が心配なんです。』ってさ。この果報者。」
「・・・。」
「で、とどめに、私には好きな人が居るからお付き合いできません、だって。彼女も結構不器用って言うか天然って言うか・・・。
あそこまでお前のことを気にかけといて、今更好きな人って代名詞を使わなくても誰のことか直ぐに分かるのにな。」
「・・・。」
「そう言ったらもう俺が止める間もない、ダッシュで帰っちまったよ。
はあ〜あ。お前が熱出さなきゃ、晶子ちゃんが途中で帰ることもなかっただろうな。お前、タイミング良すぎ。」
「・・・確かに。」

 もし俺が熱を出さずに何時ものようにバイトに出ていたら、電話口に出るように言われただろう。
そうなったとしてもあの時の状態じゃ、互いに意地を張ったままで電話を切ることになっていたに違いない。
 第一、傍に居て欲しいとか言ったり甘えたりするなんて、とても素面じゃ無理だ。
俺と井上の行き違いが解消されたのは、俺が熱を出して寝込んだからと言って良い。

「・・・俺と井上の諍いに巻き込んじまったな。」
「まったくだ。喧嘩するのは仲が良いって言うけどさ、その喧嘩に対象外の人間巻き込んで余計な期待持たせるなよな。」
「・・・悪い。」
「まあ、ふられたのはショックじゃないって言えば嘘になるけど、約束の時間は守ってくれたし、支払いとかもかなり気にかけてくれたし、
断るにしたってちゃんと面と向かってはっきり言ってくれたから、後には引かないな。」
「強いな、お前・・・。」

 智一は何時もと変わらない軽い調子だが、内心は決して穏やかじゃないだろう。
好きな女が興味がないと試合放棄を宣言した男の方を向いていて、自分の方を振り向くと思いきや、実は全く音沙汰なしだったんだから。
 智一は譬え結果が駄目でも相手の良いところをちゃんと評価できる。
ふられて敢え無く全否定になった俺とこの辺が違う。

「俺は場数を踏んでるからな。経験豊富な俺に言わせると彼女、袖にするには勿体なさ過ぎる。あんな良い娘、今時そうそうお目にかかれないぞ。」
「・・・そうだな。」
「おっ、多少は正直になったか。」
「え?」
「まさか自分の気持ちに気付いてないなんてことはないよな?」

 智一に言われてはっとなる。
自分の気持ち・・・。俺はまだ井上に伝えていない。
否、それより前に、今までの関わりを通じて井上に抱くようになった気持ちが本当に好きという気持ちなのか、まだ分からないでいる。

「祐司。お前まさか・・・、まだ晶子ちゃんに言ってないとか?」

 智一に聞かれて俺は口篭もる。
まだ言ってないどころか、気持ちが何なのかすら分かってないなんて、智一にしてみればふざけた話だろう。
惚れていた井上の気持ちが向いている相手が、まだ好きかどうか分かってないなんて・・・。

「お前な。言っとくけど俺はふられたんだからな。」
「え?」
「鈍い奴だな。ふられたことは間違いないけど、諦めたわけじゃないってことだよ。」
「!!」

 そうだ・・・。ふられたからって別に手を引かなきゃならないってことはない。
智一が諦めてないってことは、まだ智一と井上が近づく可能性はゼロじゃない。
 ・・・井上が俺の返事を待てなかったら、そうなるかもしれない。俺が言った後で井上が心変わりするかもしれない。
だからって手を拱くのか?・・・もう御免だ。
熱を出して寝込んでいたあの時のやり切れなさや、井上がバイトに行っていたあの時の寂しさは・・・もう耐えられないだろう。
井上と居る時間の良さを知ってしまったから・・・。

「まあ、晶子ちゃんのあの性格からすると俺にはかなり不利みたいだがな・・・あ、そういえばお前は興味ないんだっけ?」

 智一は笑みを浮かべながら俺を横目で見る。意地悪というか・・・挑発するような顔だ。
以前なら尚も興味がないと突っ張っていただろうが、もうそんな理由はない。あのもやもや感も今はない。

「・・・今は・・・違う。」
「ったく、あの時素直にそう言ってりゃ良いんだよ。」
「・・・あの時って・・・。」
「興味はないんだな?って俺が念押しした時に決まってるだろ。興味がないのにあんな無理してますって言い方するか。」
「・・・そう見えたのか?」
「見えたってもんじゃねえよ。不器用なくせに意地張るな。簡単に本心がばれるんだから。」
「・・・。」

 もやもや感を感じながら興味がないって言っても説得力がなかったみたいだ。
智一の言うとおり、俺は不器用なんだから誤魔化そうなんて考えないほうが良いみたいだ。

「言っとくけど・・・ぼやぼやしてると俺か他の男が取っちまうぞ。惚れられてたら絶対安全ってことはないんだぜ。」
「・・・。」
「まったく・・・晶子ちゃんも何で女心に鈍いお前に惚れたんかねぇ。一回聞いてみたいよ。」

 智一がぼやくが、それは俺だって聞いてみたい。
見た目も冴えない俺に言い寄るなんて、あの女くらいだと思ってた。
だから、あの女に捨てられてもう駄目だ、二度と恋愛なんて出来ないってなっちまったんだが。
 ・・・以前、井上は俺が兄に似てるって言ってたな。
それがきっかけだったとしても、あんなに邪険に扱われて尚諦めない理由は何なんだろう?・・・やっぱり、「好きだから」なのか?

分からないことが・・・多すぎる・・・。


 結局それから智一から井上とのことについて尋ねられることはなかった。
俺としては2日間にあったことをあれこれ聞かれるのはかなわないし、智一も好きだった、
否、好きな女が自分以外の男と何があったのか聞くのは躊躇いがあるんだろう。
多かれ少なかれ誰にでもそういう感情はあるものだ。
 昼飯は挟んだ講義も何時ものように淡々と進んで何時の間にか終わり、俺は何時ものように智一と共に帰途につく。
そして別れ際、何時もならじゃあな、とでも言う智一が俺に尋ねた。

「今日は晶子ちゃんと会うのか?」

 いきなりな問いかけに内心驚いた。
俺の家で井上が留守番をしている筈だが、それを知っているかのように感じた。
抜け駆けしたようで−実際そんなもんか−後ろめたいような気持ちもあるせいだろうか?

「・・・ああ。」
「ほお、多少はそういうことに気が回るのか。」
「まるで俺が気の回らないような言い方だな。」
「実際そうじゃねえか。」
「・・・。」
「一回食事にでも連れてってやれよ。どうせ今までお前からアクション起こしたことなんてないだろ?」

 智一に言われてはっとする。
井上が智一とデートする前日−俺が熱を出して寝込む前日でもある−、潤子さんにも同じようなことを言われたことを思い出す。
 今度のことにしたって、俺は井上に看病してもらうだけだった。
病気だったから仕方ないといってしまえばそれまでかもしれない。
だが、俺は2日間井上に礼のひとつもまだ言っていないんだ・・・。

「俺は何もしてません、って顔してるぜ。」
「・・・そうか?」
「だから、不器用なお前にはアンニュイと誤魔化しは似合わないんだって。」

 今度もえらい言われようだが、実際そのとおりだと思う。俺は苦笑いするしかない。

「ま、彼女は高級レストランとかだと気後れするみたいだから、その辺の喫茶店とかで良いんじゃないか?」
「喫茶店か・・・。」
「お前のバイト先って確か喫茶店だろ?丁度良い。ご馳走してやれ。きっと喜ぶぞ。」

 高級レストランなんて店の場所もマナーもろくに知らないから、気軽に行ける店の方が俺としても良い。
しかし・・・喫茶店を出されたときはちょっと慌てた。
結果的にそうなったとはいえ、まさか同じバイトをしているなんて今の状況で言える筈がない。
それこそ抜け駆けしていたと言われても文句は言えない。
 何にしても智一の言うことはもっともだ。途中で幕切れになったが井上とデートをしただけのことはある。
・・・そうか。デートというか食事に誘ってみるのも良いかも知れない。
曲選びのために一緒にCDを買いに行ったのはデートと言えなくもないが、俺からそうしようと誘ったわけじゃないし、
そのくせその過程で自分の気持ちが分からなくなって混乱してたりしたが。

「・・・誘ってみるかな。」
「ようやくやる気になったみたいだな。あんな良い娘に想われるなんて長い人生の中で滅多にないってこと忘れるなよ。特にお前みたいな女心に疎い奴は。」
「・・・全くだ。」
「ま、俺もそのうち再挑戦するから、それまでに体制を整えとけよ。じゃあな。」

 智一は何時ものようにさっと手を上げてその場を立ち去る。
俺が智一の立場だったら、果たして好きな女が向いている相手と普段どおりで居られるだろうか?
それも見ず知らずじゃない、平日に必ず顔を合わせる、それも他より多少なりとも親しいといえる相手と・・・。
俺じゃ到底出来そうにない。顔を合わせまいと必死に避けるか、よくも俺を馬鹿にしたな、と罵るのが関の山だろう。
 そう思うと・・・井上は俺より智一とくっついた方が良いのかも知れないとも思う。少なくとも飽きたり疲れたりすることはないだろう。
だが、その善人的な思いは直ぐに霧散する。
あの二人で居る時間を知ってしまったから、それを他人−ちょっと嫌な言い方だが−に渡したくない。これが本音だ。

これは・・・好きという気持ちといって良いんだろうか・・・?
単なる寂しさが嫌なことから派生した独占欲なんじゃないのか・・・?
まだ・・・まだ俺には判らない・・・。


 何時もの駅に降り立った時間は普段の月曜日と何ら変わらない。だが、日増しに早まる夕暮れは時間が遅くなったような錯覚を起こさせる。
既に辺りは夕暮れも後半に差し掛かっていて、白色光を放つ街灯が存在感を際立たせて始めている。
肌に刺さる冷気が痛い。もっと服の重ね着が必要なようだ。
 一人暮らしを始めて最初の冬はもう直ぐそこまで迫っている。
冬といえばクリスマスというイベントがある。
あの女と付き合っていたとき、デートをしてプレゼント交換なんて可愛らしいことをやったものだ。
両方とも高校生でバイトが御法度の学校だったから、内容はそれこそ「高校生らしい」ものだった。
だが・・・あの時貰ったプレゼントは全て滅茶苦茶になってこの世から消え失せた。プレゼントを受け取った俺自身の手で・・・。
 どうして「身近な存在」とやらに乗り換えたのかあの女、優子に真相を聞きたいという気持ちが残っているのは否定できない。
今更聞き出したところでどうなるわけでもなし、まして寄りが戻るなんて思っちゃいないが・・・納得できない形で終わったせいか、まだ未練があるんだろうか?

 あのことを考えていると無意識に俯き加減になる。首だけじゃなく心も。
惰性に近い感覚で改札を潜って隣接する自転車置き場に行こうとしたところで、正面入り口脇にある電話ボックスが目に止まる。
何時もならその辺に佇むオブジェ同然の濃いグレーの箱を封じた透明の囲いが、俺の脳裏から何時もと違うことを掘り起こす。

「・・・電話、するんだったな・・・。」

 何時もなら誰も居ない俺の家に、今日は俺以外の人間が居る。
留守番をしている筈の井上に、駅に着いたら電話する、と言ったのは他でもない俺自身だ。
俺はズボンのポケットから財布を取り出してテレホンカードを探し始めて直ぐある筈がないことに気づく。

・・・あの夜、全部捨てたんだった・・・。

 また首と心が重くなったのを感じながら、俺は10円硬貨を1枚取り出して公衆電話に向かう。
携帯電話が当たり前のようになった今の時代、公衆電話はあまり使われないのかと思いきや、帰りの時間や雨降りでは結構使われていたりする。
いくら電話が1人1台の時代といっても単にこれから帰る、とか連絡するくらいなら公衆電話で事足りるものだ。
 俺は今日は幸い空いている電話ボックスに入ると、受話器を取って硬貨を入れて自分の家の電話番号をダイアルする。
実家に居たときは帰りが遅くなるとかでたまに電話をしたことがあるが、自分一人で暮らす今の家に電話をするなんて勿論初めてだ。
 コール音が鳴る間、俺は妙な気分になる。井上が居るという意識が頭にあるせいだろうか?
初めて井上の家に電話する時もやけに緊張してなかなかダイアルできなかったし、井上が電話に出てからも暫く何も言えなくて
井上を不安がらせたことを思い出す。まったく情けない話だ。

「はい、・・・安藤です。」

 3回のコール音の後に井上の声が聞こえてきた。俺は前みたいに不審者と思われないように直ぐ返事する。

「あ、俺・・・安藤だけど。」
「安藤さん。今何処です?」
「今さっき駅に着いたところ。これから帰るから・・・。」
「はい、待ってますね。」

 最初少し警戒気味だったが、俺だと分かると直ぐ何時もの明るい調子に戻る。
こうして会話をしていると、さっきまで首と心にぶら下がっていた重みが急に軽くなっていくように思う。

「何か・・・自分の家に電話するなんて変な気分。」
「普段はそうですよね。逆に誰も居ない筈なのに出たら怖いですよ。」
「そりゃそうだ。・・・じゃあ、そろそろ切るから。」
「帰り道、気を付けて下さいね。」
「ああ、分かってる。それじゃ。」

 俺は適当なところで電話を終える。
駅に着いたら取り敢えず連絡するという約束は果たしたし、このままだと10円どころじゃ済まないような気がしたせいもある。
 俺は自転車置き場へ行って、鮨詰め状態の中から自分の自転車を取り出して通路から乗って走り出す。
自転車だと厳しい季節が日増しに色濃くなってきているのが分かる。
 早く帰りたい。
ただ、早く帰りたいと思うのは何時もなら単に寒いからという理由だけだが、今日はそれに加えて、否、それ以上に人が待っているからという理由が大きい。
待っている人が井上でなければこんな気持ちになるかどうか・・・今ではならないような気がする。

 僅かに残っていた夕暮れの残像も自転車に乗っている間に闇に消え入る。
すっかり暗くなった通りを走って行くと、住み慣れた俺の家があるアパートが見えてくる。
その1階の角部屋に、何時もなら点っている筈のない部屋の明かりが見える。
初めて自分以外の人間が自分の家で待っているという実感が強まってくる。
 アパートの前で自転車を降りる。自転車を押して玄関に面した通路に入る。
台所に面した窓が背後から白い光に照らされている。
自転車のスタンドを立てて鍵をかけると、俺はドアの前に立って一度軽く深呼吸をしてからインターホンを押す。
 余計なほど良く響く音が一度だけ鳴ると、直ぐに奥のほうから、はい、という返事が聞こえて、それに続いて軽くて早い足音が近づいてくるのが判る。
俺は軽く咳払いなどして立つ。何だか俺が井上の家を訪ねるみたいだ。
その井上の家も、歌の練習で毎週出入りしているうちにセキュリティの固さ以外は慣れてしまったというのに。
 ドアの鍵が開く音がして、ドアチェーンがかかった状態でドアが開く。
その隙間から井上が顔を覗かせる。

「どちら様ですか?」
「この家の住人。」
「判ってますよ。今開けますね。」

 井上は一旦ドアを閉めるとドアチェーンを外して直ぐにドアを開ける。
今度は全開に近いくらいに大きく開いたドアから俺は自分の家に入る。
そこで俺は改めて笑顔を浮かべた井上の出迎えを受ける。

「お帰りなさい。」
「・・・ただいま。」
「今度はきちんと挨拶できましたね。」
「ガキじゃあるまいし・・・。で、何かあった?」
「ピザ屋さんのチラシが郵便受けに一度入りましたけど、それ以外は何もなかったですよ。電話もなかったですし。」
「そうか。用心していると案外変な奴は来ないみたいだな。」

 靴を脱いで隣接する台所を通ってリビングに向かう。
読み散らしていた雑誌は綺麗に床に積まれていて、床や棚に目立ち始めていた埃もすっかり姿を消している。
井上が掃除をしたんだろう。自分の家と比べてあまりに汚いこの家で留守番しているのが耐えられなかったとしても無理はない。

「部屋、掃除してくれたのか?」
「ええ。時間もありましたし。」
「別に良いのに。」
「月曜日は私、講義がないから掃除が日課になってるんですよ。」

 掃除が日課になるなんて俺には理解し辛い話だ。
俺なんかは実家に居た頃、親の雷が落ちるまで部屋の掃除をしなかった。
一人暮らしを始めて雷を落とす存在が居なくなったことでずぼらに拍車がかかったところもある。
 まあ、あの女が来る時くらいは雑誌を片付けて掃除機をかけたが・・・それも必要なくなってから荒れる一方になっていた。
家や部屋はその使用者の精神状態が出るものなのかもしれない。
 俺は鞄を「指定位置」である机の脇に置いてコートを脱ぐ。
・・・直ぐに外へ出るなら別に脱ぐ必要もないか、とは思うが、部屋は思いのほか暖かく感じる。エアコンを入れてたんだろうか?

「井上。俺が居ない間エアコン使ってた?」
「いえ。使ってませんけど。」
「何か暖かいんだよなぁ。気のせいか・・・?」
「多分・・・気のせいじゃないと思いますよ。」
「?」
「家の外と中が違うからですよ、きっと。」

 そりゃ違うのは当然だが・・・何か引っかかるというか含みがあるように感じる。
井上は判ってくれるかな?と言いたげな表情で俺を見ている。
家の外と中で違うこと・・。温度が違う。こんなことは当たり前だ。じゃあ何が違う?

・・・!
・・・井上の奴・・・。

「・・・確かに違うよな。」
「何か判りました?」
「判らせたかったくせに・・・。」

 俺は毒づくが気分は決して悪くない。自然と口元が綻ぶのが判る。
自分が含ませたことが伝わって嬉しいのか、井上は如何にも嬉しそうに微笑む。
家の外と中で違うこと、それは・・・

井上が居るか居ないかということだ・・・。


 井上が用意していた紅茶で−昨日の晩、持ってきたそうだ−一息つく。
井上の家に行くと何時も最初にしていることだが、自分の家だとまた違った感じがする。
雑誌や音響機器が占拠するこの家は紅茶が似合う雰囲気じゃない。
 井上と「共通項」の音楽の話をしながら、これからのことを考える。
智一には井上を誘ってみるというようなことを言ったは良いが、何と言って誘えば良いのか・・・。
「食事に行くか」じゃ味気ないし、「看病のお礼に」なんて照れくさいし・・・。

「・・・あ、あのさ。井上。」

 今度のレパートリーに加える「THE GATES OF LOVE」の歌い方やアレンジの話が一区切りついたところで、俺の口が勝手に動く。
考えが纏まってから切り出そうと思っていたのに・・・何故?

「はい?」
「・・・え、えっと・・・。」

 切り出したは良いが何を言うか纏まっていないから口篭もってしまう。
俺から話し始めて何でもない、なんてからかってるみたいで変だし・・・。
 ちらっと井上を見ると、別に訝るわけでも苛立つわけでもなくじっと俺を見ている。
俺から話を始めるなんて今まで滅多になかったから、もしかしたら、と期待しているのかもしれない。
誘いの言葉がぽんぽん出てくる程器用じゃない俺としては、こうして待ってくれるのは有り難い。

「その・・・今日、何処か・・・食事に行かないか・・・?」
「え?」
「ん・・・と、土日と熱出して寝込んだのを看病してもらったから・・・そのお礼というか・・・まあ、そういうことでさ・・・。」

 自分でそう言いながら、全く様になってないと思う。もう少しスマートに言えないものか?
視線が何時の間にか逸れているのも、自信のなさの表れだろうか。

「良いんですか?」

 問いかけに引き寄せられるように再び井上に視線を合わせる。
心なしか目が大きく見開かれていて、驚きと嬉しさが交錯しているような表情だ。

「ん・・・今まで俺から井上に何かするってことなかったからさ・・・。」

 そう言いつつまた視線が井上から逸れていく。
女を食事に誘うなんて初めてでもないというのに・・・。あの女との経験は何の役にも立ってない。

「・・・別に嫌なら・・・それで良いけど。」
「いいえ。喜んで。」

 井上の声が弾む。俺はほっとすると同時に胸にじんわりと安堵感が広がっていくのを感じる。
その中には・・・まだ一緒に居られるという気持ちが嬉しさの色合いを伴って存在している・・・。

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