雨上がりの午後

Chapter 1 愛の終わり、始まりの出会い

written by Moonstone

「・・・何でまた・・・そんなこと・・・。この前会って・・・。」
「御免なさい。でも・・・もう疲れたのよ。」
「・・・そうか。・・・じゃあ・・・さよならっ!」

 深夜の電話ボックスに荒々しく受話器が叩き付けられる音が響き、人の気配が消えた深夜の空気を震わせる。
自分の感情など知る由もない電話機は、お決まりの挨拶を並べてテレホンカードを吐き出すが、それすらも今の俺には忌々しく思えて仕方がない。
譬え、それが単なる八つ当たりでしかないとしても・・・行き場のないこの感情をどうにかしないと収まらない。
 俺はテレホンカードを引き抜くと、力任せにくしゃくしゃに握り潰す。
もう何枚目か忘れてしまったこのテレホンカードは、まだ買ったばかりで度数も半分以上は残っていた筈だ。
だが、もうこんなテレホンカードの世話になることもないと思うと、むしろ清々するくらいだ。

・・・そうとでも思わなきゃ、どうしようもない。

 俺は変わり果てたテレホンカードを放り捨てると、電話ボックスを出て家路へと向かう。
暫く歩いて交差点に差し掛かったところで、徐に電話ボックスを振り返る。
ここ数ヶ月の間、毎日のように利用して来たあの電話ボックスは、意外に利用する人が少なくて、待ったり待たされたりする事が殆どない穴場だった。
だが、今日を以ってあの電話ボックスは安らぎのひとときを齎してくれる場所から、忌々しい思い出の記念碑になったんだ。

永遠に続くと信じていたこの恋が、あの場所で終わったから・・・。


 彼女・・・否、あの女が俺と別れたいと思っている事は、2、3ヶ月前から薄々感じていた。
高校時代から付き合っていた俺達の関係は、俺が大学進学と同時に親元を離れ、あの女が親元から短大に通うことになって間もなく、
少しずつずれ始めていたのかも知れない。
 所謂遠距離恋愛ってやつが難しいということはいろんな情報から知るだけは知っていたから、俺としては自分でも不思議に思うくらい、まめに電話をしたつもりだ。
週6日のバイトの帰り、午後10時過ぎにあの電話ボックスから電話をかけていたなんて、ずぼらが性分の俺にしてみれば驚異的な事だ。
何故か電話は俺からかけるというのが、暗黙の了解になっていた。
今にしてみれば、それもあの女からの別れたいという暗喩だったのかとさえ思える・・・嫌な奴だ、俺って。
ちなみに電話ボックスからかけていたのは、生憎自宅アパートの電話は親の名義のままなので、毎月の口座引き落としで急に増えた電話料金と使い道に
突っ込みを入れられる事が嫌だったというのが理由だ。

 だけど、過ごす時間が初めて大きくずれることは、どうしようもなかった。
過ごす時間が違うと違う付き合いが生まれるし、それに費やす時間が増えてくる。
俺は元々付き合いは深く狭く、というのが性分なんだが、あの女は俺と違って・・・言うなら「出来るだけ広く、出来るだけ深く」というところか。
それに・・・よく言われるように、女ってのはどうも「身近な存在」に惹かれるらしい。

 以前久しぶりのデートの時、唐突にあの女がわざと別れたいような素振りを見せて「疲れた」と言ったが、その時に「身近な存在」を匂わせるような事を口にした。
その時は俺も必死だった。
高校時代に手に入れた夢の世界を手放したくなかったから、何とか「身近な存在」に傾きかけた彼女の心を自分の方に引き寄せようと躍起になった。
これまで割り勘が当然だったのを俺一人で支払ってみたり−この時、あの女から「ありがとう」の一言もなかったが−、デートをエスコートしたり・・・。
それであの女の気持ちは、表面上自分の方に再び傾いたように思えた。
 けど、その時から今までの時間は、あの女が「身近な存在」とやらに完全に乗り換える猶予期間だったわけか・・・。
俺も・・・とことん馬鹿にされたもんだ。女は一度気持ちがぐらついたら修正は出来ないっていうけど、まさにそのとおりだったって訳だ。

 暗い夜道は人通りもなく、昼間は何故こんなに多いと訝ってしまうほどの車の量だが今は全くない。
不気味なくらい静まり返った空気に、俺の足音が何かを打ち鳴らすようによく響く。
空っぽになった心だから余計によく響くように感じるのかもしれない・・・。
通り沿いの家やマンションの灯りも大半は消えている。白色光を投げかける街灯が一定の間隔で闇を切り抜いている。
白と黒だけの世界・・・。今俺の目に映るのはそんな世界だ。
心で感じる世界は・・・白黒が交じり合って灰色に感じる。
セピア色なんて上等なものじゃない。
今までの薔薇色の思い出は急速に色褪せ、何もかもが忌まわしくさえ思える・・・。そんな自分も忌まわしい。

 ・・・翌日、俺が目覚めた時には昼をとっくに過ぎていた。勿論、1コマ目から講義のある大学は自主休講・・・要するにサボリってやつになる。
午後からもあるけど、今日はとても行く気がしない。それどころかベッドから出る気もない。身体が猛烈に気だるい。
二日酔いというほどのものではないが、全身の筋肉が弛みきったような気分だ。
 あれから俺は自動販売機で缶ビールを買いあさり、自宅で全部飲み干してしまった。
アルコールの耐性は人並みというか、缶ビール1本で身体が軽くなったように感じるくらいだ。
なのに床に散乱している空缶は軽く10本以上・・・。ここまで飲んだなんて、大学に入って初めてのコンパ以来だろう。
空缶に混じって、酒の肴の残骸がこれまた派手に散らばっている。酒の肴とは・・・そう、「思い出の品」ってやつだ。
写真だの手紙だのプレゼントだの、思いつくもの全てを引っ張り出しては破り、千切り、叩き壊した。
酒の肴を食い散らすにしては下品という他ない有り様だ。

 ま、何にせよ、これであの女を吹っ切れる・・・。
俺をキープしておいて、用が済んだらポイ捨てしやがって。何時か「振るんじゃなかった」って思わせてやる。
恋愛番組で「やり直したい」なんて言って来ても「今更遅い」って言ってやる・・・。

 ・・・小さな溜め息が音もなく出る。空しい。
どんなに強がってみても、この空しさは全然消えない。結局俺は振られたんだ。
この事実はどう足掻いても覆せない。

こんな気分は・・・もう沢山だ。
こんな情けない、哀しい思いをするくらいなら・・・もう、恋愛なんてまっぴらだ・・・。

俺は、周囲が急に熱くなってきた目を右腕で覆い隠す。

 ・・・再び目を覚ましたら、部屋は真っ暗だった。結局昼間一日眠ったことになる。
だけど、全身を包んでいた重苦しい倦怠感はまだ体の芯に残っている。あの女の思い出も・・・頭の片隅にしつこくこびり付いている。
酒を放り込むように飲んで何もかも忘れてしまうつもりが、結局酒と思い出は残骸になって尚、俺に纏わりついている。
 枕元の蛍光を放つ時計の針は、とっくに9時を回っている。
本当は今日もバイトがあるんだが、今から行っても終わりまで1時間もない。
それにこの重い体と気分では、行ったところでまともに動けるとは思えないから、今日は大学に続いてサボリを決め込むことにする。

 もう、何もする気が起こらない。
しかし酒や思い出はしつこく残っていても、体や気分は重くてやる気がしなくても腹は減る。人間の身体ってやつは正直に出来てるもんだ。
この空腹を押し殺してまで不貞寝出来るほど、俺は我慢強い方じゃない。まあ、食って忘れられるならその方が良い。
 重たい身体を起こし、部屋の電灯を点ける。
雑然としたワンルームマンションの一室に残された、俺の心で荒れ狂った台風一過そのものの様子を露骨に照らし出してくれる。
これを自分で片付けなきゃならないと思うと、さらに自分に嫌気が差す。
 昨夜帰ったままの服装は少々皺くちゃだが、夜の街を独りで歩くには差し障りはない。
荒れ放題の床を飛び石でも踏むように横切ると、玄関で靴を履く。
片一方は底を見せて床でひっくり返っていた。情けない気分で靴を拾って、今後は多少行儀良く靴を履く。
目指すは歩いて10分ほどのところにあるコンビニと本屋。しがない男の一人暮らしを支える頼もしいパートナー・・・と言っておこうか。

パートナーなんて言葉は、もう二度と使いたくはないな・・・。

 アパートを出ると、思わぬ冷気に身を縮こまらせる。
昨日の晩は暑さ寒さを感じる余裕なんてなかったし、今日も昼間は家で寝てたから分かる筈もないんだが、もう季節は白秋だ。
太陽が近付いたんじゃないかと思うくらい今年の夏は暑かったし、暦の上で秋だと言っても冗談としか思えない日が結構長く続いた。
けど、何時の間にか冷気と感じるほどになっている。・・・ずっと続くと思っていた夏が何時の間にやら終わってた・・・まるで、今の俺みたいだ。
 コンビニは俺みたいに料理はからっきし駄目で覚える気もさらさらない人間には、便利な冷蔵庫とも言える。
食いたいものは大抵揃っているし既に調理済みだ。自炊だとこうはいかない。

 今日は時間の割に客は少なめだ。
何の用があるのかと思うくらい−俺も人のことは言えないが−コンビニには何時でも誰か居る。
俺は手頃におにぎりやサラダなんてのを買い込んで買い物篭に放り込んでいく。
余った分は冷蔵庫に放り込んでおけば良い。どうせペットボトルくらいしか入ってやしないからスペースには余裕がある。
 レジへ行くと先客が居た。・・・女だ。ちょっと茶色がかった長い髪、白い長袖シャツにジーンズ。普段着ってやつだ。
俺はもう一つのレジに立つ。丁度その女と隣り合う位置だ。

「・・・あっ!」

 不意に何か驚いたような声がする。その声は隣の女が発したものだった。
その女は口を押さえ、目を大きく見開いている。・・・だが、俺はその女に見覚えはない。

一体何だ?こいつは・・・。

 俺が自分でも分かるくらい眉間に皺を寄せていると、その女は口に当てていた手をゆっくりと退けて、改めて俺の顔をまじまじとみる。
どうも俺の顔に見覚えがあるらしいが、どれだけ記憶の引き出しを探っても、俺にはその女に関する記憶はない。
恐らく他人の空似ってやつだろう。この世には自分に似た顔の奴が3人は居るっていうが、意外に近くに居たりするのかもしれない。

「1316円です。」

 バーコードリーダーを品物に当てていたレジ係の若い男がちょっとぶっきらぼうな感じで言う。俺は財布から1500円を取り出して差し出す。

「2840円です。」

 隣のレジ、つまり俺の顔を見て驚いた女が居る方もレジ係の高校生風の女が無表情に言う。女はジーパンのポケットから財布を取り出す。

「184円のお返しです。」

 レジ係の声で俺はその方に向き直り、小銭だらけの釣り銭を受け取って財布の小銭入れの部分に無造作に放り込む。
袋に入った食べ物を受け取ると俺はさっさとその場を立ち去る。
買い物を済ませればもう用はない。俺は女の後ろを通り過ぎて出口へ向かう。
 自動ドアが開いて俺はコンビニを出る。次はここから目と鼻の先にある本屋へ向かう。
大学生といっても俺が本屋で買うのは雑誌かコミック本が関の山だ。
一応俺は工学部なんだがまだ教養課程というのもあるし、字が多い本は読んでいると眠くなる。今日は月刊の音楽雑誌を買いに行くつもりだ。
発売日から数日過ぎているが、売り切れを心配する必要はあまりない。

 本屋はコンビニと違って意外に人が多い。
この辺りで夜遅くまで営業している書店というのは少ないし、雑誌類なら立ち読みも出来るから暇つぶしにはもってこいだ。
店内は最近の流行というのか横にだだっ広くて、売れ筋や何とか出版社のフェアとやらで平積みの本が最初に出迎えるが、
表紙が厚い本は読む気がしない俺はそれには見向きもせずにやや奥まった「音楽」のコーナーへ足早に向かう。
 目的の雑誌は・・・あった。まだ数には余裕がある。
買うことは決まっているが一応どんな内容なのかぱらぱらと眺めるのはいつもの習慣だ。
俺の趣味はギターだ。
中学時代にとあるバンドに憧れて衝動的に親に強請って買ってもらったのがきっかけで、高校時代にはクラスメートとバンドを組んでいた。
学園祭では結構人気があったと自負している。
実際、彼女と付き合い始めたのも・・・そうだ、あの女から言い寄って来たんだったな・・・。
アルコールで残骸になった筈の記憶がすぐさま復活してくる。

何てしつこいんだ。
もう良いだろう?何処まで俺を苦しめる気だ?
もう、お前は俺とは無関係なんだろう?!

いい加減にしてくれ!!

 ・・・俺は開いていた雑誌を閉じるとそれを持ってさっさとレジへ向かう。
自分でも分かるくらい足の回転が早い。
あの顔をまた思い出した自分に腹を立てていることが分かる。
恋愛ってのは終わっても尚手枷足枷となって引き摺らなければならないわけだ。
 もっともそれは、敗者だけに課せられる罰ゲームだろう。
勝者になったことは今の今迄ないから、振った場合はどんな気持ちなのかは知らない。
まあ・・・恐らくは清々するんだろう。
一度で良いから、俺も勝者になってみたいもんだ。

 暇そうにしていたレジの女に近付くと、女は慌てて営業スマイルを浮かべる。
店の教育なんだろうが、今の俺には忌々しくさえ思える。
あの女が見せていた笑顔も営業スマイルだったかと思うと・・・。駄目だ。俺の精神は相当歪んでる。
 金を支払うと俺はさっさと出口へ向かう。
外へ出れば何かのきっかけであの女のことが脳裏に浮かんでくる。何故だ?
あの女は「身近な存在」とやらに乗り換えて俺を塵屑のように捨てたんだぞ。
それでもまだ俺はあの女に未練があるって言うのか?!

・・・冗談じゃない!!

 俯き加減に自動ドアの前に立つと、一瞬の間を置いてから開く。俺が店を出ようとした、まさにその時だった。

「・・・あっ!」

 聞き覚えの或る声に顔を上げると、正面には俺と向かい合って驚きの表情を見せる女が立っていた。
コンビニで人の顔を見ていきなり驚いたあの女だ。
 女は信じられないというような顔で俺の顔を見ている。
こっちの方が信じられない。俺の顔を2回も見て、2回とも驚くんだから。
そんなに俺の顔が珍しいか?それとも交番の掲示板に張ってある「この顔に・・・」の写真によく似てるとでも言うか?・・・多分、それはない筈だ。
だが、自分の顔を見てまるで幽霊にでも出くわしたように驚いて立ち尽くされては良い気分はしない。

「・・・俺の顔に見覚えでもあるの?」
「・・・あ、貴方がどうして此処に・・・?」
「はあ?!」

 店先にもかかわらず、俺は大きな声で聞き返す。
見覚えのない女に驚かれ、その上此処に居るのが意外なようなものの言い方に、胸の蠢きが増してくる。

「あんた、さっきコンビニでも会ったよな?」
「・・・え、ええ。」
「一体何のつもりか知らんが、人の顔見て何度も何度も驚くな。そんなに珍しい顔してるか?」

 俺は無意識に声を荒らげる。
2回も驚かれたのも勿論あるが、やっぱり・・・あの女と同じ「女」っていう生き物だというのがあるんだろう。
八つ当たりといえばそれまでだが、燻っていた感情に一旦火が着くとどうにも止められない。

「これだけは言っておくがな、俺はあんたに見覚えはないし、驚かれる覚えもない!全く・・・何だって言うんだ!」
「・・・人違いでした。すみません。」
「ふん!」

 一転して神妙な顔で小さく頭を下げる女を無視して、俺はその女に背を向けて足早に立ち去る。全く忌々しい。
やっぱり俺には女運ってものがないということか。悪いことには悪いことが重なるものだ。
この世に神様とやらが居るんなら、何でこうも不平等なんだ?
神の前では人は平等だなんて、口からでまかせだとしか思えない。

 翌日。アルコールの抜けた俺は大学に出向く。まだ体の芯に気だるさが残っている俺としては、2コマ目からというのは有り難い。
工学部ってのは2年までに教養科目の単位を取っておかないと、3年への進級時に事実上留年が決まっちまうシステムなので、結構講義のコマは詰まっている。
文学部とか法学部とかは3年の終わりまでで良いって話を前に聞いたが、羨ましいと思うと同時に不公平じゃないか、とも思う。
 最初の講義は心理学だ。この講義は話が面白いと人気があって、教養課程棟の一番大きい講義室の最大収容人数を上回ったので、申請時に抽選を行ったくらいだ。
実際、2コマ目からということで余裕を持って来た筈が、既に半分以上の席は埋まっている。特に前の方の席は完全に埋まっている。
後ろの方から埋まっていくという着席の「常識」とは全く逆だ。
同じ学科の奴が数人抽選に落ちて別の心理学講義を取ったが、これがまたつまらないくせに出席を取りたがるとぼやいていたことを思い出す。
きっとそいつらは後ろから座っているに違いない。

「おーい、祐司(ゆうじ)。」

 前の方から俺−安藤祐司−の名を呼ぶ声がする。
見ると、中程の席でこっちを向いて手を振っている奴が居る。
俺は無視する理由もないのでそいつの方へ向かう。
ご丁寧にもそいつは通路に面する席に座っている。丁度黒板が中央に見えるベストな位置だ。

「オッス、御無沙汰だな。」
「昨日休んだだけで御無沙汰かよ。」
「まあ固い事言うなって。」

 そいつは一つ奥側にずれたので俺は空いた席に座る。
鞄を狭い机に放り投げるように置くとそれを目ざとく観察していたのか、隣の奴が話し掛けてくる。

「随分ご機嫌斜めだな。何かあったのか?」
「・・・別に。」
「ま、あんまり気にしないこった。酒でもガーッと飲んで、ゴーッと寝ちまえばすっきり忘れられるぜ。」

 それは実際やった!・・・と叫びそうになるところでどうにか抑える。それでも忘れられなかったことが余計に無様に思えて仕方がないからだ。
普段なら気にならないこいつの気さくさが、今は単なるお調子者の悪ふざけに思える。
・・・何もかもがどす黒く見える。俺は完全に歪んじまったようだ。それが余計に嫌に思える。
 隣に居るのは伊東智一(ともかず)。俺と同じ学科で同期、所謂クラスメートてやつだ。
高校までとは違って大学ではクラスで纏まって何かする、って機会は学園祭くらいしかないから気の合う者同士以外との繋がりは希薄になり易い。
元々人付き合いの苦手な俺には、独りで居ようと思えばそう出来るからこちらの方が都合が良い。
 智一はどういう訳かこいつの方から俺に話し掛けてきた。
やけに陽気で人懐こい口調に最初は辟易していたが、何時の間にやら講義で並んで座って、学食を食べる間柄になった。
こいつに言わせれば俺は「面白い奴だ」というが、俺にしてみればこいつの方がはるかに面白い。
だが、智一も人を選ぶというか・・・付き合いは狭い方だ。俺に見せる態度からは想像もつかない。
こいつが言うには「面白味のない奴はつまらん」からだそうだが、こいつより面白い奴というのは無理な相談だと思う。・・・じゃあ俺は何なんだろう?

「なあ祐司。あの娘達なんてどうだ?」

 智一が俺の左肩を叩いて俺の右側を指差す。
見ると数人の女が前後の席に座って喧しく騒いでいる。
まだ講義前だから喋っていても全然問題はないが、今の俺には女が目に入るところで笑っているだけで無性に腹立たしい。
自分が嘲笑われているような気になるからだ。
 こんな事、八つ当たりでしかないことは自分でも分かっている。
だが、俺の胸の奥で「俺を苦しめたのはあれと同じ生き物だ」「あの生き物を憎め。憎んで憎んで憎み倒せ」という声がガンガン鳴り響いている。

「特に前の方のストレートの娘。なかなか美人だぞ。」
「・・・美人でも頭の中と腸(はらわた)は腐ってるぜ、きっと。」
「おいおい。えらい言いようだな。」
「着飾って化粧してそれらしく振る舞ってれば、本性を幾らでも隠せるからな、女って奴は。」

 俺は胸の奥の声に煽られて吐き捨てる。
すると心で燻っていたものが興奮へと変化していくのを感じる。胸の奥の声は悪魔の囁きとでも言おうか。
智一の方を見ると、当然のようには怪訝な顔をしている。
前から女の話にはあまりノリが良くなかった方だが、こうも露骨に嫌悪すれば当然だろう。

「お前・・・、何かあったのか?」
「別に。」
「そりゃあ自分で嘘って言ってるようなもんだぜ。顔にそう書いてある。」
「・・・ああ、そうかい。」
「意中の女に彼氏が居たとかってやつか?」
「違うね。俺は真理に目覚めたんだよ。」
「へ?」
「お前も痛い目に遭う前に目覚めた方が良いぞ。色恋沙汰で泣かされるのは男なんだからな。」

 ・・・何時の間にか、女は憎むべき存在だと認識している俺が居る。それが当然だと確信している俺が居る。
胸の奥から「もっと憎め」「もっと憎め」と煽り立てることが聞こえる。そしてそれに応えて俺は黒い炎をさらに強める・・・。

もう、止まらない。

 何時の間にか胸の奥の声は俺と一体化してしまっていた。
黒い炎が更に大きく強く燃え盛ると、俺の胸に残っていたあの女との思い出の断片をも焼き尽くし、黒い消し炭へと変えていく。
アルコールや思い出の品の徹底的な破壊でも消し去れなかった思い出が、見る見るうちに偽りの偶像という烙印を押され、火炙りにされていく。
魔女狩りと呼ぶに相応しい。

俺は何も悪くない。
そうだ。俺は悪くない。
あの女は俺を裏切って苦しめた。
そうだ。あの女は許されざる裏切り者だ。
思えば俺がどんなに真剣な気持ちになっても、女達は悉く舌を出して嘲笑って走り去ったじゃないか。
そうだ。女はそういう醜い生き物だ。
そんな生き物に甘い顔をするから、良いように弄ばれるんだ。
そうだ。そんな生き物を愛した俺も悪い。
恋愛なんて愚の骨頂だ。女を憎むんだ。
そうだ。憎めば愛することはない。

 焼き尽くされた心の荒野に、女に対する憎しみだけが残る。そしてその憎しみは瞬く間に膨れ上がり、巨大な暗黒の牙城を形作る。
心の燻りを疎み、何時までも思い出の残像に振り回される自分に感じていた嫌気も何処かに消え失せ、牙城の建設に喜んで手を貸す俺が居る。
それがさも当然だと誇らしげに思う俺が居る。
 そしてまた別の声が、地の底から響くようなあの声とは違い、蹲って泣く小さな子どものような声が聞こえてくる。
もう敗者になるのは御免だ。敗者になりたくなければ恋愛という戦いを拒否することだ。
俺は失恋という敗者が舐めさせられる辛酸を二度と味わわない為に、強固な牙城に立て篭もることで恋愛を拒絶することを選んだんだ。
そうしないとまた・・・同じ目に遭うだろう。否、そうに決まってる・・・。
悲しげにそう呟く声が聞こえてくる。
 愛の断片を燃料とする憎しみの炎を煽り立てる声と、恋愛という戦いで傷付くことを恐れて自分を庇う声が、俺の心の中で忙しなく入れ替わって自己主張を繰り広げる。

「・・・い、おい、祐司。」

 肩を叩かれ、何度も呼ばれて俺はようやく我に帰る。
周囲は殆ど人で埋まっている。心の奥に意識が溶け込んでいた間に、相当の時間が過ぎたらしい。

「な、何だよ。」
「何だよ、じゃねえよ。ぼうっとしやがって。ほら、詰めてやろうぜ。」

 智一が小さく顎をしゃくる。通路の方を見ると誰かが立っている。
出遅れたのか席がいっぱいで、僅かな空白に入り込もうとしているんだろう。
俺は奥側に詰めようと少し腰を浮かし、ふと席が空くのを待つ人間の方を見て・・・思わず声を上げそうになった。

「・・・!」
「・・・あ、貴方は・・・。」

 そこに居たのは、そう、俺の顔を見て2度も驚いたあの女だった。
その女は三度驚いている。俺の顔を見て驚いたのか、それともまた会ったことに驚いているのか?
どっちにしても、俺にはどうでも良いことではあるが。

「おい、祐司。お前、彼女と知り合いなのか?」

 背後から智一が小さい声で話し掛けて来た。
その女の表情が変わり、俺の動きが止まったことで何かを感じ取ったらしい。全く抜け目が無いというか敏感というか・・・。
もっとも大方、女嫌いのような口を利いていた人間に美人の知り合いが居たということで抱いた、芸能レポーターのような下世話な興味だろう。
 そう、俺の目の前に居る女は客観的に見て美人と言って良い。
大抵の男なら一瞬でも気を取られて不思議はないし、多少勇気や自信がある男なら迷わず声をかけるタイプだ。
だが、俺にはそんな事は何の価値も無い。むしろ、その見た目で数々の男を狂わし、弄んだのかと思うと虫酸が走る思いだ。

 もし智一が俺の表情を見ることが出来る位置に居たら、多分別の興味を抱いただろう。
眉間に深い皺が刻まれ、口元が怒りと憎悪に歪んだ鬼のような形相だということが自分でも分かる。
もっともその女にしてみれば、どうして2、3回の人違いでこうも露骨に嫌悪されなければならないのかと思うだろうが、
生憎俺の中で荒ぶる黒い炎が女を見たとあらば頻りに憎しみの油を注げと要求するから仕方が無い。
 俺は鞄を持ってずかずかとその女の方へ近付く。
俺の表情に只ならぬ気配を感じたのか、女は表情を少し強張らせて後ろに下がる。
鞄を持ったことに驚いたのか智一が何か言っているようだが、兎に角一瞬でも早く立ち去りたいと叫ぶ俺の心がその声に耳を傾けることを許さない。
 俺はそのまま女の横を掠めて後ろの出口へと向かう。
後ろの方で空席を探っていたらしい人だかりが俺の顔を見てさっと道を開ける。余程恐ろしい顔をしているんだろう。

「お、おい!待てよ!」

 意外にも智一が追いかけてきた。
てっきりあの女と並べて座れることで喜んでいるのかと思ったが。
・・・こいつまでどす黒く見えてしまう今の俺は、憎しみの炎に焼き尽くされて変質してしまったようだ。

「どうしたんだよ、お前。彼女と何か・・・。」
「五月蝿い!言うな!」

 智一があの女に触れそうになった瞬間に、俺の中の黒い炎が爆発する。
俺はその勢いで講義室を出て行く。智一は止めようとしたようだが、それより俺が飛び出すのが早かった。
あの講義が聞けないのは惜しいが、兎に角あの場から立ち去らないと、多分手は出さなかったにしても何を口走ったか判らない。
 俺は講義室から離れた広場のような場所まで、ほぼ一直線に突き進む。
刈り込まれた芝生の上に俺はどかっと腰を下ろし、膝を立てて顔を埋める。
先程まで荒れ狂っていた憎しみの炎はすっかり消え、代わりに何であんな乱暴なことをしたんだろう、という猛烈な後悔の雨雲から降り注ぐ、
黒い煤を含んだ豪雨が胸に染みてくる。
ささくれ立ち、罅割れだらけになった俺の心には、この雨粒は大きくて痛くて・・・そして冷たい。

それから暫く、俺の中で時間の感覚が消えた・・・。


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