Saint Guardians

Scene 11 Act3-2 混迷-Confusion- 彷徨う少女の心の羅針盤

written by Moonstone

 アレン達の出国の日は着実に迫って来ている。
船は国家中央教会が手配したもので、「主役」のルイは全権大使の任を負っているから出航日をずらすことは十分可能だが、元来几帳面なルイは余程の
アクシデントでもなければ自分の都合や思い付きでスケジュールを変更することはしない。その上、今はむしろ一刻も早く出国したいとすら思っている
くらいだ。フォンやロムノ、表には出ないものの他の執事や使用人やメイドの希望が叶う余地は皆無と言って良い。
 フォンの当主就任以降リルバン家唯一の難点と言って良かったホークとナイキが自滅したことで、リルバン家においてフォン路線の継承を望まない者は
居ない。ルイさえ応諾すれば、戸籍の問題も外部の雑音もフォンを筆頭とするリルバン家所在の人間が一致団結して解決ないしは排除に向かうことは間違い
ない。更にはルイの出身元である教会も、思想の違いはあれどフォンの力量を認め円滑な当主継承を望む他の一等貴族も、ルイのリルバン家当主継承に
おけるあらゆる課題や雑音の解決や排除に全力を挙げると断言出来る。
 フォンがこれまでの方針を覆して正室や側室を迎えて、ルイの異母兄弟を儲けたとしても、その異母兄弟がルイと同等以上の能力を有することになるとは
限らない。宗教顧問による講釈だけでは分かり得ない聖職者の現場の苦労や課題を熟知しているばかりか、評議委員会で一村の行政にも関与することで
得た経験や知識、立案力や行動力、そして正規の聖職者としての10年のキャリア。これらを兼ね備えて更に若さと人望を併せ持つ後継候補は、そうそう
簡単に養成出来ない。それが可能なくらいならルイとの和解交渉実現に頭を悩ませたり、一向に改善の兆しを見せないルイとフォンの動向に焦燥感を
覚えたりはしない。
 だが、ルイは和解交渉の申し出やフォンとの和解の希望を寄せ付けないために、アレンと行動を共にするようにしている。決して不快なベタベタやイチャ
イチャではない分、良い雰囲気を壊してまでリルバン家に関する話題や希望を持ち出すのは憚られる。ルイの感情を刺激しないように神経を尖らせる
フォンとロムノは尚更だ。アレンとの仲を邪魔するとルイに認識されれば、その瞬間に全ての可能性が潰えてしまうのは確実なのだから。

「ハルガンってどんなところか知ってる?」

 出国まであと3日の昼下がり。アレンの部屋でルイと隣り合って座るアレンは、少しの間を挟んでルイに尋ねる。

「キャミール教の聖地ってことは知ってたけど、俺が知ってるのはそれだけなんだ。」
「聖地ハルガンは、この国の聖職者だけでなく、国民全体の憧れの地なんです。聖職者にとっては上級職に着任する際の研修だったり、あるいは自己研鑚の
場だったりします。国民にとっては一生に一度は訪ねてみたい巡礼の地ですね。」
「ルイさんは行ったことある?」
「今回が初めてです。こういう形で訪れることになったのは複雑ですけど。」

 宗教の発祥地であったり、経典における重要な場所である聖地への巡礼や参拝は、古今東西どの宗教にも普遍的に存在する。イスラム教におけるメッカは
「総本山」などの意味で日本語でも馴染み深い地名であるし、日本においては通称「お伊勢さん」の伊勢神宮参拝のために、江戸からの経路を東海道と位置
づけて沿線には宿場町が発展した。
 鉄道や飛行機がある筈もない時代において、巡礼はしばしば数週間数カ月を要する一大行事であり、拠点での宿泊や飲食遊興で巡礼や参拝の客
−旅人と言うべきかもしれない−が使う金は経済や流通の面からも重要な位置づけだ。ランディブルド王国が「キャミール教第2の聖地」と呼ばれるに至った
のは、海を隔てた場所にあるハルガンへの定期航路を確立させていることと、滞在や渡航に必要な施設や設備、それこそ宿泊や飲食遊興が十分可能である
ことも大きな要因である。
 渡航経験はないが、同僚や渡航経験がある富裕層などから聞いた話として、ルイはハルガンの概要を話す。
 ハルガンは同名の巨大な島に作られた都市の名称であること。
 キャミール教の聖地本体は神が預言者に教えを託した山に造営された神殿であり、それを取り囲むように教会関係の施設や訪問者用の宿舎があること。
 殆ど知られていないが衛魔術の研究も行われていて、専任の聖職者が従事していること。
ハルガンが「聖地」と呼ばれるのは、魔法に不可欠な賢者の石の発祥地であり力魔術の世界的な研究拠点であるカルーダと同様、衛魔術の世界的な研究
拠点として機能し、聖職者の役割に大きく貢献していることもあることなど。「聖地」と呼ばれるくらいだから重要な施設などがあるとは思っていたが、衛魔術の
研究が大々的に行われていること、そもそも衛魔術が力魔術と同様に研究開発されていることにアレンは驚く。
 聖職者の社会的地位が高いランディブルド王国を除いて、衛魔術は「教会に行くと聖職者が使える」という程度の地味な認識が主流だ。そんな認識だから
「衛魔術は聖職者が称号に応じて自動的に使えるようになるもの」というある意味安直な認識も派生している。だが、術者の手に埋め込んだ賢者の石と魔法に
応じて必要な魔力や他の力の源泉−たとえば精霊や悪魔など−を呪文の詠唱で相互作用させて発生させる仕組みは、衛魔術も力魔術も変わらない。他の
力の源泉と魔法の効力くらいしか相違点はないから、より強力だったり少ない魔力消費で済む改良などは当然研究開発による成果であり、継続的に行われ
なければ衰退、ひいては断絶へと繋がる。
 肉体の欠損すら治癒する強力な治癒魔法や、セイント・ガーディアンで破れるかどうかの防御壁を形成する防御魔法、力魔術ではごく限られたものしか
効果がないアンデッドや悪魔を即死させる浄化魔法など、派手さはない分生命を左右する効果を持つ者が少なくないのが衛魔術。更には魔術では不可能な
呪詛の解除も聖職者なら可能である。長距離の移動や治療施設を期待出来ない状況では、衛魔術や聖職者の有無はパーティーの生死を決定づける要素と
なり得る。アレン達パーティーが攻撃に偏り過ぎているのは共通認識だったし、即戦力として申し分なく将来性も豊かなルイの参入は、ルイに対する認識や
立場の相違はあってもパーティーにとっては福音に他ならないというのも共通認識である。
 より精密で効力の高い魔法を創造したり、既存の魔法を改良したりするには、研究分野が次第に細分化し、様々な角度からのアプローチを行う。単独で行う
よりチームを編成して分担したり、同様の研究を行う者が意見や情報の交換を行い、研鑽や方針の見直しを行える制度や場所が必要になる。力魔術は
カルーダの王立魔術大学を拠点として研究体制と共に後進を指導・養成する体制を確立しているように、衛魔術はハルガンを拠点として研究体制と指導・
養成体制を確立している。
 ハルガンからの応答が途絶えたということは、単に聖地への巡礼や研修が不可能になっただけではなく、衛魔術の研究開発が停止し、最悪の場合研究や
指導体制が崩壊したことを意味する。一度整備・確立した研究体制を破壊すると、再構築に多大な時間を要するばかりか蓄積されたデータや記録などの
破壊紛失により、研究全体に深刻な断絶を齎す。太平洋戦争敗戦後にGHQが日本のサイクロトロン17)を破壊させたのは、核兵器の研究開発に繋がると誤解
したためであるが−放射能と放射線の区別がつかないレベルの科学知識の水準は日本に限ったことではない−、日本の素粒子物理研究がその分遅延した
のは否めない。日本において国立大学・研究機関が独立行政法人化された際、国会での付帯決議を無視して毎年1%ずつ運営費交付金が削減され、蓮舫
などが事業仕分けと称した財務官僚のシナリオによる盛大な茶番劇で科学技術予算の削減を打ち出すなどしているのは、日本の研究基盤を崩壊させ、研究
活動の人的継承も不可能にする愚策でしかない。

「衛魔術の研究って、やっぱり聖職者がしてるの?」
「はい。魔術師でもカルーダ王国の魔術大学でしたか?そのような施設で魔術研究を主体とする魔術師の方が居られるのと同じで、衛魔術の研究を主体に
する聖職者も居るんです。その拠点がキャミール教では聖地ハルガンにあると考えてもらえれば良いかと。」
「なるほど…。知らないことがいっぱいあるなぁ。」
「それは私も同じですよ。今までお話したことはあくまで伝聞の範疇ですし。」

 インターネットどころか電話もない文明水準のこの世界で、人的交流が殆どを占める応答が途絶えた際に相手方の状況を知る術は皆無に等しい。ハルガン
からの応答が途絶える兆候は全く見られなかったというし、ハルガンから脱出して来た者がランディブルド王国に辿りつくことでもない限り、現地に赴いて
状況を把握する他ない。
 季節や時計の回転方向、ひいては夜空の星の顔触れも変わる南半球に足を踏み出すのもかなり不安だが、聖職者のみならずランディブルド王国国民の
憧れの地であるハルガンを襲ったらしい重大な異変、しかもセイント・ガーディアンの本拠地であり現在はガルシアが支配しているというクルーシァが関与して
いる可能性が高い異変を解決してハルガンを元に戻せるのか、ルイは不安でならない。
 だが、アレンと出逢わなければこんな重大な事態に巻き込まれなかった、などの不満や後悔は微塵もない。それどころか、これまでの村と聖職者だけの
世界から、地図でしか見たことがない赤道を越えて、訪れる機会があるとは思わなかった聖地ハルガンに向かうほど大きく世界を広げる扉を開いてくれた
アレンには感謝している。不安の殆どはハルガンの状況と事態解決の見通しに関してであり、出国そのものには大して不安はない。せいぜい人生初の
乗船で船酔いしないかどうかといった程度だ。
 一方、不安ではないが、心の片隅に引っ掛かって離れないものがあるのをルイは感じている。どうしても振り払えない蜘蛛の巣のような何とも煩わしく、
触れなければ無視出来るが何とも気になるもの。それをアレンに吐露して良いものかどうかルイは迷い続けている。もう決まったこと、終わったことと見なした
筈だが、認識が100ピセルそう見なすに至らない。
 アレンなら話を聞いてくれるに違いない。だが、折角の2人きりの時間に既に決着した筈の話題を持ち出すとアレンの心証を害しないか。そもそも出国を
3日後に控えた状況で未練がましいとも言える話題を持ち出すのはいかがなものか。ルイは心の奥底で静かな、しかし激しい葛藤を続けている。

「…ルイさん。具合悪い?」

 アレンに尋ねられて、ルイは我に返る。何時の間にか葛藤の渦に思考を飲み込まれていたのだ。ルイが次第に表情を重くし、それに比例して首を下方向に
傾けていったことを心配したアレンは、ルイの様子を窺うべくやや顔を近づけていた。我に返ったところで覗き込まれるような角度からアレンの顔が視界に
入ったことで、ルイは驚きのあまり固まってしまう。

「医者を呼んでもらおうか?」
「い、いえ。身体は至って健康です。ちょっと…その…考え事をしてしまって…。」
「…フォン当主とのこと?」

 曖昧に流そうとしたルイに、アレンが言い難そうに尋ねる。これまで散々フィリアの手を焼かせ、クリスにも呆れられる鈍さのアレンだが、ルイの心情は
漏らさず汲み取ろうと鋭敏になる。現時点でルイが思い悩む材料と言えば纏わりつこうとするフォン、ひいてはリルバン家くらいだが、かつてのアレンなら
そこまで考えが及ばなかった。打算や駆け引きを含まない純粋な恋愛感情の成せる業と言えよう。

「…出国を契機に聖職者を辞職してこの国を出よう。リルバン家との関わりは持たない。そう決めた筈なのに…、何と言いますか…、何処か腑に落ちない、100
ピセルその考えや方針で統一出来ない部分があるんです…。」

 ルイは小さく肯定の頷きをして、慎重に言葉を選びながら心情を吐露する。
問題の性質上、どうしても愚痴っぽくなりやすいことはルイ自身嫌と言うほど分かる。アレンをある意味不満の捌け口にするようなことはしたくないのは言う
までもない。一方で、アレンなら自分の話を聞いてくれる、アレンにだけは聞いて欲しいという矛盾した気持ちがあるのも事実。ならば言葉を選び、激しく揺れ
続ける自分の心境だけを伝えるようにすべきだ。ルイはそう思いながら話し続ける。

「一等貴族当主の座には興味も欲求もありません。それに、一等貴族であるだけで当主でなくとも様々な制約を受けることも分かりました。行動も人間
関係も…。ですから、その制約下に身を置きたくはありません。なし崩しや既成事実の蓄積で当主の座に着席させられるのを避けるためにも…、聖職者の
辞職とこの国から出ることを決心しました。聖職者、しかも正規であればどうしてもこの国の中枢部、すなわち国王陛下や一等貴族が関係してきます。私が
現状でフォン当主の唯一の実子であることも加えれば尚のこと、何れはリルバン家当主に、という思惑や動きは避けられないでしょうし…。」
「…。」
「ですから、フォン当主から申し出がある交渉でも最大限の警戒をしてきたつもりです。迂闊に承諾するとそのままリルバン家に組み込まれる恐れがある。一度
入家させられれば脱出は基本的に不可能だから、組み込まれる前に言葉の真の意味を汲み取らないといけない。そう意識しながら交渉に臨んで来ました。
その結果、帰国後にリルバン家入家から後継候補指名という流れに飲み込まれることはありませんでした。」
「…。」
「あとは3日後の出航でこの国を出て、聖地ハルガンの事態の把握や解決を果たして関係各位に報告して辞職手続きを完了すれば、私とリルバン家の
接点はなくなります。淡々と、粛々と行動すれば良いだけの状況になった筈なのに…、本当にこのままで良いのか、これで万事解決なのか、という疑問が…
ふとした拍子に何処からか湧き上がってくるんです…。本来アレンさんをはじめとする皆さんを募って聖地ハルガンへの案内役となるべき私が…、今更私事で
心の方向性を一点に定められなくてどうするのか、と…。」

 ルイが和解交渉に臨むに際してフォン側を全く信用していなかったと明言したことは、フォンやロムノが聞けばショックを受けるのは間違いない。
一時は父親と認める方向に向かい始めていたルイがフォン側への信用を喪失した最大の契機となったのは、ヘブル村から首都フィルへ帰還する際だ。国家
中央教会総長がルイを緊急に招聘した際、国軍幹部会を通じてヴィクトス率いる駐留国軍に護衛させたことが、リルバン家の人間となることによる様々な
制約、特にアレンとの交際への重大な制約を体感・予感させ、こんなことになるくらいならリルバン家の継承は真平御免という思考をルイに派生させて
しまった。
 一連の手配は国家中央教会総長によるものでフォンはそれらを伝達されただけだが、アレンとの交際が本格化し始めて今まで感じたことがない気分の
高揚に浸っている最中に、それらを全て台無しにすることが「リルバン家」を暗に冠する形で行われたため、フォンを信用し始めたとはいえ非常に微妙な関係
には変わりなかったルイの不信と怒りを買った格好だ。不十分な意思疎通と当事者のルイとフォンの頭上を飛び越しての手配や行動が全て裏目に出たとも
言える。
 フォンからの申し出であろうがその右腕のロムノからの申し出であろうが、最早和解交渉には応じるだけのものを見いだせない。異母兄弟を儲けることには
何ら異論はないし、リルバン家継承云々を解決するにはそれ以外ないと考えている。ハルガンへの渡航は国家中央教会総長の依頼によるものだし、任務
完了後に辞職手続きを完了すれば、国家中央教会総長は少なくとも自分の権限を使って慰留することは不可能になる。
 これまでの人生にほぼ重なる聖職者の地位や名誉も、全く異なる世界が開けたルイにとっては足枷となる。実質的に公務員と言える聖職者であることで、
国家中央教会総長がフォンとの仲裁を行ったり、あり得ないことだがフォンや他の一等貴族、ひいては国王が圧力をかけてリルバン家に入家するよう説得
させることも、聖職者を辞職することで未然に防げる。
 だが、その国家中央教会総長との初の謁見の際に、心に深く根を降ろす悲しみと怒り、それらの原因である母ローズの不遇を見通された。更にこれまでに
知った、母が自分の母となるに至ったフォンとの邂逅と愛し合った事実、そして最後の瞬間までフォンへの愛を貫いたローズと、フォンもまたローズを愛し
続けている事実が入り乱れ、フォンに「さっさと自分を見限って異母兄弟を作れ」と突き離し切れない部分がある。この期に及んで未練がましいとルイ自身
思うが、フォンを父と認めることなくこの国を後にして良いのか、と悩み続けている。

「…俺の考えを言って良いかな?」

 暫く重い沈黙の時間が流れた後、アレンが慎重に口を開く。何せルイの非常にデリケートな悩みに見解などを言うのだ。ルイの悲しみを蒸し返したくない
気持ちが恋慕の情と合わさって、普段以上の慎重さを形成する。

「はい。私1人だと…どうしても結論を出せなくて…。」
「俺の考えも、結論に結び付くかどうかは分からないけど…、ひとまず聞ける範囲で聞いてね。」

 アレンはひと呼吸置く。

「この国を出るかどうかは…、まだ結論を出さなくても良いんじゃないかな。」
「…え?」

 てっきり出国と同時に出奔するか帰国後フォンとの交渉に臨むかの二択かと思いきや、予想外の先送りを提示されてルイは思わず聞き返す。

「1つ確認したいんだけど、ルイさんにとって、ハルガンに行くことがそのままこの国から出ることにはならないんだよね?」
「は、はい。聖地ハルガンの状況把握と可能なら事態の解決を、という総長様のご依頼を受託はしましたが、そこにはこの国を出ることは含まれていません。」
「ルイさんがこの国を出るかどうかはルイさんが結論を出すことであって、俺がどうこう言う資格はないと思ってる。ましてやフォン当主を含む他の誰も…。
言い換えれば、この国を出るか戻るか、フォン当主との交渉に応じるか一切応じずにリルバン家と絶縁するか、そういったことは全てルイさん次第なんだから、
結論を出すまで待たせれば良いと思うんだ。待てないって言うなら、それこそ勝手に正室でも側室でも迎えて子作りをすれば良いことなんだし、それは嫌なら
自分が結論を出すまで待ってろ、って態度で良いと思う。」

 アレンの意見は、ルイに結論の先送りを提示するものだ。しかし、単に追い詰められた状態から一時的に逃避するためではなく、当面の課題に専念する
間は相手にひたすら待機を求めるためである。フォンは勿論、リルバン家後継問題の一刻も早い解決を求める国王や他の一等貴族、ロムノをはじめとする
リルバン家で働く全ての人間にとってはたまったものではないだろうが、切り札のほぼ全てを持った圧倒的優位の状態を保ちつつ結論を導く時間を確保する
には極めて有効だ。
 これはルイが次期リルバン家当主となるに相応しい資質を持つとの認識が関係者の間で普遍的だからこそ成立する駆け引きであり、おいそれと成立する
ものではない。

「ルイさんにはこういう駆け引きみたいな考え方は馴染み難いと思う。相手を自分の都合で振り回すようなものだし、それは聖職者の精神に反することだと思う
からね。だけど…、だからと言ってルイさんが周囲の思惑や都合に翻弄され続けるのはおかしいよ。今までずっとお母さんのため、村の人達のために生きて
来たルイさんが、聖職者でも何でもない1人の女の子として自分のこれからを考えるために、他人の干渉や圧力を退けてじっくり考える時間は絶対必要だよ。
そのためには…、他人に少しは妥協や我慢を求めても良い筈だよ。」
「アレンさん…。」
「俺とルイさんは今まで生きて来た−と言っても高々10数年だけど、それでの経験や教訓の度合いは異なるから、ルイさんから見て俺の考え方や意見は肌に
合わないこともあると思う。勿論、ルイさんに俺の言うとおりにしろとか言うつもりもない。あくまでもルイさんが決めることだからね。…責任逃れに感じられるかも
しれないけど。」
「いえ。この場でアレンさんにこの件で意見を求めたのは私ですから、その扱いについてアレンさんが責任を問われるのは筋違いだということくらいは
分かります。」

 今度はルイが一呼吸置く。

「やっぱり…アレンさんに話して良かったです。私では想像が及ばない視点や意見が聞けて、凄く参考になりました。…駆け引きと言うとどうしても相手を
自分の都合で振り回すとか、あまり良いイメージがないのは事実です。ですけど…、時と場合によっては駆け引きを使っても良いのかもしれない。特に相手と
私の方向性があまりにも乖離していて、相手から妥協や譲歩を迫られているような場合は、緩和や条件提示の一手段として駆け引きも視野に入れて良いの
かもしれない。…そう考えるようになっています。」
「フォン当主は何としてもルイさんにリルバン家を継承させたいようだけど、それはルイさんの意思とは明らかに食い違ってる。ルイさんに一等貴族当主の
資質は十分あると思うけど、それが即リルバン家継承にはならない筈だよ。」
「私はそんな大それた人間じゃ…。」
「仮にフォン当主が正室や側室を迎えて、ルイさんから見て異母兄弟が出来たとしても、ルイさんが持っていてその人達が必ずしも備えるとは限らないものは
たくさんあるよ。一番大きなものは…人望だと思う。」

 前述したように、男性使用人におけるリルバン家滞在中のパーティーの女性人気はフィリアを除いてほぼ拮抗している。容姿や性格の好みが色々だから
−何時も不機嫌そうな人間とは男女問わず関わりたくないものだ−ごく当然のことだが、次期リルバン家当主には是非ともルイが、という見解では一致して
いる。
 現役の聖職者、しかも一村の中央教会で重要な役職である祭司部長にまで出世して全国の教会が取り合いをするほどの有能さ。一村の評議委員会委員と
して行政経験も有する。此処まででも申し分ないが、更に15歳と非常に若く、容姿端麗で柔和な性格を併せ持つ。アレンが圧倒的な人気を占める女性
使用人やメイドの間でも豊かな将来性も含めて是非とも次期リルバン家当主に、とルイに望むのは当然と言える。

 日本において閉塞感の打破を求めることからトップダウン志向が強まっており、自称「改革者」も強さやリーダーシップを前面に押し出している。だが、日本は
元より「お上の言うことは絶対」とする意識が根強い。「お上に逆らう」ことを許さないのは「お上」より周囲であるのは、政府や財界の方針や行動に反対する
言動を「サヨク」「ブサヨ」などと揶揄・嘲笑し、メディアが黙殺することから一目瞭然である。
 周囲をイエスマンで固めて従業員を酷使するワンマン社長が企業規模の大小を問わず蔓延り、そのワンマン社長を諌めるどころか「決断力や行動力がある」
などと持ち上げ、諌める向きを「トップの決断を邪魔する不届き者」と攻撃・排除する事例など枚挙に暇がない。このようにお上≒トップの独断・専横行動を
容認・黙認し、反対する言動を排除することで助長させるのが日本の価値観の1つであり、そのお上≒トップの失政や重大な失敗の責任を取らせず逃走や
「再起」を擁護し、責任追及の向きを「トップだけの責任ではない」「有能な人材を潰す」などと抑圧・排除さえするのも日本の価値観の1つだ。
 その典型的な例が、軍隊の統帥権を有すると定められた大日本帝国憲法下で国内外の一般市民に甚大な犠牲を出す戦争を遂行したにもかかわらず、
その責任を問われずに天寿を全うした昭和天皇であり、それを支えてごく一部は戦犯として不十分ながら裁かれごく一部が処刑されたものの、今尚「英霊」と
して祀られたりあろうことか首相やマスメディアの代表になった旧日本軍の指導部や特高警察の高級官僚であり、過去の国会でも災害時に重大な事故
発生の恐れを指摘されながら悉く無視し、結果10万人以上もの避難者を出し、今尚終息の目途が立たない原発事故を引き起こしながら誰一人として逮捕も
訴追もされていない東京電力の社長をはじめとする幹部達ではなかろうか?!
 トップダウンの意思決定やリーダーシップを求める前に、反対や疑問を排除しないことや、トップダウンやリーダーシップとやらで進めた結果、失政や重大な
失敗を起こした際には逮捕訴追、更にはその判決として彼らが殊更制裁手段として口にするほど好む死刑を含む重い刑罰や高額の賠償が当然とするのが
先決である。
 自称「改革者」を含むトップダウンやリーダーシップの志向者がその目標であるトップの現職者、ひいては石原慎太郎氏や橋下徹氏のように自らがトップに
君臨した者の重大な誤りは、自らの失政や重大な失敗には全くの無反省や開き直りや無視を決め込むことと同じく、親族や側近で周囲を固める側近政治・
同族支配や、反対・異論を制裁を振りかざしてまで圧殺した状況をカリスマ性や人望と見なしている点である。
 反対・異論を封じて周囲をイエスマンで固めれば、自らを信奉する者で占められるのは当然である。側近政治・同族支配で最も恩恵を受ける取り巻きの親族
から反対や異論が出ることはまずないし、生じた場合は泥沼の争いへと発展することは古今東西やはり枚挙に暇がない。制裁を振りかざして反対・異論を
圧殺した恐怖政治は、環境であってカリスマや人望ではない。

 ルイの素性や経歴は、アレンの緊急手術のためパーティーやクリスと共にリルバン家に移動した際、ロムノから執事に、そして使用人やメイドに伝達された。
ルイの母ローズはかつてフォンの寵愛を受け、先代の威光を笠に着たホークとナイキの圧力や嫌がらせに最後まで屈しなかったことで、現在も殆どが
リルバン家で働き続けている使用人やメイドの間では半ば伝説の存在となっていた。その伝説の存在の忘れ形見が存在していたことだけでも十分衝撃だが、
現役の正規の聖職者であること、しかも一村の中央教会祭司部長や評議委員会委員でもあり、全国の教会関係者で知らぬ者は居ないほどとなれば、未だに
正室も側室も迎えず独身を貫くフォンの今後とリルバン家を不安視していた使用人やメイドが、ルイに次期リルバン家当主就任を望むのは必然の成り行きで
ある。それだけ正規の聖職者の社会的地位が高いのもあるし、その経歴と実績の前には、バライ族の私生児というルイの出自は「だからどうした?」で片付け
られる些細なものなのだ。
 少なくとも先代からも修正不能と見限られていたホークよりルイの方が次期当主に相応しいとは、リルバン家の者なら誰しも思うこと。15歳という他の一等
貴族後継(候補)を見渡しても群を抜いて若いことを不安視するなら、首都フィルの地区教会や中央教会に異動して王国議会議員を含むキャリアと経験を
積んでもらえば、その期間を10年としてもまだ25歳。更にフォンの下で一等貴族当主の職務を一定期間経験してもらえば、30歳くらいで当主継承の条件は
揺るぎないものとなる。フォン自体先代の急逝に伴い30歳で当主を継承したから、年齢でも「前例がない」との批判や懸念は退けられる。
 ルイの若さが不安視ではなく有望視の材料となっているのは、今後キャリアや経験を積める余地が十分存在するためだし、フォンの路線が継承されるのなら
極端な話、フォンが今日当主の座をルイに譲っても一丸となってルイを支援する心づもりだ。
 アレンは使用人やメイドと話をしたりルイの話題を耳にしたりして、使用人やメイドがルイの次期当主就任を待望していることを実感している。ルイの異母
兄弟が出現するとしても、彼らがルイほどの人望を集めるとは限らない。フォンの思惑とは別に、リルバン家で働く多くの使用人やメイドの生活を守る観点から
フォンとの和解交渉の余地を残しておくのも良いのではないか、とアレンは思っている。

「ルイさんに使用人の人達やメイドさんの人望があるのは間違いないよ。…ルイさんのお母さんから受け継いだ無形の財産の1つだと思う。」
「母の…。」
「うん。ルイさんのお母さんが厳しい環境で歯を食いしばって最後まで頑張ったから…、その娘であるルイさんはお母さんの姿勢を受け継いでるって使用人の
人達やメイドさんは確信出来るんだと思う。ルイさんのお母さんは、ルイさんの中にも使用人やメイドさんの中にも、…フォン当主の中にも確かに生き
続けてる。『肉体と魂の死の到来は全く異なる』18)…だっけ?ルイさんのお母さんが頑張って培った信頼や人望は、ルイさんのお母さんの魂そのものだと
思うし、お母さんが残した魂や信頼や人望を、ルイさんがお母さんから確かに受け継いだんだと思う。」

 ルイの心に投げ込まれたアレンの言葉は奥底まで達し、生まれた波紋はルイの心を温かく震わせる。
 本来当主と関係を持った使用人の私生児として居心地が悪い筈のこのリルバン家では、使用人やメイドは誰も彼も非常に親切だ。それは当主フォンの一人
娘という位置づけなのは勿論あるだろうが、母がかつて懸命に生きたことが使用人やメイドの記憶として存在し、その後働き始めた者にも語り継がれている
こともあるのなら、それは母は死んだが母が残したものは自らの言動の柱や指針として存在するだけでなく、母が居た時代と重なる殆どのリルバン家の
使用人やメイドの記憶として確かに存在していることの証明である。

 それはアレンの言うとおり、母の魂が今尚生き続けていることの表れではないだろうか?
 リルバン家と絶縁することは確かに母を翻弄したフォンの執着めいた交渉の申し出を完全に遮断出来るが、母の魂、ひいてはアレンが言うところの母から
受け継いだ無形の財産である信頼や人望をも切り捨てることにはならないか?
 ならば、アレンが先に挙げたように、出国すなわち出奔とフォンとの絶縁ではなく、交渉に応じる余地を残しておいても良いのではないか?
 リルバン家に関わることでアレンとの交際に干渉されるのは真平御免であるし、そうされるならリルバン家と絶縁してこの国を出るという方針は変わらない。
だが、もしフォンがかつての自分の二の舞にしたくないと本当に思っているのなら、母と同じ苦しみを娘と言う自分に味わわせたくないと本当に思っているの
なら、母の魂と形見の指輪が戻ったこの場所に帰る余地は残しておいた方が良いのではないか?

 リルバン家との絶縁とランディブルド王国からの出奔一辺倒だったルイの意思は、着実に軟化し始めている。

「アレンさん…。もし…私が聖地ハルガンでの任務が終わってからこの国に帰るとしても…、一緒に…来てくれますか?」
「勿論だよ。」

 アレンの即答でルイの顔に微笑みが浮かぶ。ルイの心を最もよく理解しているのは、思惑や計算なしにルイと向き合ったアレンだけの財産かもしれない…。

用語解説 −Explanation of terms−

17)サイクロトロン:電子や陽子(荷電粒子)を磁場中に通すことで軌道を曲げつつ加速させることで、円形の軌道を描かせる円形加速器のこと。磁場と加速
電場の周波数を時間的に制御する円形加速器がシンクロトロンである。シンクロトロンは高エネルギーの荷電粒子の軌道(粒子ビーム)を実現出来、軌道を
曲げる際に軌道の接線方向にX線や紫外線など電磁波を放出する(シンクロトロン放射光)ので、物質の表面における反応の観測を行う表面科学や、素粒子
物理学などに用いられる。高エネルギー加速器研究機構(つくば市)、SPring8(佐用町)、CERN(ジュネーブ)などにある大型加速器はシンクロトロンであり、現代
ではサイクロトロンは前段の荷電粒子加速に用いられている。構造などの詳細は関連文献を参照いただきたい。


18)『肉体と魂の死の到来は全く異なる』:「教書」の一節。我々の世界における「肉体は滅んでも魂は不滅」とほぼ同一。

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