契約家族

written by Moonstone

〜この作品はフィクションです〜
〜登場人物、団体などは実在のものとは無関係です〜

第2章

 男は先に海原が記入したらしいファイルを見ながら、顎に手をやって何か考えている様子である。
海原は急かしたくなる衝動を抑えながら、カウンセリングとやらがどういうものかを想像する。
カウンセリングなど初体験の海原は、ひたすら質問攻めを受けるのかと多少不安を感じる。
安らぎを受ける前段階のカウンセリングで不安に晒されては適わない。

「海原様は・・・ご家族がいらっしゃる。」
「あ、はい。」
「でも、あまり良くないご様子ですね。」
「はい。妻が一方的に男女同権やら仕事人間やら、私を詰るだけ詰って結局何もしない・・・。疲れて帰ってきてもお帰り、の一言もない・・・。」
「それはさぞかしお疲れでしょう・・・。」
「子ども達も母親と接する時間の方が圧倒的に長いせいか、母親の言うことしか聞かない・・・。家に私の安らげる場所なんてないんです。」
「ふむふむ・・・。父親不在を母親が作り出している・・・。最近よく見られる傾向ですね。」
「私だけではないんですか?」
「男女同権は言わずもがなですし、仕事人間になるのはそうせざるを得ない状況があるんです。しかし、女性側に立つ評論家は、もっともそうでないと
女性団体などから矢のような抗議が来ますが、その事情などお構いなしに仕事人間を批判する。」
「・・・はい。」
「そんなテレビや新聞が垂れ流す情報をそのまま我が意を得たりとばかりに鵜呑みにするのが今の母親像です。その母親に接する時間がどうしても
長くなりがちな子ども達も、直接間接問わずその影響を受け、父親の存在を軽く見るようになる。」
「なるほど・・・。」

 男の解説に海原は身をやや乗り出して真剣に聞き入る。
普段感じていたことを論理的に、それも自分に分かりやすく説明されれば誰でも話を真剣に聞くものだ。

「で、海原様はお仕事でもお疲れのご様子・・・。そして家庭ではその疲れがまったく癒されない・・・。これは鬱病に陥りやすい環境ですね。」
「う、鬱病って・・・精神病じゃないですか?!」

 鬱病と聞いて海原は冗談じゃない、とばかりに首を横に激しく振る。
幾ら疲れているといっても自殺を考えたことなどないし、まして自分が精神病などと知れたら会社での存在がどうなるか分からないからだ。
しかし、男はまあまあ、と海原を宥めるように笑みを浮かべながら説明する。

「鬱病は確かに精神病です。しかし、それは風邪をひくのと同じようなもの。環境さえ揃えば誰でもかかる病気なんです。」
「そ、そうなんですか?」
「そうですとも。風邪は喉や鼻など身体のあちこちに異常を発生する病気ですが、鬱病は精神、言い換えれば神経回路が異常を呈する病気で、
きちんとした治療をすればちゃんと治ります。しかし、日本では精神病に対して危険視さえする悪い風潮があります。
そのくせ、精神とは、と論じさせれば理不尽なことでも我慢することができるかどうかという無茶な根性の有無しか議論できないというのが
大抵の日本人の精神に対する理解の程度なのですが、この際ですから、理解を改めてみてはは如何でしょう?」

 男は改めては如何でしょう、と勧めることはするが、改めてください、とか改めるべきだ、とか命令することはしない。
論理的に解説され、さらに自分でも当てはまる条件があるから、海原はそんなものか、とあっさり男の解説を受け入れる。
 男は時折ファイルを見ながら、海原を優しい眼差しを向ける。
カウンセリングというのは単に問答じゃないのか、と海原が認識を新たにしたところで、男はファイルを一旦テーブルにおいて言う。

「海原様。貴方の問診表とカウンセリングからすると、相当精神的に参っていらっしゃる・・・。これはご予算との相談になりますが、十分な安らぎプランを
受けることをお勧めしたいところです。」
「安らぎ・・・プラン?」
「はい、当社ではお客様一人一人異なる安らぎプランをご提案するようにしています。心の疲れも様々ですし、原因も様々。ですから安らぎプランも
お客様一人一人違って当然です。薬でも病気の種類や症状に応じて異なる薬を処方するでしょう?それと同じです。」

 てっきりプランと言うから、生命保険などのように多少の違いがある程度の決まりきったものを提示するのかと思っていたが、この会社は違うようだ。
それだけでも海原の中でのこの会社に対する信用は更に深まる。
下手な心療内科や神経内科にかかるより、この会社の方がずっと適切な「治療」を施してくれそうな気がする。

「で、どんなプランがあるんですか?」
「そうですね・・・。少々お待ちいただけますか?」

 男は脇に置いてあったノートパソコンを手際よく操作し始める。
画面を見る男の目は、先程までの海原を見るときのものとは違って真剣そのものだ。
その様子を見ていると、かつて自分も仕事や家庭に真剣に取り組んでいたな、と海原は少し感傷的になる。
 それが何時の間にやら仕事では上からの圧力と下からの突き上げで心に軋轢が生まれ、家庭では妻が男女同権や仕事人間批判で自分に見向きも
しなくなり、子ども達は自分に背を向けるようになった。
海原にはほっと一息つける場所がなくなってしまった。
多少割高になっても、安らぎが得られるなら惜しみなく金を出そう、それこそ会社での積立金を切り崩してでも安らぎが欲しい。
海原は真剣にそう思い、男がプランを提示するのを今か今かと待ち侘びる。
 時間にして5分も経たないうちに、男はノートパソコンの操作を終わり、背後でプリンタが出力した紙が出終わるのを待つ。
ようやく自分の安らぎが得られるのかと思うと、海原は早くそのプランが見たいと心が騒ぐ。
プリンタから紙が出力され終わると、男はその紙を取ってテーブルにおいて海原に見せる。
そこには『家庭の安らぎプラン』という大きな見出しがついていた。

「海原様。今の貴方に最も必要なものは家族から得られる安らぎです。そこで私はこのようなプランを提案したいと思います。
「『家庭の安らぎプラン』・・・ですか?」
「はい。順番にご説明いたしますと・・・」

 男からの説明を海原は熱心に聞き入る。
提示されたプランは聞けば聞くほど魅力的で、しかも自分が切望しているものだと思うようになってきた。
家族での安らぎ・・・何時の間にか崩壊し、何処かへ消え去ったあの瞬間が手に入るのだから。
 そのプランの金額は月2万。海原の小遣いの4割はかなり厳しい値段ではある。
その小遣いから日々の昼食や仕事の後の飲み屋での支払いをやりくりしているのだから、少なくとも仕事の後で飲み屋に行くことは控えなければならない。
しかし、それを控えるだけで提示された安らぎが手に入るのなら・・・2万は惜しくない。
海原は財布の残り金額を思い出して思案した結果、心の天秤が傾いた方向に決める。

「−と、ご説明は以上ですが、如何でしょう?」
「お願いします。是非とも!」

 海原の返事は即答と言って良いほどの早さだった。
 その会社を出た海原は、電車に飛び乗り家路を急ぐ。
プランの実行は何時からか、と尋ねたら、何とお望みであれば早速今日から実行させていただく、と男は言った。
魅力的且つ切実な安らぎプランを提示された海原が、明日まで待とうとする筈がない。即実行してもらうように男に頼んだ。
何時もは帰りの電車で如何にも疲れたという表情で俯いている海原とは違い、期待感で表情が輝いている。
 同時に不安もないわけではない。
月2万円で本当に自分が望む「安らぎ」が得られるのだろうか、と提示されたプランの内容がまさに自分の望むものだっただけに、それが満足できなかった
場合の不安があるのだ。
しかし、万が一プランの内容が満足できないようなら何時でも変更は可能だし、その差額や返金はきちんと保証する、という趣旨の契約書まで
貰っているし、余程あの男は提示したプランに自信があるのだろう、と海原は思う。
 電車から降りた海原は、急ぎ足で家へと急ぐ。
本当にあの家に自分が望んでいた安らぎが待っているのだろうか?期待と不安を胸に、海原は電灯が照らす暗い小道を走っていく。
住宅街のほぼ中心部、坂を何度か上り下りしたところに自分の家が見える。表面上は何も変わってはいない。
胸が高鳴るのを感じながら、海原はゆっくりとした足取りで自分の家へ向かう。
 門を開けて「海原」という表札のかかったドアを前にして、海原の胸の高鳴りが最高潮に達する。

本当に・・・このドアの向こうに安らぎが待っているんだろうか?

 海原は震える手でドアの鍵を手にして鍵穴に差し込む。
そして開ける方向に回すとガチャッという音がする。此処までは今までと何ら変わらない。
海原の胸の中でいよいよ不安の方が大きくなってくる。
ただいま、と言って中に入ってもおかえり、の出迎えはないのではないか?
自分が帰ってきたことなど知ったことではないと言わんばかりに、あのセイウチを思わせる巨体がダイニングに横たわっているだけではないのか?
海原はドアを開けることを躊躇するが、契約書のことを思い出し、思い切ってドアを開けて中に入るや否や、少し多きめの声で言う。

「た、ただいま。」
「おかえりなさい。」

 すると、奥から小走りに駆け寄ってくる足音と共に、何時以来聞いたかも忘れてしまった応答が返ってきた。
まさか、という表情で立ち尽くす海原の前に、30代後半くらいの細身で小奇麗ななりの女性が姿を現す。
セイウチを思わせる巨体を見慣れていただけに、海原には思わぬ「副産物」が齎された。

「どうしたの?そんなところに突っ立って。」
「・・・え、えっと・・・貴方があの会社の人ですか?」
「はい。でも契約期間中は貴方の妻ですよ。さ、夕飯の用意が出来てるから早く上がって。」

 あの会社の社員かアルバイトかは知らないが、「妻」役の女性が海原より先回りして家に入って待っていたようだ。
では、あのセイウチもどきの本当の妻はどうしたんだろうか?
海原はふと本物の妻のことが気になったが、何時以来かの出迎えがじんと心に染みて、思わず目頭が熱くなるのを感じながら靴を脱いで上がる。
 ネクタイを解き、スーツから部屋着に着替えた海原は、ダイニングに入って再び驚く。
喧しいテレビの音も、あのセイウチを思わせる巨体も、そして布巾がかけられた夕食もない。
見知らぬ中学生くらいの男女と「妻」役の女性が向かい合う形で座って、海原の方をにこやかに見ているではないか。
そしてテーブルには一人分の冷え切った夕食ではなく、湯気が立ち上る温かい夕食が並べられているではないか。

「おかえり、父さん。」
「お父さん、おかえりなさい。」

 中学生風の男女は口々に海原を温かく迎える。
この二人がプランの中にあった「二人の子ども」役の男女らしい。

「さ、あなた。早く自分の席に座ってくださいな。」
「そうだよ、父さん。父さんの帰りをずっと待ってたんだから、僕、もうお腹減って減って・・・。」
「ねえ、お父さん。早く食べようよ。」

 「妻」と「子ども達」は、海原を何の違和感もなく夫と呼び、父と呼ぶ。
家族揃って温かい夕食を食べるなど、本当に忘却の彼方に消え去ったことだ。
海原は思わず口を押さえて嗚咽を漏らす。自分が何よりも望んでいた「家庭での安らぎ」が、今確かに目の前にあるのだ。
あの会社で示された「家庭の安らぎプラン」は嘘ではなく、プランの説明書と契約書どおりに実現されているのだ。

「父さん、どうして泣いてるの?何かあったの?」
「あなた・・・。」
「い、いや、皆がこうして出迎えたり待っていたりしてくれたことが嬉しくてな、つい・・・。」
「変なお父さん。一緒に食べるのに待ってて当たり前じゃない。」
「そうそう。さ、早く食べようよ。」
「そ、そうだな。」

 海原は目を袖でぐいと拭って、自分の席に座る。そして全員揃って「いただきます」を唱和した後、食事を始める。
テレビからの癇に障る笑い声や怒鳴り声は一切ない食卓には、「妻」や子ども達が話す今日の出来事が花咲く。
海原はそれを聞きながら、会社で自分がしていること、そしてその苦労話を話す。
 家庭での団欒が死語に等しいとさえ言われる今、海原はその極上の味と雰囲気に包まれてこの上ない安らぎを感じる。
海原の頭の中からは、本物の妻や子ども達のことなどすっかり消え失せてしまっていた。
 賑やかな、そして和やかな夕食が終わりを告げる。
料理がすっかり姿を消した食卓を、海原と「子ども達」が囲んでいる。
テレビにようやくスイッチが入り、海原がこの曜日のこの時間に観たかった自然を題材にしたドキュメンタリー番組が流れている。
昨日まで本物の妻が見ていたような騒々しいバラエティー番組ではない。これだけでも心が穏やかになったいくような気がする。
 海原の背後では「妻」が食器を洗う音が聞こえる。妻が夕食後に自分の食器を洗っているところを見るのも随分久しいことだ。
つい昨日まで、テレビの喧騒とそっぽを向いた本物の妻を背に、自分の食器を洗っていたのだから。
番組が終わりに近付いたところで洗い物を追えた「妻」が海原に言う。

「あなた。お風呂はいる?」

 海原は一瞬どう答えてよいか分からなかった。
自分が入った後は子ども達が何かと嫌がるので、一旦2階に上がって、妻と子ども達が入った後を見計らって入らなければならないのだ。
それが昨日までずっと続いていて、今日いきなり自分から入ることを勧められたことで、海原は一瞬頭の中が真っ白になったのだ。

「まだもう少し後で良い?」
「い、いや、入る入る。」

 海原は「妻」の再度の問いでようやく我に帰って返答する。
何時も本物の妻や子ども達の様子を伺いながら合間を縫うように−結局は最後になるのが殆どだが−風呂に入っていたのが、嘘のように思える。
「子ども達」にも自分が先に入ろうとする気配はない。自分が父親であるという認識が再び自分の中に芽生えたような気がする。
 風呂に入ろうと席を立ったとき、ふと本物の妻と子ども達のことが思い出した。
家に入ってから一度も姿を見ていない本物はどうしたのだろう、と海原は不思議に思う。

「あの・・・ちょっと聞いて良いですか?」
「何?」
「本物の妻と子ども達は・・・今何処に居るんです?」
「この家からご退散願いましたよ。」

 呆気ない、しかし耳を疑うような答えが返ってきた。
てっきり先に食事や風呂を済ませて2階に行っているのか、と思っていたが、家から追い出したという。
確かに望んでいた「家族の安らぎ」は思う存分堪能できた。しかし、妻や子ども達を家から追い出してくれとは頼んでいない。
海原は風呂に入るどころではなくなり、慌てて「妻」に問い質す。

「ご、ご退散願ったって、一体何処へ?」
「契約期間中は私達が貴方の妻と子どもよ。他人が貴方の家に居るのは変でしょ?」
「変・・・といえば確かにそうだが・・・。」
「勿論、身の安全は保障するわ。契約期間中だけ『他人』だから。」
「は、はあ・・・。」
「さ、あなた、早くお風呂に入って。」

 海原は本物の妻と子ども達のことが気にはなるが、今は自分が契約で手に入れた「家族」の安らぎを満喫したいという思いが強い。
どのみち本物の家族は自分に何一つ安らぎを齎さなかったのだから。
そう思うと、別に本物が何処に居ようが構わないと海原は思い始める。

「・・・じゃあ、先に入る。」
「はい。ごゆっくり。」

 海原はダイニングから脱衣場に入り、服を脱いで風呂に入る。
契約期間は帰宅から床に就くまで、となっている。それまではあの「妻」や「子ども達」と家族で居られるのだ。
一番風呂特有の固めで、しかし適温の湯に身を浸しながら、海原はこんな安らぎが月2万で得られるなら仕事の後の飲み屋を控えるのも、
本物の家族に背を向けられても構わない、と残響たっぷりの充足の溜息を吐きながら思った…。
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