Saint Guardians

Scene 10 Act4-3 -転機-Turning point- 睦みの時間、転機の言伝

written by Moonstone

 見渡す限り草原が広がっている。緩やかな上下のカーブを描きながら地平線へ走り行く大地を、鮮やかな緑を陽光で煌めかせる草が覆っている。点在する
林は広大な草原の絶妙なアクセントになっている。
 慈善施設職員との懇談を終えたルイに連れられて村の南東にある草原を見たアレンは、雄大な風景に思わず感嘆の溜息を洩らす。

「凄いね…。」
「この辺は村の牧草地にもなっていない穴場なんです。」

 ヘブル村の主産業である牧畜には草が欠かせない。放牧で家畜を適度に運動させることで身体は引き締まり、ストレスが解消出来るため分泌物である乳の
出も良くなる。村の規模が大きくなり、食料生産の根源である家畜が増えればその分牧草地を拡大する必要がある。
 ヘブル村の人口は数百年前の創立から見れば純増であるが、最近数十年のスケールで見ると現状維持が続いている。牧畜は産業ではあるがヘブル村
ブランドを冠して大々的に全国規模で販売しているわけではない。自分や家族を食わせる分の余力を外貨獲得に振り向けることが多少発展した程度だから、
大規模な造営工事と警備−この世界は町村を囲む塀を超えれば魔物が跋扈している−を必要とする牧草地の拡大を行うほどではない。そのため、
手つかずの草原が随所に残っている。わざわざ魔物や賊に狙われるリスクを負ってまで町村以外の草原の手入れをする者はいないから、草原を構成する
草はところどころ枯れていたり、生え方も均一ではない。しかし、自然とは本来そういうものだ。

「こんな場所、よく知ってたね。」
「以前クリスに教えてもらったんです。気分転換にたまには村の外に出た方が良い、と言って。」

 ルイが単独で人気のない場所を探索したとは思えない。いくら衛魔術を扱えると言っても年頃の少女が村の外を単身で歩くのは危険過ぎる。クリスの存在は
アレンにとって「やはり」と思うと同時に「クリスで良かった」と生じていた小さな不安を解消するものでもある。もう独占欲が生じて来たか、とアレンは内心苦笑い
する。

「今までクリスに連れられて来ることしかなかったんですけど、今日はアレンさんにこの景色を知って欲しくて案内したんです。」
「こういう景色を見てると…、何だか自分が凄くちっぽけに感じるね。」
「私もです。と言っても、以前はこういう場所もあるんだという程度の認識だったんですが。」

 ルイがクリスからこの場所を教わったのは、母ローズの死から暫くしてのことだ。ローズの急死で落ち込んでいたルイの気分転換を考え、散策−腕に自信が
あるとは言え単身村から出られる少女はクリスくらいだろう−で見つけたこの場所に連れて来た。当時のルイは景色に感動こそしたものの、それ以上の
感情は生じなかった。クリスは、聖職者として教会を拠点に村を歩き回る生活を続けるルイに村以外の世界もあることを教えたかったのだが、聖職者として
母の菩提と共に村で一生を過ごすことしか考えなかったルイには効果がなかったのだ。
 しかし、アレンと出逢ったことでルイの価値観が激変し、聖職者としての生活と母の魂を抱くだけの生活から自ら脱却しようとするまでになった。ルイがこの
場所にアレンを案内したのは、自分の価値観がアレンと重なり合えると思えるものになったことを確認するためでもあるのだ。

「お昼ご飯の時間は過ぎてしまいましたし、お昼ご飯は慈善施設で済ませてしまいましたから、どうかと思いますけど…。」

 腰を下ろすと、ルイは持っていたバスケットを広げる。中にはサンドイッチとクランツ37)が詰まっている。ルイが出発前にアレンをリビングで待たせて台所に
籠ったことへの疑問が氷解すると同時に、期待が現実のものとなったことで嬉しさが花開く。

「ルイさん、これを作ってたんだね。」
「今日は良いお天気ですし、外でお弁当を食べるのも良いかと思って…。」

 ルイが台所に籠った時間はそれほど長くなかったが、弁当は急遽こしらえたとは思えない出来栄えだ。
昨日はクリスの家に入って間もなくアレンの慰労会を兼ねた食事会に参加し、その後は入浴と就寝だったから準備をする間もなかった。料理に時間がかかる
手作りパイを手掛けたのもあって慈善施設での滞在時間が長引いたが、最初からルイは此処でアレンと弁当を食べるつもりだったと推測するのが自然。
今まで料理を作る側であることが圧倒的に多かったアレンは、ルイの気遣いが殊のほか嬉しい。

「慈善施設で子ども達と遊んだし、昼食の分は十分食べられるよ。」
「無理しないでくださいね。」

 アレンが食べる意欲を見せたことで安心したルイは、弁当と併せて持参して来たおしぼりを差し出す。アレンはおしぼりを受け取って手を拭き、野菜サンドに
手を伸ばして口に入れる。夏場ということを考えて少し強めに効かせたマスタードが、野菜の瑞々しさと絡み合って良好な食感と味わいを生む。

「美味しいね、これ。」
「良かったです。」

 アレンの称賛でルイは微笑み、自分も野菜サンドに手を付ける。アレンと違って昼食後に身体を激しく動かしていないため胃の残容量にはあまり余裕は
ないが、作ってきた弁当をアレンと一緒に食べたい気持ちから見守るだけではなく付き合うことを選択したのだ。
 サンドイッチは他にも燻製肉やチーズを使ったものもある。燻製肉のサンドイッチは肉の濃厚な味に強めの胡椒と薄めのマスタードを上乗せし、レタスを
挟みこんでいる。チーズのサンドイッチは塩胡椒にマスタードにマヨネーズ、そしてレタスを加えてある。燻製肉とチーズの癖を調味料で打ち消し、旨みを
引き出すように巧みに作られている。
 アレンはデザートとルイに説明されたクランツを初めて目にするが、バターで焼いた卵焼きの包みとペースト状の
ジルン38)の甘みと酸味が絶妙な加減で融合している。当初はどれだけ食べられるかいささか不安だったアレンだが、弁当の美味さで食欲を増進されたことでバスケットを空にするに至る。

「ごちそうさま。美味しかったよ。」
「ありがとうございます。喜んでもらえて何よりです。」

 弁当箱を閉じるルイもアレンと同じようにご満悦だ。出発前に急いでこしらえた弁当の中身は、これまで何度も作ったことがあるものだから味には自信が
あったとは言え、急場故のケアレスミスの可能性は捨てきれない。料理に限らずケアレスミスがしばしばクリティカルミスに直結する−たとえば塩と砂糖を
間違えて塩辛いクッキーが出来るなど−ことも珍しくないだけに、アレンが最初から最後まで称賛一色だったことで心配が杞憂に終わって安堵すると共に、
アレンに喜ばれたことが純粋に嬉しい。
 休日に慈善施設に出向く際に菓子を作ったり今日のように果物を買ったりすることはあったが、異性のために弁当を作ることは初めてだ。無論今までそれを自分が実行するとは微塵も想像しなかっただけに、此処でも自分の価値観が大きく変わったことをルイは実感する。
 満腹になったアレンは空を見上げる。断片的に散らばる雲は緩やかに西から東へと漂いながら流れていく。日差しは夏だけあって強めだが、南天をかなり
過ぎた時間の今は肌を焼くような感覚は薄らいでいる。湿気は少ないから日差しが勢いを弱めれば日中の屋外でも過ごしやすい。村に入ってから教会の
臨時職として朝から晩まで働く生活を続けていたから、今見上げる雲のように緩やかに穏やかに流れる時間を過ごすのは凄く贅沢なことをしているような
気分になる。

「気持ち良いね…。」
「はい。…アレンさん。横になってみませんか?」
「良いね。草の座り心地も良いし…?!」

 アレンは自分の頭がルイに抱えられて傾けられ始めたことに絶句する。驚きのあまり硬直したアレンは、ルイの太ももを枕にするように横たえさせられる。
座っていた状態から左へ90度倒れただけの状態のアレンは、そのままの姿勢と混乱した思考で現状の認識を急ぐ。
 左耳と頬を中心に感じるのは間違いなく草ではなく薄手の麻の服。それを通して伝わってくる、硬さはあるが押すと弾むような感触と仄かな温もり。それが
間違いなくルイの太ももであることを認識したアレンだが、別の理由から硬直は続く。

「これで…良いんですよね?」

 頭上からルイの声が流れ込んでくる。アレンは硬直したまま身体の向きだけどうにか空を向く方向に捻る。覗きこむルイの顔は赤らみ、緊張でやや強張って
いる。思い切った決断で実行に移したことが推測出来る。

「きっかけが分からなくてこうしたんですけど…、こういう方法で良かったんでしょうか?」
「…良いと思う…。えっと…これもクリスに…?」
「クリスに教わった部分もありますけど…、その…してみたくて…。」

 ルイの積極的な−フィリアに言わせると「泥棒猫そのものの」−求愛や行動の背景にはクリスの入れ知恵があるが、知識はあっても行動に反映させなければ
頭でっかちに終わる。ルイが恋愛に関する知識、特に相手が喜んだり相手の気を惹くことを次々実行に移すのは、ルイが駆け引きの術を知らないことと
意外に好奇心が強いことが要因だ。
 思わせぶりなことをしたり他に自分に好意を寄せる異性が居ることを装ったりする駆け引きは、架空の人間関係では第三者として展開を不安に思いながら
期待したり出来るが、実際には好意がないと誤解されて気持ちが離れることが多い。駆け引きをする原因が自分の価値を高めようとする意図があると受け止め
られれば、好意はたちまち嫌悪感に変わることもある。
 前述したように所謂スクールカーストの中層以下−皮肉にも女性が恋愛対象としたがらない多数派でもある−で思春期を過ごした男性は、成人後は女性が
居なくても成立する生活を構築している。自分が好意を寄せても無駄と悟れば、認識が広まりつつある司法の女性優位−同様の犯罪を犯しても男性なら
実刑でも女性なら執行猶予となるなど−や、女性性善説に立脚する痴漢冤罪・DV冤罪など特高警察まがいの女性による親告罪成立の容易さから、無用な
トラブルに巻き込まれて社会的地位や収入を喪失することを恐れて速やかに撤退するのが自然である。
 ルイがアレンの心を急速に引き寄せ、手中にしたのは、自分が複数の異性から選ばれる立場にあるとする受け身且つ優位な立場であろうとせず、相手が
喜んだり気に入られたりすると思うことをストレートに実行したためだ。女性誌を中心とするマスメディアの喧伝を受けて自分に言い寄らない男性が多いことを
「草食系男子」と揶揄したり、駆け引きで自分が優位に立つ恋愛を進めるのは、多数派の男性が恋愛における恒常的な劣勢を諦観し、女性の一方的な主張
によるトラブルを警戒する情勢では逆効果でしかない。

「へ…変ですか?」
「い、否、ちっとも。き、気持ち良いし。」
「え…。」
「あ、そ、その、変な意味じゃなくて、膝枕してもらって寛げるなんて、普段の生活じゃ考えられないから…。」
「私も…、今までなら男性に膝枕をするなんて想像も出来なかったです。」

 村の男性の注目を一身に集めてきたのに意に介さなかったことからの変貌には、ルイ自身驚いている。
アレンと出逢って間もなく実行した通称「朝のティンルー」−一夜を共にする深い男女関係における朝の挨拶−や今の膝枕など、クリスに吹き込まれた男女
関係や恋愛の知識は相応にあったが、知識の範疇を出なかった。男性と付き合うつもりがなかったから、知識を実践することはあり得ないとすら思っていた。
ところが首都フィル滞在時のホテルでは好意を示すために早速「朝のティンルー」をして、昨夜はアレンとキスをしてそのまま添い寝もし、今はこうして膝枕を
している。
 1年どころか3カ月も経っていない時間の経過で自分がこれほど変化するとは思わなかった。人をそれまでの行動や振る舞いから想像もしない分野へと
容易に踏み出させる。これが恋愛というものなのか、とルイは思う。
 ようやくルイに膝枕をされたことに対する狼狽から平静を取り戻したアレンは、自分が雲になったような気がする。視界を埋め尽くす蒼天。自分を乗せて
柔らかく沈み込む草。自分の頭の小さな動きに忠実に応えて凹凸の場所を変えるルイの太もも。これらが視覚と触覚に豊富な刺激を与えることで、穏やかな
空に漂うような錯覚を呼び起こす。そこに、美味しい料理をルイと共に生み出したことで大はしゃぎした、訪問者慈善施設での子ども達との激しい鬼ごっこに
よる疲労と、昼食に加えてルイが作ってきた弁当を取り込んで満腹になったことが重なり、アレンの意識を眠気が覆い始める。

「寝ても良いですよ。」

 ルイが欠伸をしたアレンの顔を覗きこんで言う。アレンから見ると胸に口元周辺が隠されて、鼻から上しか見えない。

「子ども達と遊んでお腹いっぱいになって、眠くなるのは自然なことですよ。」
「このままだと本当に寝てしまいそうだけど…、此処で寝るのは危険が多いから…。」
「それなら大丈夫ですよ。」

 ルイは右手を上に翳して結界を張る。半透明の結界からは非常に強い魔力が感じられる。これなら村の駐留国軍が総攻撃しても、その駐留国軍を苦しめた
オークの大群が襲撃してきたとしても十分耐えられる。人を助け、護る心が魔法の効力を大きく左右する衛魔術の真価が此処でも発揮された。

「凄く強い結界だね…。」
「私とアレンさんの邪魔をする人の接近はしっかり防ぎますから。」
「これだけ環境が揃うと眠気に任せたくなるけど…、俺1人寝るのってどうなのかな…。」
「それは気にしないでください。私はこうしてアレンさんに膝枕をして幸福感に浸りますから。」

 ルイの言葉は以前のルイを知っている者なら信じ難いものだ。
ランディブルド王国の聖職者は他者への奉仕の精神を教育される。聖職者の資質を示す共通指標である称号とその判断基準である魔力は、人を助け護る
心が強くないと上昇が見込めないため必然ではあるが、人間は往々にして自分を優先させてしまう。聖職者の修業は厳しい。体罰は厳禁だから−実行した
者は即時免職の上で賢者の意志を剥奪されて収監される−肉体的苦痛はないが、優秀な聖職者に対する妬み僻みが嫌がらせや苛めを呼び起こすことは
あるし、朝から晩まで教会での所属に応じた職務に勤しむ必要があるから、聖職者でない者と比較して職務と信仰が常に付きまとうことに疑問や不満を抱く。
そうなると当然出来るだけ楽をしようとするから職務に手を抜いたり、出来る者に様々な口実で押し付けたりする。
 ルイは物心つく前から母ローズにキャミール教の精神を注入され、5歳から正規の聖職者に就任したから、聖職者以外の生活や行動を知らなかったことが
幸いし、嫌がらせや苛めに屈することなく−やはり出生と民族が要因のものはあった−「外部」の誘惑に心惑わされることなく聖職者として大成出来た。
聖職者としての精神は確立し、その上で自分の幸せを満喫することを知ったルイは、自分の結界や衛魔術を自分やアレンのために使うことも選択肢として
あり得ると認識するに至った。ルイはアレンとの恋愛を通じて人間としての幅が広がったと言うに相応しいだろう。
 心地良い環境と膨らみ続ける眠気、そしてルイが眠りへと誘うように頬を優しく撫でることで、アレンは眠りの淵に引き込まれていく。程なく寝息を立て始めた
アレンを、ルイは愛しさ溢れる微笑みを浮かべて見つめる。
 フィリアが見れば激怒して直ちに攻撃を開始するのは間違いない仲睦まじい光景は、後方遠くから身を屈めて睨む村の男性達に強い嫉妬と怒りを
抱かせるには余りある。だが、アレンとルイの周囲には結界が張られているし、それが強力なものであることは賢者の石を填めていなくても勘で分かる。何度
妄想したか知れない光景をいとも簡単に我がものにしているアレンを直ちにルイから引き剥がし、徹底的に痛めつけたいところだが、強力な結界の前には
ただ指を咥えて見せつけられるしかない。

「あの野郎…!ルイちゃん相手に良い思いしくさってからに…!」
「まあ、焦んなや。何時までも結界の中に居られるわけやあらへん。」
「あいつを痛めつけたついでに、ルイちゃんを攫ってまうのもええな。」
「なかなか面白そうやな。あたしもちょいと混ぜてくれへんか?」
「おう。楽しむ時は順番やで…?!」

 聞き憶えのある声でもしや、と思って男性達が振り向くと、険しい表情に殺意の籠った笑みを浮かべるクリスが仁王立ちしていた。
かつて仲間の1人がクリスに闇討ちを仕掛けて返り討ちを食らい、重傷を負わされた経験があるため、男性達にとってクリスは天敵だ。

「あんたら、ルイとアレン君に何しようとしとるんや?」
「え…、えっと…。」
「覗き自体趣味悪いことやのに、ルイとアレン君に危害加えようとするなんて、大したもんやなぁ…!」

 怒りで目を見開いたクリスの鬼神のような迫力に、男性達は凍りつく。
数の上では8:1と圧倒的に優位だが、ろくに家の仕事もせずに村を徘徊しているだけの男性達と、幼い頃から道場で修練を積んで今や国軍幹部クラスでも
殆ど歯が立たない戦闘力を身に付けたクリスとでは格が違い過ぎる。男性達はそれを嫌と言うほど認識させられているから、クリスを返り討ちにすべく先制
攻撃をしようという考えすら思いつかない。

「月並みな台詞やけど、ルイとアレン君にちょっかい出すんなら、あたしを倒してからにしぃや。どのみちあんたらなんて、ルイとアレン君に勝てる筈あらへんの
やし39)
、あたし相手で十分や。」
「「「…。」
「それが嫌なら、とっとと村へ帰って家で引き籠っときな。穀潰しにはそれがお似合いや。」
「…お、お前に命令される筋合いあらへんわ!」

 男性の1人が屈辱と怒りに耐えられずに突進する。しかし、クリスは軽く身体を捻っただけでかわし、男性の鳩尾に拳を叩きこむ。腹を抉られるような感覚と
強烈な痛みが男性を襲い、男性は草むらに倒れ込んで口から泡を吐き、ひくひくと痙攣する。

「命令されても分からへんようやな。…覚悟しぃや。」

 クリスが事実上の宣戦布告をすると、男性達は倒された仲間を抱えてほうほうの体で逃げ去っていく。目の前で仲間が一撃で倒され、仲間のかつての惨劇
−自業自得ではあるが−を思い起こせば、数に任せて襲いかかっても全員草原の肥やしにされかねないと恐怖するのは自然なことだ。
 男性達の姿が見えなくなったところで、クリスは改めてアレンとルイを見る。半透明の結界に護られた2人きりの空間では、眠るアレンと膝枕をするルイの幸せ
溢れる時間が流れている。

『おー、膝枕しとるんかー。こりゃぁ、あいつらが歯ぎしりするのも分かるわ。』

 道場帰りに村の男性達の不穏な動きを見て尾行して来たクリスは、迫っていた危機に全く気付かず幸せに浸る2人を見て安堵の溜息を吐く。ルイが聖職者
一辺倒の人生を着実に脱却しているのは、一抹の寂寥感はあるがやはり嬉しさが大きい。

『もう暫くしたら晩御飯の時間なんやけど、もう暫く見物させてもらおかなー。』

 少々野次馬根性が出ているが、アレンとルイの幸せを応援し、水面下で下支えする心意気に免じるべきだろう。
草原に腰を降ろしたクリスが見守る中、アレンとルイは至福の時を過ごす…。
 その日の夜、アレンとルイはクリスの家で夕食を囲んでいた。駐留国軍指揮官である父と役場勤務の母の収入でクリスの家はかなり大きい。ヴィクトスが職務上部下を招いて食事会を催したり会合を持ったりするから、アレンとルイを食事の席に加えてもリビングには十分余裕がある。

「ルイちゃんは、明日から教会に戻るのかな?」
「はい。教会での職務は通常どおりありますし、復職した以上はその職務を全うするのが務めです。」
「相変わらず仕事熱心やねぇ。」

 中央教会祭祀部長に復職したルイは、村を出る前と同様、若しくはそれ以上に多くの職務をこなしている。冠婚葬祭の執行と陣頭指揮は勿論、教会の管轄
地域を飛び越えての「教会」や住民の心身不調への対応、教育部と連携しての聖職者教育とその準備、幹部職による教会の運営に関する会議など、ルイの
スケジュールはびっしり埋まっている。ルイの休職中、教会の職務遂行がしばしば停滞ギリギリの危険水域に達したという話は、決して根も葉もない噂では
ない。

「んでも、外泊は出来るんやろ?」
「ええ。外泊届を出せば。」
「アレン君は家に居るんやし、外泊届出して家に泊まりなよ。」
「家は全然構わないよ。」
「では…、引き続きよろしくお願いいたします。」

 ルイははにかみながら連泊を依頼する。従来なら「必要以上に外泊するのは職務の性質上好ましくない」と迷うことなく断るところだが、アレンと2人きりに
なれる時間を持てる条件がある現在は、連泊を躊躇う理由がない。
部屋は恒例のクリスの部屋の他にアレンにあてがわれているもの以外にもあるし、昨日のようにクリスに追い出されてもアレンが受け入れてくれる確証がある。
その方がアレンとより密接な時間が過ごせるとすら思うあたり、ルイの思考の大幅な変化が窺える。

「あとどのくらい村に居られるのかな?」
「1週間ほどかと。後任人事の選定と引き継ぎが終われば、正式に辞表を提出します。」

 少し遠慮気味なヴィクトスの問いに、ルイは淀みなく答える。
非常に秀でた職務遂行能力を備えたルイの後任人事は難航しているが、異動要請を出しても直ぐに応諾する人物が居るとは考え難いし、もしあったとしても
場所柄最も近い町村でも到着に1週間はかかる。ルイの辞意は揺るがないから、ヘブル村教会内部で人選を進め、引き継ぎを行う方が現実的だ。
 候補者は数名出ているが、中央教会副総長が兼務する案が有力だ。そのくらい上級の聖職者でないと適切な後任が居ないのが、ヘブル村教会の厳しい
台所事情である。

「ルイちゃんが居らんくなると、寂しくなるねぇ…。」

 クリスの母が寂しげにポツリと言う。ルイが幼い頃から娘同然に庇護し、母ローズとも親しくしていただけに、ルイが村を去ることは娘を見送ることも同然だ。

「どうせなら、ルイちゃんの花嫁姿見たかったねぇ。」
「それやったら、ルイとアレン君次第で明日にでも見られるんと違う?」
「ええ?!」
「ああ、それもそうやね。」
「わ、私はまだ未成年ですし、自分の挙式を執り行う方式は知りませんし…。」

 この親にしてこの子ありと言おうか、クリス親子はアレンとルイの将来を先取りして盛り上がり、アレンとルイは動揺し続ける。元々陽気な家庭である
ヴィクトス家は、馴染みの顔とその連れ合いを加えて食卓が更に賑やかになる。
 玄関のドアがノックされる。リビングの盛り上がりを楽しく眺めていたメイドの1人が応対に出る。

「失礼します。旦那様。」

 応対を終えたメイドがリビングに入る。盛り上がりがようやく沈静化して来たリビングの注目がメイドに集中する。

「どうした?」
「村長様から、国軍幹部会からの伝令を預かりました。併せてルイ様にも。」
「私もですか?」
「はい。総長様から委託されたという国家中央教会総長40)様直々の伝令です。」

 ルイとヴィクトス宛のそうそうたる面々からの伝令に、リビングは一気に緊張に包まれる。酒が入って陽気一色だったヴィクトスと、今まで見たことがない
浮かれた様子を見せていたルイは、表情を引き締めて伝令がしたためられた書状をそれぞれ受け取り、広げて読む。

「…私宛の1つは辞令だ。」
「…転勤なんか?」
「否、昇進だ。来月1日付で大佐に任ずるとのことだ。」

 リビングの面々は驚嘆の声を上げる。
一介の兵士から出発したヴィクトスが中佐に上りつめただけでも希少な例だが、軍隊では現場の最高司令官に座する階級である大佐への昇進は異例中の
異例と言える。昇進理由は記載されていないが、これまでの経緯からしてルイとローズを以前から庇護し、今回は娘が首都フィルへの往復を護衛したことに
対する論功行賞の意味合いが強いと見るのが妥当だ。

「凄いやんか、父ちゃん!で、他の内容は?」
「それは恐らくルイちゃんと連動しているだろう。」
「はい。…出来る限り早急に国の中央教会に来るようにとのお達しです。護衛については小父様にお願いされている、と。」

 ルイ宛の伝令は、ランディブルド王国教会として直面する事態に対してルイに伝えることがあるので、極力早く首都フィルにある国の中央教会に参じる
ように、というものだった。しかも道中の護衛は国軍幹部会を通じてヴィクトスに依頼されているとある。
現にヴィクトス宛の伝令には大佐昇進の辞令と共に、国の中央教会に馳せ参じるルイを護衛するようにとの命令もある。辞職に向けて準備を進めるルイを国家
レベルで慰留しようとしていると見ることが出来る。

「ルイを父ちゃんに護衛させて呼び出すんか…。よっぽど辞めさせたくないんやな。」
「幹部会の命令である以上は従わねばなるまい。ルイちゃんは教会幹部と相談して出発日程を決めなさい。私は部隊を編成しておく。」
「分かりました。よろしくお願いします。」

 このままルイの辞職、アレンとの出奔へと推移すると思いきや、国家レベルでの仲介や慰留を感じさせる方向へと事態は急展開を見せ始めた。
どれだけ慰留されても、ルイは聖職者を辞職してアレンについていくことを断念するつもりはない。だが、尊敬してやまない国の中央教会総長直々の慰留を
受けても固辞するのは心情的に厳しい。若き聖職者の新しい人生は、そう簡単に踏み出すことを許しそうにない…。

用語解説 −Explanation of terms−

37)クランツ:バターで薄く焼き上げた卵焼きで、後述するジルンを包み込んだランディブルド王国北方の郷土料理。我々の世界で言うクレープに近いデザートで、季節によってジルンの材料を変えて楽しむ。

38)ジルン:果実に砂糖を加えて、粒が残るように煮詰めてペースト状にしたもの。我々の世界で言うジャムと同等の食べ物。

39)あらへんのやし:「ないんだし」と同じ。方言の1つ。

40)国家中央教会:たびたび文中に登場する「国の中央教会」の正式名称。聖職者は慣例で「国家」という単語を使用しないため、「国の中央教会」と称する。

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